__Walk_in_the_moonshine,_and_drink_like_a_jellyfish.__

[04.10.15] 

〜海月の放流〜 068


すっかり寒くなっちゃったなぁ。
寒がりの僕は既に冬装備で出かける。
雨が続いたり台風がどかどかやってきたり
ってのが続いてたので余計に寒く感じる。
けれども。
天気の良い日はシワひとつない一面の青。
どこかに繋ぎ目や縫い目を探したくなるまっ平ら。
四角く切り取ってプールにでもしたくなるよ。
「抜けるような」とか「天高く」
なんて初めて表現したヒトってステキだな。
用もなく外に出て寝ころんで空を見下ろしてたい。
そんな気分にさせる。そうゆう季節。



●『レインドロップス』

あまつぶ。あめだま。あまいにおい。
キンモクセイのあまいあめ。


●『想いと匂い』

雨の日曜日。
こんな日はうちに居て。だらりらと本を読んだり。
ネット上をぶらついたりする。のが常だが。
楽しみにしてた写真展を訪ねて銀座まで出かけてみる。

外に出て、傘さして、歩きだす。
ふぅわんと甘い香り。
あ、もしや金木犀?
辺りを見回すが花は見当たらない。
毎年いつもそうだ。
金木犀はまずその甘い匂いからやってくる。
立ち止まるとその匂いの出所がわからない。

また歩き出すとまた匂いが見つかる。
不思議だな。

雨の中、鼻をくんくんさせて歩く不審者になりながら(笑)
花を求めて歩いてると。なんだか顔がにまにまとゆるんでる自分に気付く。

切ない想いと楽しかった記憶。
金木犀の花と香りにはいろんな思い出が詰まってる。
大好きな花。

もうすっかり秋。これからずんずん寒くなってくるんだなぁ。

+
写真展の感想:
写真は全部モノクロだった。
けれど。そこには色と音と匂いを感じることができた。

干上がった土が、瓦せんべいや亀の甲羅模様のように
めくれあがっている写真がとても懐かしく思えたなぁ。
こどもの頃、そういう土を慎重にはがして遊んだもんだ。
完全に乾ききってないとキレイにはがれないんだよね。
その時の土の匂いを思い出した。
市場の活気、川のほとりで遊ぶ水しぶき。
光と影にも音と匂いがあるんだなぁ。


●『高度ゼロメートルの世界』

地上を這うものの世界

雨の日 歩道を這う うねうねと やわらかな 小さきもの
僕の前を横切り 車道へと向かう
おいおいまさか横断しようってんじゃなかろうな?
先を急ぐ車たちの水しぶき
その小さきもののスケールサイズからすると
車道横断は太平洋横断に匹敵する距離感覚
高度1.5メートルの住人は勝手に想像する

どこへゆこうとゆうのか?
わかってやってるのか?先が見えてるのか?
こわくはないのか?

決して立ち止まることなく躊躇の欠片もなく
小さきものが うねうね 道をゆく


●『木曜日の太陽』

木曜日は晴れる。

いつからだったろう?
記録を付けていたわけではないので記憶は曖昧だが
なぜか木曜日は晴れてる印象。

今の仕事に就いてから3ヶ月が経過している。
この夏から秋にかけて雨が続いたり台風が接近したりしているが
木曜日だけは晴れる傾向。

天候気候天気は全地球レベルのダイナミックな変化。
それに比べれば人間なんてちっぽけなもの。

1週間という生活単位は人間の都合で勝手に設定した時間単位でしかない。
昨日今日明日。どれも違う1日。
それはつまり非連続であるとも言えるし
逆に時間単位としては昨日と今日に差はないとも言える。

地球が一回転自転するのに要する時間を一日とした。
地球が太陽の周りを一回転公転するのに要する時間を一年とした。
勝手にそう決めただけの話。他の星ではこの長さが違ってくる。
けれどもその取り決めは昼夜や季節の変化の目安尺度になり
生物にとっても意味のある定義付けだと思える。

しかし。1週間ってのはなんだ?
天文学的な時間単位とも関係ないし生物学的な体内時計とも関係なさそうだし。
1週間=7日間ごとに区切って考えるのは人間だけの都合でしかないだろう。
キリスト教以前にはこんな区分なんてなかったんじゃなかろうか???

・・・にも関わらず。
人間の生活サイクルが天気に影響することはあるようだ。

オゾンホール拡大、地球温暖化、ヒートアイランド現象、異常気象、
地球環境・・・
そんな大それた御題目の話ではなくとも、
1週間の区切りごとに「休日」がはさまれる人の流れや活動の変化が
その1週間の天気に作用しているように思われる。

変化に対する反応には、その敏感さによって様々な時差が生じる。
もしかしたらそれが木曜日の応答なのかも知れない。


●『天然と手作り』

天然と人工。機械製品と手作り品。
その差は一体なんだ?
自然、天然のモノに価値が置かれ、大事にされ、
人工的、人為的なモノは低く見下げられる。
何が違うのか?

『ブレードランナー』の世界では
天然のヘビのウロコが高値で珍重されてたっけか?

材料素材は天然に限る、と言い放つ口に運ぶ箸は人工物。
人間がつくったモノ、手を加えたモノを人工、人造と呼ぶならば。
人間のこどもは人工物か?人造人間か?

人間だけに限らず動植物の中には
構造物をつくったり道具を活用するものがある。
たとえばアリやハチやクモの巣などは身近な建築構造物であろう。
しかしそれは人間がつくったモノではなく人工物とは呼ばれないゆえに
自然、天然のモノと認識される。

人間がつくったモノだけを人工物、と切り分けて考えている。
根底には万物の霊長たる人間さま思想があるのかしらんが
つまるところ、人間は自然、天然物ではないと自ら言っていることになる。

人工物の中でも機械でつくった工業製品は疎んじられ、
人が素手でこねあげた手作り品には価値が高く設定されている。
どっちだって結局、人工物には変わりないのに、だ。

機械をつくるための機械、というモノがある。
それをマザーマシンと呼んだりする。

ではそのマザーマシンはどうやってつくるのか。
まず道具から人間が手作りでつくる。
その道具を駆使してつくった手作り機械をつくる。
その機械を組み合わせて巨大なあるいは精巧なマザーマシンができあがる。
マザーマシン自体は大量生産できないし、その必要もないことから
まさに手作りの一品/逸品と呼んでも差し支えないモノである。

金属よりも草木を素材に使われたモノの方がいいとか言われたり
天然素材などと珍重されるが。
金属だって宇宙自然の中の天然素材のはずである。
それが人為的につくられた合金であったとしても原材料は天然である。
石油が天然であるならば石油製品は天然素材だと言い張ることもできる。

自然界に存在しなかったモノを人間が作り出したから汚染や被害が出るのだ
との叫びもあるし、
実際、それによる被害者の方々を前にすれば居たたまれなくもなろう。
しかし。
ここで問題なのは利用運用の問題であって自然や人工の問題ではない。

そもそも自然界に存在しないモノなど、「存在し得ない」だろう?
今まさにそこに存在してしまっているのだから。
また、そんな自然に反するモノを人間ごときがつくれるはずはなかろう。

人間がつくり出そうが、隕石で宇宙からやってこようが、
自然の法則に従わないモノなど「この世」には存在しないのだ。
あらゆるモノは結局のところ、「自然に存在している」。
また。
人間は自然界の法則などほとんど何もわかっちゃいないので
自然界にはまだまだ人知を超えたナニカが存在することも否定すべきではない。

つい最近新たに人工的に誕生させ発見された原子番号113の新元素リケニウム?
の寿命は約0.0003秒。

人間サイズでは「たった」それだけの刹那しか存在し得なかったことだが。
人間さまだって宇宙年輪からすれば「たった」の300年も生きてられないのだ。

ちなみにこの小さな地球上でその栄華を欲しいままに享受しているのは
その種類と数と分布の見地から、
人間さまではなく、昆虫や微生物などの「小さきもの」である
ということは知っておいても損にはならん。が得にもならん。うひ。


・・・(つづく)[04.10.15]...Qurax2海月(=)彡
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