__Walk_in_the_moonshine,_and_drink_like_a_jellyfish.__

[04.09.14] 

〜海月の放流〜 066


赤い鳥」の代表・齊藤多可志と初めて出遭ったのは
1995年夏のモンゴル。
そのモンゴルでの経験や出会いはあまりにも濃密で。
僕のその後(あれから今に至りそしてこれから)に
多大な影響を与えることになったPoint of no returnの分岐点だ。
それほどまでの衝撃だからこそ
僕はいまだにそれを消化/昇華しきれていなくて
これまでヒトにほとんど語ってこなかった。語りようがなかった。

ユーラシア大陸一周の旅について話ができるようになったのも
15年も経つ今頃になってようやくだったりするし。

それでも来年でモンゴル旅から10年が経とうとしてる。
そろそろ僕の中での整理や熟成が進んできた頃合かもしれない。
今回はちょっとだけそんな話から。



●『犬は吠える』

満月 地平線に昇る
野営地に焚き火
うたい踊り
月に吠える
僕が吠えても
キャラバンは進む


●『日本の馬』

日本の在来馬は現在ではもはや次に挙げる8種しか残っていないという。

北海道和種(ドサンコ)、木曽馬、野間馬、対州馬、御崎馬、トカラ馬、
宮古馬、与那国馬。

そのうちの3種は直に見たことはある。
どれも外来馬特にサラブレッドのような体高の高い馬ではない。
せいぜい120cm前後のポニークラスだ。

ドサンコの他はもはや絶滅の危機に瀕しているという。
参照:日本の在来馬
http://www.isop.ne.jp/atrui/ushi/playback/uma-6_3.html
http://catv.yuge.ac.jp/~nagao/zairaiba/zairaiba.html

沖縄の島々を流転してるときに出会った与那国馬も宮古馬も
数えるほどしか残ってないのだ。
あの馬たちはモンゴル馬にそっくりだった。
そうモンゴル馬も小さな馬だった。

かえってそれが馬との近さを感じさせたのかもしれない。

与那国馬などというものが存在することすら知らずに
日本最西端の与那国島に訪れた。
馬がいると聞いて必死に探したが馬糞しか見当たらず
土地鑑もないのに日が暮れるギリギリまで走り回った。

やっと見つけたとき。
人懐っこく僕の差し出す草を食む姿になんだかとてもゆるんでしまった。
初めて会うのに懐かしい・・・。

馬に直に触れるとわかるのはとてもあたたかいということ。
当たり前のハナシではあるのだけれど。体温を直截感じる。

犬や猫とはまた違って。
馬は体表面からの発熱が大きいし
全身から汗を発散させているからほんとに熱い。

馬に触れて感じるのは「生きてる!」ってこと。
その馬が生きてる、ってことももちろんだし
その体温を感じている僕も生きてる!ってことなんだ。

多くのヒトがもっと身近に馬と接することができたらいいのになぁ。


●『草競馬』

モンゴルの草原、と聞いて想像されるのは果てしなき地平。
しかし。
ただ単にまっ平らに広がっているわけではなかった。

山や丘があり、ゆるやかにうねうねと緑の大地が続いている。
起伏に遮られどこまでも見渡せるわけではなかった。
されど。
馬上の人なれば、いくらかの高みから視野は広がろう。
それは物理的視覚的視野ばかりではなく
馬に乗る、という新たな地平を獲得したことへの興奮とともに。

・・・
何十頭もの馬の群れの中から好きなのを選んでよいことになった。
それは選ぶというよりも「探し出す」ようだった。

目が合う。
僕は早速やつに名前をつける。
ムーンライト号。
僕を新たな地平に連れて行ってくれるものに名付けるお決まりの名前。

そして。
予備知識も目的地も伝えられず練習すらなしでキャラバンは始まる。
総勢30人前後の不慣れなキャラバンも
半日もすればあぶみ踏ん張り手綱さばく。

わずか3泊4日の草原キャラバン。
しかし。夜毎の月の宴に僕らはとことん寝そびれている。
筋肉痛や疲労ももちろんあるが。
この時ほど寝るのが惜しいと思ったこともないくらいに。

馬の背。心地よい揺れ。うたた寝。
居眠りしててもキャラバンは進む。
馬が合う同志。道草喰ってもキャラバンは進む。

最後のキャンプ。明日はもうムーンライト号ともお別れ。
皆もそれぞれの馬たちとの別れが切ない。

僕らの意見は一致した。
草競馬をやろう!
落馬しても痛くなさそうな平地を見つけて。

キャラバン中は隊列を乱せないから走り出そうとするのを
抑えなければならなかったけれど。
ムーンライト号よ、おまえのほんとのチカラをみせておくれよ。

さぁゆくぞ。
僕らと馬たちは駆けた。ただ一直線に。
風を切る音と鼓動しか耳に届かない。
瞬間的にスローモーションの世界で僕は馬になっている。

次の刹那、馬たちの駆け抜ける地響きで我に返る。
前へ。前へ前へ。
一頭でも多く抜き去れ。
チョー。チョー、チョー!*1

ゴール!とともに鳥肌立つ興奮。
誰もがこのいまの気持ちを伝えたくて声を発するが
誰一人言葉になっておらず
ただ荒い息で歓声をあげることしかできない。

馬たちは全身から湯気を立て
僕らはそれぞれのパートナーのぐっしょり濡れたカラダをなでながら
ついに泣き出してしまうのだ。

すごいよ、おまえ。すごいすごいすごい・・・ありがとう。

・・・
日本では。
一度だけ競馬場に行ったことがある。
お金のかけっこにはまったく興味ないので
馬券は買わなかったが。
地方競馬場なのでとてもアットホームでとても近かった。
最終コーナーを駆け抜けてくるときの観衆の声援。うなり。叫び。
地鳴りのような馬の足音。
緊張と興奮。涙があふれた。
その数週間後。モンゴルで馬に乗っていた。

・・・
馬を見たり、馬のことを考えるだけでなんとも言えぬ
うれし泣きのようなミョーな感情に包まれてしまう。

*1:モンゴルで馬をけし掛ける時に使われる掛け声。ゆけっ!
ムチなどはつかわない。止まれっ!は「ザス」

乗馬の基本知識とか用語とか全く知らないけれど。
モンゴルで馬で走る時の乗馬姿勢は
くるぶしからふくらはぎ、膝で馬体をしっかり挟み支えつつの
立ち乗り状態で。(人の)カラダは直立姿勢である。
(それは遠く草原を見渡すためなのかもしれない。)

手綱と足と掛け声(時に口笛)でモンゴルの馬はわかってくれる。
さらに馬上でうたってると馬も機嫌が良いみたい。


●『5F』

エレベーターに乗る。
乗り込むと普通は体を反転させドア側を向き
階数インジケータの一点を凝視してるか、
ぼーっと考えごとをしてることが多い。
(たいていは何を考えているのかを考えてたりする)

エレベーターによっては。
女性の音声アナウンスが流れるものもある。
到着階ごとにここが何階なのか教えてくれるわけだ。
とても親切な仕掛けだ。

あの閉塞空間では乗り合わせた皆が一様に押し黙っていることが多いので、
この女性の声はひととき緊張状態を解きほぐしてくれるであろう。
また。インジケータを見もしないでぼやぼやしてるわしのような人間には
ありがたいサービスである。

さて。わしの現在の職場は5Fなのだ。
「ピンポーン♪ 5階です」
毎日この彼女の声に後押しされて仕事を始めるわけだ。

が、しかし!
わしはいつもいつもこれを耳にすると
ニフッと鼻から息をもらして、脱力笑いを暴発しまうのだ。
どうしてもこう聞こえてしまう。
「誤解です」

・・・降りていいのか?悪いのか?
一体彼女は何に対して弁明しようと言うのか?
うひひ。


●『懐かしの21世紀』

2001年から21世紀になってもう3年。
果たして何か21世紀らしいことは起こっているのだろうか?
まぁ、たいていの技術は20年も30年も前から研究は始まっており
ようやく我々の前に姿を現わす頃には次世代の研究に着手しているのだ。

となれば21世紀の技術が表面に出てくるのはまだまだ一世代も後、
ということになるのか。

・・・
21世紀を目前にしてかつてこんなことを僕は書いていた。
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『懐かしの21世紀』remember the 21st century

「21世紀」と聞くとなぜか、なつかしい。
幼い頃見た未来予想図、空想科学絵本の世界。
未来懐古、レトロフューチャー。
これから始まるというのに既に振り返って懐かしむ気分。
[00.12.02sat]
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この時の僕の視点は一体何処にあったのだろうか?
こども時代への単なる懐古趣味、郷愁といったものだったのか?
それとも。次々世代への期待とあこがれの現われか?

去年はアトムが誕生する年だった。
時代はまだ想像力とあこがれに追いつかない。

かつて書きなぐったものを引っ張り出したついでに、こんなのも出てきた。
『100億』にまつわる話。


●『100億(あるいは10の10乗)=10G(ギガ)』10 billions

10,000,000,000=
10×10×10×10×10×10×10×10×10×10
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
●加速度的に増加増殖してきた地球人口爆発は
 21世紀中には100億人に達してようやく落ち着くと言われている。
●生きた細胞を構成する原子。100億。
 脳を構成する神経細胞。100億。
 地球上で安定する人間の脳(人口)。100億。
 生命を維持できる銀河系内の惑星。100億。
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100億!この臨界点を超えたとき新たなる発達段階に入る。
それはまさに胎児の脳のように。
100億の触手が繋がるネットワークが完成するとき次なる飛躍が起こる。
もう間もなく地球上ではこのネットワークの最終目標値に達しようとしている。
そしてすでに銀河系内では地球のような星々が
100億の仲間を探し求める神経繊維を伸ばしているのだろう。
その銀河がさらに100億に達したとき宇宙の脳が完成するのかも知れない。

私はこの壮大なる宇宙のほんのちっぽけな1粒だ。
宇宙におけるこの小さな地球上のそのまた100億分の1の脳である私
が考えることなど取るに足らないことだろう。

けれども。
誰かの意志を別の誰かに伝える伝達経路ぐらいには成れるかも知れない。
それが私に与えられた役割なら精一杯、信号を受信し発信しよう。
少なくとも私は直感/直観している。
「繋がっている!」と。

[00.09.23sat] 昼と夜の長さが同じになる秋分の日
    そして 21世紀まであとちょうど100日


●『偏在、遍在』

ヒトはエントロピーの増大にブレーキをかける。

ヒトは何かを安定化し偏りなく平均化しようともがく。
「月々のお支払い」(金銭、労力、時間の費やし方など)を一定化し、
隣りの芝生をにらみつつ横並びの平均化を図る。
自然界や社会の事象も平均、水準、一般化の枠に押し込めたい。
(例年、傾向、連続、異常気象、景気、事件事故etc.)

しかし。
自然界は本来、偏っていることつまり「偏在」を常態とする。
むしろそれが潜在的なエネルギーとなり
そのエネルギーこそは「遍在」し満たされ
自然、宇宙は維持されている。

高いところから低いところへ。
この落差がポテンシャルエネルギー。

時間、でさえも均一均質ではなく偏っている。
時間とは、重力場の歪みの尺度と捉えるのはどうか?

人間社会だって同じはずなのだ。
不平等で不安定でいつも突発的だ。
明日はおろか今日のことすら予測できない。

解決せねばならぬことは常に山積み。
そして今後の課題として先送り。

けれど。
コタエはいつも吹く風の中。
あまねく一切の諸現象にそのコタエ(応答)は潜んでいるやもしれん。

 正しい答えを欲しくば、正しい問いを立てよ。

(・・・偉そうなこと書いてますが、僕の常々の自戒なのです)


●『nowhere kids』

誰も知らない Nobody Knows

こどもたちを
誰も知らない
こどもたちは
誰も泣かない
どうして?どうすればいい?
誰も問わない

すべてを皆、了解している
だからといって納得してるわけではない

ゲームのルール
どんなに理不尽であろうとルールは了解せねばならない

・・・
親を送り出す。
酔って陽気に帰ってくる。
たまにすごく遅くなる。
もう帰ってこない。

弟の自分勝手さにはいつも腹を立てたしケンカにもなった。
ほんとは弟の奔放さにあこがれそして救われてもいたのだ。
でもその奔放さをうらやみ怒りに変わるのは、
そうできない自分自身への怒りでありジレンマだった。

おりこうでしっかりしたおにいちゃん。
ルールと責任。自己暗示の演技。

人に訊かないで自分で調べる。
そうそれこそが僕が教わった最初のルール。
そして暗黙の了解。

ひなたの太陽くささ。ノラ猫。たねと土。
電車の車窓。モノレール。飛行機雲。
“外”が手招きする。

一人遊びがうまくなってゆく弟。
外に僕の知らない友だちが増えてゆく弟。
どんどん僕から離れてゆく。
僕も外にゆきたい。

大人を観察する視点。常に大人の反応を見聞き考え推測し想像した。

決して、泣かない。決して、相談しない。
自分で解決する。大人はそうやっていたし大人から要求されていた。

うまくいかないと申し訳なく思う。
期待され頼られれば「できない」などと口には出せない。

・・・
映画『誰も知らない Nobody Knows』を観ながら
いつの間にか僕は
こどもの僕になっている。
弟を面倒みる“おにいちゃん”の僕になっている。

天真爛漫、無邪気なこどもではなく、
大人たちをじっと観察するこども時代の僕に。

そして。僕はいまもその視点のままであることに気付く。
僕はいつ大人になったのか?
こどもが無責任だなんて誰が言える?

・・・
映画を評論、批評する人は多い。リアリティを云々する人が多い。
華氏911』にせよ『誰も知らない』にせよ、
作品となった時点でそれは人に晒されるわけだが。
つい最近出遭ったこの2作品はともに“事実”を元にしてる。
(事実がいつも真実であるわけではないが)

リアルであるからいいとか悪いとか、
正しいとか間違ってるとかの評論批評評価なんてのは
やっつけ仕事の職業人に任せときゃいい。
単に好きか嫌いかそれだけでもいいと思うし。
映画なんて所詮虚構だ!と打ち捨てたってかまわない。
けれど。僕は観に行ってよかったと思ってるよ。

少なくとも。僕が映画館に足を運び、チケットを買って、映画を観た。
ということだけはとてつもなくリアルだ。
それら作品と自分がどう結びつくのか?
そしてなぜこのタイミングで僕はそれらに出遭ったのか?
それを思うことの方が評論ぶつより実感が湧く。

ナニモノでもない僕でも、いまここにいるという事実。
nowhere man, now here man


・・・(つづく)[04.09.14]新月...Qurax2海月(=)彡
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