「・・・サガ」
「・・・・」
「悪い。俺の名前はカノン。お前の双子の弟だ」
「弟・・・」
「無理に弟に思う必要はない。ただ身の回りの世話は俺が見るぞ。多分、お前のこと一番知ってたのは俺だ」
「そうか・・・」
カノンは極力穏やかな表情で話した。
記憶の無い状態、というのはカノンには想像はつかなかったが、
自分のことを知っている他人の中で生活するのは辛いだろうと思い、なるべくサガが接しやすいよう努めた。
「ここは、お前が使ってた部屋」
「・・・・・カノン」
「なんだ?」
「なぜ、全て過去の話なんだ・・・?」
そう問われて、カノンは冷や汗が流れるのを感じた。
(分かってないのか・・・?)
「記憶を・・・失ったから、か?」
「・・・そんなとこだ」
カノンはサガを見ずに言った。
今サガの顔を見たら泣き出してしまいそうだったからだ。
(心臓に悪いな、こいつ・・・)
あの優しい、しかしどこか悲しそうな顔で、自分のことを見つめているのだ。
(二度も死ぬとこなんて見たかねえぞ・・・!)
月日が経ち、ようやくサガのいない生活を受け入れていたのだ。
そこに失った頃と同じ姿のサガがやってきた。
二度と失いたくない、という気持ちはカノンの中で大きくなっていた。
部屋をうろうろと見回していると、ベッドサイドの日記に気付いたらしいサガは、それを手に取り表紙をじっと見詰めた。
「それ、お前が書いてた日記」
「開いてもいいか?」
「お前の物だ」
「ありがとう」
サガは少し微笑んで、日記をぱらぱらとめくりはじめた。
(同じように笑うんだな・・・)
ぱらぱらとめくっていると、気になるページでもあったのか、サガの紙をめくる手が止まった。
「どうかしたか?」
「・・・5年も、前から書いていなかったのか?」
「・・・・・それは」
「・・・このページ・・・」
サガが呟いた。カノンはサガのほうに歩み寄ると、横から日記をのぞき見た。
「?」
そこに書かれていたのは、日記というよりもメモのようなものだった。
———雨の時期に、戻ってくるから
「雨の時期に・・・?何だこれ」
「この日から5年間も、私はどこにいて、どこに記憶を置いてきてしまったんだろうな」
「サガ・・・」
「何も思い出せないんだ。カノンという弟のことも、アイオロスという知人のことも」
知人、という言葉にカノンは顔を顰めた。
それに気付いたサガは、短くすまない、と詫びた。
「いや、お前のせいじゃない。悪い」
「・・・・仲が、よかったのか?私たちは」
「え・・・」
「優しいから」
そう言って切なげに微笑むサガに、カノンは思わず手を伸ばした。
頬に触れ、そのまま強く抱き締める。
サガは戸惑っているらしく身をかたくしていたが、カノンはかまわず首筋に顔をうずめた。
懐かしい髪の感触に、カノンは一層強く抱き締めた。
「———仲は、良かったよ。自慢の兄弟だった」
カノンは震える声でそう告げた。サガはまた微笑んだようだった。
憎しみ合い、悪へと走り、十年以上も会うこともなかったとは、とても言えなかった。
アイオロスはひとり教皇の間で生気をなくしたように椅子に腰掛けていた。
誰も入れるなと衛兵に告げ、教皇の玉座に座り、どこを見るとはなしにぼんやりとしていた。
(サガが、甦った・・・?)
何も不思議なことではないのだ。
自分もアテナの力で甦った者の一人なのだから。
しかし不可解なのは、サガの記憶がまったくないということだ。
(何者かの陰謀なのだろうか・・・)
それにしてはタチが悪すぎる、とアイオロスは苦笑した。
何も覚えてはいないサガ。
自分を怯えるような目で見たサガ。
人に忘れられるというのは、こんなにも辛いことなのかとアイオロスは手で顔を覆った。
「サガ・・・!」
なぜ戻ってきたのか。
永久に生きながらえる命でもないだろうに。
「また、俺の前で消えてしまうのか・・・?」
サガ、とアイオロスは悲痛に呟いた。
微笑みながら死んだサガの表情。鮮明に思い浮かぶサガとの記憶は、アイオロスを苦しめた。
そして、アイオロスはあることを思い出した。
———雨の時期に、戻ってくるから
それはサガが日々書き綴っていた日記の一番最後に走り書きしてあったものだ。
そして命尽きる間際に、声にならぬ声でアイオロスにそっと告げた言葉。
(雨の時期に・・・)
サガは、知っていたのだろうか?今こうして戻ってくることを。
小宇宙さえ感じられぬサガは、今の聖域に害にはならないだろうとアイオロスは判断し、
この現象について調べることにした。
自宮の書棚で、アイオロスは甦りと関係のありそうな書物をあさっていた。
しかし甦る、という現象についての事例はなく、アイオロスはため息をついた。
梯子を使わねば届かぬ段に手を伸ばそうとして、アイオロスは指先に薄い本の背があたるのを感じた。
なにげなくそれを取り出してみると、それはすっかり褪せてしまった絵本のようだった。
「・・・懐かしいな」
まだアイオリアたちが幼かった頃、サガは絵本を読み聞かせることがあった。
アイオロスがサガでもそんなことをするんだな、と言ったら、サガは子供には必要なんだと笑った。
そしてサガが好んで聞かせたのが、この絵本だった。
水色をした表紙に、アイオロスは雨を思い浮かべた。
(雨・・・?)
その絵本を開き、ぱらぱらとめくる。そして一番最後のページを見て、アイオロスは驚きに目を見開いた。
———あめのじきに、もどってくるよ
「これは・・・!?」
そこに描かれていたのは、水色の雨のしずくと、小さな女の子。
たった三行の文しか書かれてはいなかったが、その三行はアイオロスを驚かせるには充分なものだった。
あめのじきに、もどってくるよ
あめのあいだしかいられないけど
もういちどあいたい。だから、あいにくるよ
アイオロスが本を閉じ、裏表紙を見るとそこにはこう書かれていた。
だって、あなたがだいすきだから
すすけてしまった絵本の裏表紙に、滴が落ちた。
アイオロスは、その文字を何度も何度も見返し、涙を溢れさせた。
サガはこれを、自分に思い出してほしかったのだ。
もう一度だけ会いにくると。
会いたいから、戻ってくると————
「バカだな・・・少し待っていれば、俺もすぐに行ったのに・・・」
アイオロスは寂しそうに笑うと、本を抱き締め涙を流し続けた。
カノンはサガに、昔の話を色々聞かせた。
明るく、希望に満ちていた頃の思い出を。
聖闘士としての話はなるべく避けた。サガが、悲しむことがわかっていたからだ。
サガはそれを熱心に聞いていたが、段々と悲しそうな顔になっていった。
「・・・サガ?」
「・・・なぜ、失ってしまったのだろう」
「さあな・・・でも、思い出すかもしれない」
サガは少し黙ると、静かに首を横に振った。
「思い出せない、気がするんだ。何も・・・ただの勘だが」
「・・・それでもいい。何も思い出せなくたって、何も変わらないよ」
「寂しくはないか?」
「・・正直、寂しい。でも、お前がいるのは今であって、過去じゃない」
サガは何も言わずに微笑んだ。
カノンも少し微笑むと、コーヒーでも淹れようか、といって台所へ向かった。
淹れたコーヒーには、サガが好んだように、砂糖を半さじだけこっそりいれた。