__Walk_in_the_moonshine,_and_drink_like_a_jellyfish.__

[06.01.17] 

〜海月の放流〜 097

ここがたどり着いた場所なのか?
ただの通過地点なのか?
わからない。
本人が決めることなのか。本人にはわからないことなのか。
いずれにしても。ここからまたはじめてみる。


●『その先のもっと』
海岸に親子連れ。遊歩道から砂浜に足を踏み入れるなり幼き子は歓喜。
綺麗な小石に夢中でおおはしゃぎ。
「わぁ、貝だ。これ貝だよぉ。」
母はその様子を見て、聞いて、言う。
「もっとこっちの方に大きいのがあるよ。こっちに来てみなぁ。」

足元にあるうれしさ。しあわせ。
それで充分満足なのに。
急かす声。もっといいものがある。
もっと先にはもっともっといいものがある。

しゃがみ込むミクロの視点。と。
背伸びして飛び上がって見渡し駆け出してゆくマクロの視点。
わしは欲張りなのだ。その両方が欲しい。



●『流れる、時間、感覚』
放浪する本人は放浪してるつもりはなかったりする。
それでも。流れてはいる。
時間の感覚はどうやら周囲と違う気はする。

流れ流れていてもひとところに落ち着くときもある。
怪我や病気やさまざまな事情で留まることもあろう。

一般的な旅行者にとって一週間、ある土地や宿に留まることは
ずいぶん長逗留のように感じるかもしれない。
しかし数ヶ月、数年の旅をする者にとっての一週間は、
あくまでも一時的な滞在。

カラダは地を求めるかもしれない。
たどりついたあこがれの地、居心地のよい所で
その土になるまで居ることになるかもしれない。

タマシイは限定しない。
地、所もひとところである必然性はない。
どこにでもゆける。どこにでも在る。遍在できる。

わたくしのタマシイなどというものは、ない。
わたくしなんぞに限定されるものでは、ない。

わたくしに限定されるものはカラダだけであり、
わたくしはカラダである。

わたくしがカラダである限りにおいて
わたくしはある土地に留まることもあろう。

そのタイムスパンは10年、100年というものかもしれない。

・・・
わしはこの高知にこれから10年棲み暮らして
カラダをこの土地のチカラと呼応させてみようと思う。
(高知の中での引越はするかも。たぶん、するだろうな。)



・・・(つづく)[06.01.17]...Qurax2海月(=)彡
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