蒼海の狭間

「サガ・・・」
アイオロスはため息とともにその名を呼んだ。
船員たちに気遣っているのか、今も彼は部屋の中にいる。
会いに行かねばならないのだが、アイオロスにはその勇気がなかった。
このまま手放すのが惜しくなったのだ。
怪我がいつまでも治らなければ、動けない状態ならばいいのに。
そんなことすら考え始めていた。
(・・・アイオリアの言うとおり、海賊船と知らせていいものだろうか・・・)
確かに、海賊船と知られてしまえば、彼をどのようにも扱ったところで文句は言われない。
このまま商業船を偽り続けるのも難しいだろう。
(・・・おかしいな。海賊がこんなことで悩むのは)
本来ならば金品だけ奪って捨ててしまうのが海賊だ。
しかしアイオロスは決してそれをしない。
できるだけ穏やかに事を済ませたい———しかし、相手は王族。そうも言っていられなくなってきた。
(海賊と知れば、彼はきっと傷つくだろう・・・)
傷つけたくない、ずっと傍に・・・そう思い始めている自分に、アイオロスは苦笑した。
蒼銀の髪をもつ、美しい人。
(そういえば、まだ彼の瞳を見たことがない)
きっと澄んだ美しい色をしているのだろうと考えて、アイオロスは微笑んだ。
「・・・まだ暫くは、この船は商業船だ」
今はまだ———そう思って、アイオロスはサガの部屋へ向かった。



「・・・・」
ここへ来て何日経ったのだろうか、と、サガはため息をついた。
窓もなく、時計もない。昼か夜かも分からず、眠りにつくことが多いせいでサガには時の経過を感じることができなかった。
起きている間に色々なことを考えた。
父のこと、自分のこと、国のこと。
(商業船だとカミュは言っていた・・・しかし、それだけだ。どこに向かっているのかも、何を運んでいるのかも、 そもそもこの船の大きさだって分からない)
そう考えて、サガは今自分が置かれている状況が、そう芳しくはないものだと改めて思った。
(・・・なぜ生き永らえてしまったのかと、そればかり考えていたが・・・)
生き残ってしまった以上、なんとかしてこれからの状況を考えなければならない。
自ら命を絶つにしろ、この部屋にいたのでは首を切ることもできない。
(ナイフもなければ、ロープもない。あるのはベッドと、机と、レストルーム・・・・) 部屋の中を見回して、サガはあることに気付いた。
狭い部屋ではあるが、しかしそのつくりは決して簡素なものではないのだ。
食事さえあれば、この部屋で生活に困ることはない。
その食事も、粗末なものでなど決してないのだ。
(・・・素性も知れぬ漂流者相手にしては・・・待遇がよすぎるな・・・。それに、何日経っているかは分からないが、 目が覚めた時点でどこの誰なのかということくらいは聞かれてもいいはず・・・へたに大の男など放置しては何か騒ぎが 起こっても不思議ではないのに)
悲観にくれるばかりで、この船について疑問を抱くことなどほとんどなかったが、 こうして考えてみるとおかしな点が多すぎる。
(本当に、ここはただの商業船なのか・・・?)
確認しようにも、この部屋の中では出来ることは限られている。
(外へ・・・?)
自分のような部外者が出て行っては船員たちを驚かすだけだろうと今までは部屋の中にいたが、
ふと浮かんだ疑問はあとから絶え間なくやってくる。
出てみようか————と、サガはドアノブに手を伸ばした。



『しかし!』
『ならぬ!わしとてそのようなことは信じたくはない!だが世間の目はそうはいかんのだ!』
『このまま殺せというのか・・・!』
『お前には苦なことじゃろう。だがな、このまま人々の目に晒され、不安の種を植え付けるわけにはいかん。
兄弟で後継者争いとなるやもしれん。お前の子を、そのような目にあわせたくはない・・・』
『・・・』
『あとはわしに全て任せろ。お前はもう、忘れてしまえ』
『・・・忘れることなど、できようか・・・!』
『わしがお前の分まで、覚えていてやる。世界中の誰がこの子を知らずとも、わしが知っている。』

誰も知らなくとも、わしだけが————

「・・・・酷な事をしたものだ」
童虎は甲板で風にあたりながら、ある“秘密”を思い出していた。
王と、童虎しか知らない過去。生んだ母親にも、王妃にすら告げず、密かに行われた過去。
シオンも、“実行”までは知らない。知るのは童虎のみだ。

王家出生の秘密。
出生に何か問題があった場合、事実は往々にして隠蔽されるものであり、それはシオンの子も例外ではなかった。
シオンは王妃との間に子がなかったため、愛人に子を生ませた。
その子供は、双子だったのである。
王国では双子の子供は禁忌とされ、片方を殺すか、遠く別の国へ送る必要があった。
シオンは何とか二人を王家の子息として育てようとしたが、童虎はそれを許さなかった。
長い長い出産に耐えた母親に赤子の顔を見せる前に、童虎は“片方”を———処理した。
そしてもう片方を、愛人の子という事実を隠し、王シオンと王妃の間に生まれた子とした。
しかし城の中では愛人の子と知れているため、子供——サガの育った環境はあまりいいものではなかった。
「・・・・あの時、わしは確かに・・・」
広い海に、流したのだ。あの子供を。
泣き声をあげる、生まれたばかりの子供を。
その光景は、今でも童虎の脳裏に強く強く焼きついて離れない。
「忘れることなど、できようか」
これは罰。童虎の抱えた罪に対する、罰。
強くあたる潮風に童虎は瞼を閉じた。暫くそのままでいると、背後から靴音が聞こえてきた。
童虎のすぐ傍で止まった靴音に、童虎が瞼をあけ見やると、そこにはこの船の船長、カノンが立っていた。
童虎が初めて見たときの人当たりのよさそうな、しかし隙のない表情とは違う、どこか不機嫌そうな表情をしていた。
「・・・・わしに何か用かな?」
「いえ・・・」
不機嫌な顔のまま、応えた。童虎はそれに少し笑うと、敬語はやめろ、と言った。
カノンは一層不機嫌そうな顔をすると、深くため息をついて懐から煙草を取り出した。
「慣れないことはするもんじゃねえな」
「営業用を貫き通すつもりなら、不機嫌な顔をしてはいかんのう。無理ならやめればよい」
「船長サマともなるとなぁ、イヤでも営業用しなきゃなんねえ時もあんのさ」
カノンは深く煙を吐き出すと、きっちりととめられたシャツのボタンをいくつかはずした。
「・・もともと俺はそういう役割じゃない。暴れられればよかったのに」
「随分有能なようじゃのう。ポセイドンの頭は放っておかなかったか」
「まあそんなとこだな。・・・アンタ、クロスの高官だろ?なんであんなとこ彷徨ってたんだよ」
「ま、色々あってのう」
「ふーん・・・」
さして興味もなさそうに呟くと、カノンは再び煙を深く吐き出した。
(・・・似ているのは、顔だけか)
童虎が笑い出すと、カノンは怪訝そうな顔をして、煙草を海に投げ捨てた。



恐る恐るサガがドアを開くと、目の前に見知らぬ男が立っていた。
身長は同じくらいだが、体格のいい屈強そうな男だ。
しかしその表情はそんな体躯とは無縁そうな、優しい顔をしていた。
「あ・・・」
サガが思わず声をあげると、男は相当驚いたらしく一歩後ずさりした。
「・・・・」
お互い無言のまま見詰め合っていると、男が慌てて口を開いた。
「す、すまない。驚かせたな」
「いや・・・」
「・・・・外へ?」
「あ、いや、ちょっと・・・」
サガが口ごもると、男はいいよ、と笑った。
「外へ行こう。すまない。ずっと部屋の中ではかえって疲れてしまうな」
「いや・・・・・お前は?」
「ああ、言い忘れていた。俺はアイオロス。一応、この船の船長だ」
「せ、」
船長、という言葉に驚いて、サガは思わず目を見開いた。
「船長なんか似合わないってよく言われるけどな」
アイオロスは朗らかに笑うと、サガより一歩前を歩き始めた。
「・・・この船は、何を積んでいるんだ?商業船と聞いたが・・・」
「・・・・小麦だ。今は北方へ向かっている」
「そうか・・・」
二人の間に沈黙が流れる。狭い廊下を歩いていくと、扉に突き当たった。
アイオロスはその扉を開くと、どうぞ、と言って手を延べた。

甲板に吹く風は穏やかで、サガの柔らかな髪をなびかせた。
無意識に髪をおさえるサガの横顔に、アイオロスは目を奪われていた。
(やっぱりキレイだ・・・)
ぼうっと見とれていると、サガがふとアイオロスのほうに目をやり、見られていることに気付いたのか恥ずかしそうに目を伏せる。
「・・・・船長と、言ったな。不審に思わないのか、私を」
「・・・着ていた服で、どこの国のどのあたりの身分の人なのかくらいは、判断できたからな」
「!」
「どういう理由があったのかは知らないが・・・あ、存じませんが・・・」
慌てて言い直すアイオロスに、サガは少し苦笑すると、そのままでいいと言った。
「・・・・・名前ぐらいは、偶然ってこともあるかと思ったんだが、さすがに王家の中で同じ名前はつけないだろう」
「こちらのことは、何もかも知っていたのか・・・」
「ああ。知っていたけど黙っていた。急にクロスへ進路をとれと言われたら困るからな。・・・すまない、気を悪くしただろう」
アイオロスは、海賊船ということは伏せ、あとは全て正直に話した。
本当はこちらから話すつもりなどなかったのだが、サガが突然自分たちに対して横暴な態度をとるとも思えず、それならば向こうから言い出す前に こちらから言ってしまおうと、サガについてアイオロスが知っていることを話した。
「いや・・・久しぶりに気兼ねなく話をした気がする・・・」
「そうか、そう言ってもらえると助かる。実は内心冷や汗ものだったんだ。斬られるんじゃないかと」
「今は私はただの人だ。それに、自分から明かさなかった自分に非がある」
少し笑ったサガに、アイオロスは自分の顔が少し熱くなるのを感じた。
(オイオイオイオイ!生娘じゃないんだから・・・)
アイオロスは深く息を吐くと、少し真面目な表情になってサガに聞いた。
「・・・言いたくないなら話さなくてもいいが・・・王位継承者が、なぜ。行方不明という噂だったが」
「行方不明?・・・表向きはそうなっているのか」
サガは少し意外そうな顔をしたが、すぐに暗い表情になって、続けた。
「宰相に、父を殺した罪をきせられ、・・・早い話が左遷だな」
「王子サマなのに?」
「恐らく私が王位を継ぐのに反対なんだろう。そんなときに、父が・・・」
「罪を、きせられたというのは?」
サガは少し沈黙したが、やがて顔を伏せ小さな声で話し始めた。
「私には、何の記憶も残っていない・・・だが、気がついたら私は、父の遺体の傍らに・・・短剣を持って・・・」
そこまで言って、アイオロスはサガの肩が震えているのに気付いた。
顔色を伺おうとするが、顔を伏せている上長い髪がそれを遮る。
「・・・サガ?どうした、サガ!」
サガは苦しそうに息を吐くと、体がぐらりと傾き、アイオロスにもたれかかった。
「サガ!」
アイオロスはサガの肩を支え、そのまましゃがみサガを床へ横たえた。
額には冷や汗を浮かべ、体は冷たく、震えている。
かすかに開いた瞳は、しっかりとアイオロスの瞳を見つめ、何かを伝えようと口をひらきかけるが、しかし言葉は出てこない。
アイオロスはサガの脇と膝の下とに手を差し込み、抱え上げた。蒼銀の髪がさらりと白い顔にかかる。
「・・・一体・・・」
アイオロスは急いで船内に戻り、甲板に近い自分の部屋にサガを運び、ベッドに寝かせてカミュを呼びに出た。
その後ろ姿に、サガが必死に訴えかけようとするのに気付かずに————