サガはあの日人馬宮でアイオロスと会ってから違った表情を見せるようになった。
カノンは詮索はしなかったが、アイオロスと何かあったのだろうと感じた。
ここ数日、サガは遠い目をするようになった。
何かを想うように、悲しそうな顔をして。
カノンが何かあったのかと問うと、サガは少し苦笑して、何でもないと言うのだった。
(だんだん似てきてる・・・)
死ぬ前のサガに。
カノンはずっと抱えてきた不安が現実のものになりつつあることに恐怖を抱いた。
サガはじきに雨が止むと言った。
もし、雨の間しか続かぬ命ならば・・・?
もう時間はなかった。
しかし、カノンにそれを止める術はなく、ただ見詰めているしかなかったのだ。
サガの命が尽きるのを。
アイオロスは、明確な言葉でサガから愛を告げられたことはなかった。
そんな資格もないと彼は思ったのだろうか、しかしアイオロスを拒絶することもなく受け入れた。
言葉が欲しいと思わなかったわけではない。だがアイオロスには十分だった。
サガが隣にいてさえくれればそれでよかったのだ。
アイオロスは絵本を手に取り、何度見返したか分からない最後のページを開いた。
「雨の間しかいられないけれど・・・・」
アイオロスは、もしこの言葉通りなら、と眉を顰めた。
「雨は・・・じきに止む・・・」
近づいてくる期限に、アイオロスはどうすることもできない自分を恨んだ。
カノンがアテナに呼ばれ用事を済ませてきた帰りだった。
双魚宮を通る際薔薇の手入れをするアフロディーテを見つけた。
アフロディーテはカノンの姿を見つけると、艶やかに笑って鋏を降ろした。
「カノン。久しぶり」
「ああ」
「サガ・・・は?私は姿を垣間見ただけで、会ってはいないんだ」
「多分、そろそろ消える」
「・・・ミロが膨れていたよ。サガを見つけたのは自分なのにと言ってきかないんだ」
「悪いな」
「君たちの時間を邪魔するほど野暮じゃない。・・・これ、サガに届けてくれないか。サガが好きだったんだ」
「ああ。渡しておくよ」
カノンは薔薇を受け取ると、元来た道を歩き出そうとした。
「カノン」
アフロディーテがカノンの背に呼びかけた。
「・・・あまり、気を負いすぎるな」
「・・・・ああ」
カノンが双児宮に戻ると、柱に寄りかかり床に座り込んでいるサガがいた。
「サガ!」
カノンが慌てて駆け寄ると、サガは立ち上がり微笑んだ。
「ああ・・・カノン、おかえり」
「大丈夫か?」
「少し居眠りしていただけだ」
「こんなところで・・・!」
少し苛立ったように声をあげるカノンに、サガは苦笑した。
「本当に・・・アイオロスから借りた絵本を見ていたんだ」
「絵本・・?」
カノンはサガの手元に目を落とした。
「それ・・・」
「きれいな色だろう」
その絵本は、カノンにも見覚えのあるものだった。
もうずっと昔、サガもカノンも幼かった頃によく読んだ覚えがある。
「カノン、その薔薇は・・・」
サガはカノンの抱える薔薇に気付き、微笑みながら一輪手にとった。
「アフロディーテが、サガに」
「ロサ・オドラータ・・・懐かしいな。咲き始めは淡いピンク色をしているのに、時間がたつと白くなるんだ」
カノンはそのサガの言葉に違和感を覚えた。
懐かしい、と、サガは今確かに言ったのだ。
「サガ・・・?お前、もしかして」
「アフロディーテに礼を言っておいてくれ」
「サガ!」
「私はアイオロスに会いにいくよ」
「サガ!!」
目もあわせず歩き出したサガに、カノンは駆け寄った。
薔薇の仄かな香りがふわりと舞った。
「・・・その花、生けていこうか」
サガは少し寂しそうに笑うと、カノンの抱えていた薔薇を受け取った。
双児宮のリビングに、鋏の音だけが響いていた。
サガも、カノンも無言だった。
カノンはサガに背を向けソファに座り、サガはキッチンで茎を水につけながら鋏をいれていた。
ぱちん、ぱちんという音だけが響いていた。
「カノン」
サガが呼びかけた。
その声にカノンは肩を震わせた。
「私のこと、今でも好きか?」
しっかりとした声だった。カノンはなぜか途方もなく悲しくなった。
悲しかったが、答えなければと思い、ああ、と短く言った。
サガは少し微笑んだようだった。
「私も、ずっと・・・カノンを想っていた」
カノンはもう何も答えられなかった。
ぱちん、ぱちんと鋏の音が響く。
「ありがとう。私は、幸せだったよ」
ぱちん、と音がして、鋏を置く重い音がした。
「じゃあ、私はアイオロスのところに行ってくるから」
サガは微笑んだ、ようにカノンは思った。
追いかけることはできなかった。
遠くから雨の音が静かに聞こえてきた。
足音が遠ざかっていく。
カノンは何を言ってやればいいのかもわからなかった。
が、何かを伝えたかった。
「サガ!」
足音はもう聞こえなかった。
サガいるのかも分からなかったが、カノンは人気のない廊下を走った。
走って、入り口近くで止まって、叫んだ。
「待ってろよ、俺が行くまで。自慢の、兄弟・・・って、周りに言ってやろう・・・!」
カノンの頬に一筋の滴が流れた。
サガはもういないようだった。
アイオロスは、柱に寄りかかりながら座って、庭を眺めていた。
空は明るくなりつつある。
雲間に見える陽の光が、アイオロスを暖かく包んだ。
ふ、と目を閉じた。
雨はじきにやみそうだ。
(サガは、消えてしまうのだろうか・・・)
あんな苦しい思いはもう二度としたくなかった。
その思いが、アイオロスの行動力を鈍らせていた。
「アイオロス」
ふとかかった声に、アイオロスは目をあけた。
目の前にいる姿に、アイオロスは微笑みかけた。
「こっちに、来てくれよ」
サガは微笑むだけだった。
「頼むから・・・」
アイオロスは少し眉を顰めて、それでも笑みは崩さずに言った。
サガは静かにアイオロスの隣に座った。
「雨、やみそうだな」
アイオロスが言った。
「ああ」
「虹は、かかるかな」
「かかるさ。聖域から、町のはずれまで・・・」
アイオロスは雨を降らす空を眺めていた。
サガも一緒に眺めていた。
サガの手に、アイオロスは自分の左手をそっと重ねた。
その手の形を確かめるように、指を絡ませた。
「アイオロス」
アイオロスは黙っていた。
サガは続けた。
「キス、してくれないか」
アイオロスはサガの言葉に驚き、サガの顔を見た。
そこには、以前のように微笑むサガがいた。
そう悲しそうでもない、笑顔。
最近見たサガの笑顔とも違っていた。
アイオロスは悲しげな顔をした。
サガはただ微笑んでいた。
瞳を閉じるサガに、アイオロスは顔を近づけた。
そっと唇を重ね、離した。
サガは微笑むと、また空を眺めた。
アイオロスはその横顔を見詰めていたが、また同じように空を眺めた。
光が人馬宮の庭にさしはじめた。
草間に露がきらきらと輝いていた。
「アイオロス」
サガは呟くように言った。
「言い忘れていたことが、あったと思って」
アイオロスはその言葉に目を見開いた。が、サガの方を向くことはできなかった。
「愛している」
アイオロスは霞む視界に目を閉じた。
「私は、幸せだったよ」
雨は止んだ。
まばらに流れる雲間から、やわらかな陽の光がさしこんでいる。
アイオロスは冷たい床の感触しかしなくなった左手を、いつまでも動かすことができなかった。
淡い虹が、聖域からかかっているように思えた。