助けてくれ
誰か
私を、殺してくれ————
水音に気付き、サガは暗闇の中を振り返った。
どこを向いても、そこには闇しかなく、その中で自分の姿を確認することは困難だった。
ぴちゃ、と水音は近づいてくる。そしてやがて目の前で止まった、ように思った。
「誰、か、いるのか・・?」
サガは闇の中問いかけた。
寒さと、闇への恐怖に体が震える。
(なぜこんなにも恐れるのだろう・・・闇など、身近にあったものなのに)
サガが目をこらそうとすると、突然何かが頬に触れた。
「誰だ・・・!?」
その手のようなものは、サガの頬をするりと撫で、首筋にひたりと吸い付いた。
サガが身を硬くしていると、ほんのすぐ目の前、闇の中から不気味な笑い声が聞こえた。
「お前は・・・誰だ?」
サガが手を伸ばすと、ふ、と蝋燭が灯るようにその周囲が淡く光った。
その微かな明かりの中浮かんだ顔に、サガが慌てて手を引こうとすると、
“彼”はサガの首を撫でる手とは逆の手でサガの手首を掴み、自分の頬に引き寄せた。
そして不気味に口の端をつりあげ、引き寄せた手に唇をよせ、舌先で手のひらを淫猥な様子で舐めた。
サガがびくりと肩を竦ませると、“彼”はくく、と喉の奥で笑い、唇に引き寄せた手はそのままに、
逆の手を腰へまわし、体が密着するほど引き寄せた。
サガは抗おうとするが、強い力に引き寄せられ逃げられない。
「誰とは、つれないな。サガ」
「お前は・・・?!」
漆黒の髪に、真紅の瞳。だがそれは紛れも無く“サガ”と同じ顔をした者だった。
「私はお前だ。お前の中の、穢れた心。お前の持つ、悪の心」
「私の・・・悪・・・?」
「覚えているだろう?それともショックで忘れてしまったか?」
彼はサガの背を撫ぜ、自分の方に引き寄せていた手に頬を寄せ、耳元で囁いた。
サガの体は硬直し、その表情は恐怖に怯えるものだった。
「お前の、いや、私の父を、殺した記憶を」
「嘘だ・・・」
「くっくっく・・・お前は無実だと思い込んでいるようだがな、ムウは真実を知ったまでだ。父を殺したのは私たちだ」
「嘘だ!お前は・・・お前は一体」
何者だ、と再び問おうとしたサガの唇を、漆黒に身を包んだ彼は唇でふさいだ。
サガはつかまれていた手首を無理矢理引き抜き、両腕を突っぱねて体を離そうとするが、しかし彼の力に全く適わず、一層引き寄せられ、
深く口付けられる。
それでも抵抗をやめないサガに、彼は目を細めると、唇を放し額に口づけ、サガの豊かな髪に手を差し入れた。
「闇の心を必死に閉ざすお前の姿はかわいいな、サガ。だが私を受け入れねば辛いのはお前だぞ・・?」
「黙れ・・・」
「お前は周囲が思っているほど清廉な心を持ってはいない。必死に隠してきたつもりだろうが、私はここまで色濃くなった。
もはやお前自身抑えることはできまい」
「黙れ!私は・・・!」
「くっくっく・・・まあいいだろう。今は暫く自由にしてやる。だが、忘れるな。私たちはひとつだ。お前は私なしでは自らを保てない」
「うるさい!」
振り上げた手は、あっさりと彼に捕まれ、再び深く口付けられた。
歯列を割り、舌を絡めとリ、吸うように何度も深く口付ける。やがて彼が唇をはなすと、
銀糸がひきサガの唇の端から溢れただ液が顎を伝った。
「暫くは、幸せな時間を過ごすことだな。あの、アイオロスとかいう男と・・・」
それだけ言うと、彼はふ、と闇に消えた。まるで蝋燭の灯が消えるように。
サガは独り暗闇の中に立ちすくむと、サガ自身意識せず涙が溢れ頬を流れた。
「・・・・サガ」
ぼんやりと広がる視界いっぱいに、アイオロスの姿が浮かぶ。
心配そうな表情をするアイオロスに、サガは何か声をかけようとしたが、しかし声は声にならなかった。
アイオロスの手がサガの頬に伸びる。
涙のあとを拭われ、サガは涙を流していたことに気付いた。
「大丈夫か?」
サガはゆっくりと頷いた。
「・・・ここは」
「俺の部屋だ。・・・きれいなとこじゃないんだが、緊急だったからな」
「すまない・・・私は迷惑ばかりかけているな。・・・ムウが私を退けようとするわけだ」
「何を言う。・・・・今は休んでくれ。この部屋にはちゃんと外の見える窓があるから、風通しはいい。
だがもといた部屋がよければ言ってくれ」
「すまない」
アイオロスは苦笑すると、静かに部屋を出た。
廊下に出ると、そこにはアイオリアが壁によりかかり、腕を組んで立っていた。
「どうした、アイオリア」
「・・・どうするつもりなんだ」
不機嫌な様子のアイオリアに、アイオロスはまた苦笑した。不機嫌の原因が自分だと分かっているためである。
「どうもこうも、倒れたんだ。休ませる」
「そうじゃない。いつ、この船からあの皇太子を降ろすんだ」
「そんなに嫌。会えばお前も気に入ると思うが・・・」
「気に入る気に入らんの問題ではない!相手はクロスの皇太子だ!王となるべき人間が、いつまでも海賊船に乗っているなど・・・!」
「今はまだ、商業船だ、リア」
「何・・・?」
「悪い、まだ知らせていない。だがこちらに命令する気などなさそうだ」
「兄さん、俺はこの船が心配なだけなんだ・・・この先、やつを乗せていることで面倒に巻き込まれるのではないかと」
俯いて呟くアイオリアの頭を、アイオロスは軽く撫でた。
「ああ、分かっているさ。・・・このまま、商業船だと思わせたまま、北方の地で降ろす。それでいいだろう」
アイオリアは苦渋の色を見せたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「なるべく早く・・・ボロが出る前に」
「ああ」
アイオロスが笑って返すと、アイオリアは少しだけ笑った。
「・・・あと、3週間といったところだろうか」
アイオロスはため息とともに呟いた。手のひらをみつめ、強く握り締める。
苦しみに顔を歪め、涙を流していたサガ。
目覚めた空ろな目のサガには、虚無感のようなものしか感じられなかった。
今にも消えそうな儚い光を、サガを美しいと思う叫びだしたいような感情を抑え、サガの涙を拭った。
(儚い光・・・吹けば消えてしまうような・・・)
何かに囚われ苦しむサガの姿を見て、アイオロスは美しいと思い、同時に本能からくる欲望が渦巻くのを感じていた。
涙の流れる白い頬に、その空ろな瞳に、頼りなげな雰囲気に、アイオロスは自らの欲望を必死に鎮めていたのだ。
(汚い男だな)
アイオロスはまたため息をつくと、狭い廊下を歩き出した。
(あれは・・・何だったのだろうか・・・)
サガはぼんやりと天井を見詰め、夢の中で出会った黒い自分を思い出していた。
(あれは私だと言った・・・父を殺したのは、私だと・・・)
血に染まった父の姿。床に転がる黄金の短剣。そして、その傍らに立っていた自分。
もし、本当だとしたら———サガは自らの体を抱くようにして身を縮めた。
(私なのか・・?本当に・・・!おかしくなった私を退けようと、ムウは私を大使にしようとしたのか?)
全ての発端が自分ならばと、その罪の意識と、自分の中に潜むもうひとりの自分に、サガは恐怖した。
(ヤツはなんと言った・・・?暫くは、幸せな時間をと・・・アイオロスと・・・)
暫くは、出てこない。だがいつ現れるかも分からない。そしてサガは、アイオロスと、という言葉に疑問を抱いた。
(なぜ・・?確かにアイオロスは良い人間なのだろう・・・とても商業船の船長には見えないが、今は信じるしかない・・・)
人を信じたい、そして、信じてほしい。
アイオロスという男は寛大な男のようだった。広い海の似合う、陽の匂いのする———
彼なら、どんな自分をも受け入れるだけの心を持ち合わせているのではないかと、サガはそんな希望を抱いた。
(あのように広く、強い心を持っていたならば・・・)
ほんの僅かな時間会った事で見えてきたアイオロスの人柄は、サガに少しの劣等感を抱かせた。
(彼の陽の光に・・・私は自分の小ささを思い知らされる・・・)
陽の光のような、アイオロス。彼に対する希望と、信頼と、劣等感。
サガの心は、アイオロスという存在に惑わされはじめていた。
アイオリアが、兄アイオロスのサガを見る目に気付いたのは、サガが倒れた日から10日ほどたった頃だった。
サガは部屋の外に出ることも多くなり、船員たちと話す機会ももつようになった。
商業船のフリをしているとはいえ、もとは海賊。しかしこの船にはあまり気性の荒い人間が乗っていなかったことと、
サガ自身穏やかな心をもつ男だったため、特になんの問題もなく、サガは次第に船に慣れていった。
それは、サガが探るのをやめたせいでもある。
サガはこの船が本当に商業船なのか、考えることをしなくなった。
今はアイオロスを信じるのだ、と。
そして、歳が近いこともあって、二人が打ち解けるのにそう時間はかからなかった。
甲板や、廊下、談話室。アイオロスとサガ、二人一緒にいる姿も、珍しくはなくなった。
そしてアイオリアは気付いたのだった。話をするサガの横顔を、愛しい者を見るような目で、見詰めるアイオロスに。
同時に心配にもなった。この先、まだ目的地までは2週間近くある。その間に何があるかも分からないのだ。
アイオロスがサガに恋とも呼べる感情をもつことで、後々面倒なことになるのは明らかだった。
「サガ・・・王子!」
金髪をなびかせながら、ミロがやってきた。サガは微笑むと、サガでいい、と言った。
ミロは笑うと、サガの隣に行き、手すりを背によりかかった。
サガは甲板にいることが多かった。ここはあまり人はやってこない。海の風を受け、サガの蒼銀の髪がふわりと舞った。
「なあ、なんでサガは俺たちに何も命じないんだ?」
サガは一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに思い当たり苦笑した。
「今の私は、大使にもなり損ねた、ただの人だ。それにこの船に長居させてもらっている身で、そんなことはできない」
「でもサガは王族の人間だろう。商業船なんて、どうにでもできる権利もあるし、俺たちもそれに従う」
「・・・私は、そんなことはしたくない・・・」
少し寂しそうに呟いたサガに、ミロは少し罪悪感を抱いた。
何も詮索されないからいいものの、この船は紛れも無き海賊船。自分たちは物を奪い、人を殺す海賊。
いくら大義を並べたところで、やっていることはそう変わらないのだろう。
そしてその船で、そんな人間の隣で、彼は優しすぎる心で話をしている。
「それに、正直に言うと、ただ話がしたいだけなのだ。私には友と呼べるような話し相手など、いなかったから。
かしずかず、目線をあわせ、同じ人として話が・・・城では、私よりもずっと優秀な人や、ずっと経験を重ねた人たちに跪かれてきた。
それはとても・・・辛く、恥ずかしいことだ。私など、そんな価値もないのに」
ミロは気付いた。サガは、ただ孤独だったのだと。
人に囲まれながら、その心は広い荒野に独り佇んでいたのだと。
こんなにも清廉な、美しい心を持ち、あらゆる学に通じ、芸術に通じた優れた人が。
自分を卑下し続け、ずっとその心を打ち明けることもなく、独りで。
そして父殺しの罪を着せられ、王族の地位をも奪われた。
(今・・・ここが海賊船だって言ったら、どうすんのかな)
王族としての誇りまで奪われた彼が助けられたのは、平和を脅かす海賊。
そうと知ったらサガはどうするのだろうかとミロは思った。
傷つかずに生きていくことは難しい。だが、サガはこれ以上傷ついてはいけない。
ガラス細工のような美しい、しかし壊れやすい心の持ち主———サガと別れるのは惜しいことだが、
サガのために一刻も早く北方の町へ着けばいいと思った。
(サガのところに、現れればいいのに)
孤独から彼を連れ去る人が。———かつて、ミロがカミュをさらってきたように。
「・・・どうかしたか?」
黙り込んだミロにサガが首を傾げる。
ミロは少し笑って、なんでもないと答えた。