雨は相変わらず降り続いていた。
アテナに会っても、誰に会っても何も思い出せないサガ。
自分が聖闘士だったということも覚えていないサガは、訝しむような表情をしていた。
そんなサガにアテナは優しく微笑むと、カノンにサガの世話を任せ、なるべく他との接触を絶つように言った。
「私としても悲しいことですが・・・貴方もさぞ辛いことでしょう。
私にはこんなことしかできませんが、せめて暫くは二人で穏やかに過ごしてください。海界には私から言っておきます」
サガを外に任せ、アテナはカノンに優しく告げた。彼女は少し悲しそうな顔をすると、それに、と続けた。
「それに・・・やはり私にも、サガの命はごく短いもののように思われます。
他界にはまだ地上を攻めるだけの力もありませんし、
コスモが使えないほどに記憶を奪ってまでして、サガのことを利用しようとしているようにも思えません。
・・・これは私の個人的な考えなのだけれど、サガは何としても帰ってきたかったのではないかしら。
サガの聖域を、貴方たちを思う強い心が、サガをここに連れてきたのだとしたら・・・・。
とても、悲しく、切ないことですが、やはりサガは死に、そして今いるサガは、泡沫の幻のような存在・・・。
いつかは確実に消えてしまうでしょう。カノン、貴方はまた辛い思いをしなくてはなりませんね」
「承知の上でございます」
「アイオロスも、また悲しみますね・・・」
「・・・」
「引き止めてしまってごめんなさいね。サガと、戻ってください」
「は。失礼致します」
「サガ・・・貴方は、何を伝えたかったのかしら・・・・・」
城戸沙織はひとり、雨の降りしきる窓を眺め、悲しそうに眉を顰めた。
「・・・雨は、あと少しでやみそうだな」
「?なんでだ」
「なんとなく・・・そんな気がする。あと、数日」
「そうか」
二人は並んで、教皇宮から自宮への石段を下りていた。
暫く沈黙が流れ、やがてサガがぽつりと呟いた。
「・・・カノンは、悲しむか?」
「え?」
「私がいなくなってしまったら」
「・・・・サガ」
「まだ私がお前を覚えていたときに・・・私がいなくなったとき、お前は悲しんだか?」
「ああ。そりゃあな」
「今は・・・?」
「・・・」
「私はお前を覚えていない。・・・それでも・・・」
「死ぬほど泣くかもな」
「え?」
サガが驚いたようにカノンを見た。
カノンは一度ため息をついて言った。
「お前はお前だ。もしいなくなったら、俺は悲しい」
「・・・ありがとう」
サガは嬉しそうに微笑むと、カノンより少し早足になって、数段先を歩きはじめた。
「?」
「・・・カノンとの記憶がなくなってしまったことが、悔しい」
「サガ・・・」
「羨ましい。カノンとの記憶をもつサガが」
そう言って、サガはひとり石段を下りていった。
カノンはサガの言葉に胸を痛めた。
「・・・思い出したほうが、いいのか・・・?」
今のサガは、生きていた頃の荒んだ過去を知らない。
その過去を知っても、サガは思い出したいと思うのだろうか?
兄弟の思い出など、生きていた時間のほんの数分の一もないというのに。
サガがひとり十二宮を散歩していると、人馬宮の庭に面した廊下の独り掛けのソファに凭れ、眠っているアイオロスの姿があった。
「あれは・・・」
カノンに、アイオロスとは特別に仲が良かったと聞いたサガは、アイオロスと話がしたいと思っていた。
しかし、教皇という忙しい立場にあるアイオロスとは、なかなか会う機会もなかったのである。
自分がここに現れたとき、焦燥したような表情で姿を見せたアイオロス。
そんな彼のことも覚えていないというのが、サガには辛かった。
起こさぬように近づくと、彼は一冊の本を持って眠っているようだった。
どうしようか、と思い、サガはそのまま引き返そうと歩き出したとき、アイオロスが僅かに瞼を開いた。
「・・・・・サガ?」
サガはどう答えようか迷ったが、とりあえずああ、と返事をした。
「・・・・・・こっちへ、来てくれ」
まだ寝ぼけているのだろうか、再び目を閉じ、呟くように言った。
サガは微笑んで、傘をとじ、靴を脱いで人馬宮にあがった。
靴を脱ぐ必要はなかったのだが、泥に汚れた靴で上がるのが憚られ、几帳面に靴を揃えて、隣に傘を立てかけた。
「サガ・・・こっちへ・・・」
眠りと現を彷徨うように、サガの名を呼ぶ。
サガはアイオロスの傍らに腰を下ろした。
「違う、こっちだ」
アイオロスはサガの腕をぐいと掴みあげると、自分の上にサガを凭れさせた。
突然のことに驚いたサガは、慌ててどこうとしたが、アイオロスの逞しい腕が腰にまわり、身動きをとろうにもうまくいかなかった。
「あ・・・あの・・・?」
「いいから・・・」
アイオロスはサガを抱き締め、そのまま寝息を立て始めた。
重いだろうと身を捩るのだが、アイオロスはそんなことは気にもせずに穏やかな寝息を立てている。
「・・・・」
サガは戸惑った。
アイオロスは、夢現に自分の姿を、以前の自分の姿を勘違いしているのではないだろうか。
今の自分は、アイオロスと過ごした過去などなにも持ち合わせていないのに。
そう思い、サガはまた辛くなった。
過去が欲しい。“サガ”が、周りと共有した過去が。
アイオロスと、自分はどういう関係だったのだろうか。
それが一番気になった。
こんなにも近しい仲だったとは、とても思わなかったのである。
(まさか・・・)
恋仲だったのでは、と考え、サガはそんなはずはないとため息をついた。
アイオロスは、つかの間の幸せな夢を見ていた。
サガが、庭に佇んでいる。
声をかけると、微笑んで傍らに来てくれる。
抱き寄せたその香りも、懐かしい感触も、アイオロスを心地よくさせた。
なぜ、失ってしまったのか。
こんなにも暖かく、自分を支えてくれた存在を。
アイオロスは愛しい人を腕に抱き、夢の世界を彷徨っていた。
それが夢でないと気付いたのは、日も落ちかけたときだった。
目を開くと、そこには見慣れた蒼銀の髪が広がっていた。
まだ夢の中にいるのだろうかと思ったが、自分は確かにサガを抱き締めて眠っていたのだ。
「!!?」
驚き目を見開くと、サガは僅かに身じろぎした。
「・・・眠ってる・・?」
ようやく夢ではなかったと理解したアイオロスは、窮屈そうに自分の上で眠るサガに微笑んだ。
起こすのはもったいないと思ったアイオロスが、暫くサガを抱き締めているとサガがうっすらと目を開いた。
「起きたか?」
「・・・・」
「サガ?」
アイオロスの姿と、自分が今どういう状態なのか理解したサガは慌てて飛びのいた。
「あ、いや、その」
「すまないな。俺が随分と引きとめたみたいだ」
「私は・・・眠っていたのか・・・?」
「ああ。俺もさっき起きたところだ」
「重かっただろう・・・?」
「全然」
アイオロスが笑顔で答えると、サガは申し訳なさそうな顔をした。
「すまない・・・」
「いいんだ。久しぶりに近くにいられて嬉しかった」
サガは苦笑すると、床に落ちてしまったらしい絵本に気付いた。
「これは?」
サガが手に取ると、アイオロスは少し笑って、サガのだ、と答えた。
「私の・・・?」
「気に入ってたみたいだ」
「・・・」
サガが絵本をめくっていく。文字の少ない絵本を丁寧に見ていき、サガは最後のページの言葉に驚いた。
「これは・・・」
「どうかしたか?」
「私が・・・つけていた日記に、書いてあったんだ」
「・・・・サガは、多分この絵本を見つけさせたくて、日記に書いたんだ」
「なぜ・・・?」
サガの問いにアイオロスは困ったように笑った。
「俺もそれが知りたいんだ」
死の間際に、声にならぬ声でそっと告げた言葉。
そして、日記の最後のページに書かれていた言葉。
サガは、この絵本で何を伝えたかったのか。
「・・・・アイオロス・・・私は、お前とどういう関係だった・・・?」
サガが絵本に目を落としたまま聞いた。
アイオロスはまた困ったように笑った。
「俺は、サガが好きだった」
「私が・・・?」
「ああ。何より大事で、・・・愛していた」
サガは顔は俯けたまま、ただ静かに聞いていた。
二人の沈黙の間に、雨の音がやわらかく響いている。
サガは顔をあげ、どこか辛そうな表情で静かに言った。
「————どうしてだろう。アイオロス、お前を見てるととても切ない・・・」
「サガ・・?」
「分からないんだ。何も、覚えていないんだ・・・」
サガは顔を歪め、今にも泣きそうな表情になった。
アイオロスは立ち上がり、恐る恐るサガに手を伸ばした。
何も覚えてはいないサガ。
愛したことも、愛されたことも覚えていないサガ。
何も分からないにも関わらず、愛した事実はサガの胸を苦しめた。
アイオロスはサガを強く抱き締めた。
サガは肩を震わせ、アイオロスに体を預けていた。
どうして、サガにこんなにも辛い思いをさせるのだろうか。
アイオロスはサガの空虚を埋めるように、強く強くその腕に抱いた。