滴が青々と茂る草にやわらかく落ちる。
静かな雨の音だけが、二人を包んでいた。
「私を、愛していた・・・?」
サガは抱き締められた腕の中で、再び尋ねた。
「ああ。今でも、愛している」
「私は、アイオロスのことも、何も覚えていない・・・」
「関係ない。俺はサガを愛してる」
アイオロスは抱き締める腕に力をこめた。
胸のあたりに縮こまっていたサガの腕が、おずおずとアイオロスの背に向かう。
「・・・幸せ、だったか?」
「少なくとも俺は、幸せだったよ」
「私は・・・?」
「・・・分からない。笑っていてくれたけど、サガは幸せになることから逃げていたから」
それを聞いて、サガは眉をしかめアイオロスの瞳を見た。
「なぜ?」
「それは、言えない」
「どうして・・・」
「今のサガを、傷つけたくないからだ」
サガはアイオロスの背をぐっと掴んだ。
「私は、どんな・・・男だった・・・・?」
「真面目で、誠実で、頑固で、・・・優しかった」
サガは暫く黙っていた。
アイオロスは苦笑してサガの髪を撫でていた。
「今の私も、愛しているか?」
「言っただろう。ずっと、愛している」
サガはアイオロスを抱き締め返した。
強く、強く抱き締めた。
「アイオロス・・・」
再び訪れた恋は、アイオロスの心を深く深く抉った。
サガのいなくなった人馬宮で、アイオロスはひとりソファに座り天井を見詰めていた。
「サガ・・・」
恐らくはすぐにでも露と消えてしまうような命。
なぜ、会いにきたのか。
この絵本にあるとおり、本当に「すきだから」という理由で戻ってきたのか。
理由などアイオロスにとって大した意味をなさなかった。だが、今確かにこの聖域に存在するサガを、
記憶を失っているとはいえ再び失わねばならないというのは、何よりもつらいことだった。
「もう暫く待っていてくれれば、俺も会いにいったのにな」
暫く———その時間は、アイオロスにも計りかねた。
教皇として生きるその命は、人と呼ぶにはあまりに長い。
「見かねて戻ってきたか・・・?」
アイオロスはふ、と自嘲するように口元を歪めた。
霞んでいく視界に、アイオロスは目を覆った。
「もう失いたくないんだ・・・」
愛する者を、二度も失わなければならない。
ようやく癒え始めた傷跡を、愛する者にまた抉られる。
思い出が甘いものであればあるほど、その傷は深く、深くアイオロスに残る。
「サガ・・・」
「ただいま」
カノンは双児宮の入り口で、切なげに笑うサガの姿を見つけた。
まるで以前のサガと同じ笑い方をするサガに、カノンは眉をしかめた。
「どこ、行ってたんだ?」
「アイオロスの・・・ところに」
そう言ってサガは曖昧に笑った。
今にも消えそうな。それはやはりカノンがよく目にしていたサガの姿だった。
「カノン。・・・私は、幸せそうだったか・・・?」
「・・・さあ、な。アイオロスは幸せそうだったけど。お前はずっと逃げてたから」
サガはそれを聞くと、眉を寄せ俯いた。
「アイオロスもそう言っていた。・・・なぜ、逃げていたんだ?」
「・・・」
「アイオロスは教えてはくれなかった。傷つけたくないと言って」
「あいつが言わなかったなら、俺も言わない」
「カノン・・・!」
「悪い。でも、言えない。俺は今のサガの幸せを壊したくはない」
サガは驚いたようにカノンを見た。
「前の、サガはいっつも辛そうに笑ってた。俺もアイオロスもそれが辛かった。
あいつはずっと幸せから逃げていた。俺も・・・アイオロスも、みんな、悲しんだ。
でもお前は、今は違う。ありがとうなんてあいつ滅多に言わなかったんだ!嬉しそうに笑いもしなかった!
すまないすまないって、いっつも、寂しそうに笑って、言ってたんだ・・・・」
「カノン・・・」
「最初は、ずっと何も変わらないと思ってた。だから俺も余計に辛かった。サガに忘れられたと思った。
でも、違った。今のサガは、今のサガだ。ずっと、嬉しそうに笑ってくれれば・・・俺は・・・」
悲痛に叫ぶカノンに、サガは両手を伸ばした。
俯くカノンの頭に手を伸ばし、胸に抱き寄せた。
「今の、私も・・・好きでいてくれるか?」
「当たり前だろ。どんなサガだって・・・俺はずっと・・・」
サガは微笑むと、カノンを優しく抱き締めた。
「ありがとう・・・私は、幸せだよ」
「サガ・・・」
同じサガなのか、違うサガなのか。
カノン自身分からなかった。
今いるサガは、間違いなくサガで、自分でも確かにそう思っているのに、
しかしやはり違うと感じてしまう。
嬉しそうに微笑むサガ。
ありがとうと言うサガ。
まるで、“あの過去”より前のようだった。
いつの間に自然に笑うことをしなくなったのか。
いつの間に謝ることしかしなくなったのか。
失いたくない。
カノンの幼い記憶の中にいるサガのように、
優しく微笑みかけるサガを、失いたくはなかった。
しかし、雨が滴り落ちるように、時の流れは誰にも止められない。
雨はもうじき、止む。