露の尋ね人

珍しく長い間聖域に降り続ける雨に、アイオロスは鬱陶しさを払うように教皇の間で伸びをした。

聖域全体が甦った後、シオンは一度は死んだ身だと言って早々に退位し、その位をアイオロスに渡した。
アイオロスが聖域を治めるようになって6年。アテナは少女であったときこそ日本にいることも多かったが、
今では彼女は女神として聖域で祈りを捧げ、人々に愛と平和をもたらしている。

長い雨。
その雨の中、アイオロスは自分の恋人のことを思い出していた。
恋人———5年前に死んでしまった、サガのことを。

———雨の時期に・・・

最期にサガが遺した言葉は、今もアイオロスを捕らえていた。
(サガ・・・お前は俺に、何を伝えようとしたんだ・・・)

アイオロスは不快そうな表情になると、目線を机の上の書類に落とし、ペンを動かしはじめた。



「ヤな雨だなあ」
ミロはあくびをして、十二宮の階段を上っていた。
「・・・珍しいな。ここ一週間毎日だ」
隣に並んで歩くカミュも、この雨に疑問をもっていた。
「こうジメジメしてると気分が乗らん」
「アテナは慣れていらっしゃるようだが・・・」
「日本はジメジメしてるからなー」
「失礼だぞ」
「はーい」
いい加減に返事をするミロに、カミュはため息をついた。

宝瓶宮へ向かう途中のことだった。
階段脇の茂みに、ミロは何か異変を感じたらしく、持っていた荷物をカミュに預けると茂みの中に入っていった。
しばらくしても戻ってこないミロに、カミュは呼びかけるが、返事がない。
「ミロ?」
生い茂る草を掻き分け、カミュはミロのもとへと歩く。
少し歩いたところに、ミロの金髪が見えた。しゃがんでいるらしい彼にカミュがいぶかしんで声をかけるが、返事はない。
「ミロ!」
「カミュ・・・・あれ」
ミロの目線の先に目をやると、カミュはそこに在るはずのない人を見た。

「・・・・・サガ?」

緑の草の上に、見慣れた蒼銀の髪が広がっていた。



その報告を受けたとき、アイオロスは思わず報告にきた神官を怒鳴りつけてしまった。
サガがいるわけがないだろう、あのとき確かに埋葬したのだ。
黄金聖闘士の墓を荒らす者など、この聖域のどこにいるのだ、と。
しかしその神官の次の言葉に、アイオロスは言葉を失った。
生きているのです、確かに。今双児宮にいるのです、と。


「サガ———!」


アイオロスは自分の立場も忘れ、仮面を脱ぎ捨て双児宮へと向かった。
石段を降りる間さえ惜しい、というように。



双児宮に私用で戻っていたカノンは、そこにいるサガに幻影かと思い技を放とうとしてしまった。
しかし、彼の姿がまぎれもなく現実のものであると理解したとき、カノンは眩暈がした。
生きているはずなど、ないのである。
サガの死を、一番近くで看取り、その体が冷たくなるのも感じていたのだから。

さきほどからお互い何も言葉を発しない。
サガは何を見るでもなく、ただおとなしく双児宮の通路に立ち尽くしていた。
「・・・・サ、ガ」
カノンが名を呼んでみる。が、応えない。
「サガ?」
黙ったままのサガに、カノンはサガの肩をつかんで自分と目をあわせさせた。
「!」
「・・・・・」
そこにある表情に、カノンは恐ろしささえ感じた。

「だ、れだ・・・・?私は・・一体・・・」

見ず知らずの他人を見るような表情で、サガはカノンを見詰めた。


「サガ!」
慌しく入ってきたアイオロスに、カノンは凍った表情のまま振り返った。
「アイオロス・・・」
「カノン、戻っていたのか・・・・」
カノンに声をかけると、その向こうにいる存在に、アイオロスは目を見開いた。

「サガ・・?」

青い髪、青い瞳をした恋人が、そこには確かに立っていた。

「サガ・・・サガ!」
アイオロスは手を伸ばし、サガに近寄る。
会いたかった、と。
しかし、アイオロスの描いていた笑顔はそこにはなく、あるのは怯えた表情だけだった。
「サガ・・・?」
焦燥するアイオロスに、カノンはサガを寝室に連れて行くと、サガをそこに留め、部屋を出た。
呆然として立ち尽くすアイオロスに、カノンは自身も眉をしかめ、アイオロス、と声をかけた。
「カノン・・・サガは」
「みっともないぞ、教皇だろ」
「何が・・・」
「分からない・・・・俺が、呼んでも分からないようだった」
「まさか・・・」
「忘れている。・・・本人かどうか断定はできないが・・・少なくとも俺たちの知っているサガでは・・・」
カノンは辛そうに顔を歪め、顔を手で覆った。
雨にぬれるその憂いを湛えた瞳は、5年前と何一つ変わってはいないのに。
アイオロスは眉をしかめ、悲痛な表情をすると、壁に拳を打ちつけた。



寝室へ戻り、サガの様子を伺おうとしたカノンは、その姿に目を見開いた。
ベッドの脇の日記を手に取り、ベッドに腰掛けているその姿は、カノンが何度も目にした兄の姿と何も違わなかった。
「サガ・・・」
期待をこめ名を呼ぶが、あの優しい笑顔はかえってこない。
「・・・私は、サガというのか」
「覚えてないのか・・・」
「・・・・」
無言で応えるサガに、カノンはやりきれない表情をするが、しかしすぐにもとの冷静な表情に戻した。
「・・・・風呂に、入れ。案内するから・・・」
「すまない」
そう呟くサガに、カノンは涙がこぼれそうになるのを堪えた。
(何も・・・変わってはいないのに・・・!)
目の前にいるこのサガは、自分のことなど、いや、自身のことすら覚えてはいないのだ。

浴室に案内したカノンは、サガが教えられることなく湯を出したのに驚いた。
(・・・覚えていないのは、人に関することだけか・・・?)
サガの習慣的な部分———日記を手に取る姿、話し方、入浴。
サガは服を脱ぎ、几帳面にたたむと、傍に備え付けてあった鏡に気付いた。
「驚いたな・・・・私たちは、双子か?」
「・・・ああ。同じ顔してんだろ」
サガは少し黙ると、浴室へ入っていき、扉を閉める間際に小さな声で呟いた。

「すまない・・・兄弟、だというのに」

その言葉に、カノンは胸が締め付けられる思いがした。



リビングのソファに座り、ただ床を見詰めていたアイオロスに、カノンはコーヒーを差し出す。
普段ならばありがとう、と笑って受け取るのだが、アイオロスは何も答えることなくただ床を見詰めていた。
「・・・アイオロス。サガは、もしかしたら思い出すかもしれない」
「・・・なに」
「習慣は、覚えている・・・というより、身について離れないのだろう。日記も、話し方も、風呂の入り方も変わらない」
「だが俺たちのことは何も覚えていないのだろう・・・?」
「毎日会ってたんだ。・・・ひょっとしたら」
「・・・・・思いださないかもしれない・・・」
「アイオロス」
アイオロスは視線をあげることなく、覇気のない声で呟いた。
「・・・・俺の愛したサガは、もう死んだんだ」
カノンはそんなアイオロスに苛立ち、思わず掴みかかった。
「お前がうじうじすんのは勝手だがな!サガは今確かにここに!双児宮にいるんだ!サガは確かに死んださ!
俺たちの目の前でな!でもここにいるサガは、あの頃と何ひとつ変わっちゃいない!俺たちが腫れ物触るように扱ってたら、
あいつはまた昔と同じように傷つくだろうが!サガを傷つけたくないんだろう!だったらちゃんと見てやれよ!今のあいつを!」
「・・・わかっているさ・・・・!」
苦い表情をすると、アイオロスはようやくカノンと目を合わせた。
「分かっている!あいつは・・・サガだ・・・・」
「アイオロス・・・」
「すまない・・・・教皇の間に・・・戻らねば・・・」
「アイオロス。・・・なるべく、話をしてみるから」
「ああ・・・」

自分との過去も、名前さえも覚えてはいないサガ。
しかしその仕草も、表情も何も変わってはいないのだ。

アイオロスは長く降り続く雨の中、重い足をひきずり十二宮の石段を上っていった。