マンションの中から出て来た住人と擦れ違い、オートロックを運良くクリアして、和秋はエレベーターへ乗り込んだ。狭い箱は躊躇いなど微塵もなく、和秋を雄高の部屋が位置する十一階へと運んでいく。――機械に躊躇いなんてあるはずない、そう胸のうちで思っても、少しずつ弾んでいく鼓動は誤魔化せなかった。まさか緊張でもしているのだろうかと、予め決めておいた言い訳を復唱する。飯。飯。理由はとりあえずそれだけだ。頬にはまだガーゼが貼られたままで、見るからに痛々しい有様だ。
大袈裟かもしれないと途中白い布を取り外そうとしたものの、みっともない痣を晒すよりはましだろうと思い直してそのままにしてある。
チン、と微かな音を立てて到着を告げたエレベータの扉が静かに開く。その瞬間、聞き慣れない怒号が耳に届いて、和秋はほんの一瞬動きを止めた。
誰のものかは判らないが、恐らくは自分よりはずっと年輩の男性が、誰かを怒鳴り付けているらしい。
喧嘩やろうか、物騒やなあ。――のんびりと和秋が思えたのも、顔を上げるまでだった。
開いたエレベーター扉の向こうからは、怒声の主が見える。その正面には、なぜか雄高が佇んでいた。
どうしてと、そこで一度和秋の思考は止まる。まさか妙な勧誘にでも引っ掛かってしまったのだろうかと危惧しかけたものの、雰囲気がどうも違った。
予想通り、雄高を一方的に怒鳴り付けているのは中年の男性だ。歳の頃は詳しくは推定できなかったが、義父である恵史よりも歳は上だろうと思う。見るからに感情を激しているその人とは打って変わった静かな顔付きで、雄高はその人の罵声を浴びていた。
呆気に取られて、和秋はぽかんと口を開いたままその光景を見つめる。
――何だろう。
今にも雄高の胸倉を掴み上げるばかりの勢いで捲くし立てるその人は、一体誰だろう。どうして雄高はそれに身動ぎもせず、ただ静かに耳を傾けているのだろう。
「……には、碌な人間がいやしない。あんたもそうだ。――今後一切……に関わるな」
激昂が過ぎるのか、大声であるにも関わらず男性の言葉は聞き取り難い。しかし切れ切れに耳に届く言葉は、明らかに雄高を罵っているようだった。
何だろうと一瞬眉を寄せかけ、その男性が靴底で踏み付けている何かに気付く。
それが何であるかを理解した瞬間、身体中から一気に血の気が引いた。
――なんで、
また声が、雄高を傷付けるためだけの言葉を口にして、それを踵でぐしゃりと踏み付ける。まるで汚物であるかのように蹴り上げられた哀れなそれは、無機質な床を滑り、途中摩擦に負けて破れてしまった。
微かに覗いたボロボロの紙切れに見覚えがあった。――いつだっただろう。もうずっと前に雄高が撮ったものだ。数え切れないくらいの写真を撮っても、自分が気に入るような画が撮れたことは少ない、けれどその中でも胸を張れるものは僅かにある。そのうちの一枚だと言って見せてくれた、大切な景色だと言って見せてくれた。――その写真も、それの中に収められていたのか。
まだ続く怒声が上滑りして、和秋は信じられない思いで転がっているそれを凝視した。もうあれは、本当に塵になってしまったのだろう。
紙は相当に上質なはずだ。それでも手酷く扱われてしまっては、破れても仕方がないのかもしれない。
――塵なんかじゃない。
体温がすうっと下がり、冷たくなった指を握り締める。余りの衝撃に声が出ない。――それは、そんなふうに扱われていいものではない。
誰かの汚れた靴底なんかに踏み付けられていいものではない。
握り締めた指先から熱が広がって、言いようのない感覚に身体中が支配される。
既に何頁かは手で破られているらしい。見れば辺りには破片が散らばっていた。
「――何してんッ」
頭を煮えさせたそれが怒りという感情だと気が付く前に、身体が先に動いていた。
「あんた今、自分が何したか判ってるんか!」
自覚しないまま動いた身体は、懲りずに雄高へ非難を続けていたその人の胸倉を掴み上げる。
「な……っ」
突然の和秋の登場に目を剥いたのは男性だけではなく、雄高も同様だったのだろう。和秋と、驚いたような声で名前を呼ばれたような気もするが、そんなことは気にしていられなかった。この人間が何者でも、雄高とどんな確執のある人間でも関係ない。こんなことが許されていいはずがない。
「あんたが今踏ん付けてたもんはなあっ、そんなふうに扱ってええもんとちゃうねん!」
もう殆ど本の形を残していないこれを、見た人は塵だと思うだろう。こんなにボロボロにされてしまえば、廃品回収に出したって役に立たないかもしれない。けれど塵じゃない。塵なんかじゃない。
「このひとがどんな思いで写真撮ってたか、あんた知ってるんか……ッ」
沸き上がる怒りのまま、和秋は声を振り絞った。
例えたった一枚の写真でも、彼がどんなに大切にしていたか。どんな思いでファインダーを覗いていたか、何の変哲もない風景でさえ、どんなに愛おしみながらフィルムに収めていたか。
「あんたなんかがこんなにしてええわけないねん、ええ歳してそんなことも判らへんのか!」
その思いが凝縮され、綴られた大切なこの本を、こんなふうに扱っていいはずがない。
「なんだ、君は……っ」
「知らへんのやろ、あんた知らへんからこんなことできるんやろう……!」
堪えなければ、名前も知らないこの男を殴り付けてしまいそうだった。それでも抑えようがなく溢れ出た怒りは、胸倉を掴み上げた指を震わせる。痛い。こんなにも胸が痛い。
「和秋」
状況も判らず、ひたすらな憤りに身を任せた和秋の手首を、雄高がそっと握り締めた。
「……いい」
低く、静かに制した声に身体中から力が抜ける。ふっと緩んだ指の力を狙って、驚愕に言葉を失っていた男性が力いっぱいに和秋の身体を跳ね除けた。その衝撃に後ろに倒れそうになった和秋を支え、雄高は漸く男に向かって口を開く。
「――すみません」
なぜか謝罪した雄高の声に、再び熱いものが喉にせり上がる。どうしてこんなことをされて、雄高が詫びる必要があるのか。あんたは悔しくないのか。――しかし衝動は形にならない。自分の身体を押さえる雄高の腕が、黙っていろと、そう告げている気がしたからだ。
「なんなんだ、この子は」
喉を締め付けられていたせいか、軽く堰き込みながら横柄な態度で男が尋ねる。しかし雄高はそれに答えようとせず、ただ沈黙した。
雄高から答えが返らないことを察すると、男は鼻を鳴らし、じろりと和秋を睨み付ける。手出しはするなと雄高が言うのなら堪えてやる。それでも視線の力だけは負けないようにと、和秋も男を睨み返した。
「まるで野蛮人だな。――知り合いにも碌な人間がいないのか。あんたがまともじゃない人間でも私には関係ないが、これ以上私たちを巻き込まないでくれ」
雄高と和秋をそれぞれ交互に一瞥すると、まるで嘲るような言葉を残し、男は身を翻し去って行く。その背中を睨め付けて、和秋は奥歯を噛み締めた。
――まともじゃないのは、どっちだ。人を見下す言葉しか言えずに、傷付けることしか出来ずに。傷を塞ぐこともせず去っていく、それで、どの口が他人のことを非難できるのだ。
去っていった背中がエレベーターに消え、階下へと落ちていく。それを確認した途端、今度こそ身体中から力が抜けて和秋は冷たい床に座り込んだ。
視界の隅に変わり果てた紙片が映る。美しい風景を映し出した表面に、足跡さえくっきりと残されていて、いっそう痛々しく感じた。
「……なんで? あのひと、誰やの」
あの男が誰なのか、どうしてこんなことになっているのか。そう尋ねた和秋に答えようと雄高が口を開いたとき、室内から鳴り響く電話のベルが聞こえてくる。結局雄高は何も口にせず、電話を取るために先に部屋へ入っていってしまった。
ならば、散らばる紙片とボロボロになった本の片付けは自分がやるべきだろう。そう考えて、また痛みが増す。片付けなんて言葉を使いたくはない。
和秋はゆっくりと身を起こし、まずは本体そのものを手に取った。そろそろとページを捲る。まともに見れるページの方が少ない。あちこちが千切られていたり、皺が寄っていたりとあまりにも悲惨な有様だ。
――きれいやったのに。
歯を食い縛りながら痛みを振り切り、次に千切られ、破り取られた残骸を拾い集める。一枚、また一枚。残さず、綺麗に拾い上げてやろう。――だけどもう戻らない。
――あんなに、きれいやったのに、
どんなに懸命に集めても、どんなに必死に欠片を貼り合わせても、本来の形に戻ることはない。これはただの塵だ。ゴミ箱に捨てられ、やがて燃やされる。そんな末期を迎えるために存在したのか。
単に印刷物であって、雄高が撮った写真そのものではないと判っている。判っているのに、どうしようもなく胸が痛かった。間違っても望んではいない。誰かに踏み付けられて、破られて、捨てられる、それを望んで、写真を撮っていたわけではないはずなのに。
熱い何かが視界を滲ませそうになって、和秋は慌てて目を擦る。
赤の他人の自分でさえこんなにもショックを受けているのだ。ならば、雄高の痛みはどれほどのものだろう。それを思えば、涙は堪え切れなかった。
――なんて酷い。
欠片を残さず拾い上げ、それを胸に抱え込むと、和秋は声を殺して僅かに涙を零した。
知っている。
あの人の密やかな情熱を知っている。
だからこそ、これがあの人にとってどんなに残酷なことか、知っている。
ゴミと化したそれを胸に抱えたまま部屋に入ると、雄高の声が聞こえた。まだ電話での会話は続いていたらしい。この紙片たちをどこに置こうか迷った末、結局テーブルの上に置いた。
「落ち着けってさっきから言ってるだろうが。――ついさっき帰った。気にはしてない。おまえもそんなに気にしなくてもいい。大した被害はないから」
優しい笑みさえも混ぜた声音で話す雄高は、たぶん電話越しの相手を気遣っているのだろう。大した被害はないという言葉が、もしもこのゴミに成り果ててしまった可哀想な写真たちを示しているのなら、それこそ嘘も方便だ。そう思いながら、ソファに腰を降ろし、足跡のついてしまった一枚の紙片を手に取る。
「もういい、泣くな。鬱陶しい。おまえのせいじゃない――こともないな。……判るな?」
幼い子供に言い聞かせるような雄高の声を聞きながら、滑りのいい紙の表面を掌で軽く擦る。足跡は、目立たない程度には消えてくれた。破れてしまったものは直しようがない。
「……そうだ、おまえが信頼されていなかったら、俺が信頼されないのも当然なんだ。これからおまえがやるべきことは何だ?」
表紙は固い紙を使用しているだけあって、破れていなかった。変な方向に折れ曲がってしまっているのは仕方がない。あんなに酷い扱いを受けたのなら。
また涙が浮かんできそうになって、和秋はただ無心に一枚一枚の皺を伸ばし続けた。皺がついたり折れ曲がっているだけなら、何とかすれば見れるようになるかもしれない。
淡々とした声で会話を続けていた雄高が、「上出来だ、」と笑った。
「判っているなら問題はないだろう。ちゃんと話せ。話しても、どうしようもならなかったら、俺も一緒に頭を下げてやる」
雄高は穏やかな声で言い終えると通話を切った。受話器を戻した後、ソファに腰を降ろしてひたすらにテーブルに向かう和秋を見て、雄高はほんの少しだけ笑ったようだった。
「もういい。……ゴミにしかならない」
「やかましい。ゴミにならへんようにやってんねん、黙っとけ」
意固地になったように言い返し、必要がないと言われても尚、和秋はその作業を続けた。
ゴミなんて言わせない。――例え、本当にゴミ箱に棄てられるしかなくとも、ゴミであるはずがない。
「こうなっちまったら、棄てる以外に使い道がないだろう」
雄高はまるで普通の声で告げると、和秋の隣に腰を降ろし、細かく千切れた紙切れを手に取る。派手にやられたと呟く声は、まるで他人事に響いた。
「……あんた、悔しないんかっ……」
当の本人である雄高がこんな平気な顔をして、自分だけがダメージを受けているような錯覚に陥る。そんなはずはないと頭では判っている。雄高が傷付いていないはずがない。
「自分の写真、こんなふうにされて悔しないんか……」
「当たり前のことを訊くな。――悔しいに決まってるだろう」
予想通り、雄高はあっさりと和秋の言葉を肯定した。しかし、悔しいと告げた声にすら、微塵も翳りを感じない。ただ淡々と、雄高はテーブルの上に散らばるゴミを眺める。
「それなりに悔しかったが、おまえを見ていたらどうでもよくなった」
続けられた言葉に、和秋は一瞬動きを止める。皺伸ばしの作業を中断して、思わず雄高の顔を仰ぎ見た。
「自分のために誰かが怒ってくれるっていうのは、案外気持ちがいいもんだな」
雄高は微笑っている。何かを噛み締めるように、ひどく静かに笑みを落としながら、和秋を見つめていた。
「あれは、祐正の親父だ。――北沢さんの息子だな。元々カメラマンにいい印象を持っていなかったんだろう。俺が祐正を無理矢理引っ張りまわしていると勘違いしたらしい」
視線が噛み合うと雄高はまた顔を伏せ、和秋がさっきまで躍起になって皺伸ばしをしていた紙片を摘み上げる。
「やからって、こんなことせんでも……」
「祐正にも非がある。――まさかと思っていたが、時々学校を休んでまで俺の仕事について来ていたらしい。息子が学校をサボって得体の知れないカメラマンに懐いていれば、どの親も心配はするし、怒りが俺に向かっても仕方ないだろうな」
確かに雄高の言葉は最もで、いい歳をした大人がどうして昼間から高校生を連れ回していたんだと責められるのも致し方がない。それでもその説明で満足がいかないのは、和秋の感情だ。
「……祐正くん、親父さんと仲悪いんか」
「仲が悪いってわけでもないんだろうが、言い出せなかったんだろう、自分がじーさんに憧れていることを。……ただ学校をサボるのはやりすぎだ」
気持ちは判るがそこまで急かしたつもりはないと、雄高は苦い声で言った。
夢中になって目指すものが眼の前にぶら下がっているとき、我を忘れてしまいがちなのは仕方のないことだとしても、学生が本分を忘れてはならない。学校教育に何も見出せなくとも、所属している以上はそれに倣うべきなのだろう。雄高の言いたいことは、和秋にも朧気に理解できた。
「親父さんとの折り合いを考えるなら尚更だ。やるべきことをやっていない人間を、どうして信じられる――っていう話を、さっきあいつにしたばかりだ」
さっきの電話の相手は祐正だったのかと、和秋は納得する。
「祐正くん、親父さんがここに来てること知ってたんやな」
「出席日数のことで学校から連絡が行って、親父さんが激怒していたから、もしかしてと思ったらしい。考えが浅いところがガキなんだ、あいつは」
呆れたように呟いた声もどこか優しい。祐正の父親に理不尽な非難を浴びて尚、祐正を見放すつもりはないようだ。
「……ほんならこれ、祐正くんのか」
「らしいな。部屋からなくなっていたと言っていたから多分そうなんだろう。……親父さんのカメラマン嫌いは相当みたいだな」
雄高は笑い混じりに呟いたが、和秋はとても笑えなかった。元々は祐正の私物であったそれは、今彼の手元に戻っても喜ばれないだろう。ならば結局はゴミ箱に突っ込まれる運命なのだ。
「なあ、これもらってもええ?」
その言葉は自然に口を突いて出た。こんなゴミもらったって仕方がない。自分でも判っていながらも、なぜか口にせずにはいられなかった。
「捨てるんやったら、俺にちょうだい」
ゴミになるくらいなら、捨てられてしまうくらいなら。
それならば、自分が大切に持っていても構わないだろうか。多分、そんなことを考えながら問いかけた和秋に、雄高が驚いたように目を瞠る。
「……こんなもん、どうするんだ」
見開いた目を眇めると、雄高はひどく複雑な表情を見せた。その顔は笑っているようにも、そしてまた困っているようにも思える。
「わからん。けど捨てるんやったら、ちょうだい」
捨てる神あれば拾う神ありだ。
可哀想な写真たちの神になれるのなら、それはそれでいいかもしれない。――きっと宝物のように大事にするから。
雄高はなぜか長い溜息を吐き出した。かと思うと両手を顔の前で組み、肘を足に乗せた姿勢で、額を組んだ両手に押し付ける。まるで顔を隠してしまうかのような仕草に、どうしたのだろうと首を傾げる。
「……タイミングが悪かったな」
吐息のような声に、うん、と頷きを返すものの、雄高の表情は見えない。
「ただ飯たかりに来ただけやねんけど、えらいことに巻き込まれてもうた」
最近出会う人出会う人、皆血の気が多い気がしてくる。それが感染したのか、今回は自分が殴る立場になりかけてしまっていた。
「悪かった」
「……あんたが謝ることやあらへん」
タイミングが良かったか、悪かったかで言えば、むしろ良かったのではないかとさえ思う。自分が憤りを露わにしたことで、ただ静かに罵声を浴びていた雄高の辛さが少しでも軽くなっているのなら。
「俺、逆にややこしくしてもうただけかもしれへんし。……おらへんほうがよかったな」
雄高はあのとき、あの男とまともな会話をすることを最初から放棄していたのかもしれない。あの手のタイプは、自分が言いたいことを言ってしまえればそれで満足するのだろう。相手の意思など構いもしない、だから言っていることをさらりと受け流してしまえれば、こちらは大してダメージを受けない。
それでも、許せなかったのは雄高ではなく、和秋の方だ。
「いや、……助かった」
あの男の振る舞いを許せずに憤っただけの自分は、単に邪魔者だったかもしれないと反省しかけたとき、雄高の呟きが耳を打った。
「――さすがにしんどかった」
まるで呟くように落とされた、独り言に近いそれがやけに耳の奥で響き、胸を震わせる。
この人が、傷付いていないはずがない。確信したその思いが、今目の前で形になっている。和秋は何かを言いかけて、結局口を噤んだ。
言葉にできない。
言葉にするよりも、何かを、この腕が何かをしなければならない気がした。
この腕が今しなければならないことは何だ。――この腕で、今したいことは。
哀しい顔を見せようとしないこの人を抱き締めるために、身体が動いた。
どうしよう。言葉にしようとして、結局は出来なかった感情は、憐憫や同情と言った類のものではない。
どうしよう、この人を、今抱きしめたくてたまらない。
ソファに膝を着き、覆い被さるように雄高の頭をそっと抱えた和秋の腕に、雄高が身動ぎする震動が伝わる。それでも雄高は腕を解こうとはせず、ただ吐息だけで笑った。
今、どんな顔をしているのだろう。無性に、顔を見たいと思う。けれど雄高は嫌がるのだろう。無理矢理顔を上げさせれば、きっと雄高は平気な顔を作って、この腕を振り解いてしまうから。
「俺、なんにも言えへんなあ……」
抱き締める以外何もできない無力な腕は、きっと役に立つ。雄高の悲しい顔を隠すくらいには役に立つ。
「……あんたに、なんにも言うてやれへん」
雄高の生活の中で、どうしても踏み込めないものの代表格が彼の仕事だった。素人には写真のことなど判らない。例えば祐正のように、北沢の写真のことで話を盛り上げることなど和秋には不可能だ。
「無駄なことしか言わないんなら黙っておけ」
少しだけくぐもった声で雄高が笑う。それに軽く笑い返してから、和秋は腕の力を強めた。
判らない。何も判ってはやれない。適確な言葉を与えてやれないことが、悔しい。――ひどく悔しい。
なのに傍にいて抱き締めたいと思うのは。単純な感情を示しているような気がした。
「……おまえでも役に立つことがあるんだな」
「えらい言われ方やな。素直にありがとうて言えへんのか」
この人は傷付いた顔もできないで、なのにうまく生きることもできないで。
――誰にも縋れないのは、雄高の方だ。
自分じゃない。
誰にも辛い顔をできないのは、癒されることなく生きているのは、雄高の方だと気付いてしまった。
雄高が顔を上げると、吐息が触れそうな至近距離で視線が噛み合う。
「……ありがとう?」
「……なんで疑問系やねん」
――気付いてしまった。そうじゃない、自分は知っていたはずだ。この人は、そういう人だ。
「あんた、俺がおらへんかったら、今日のこと誰にも言わへんで、何もなかったみたいな顔してたんやろ」
傷口を治さないまま生きている。忘れた振りをして、平気な顔をして。そんな遣り方じゃ、やがては疲れ切ってしまうに決まっているのに。
「わざわざ人に話すことでもない」
「なんでや。……そっちのが、楽やろ」
愚痴ひとつ零さない。吐露する意味もないと思い込んでいる。そうして少しずつ溜まっていく辛さに気付いてもいない。この人は、こういう人だった。
「……ルール違反やろか」
だからこそと思うのは、ルール違反だろうか。
「あんたも俺に縋れって思うのは、ルール違反やろうか」
恋にはしない、それを前提で一方的に雄高から与えられるやさしさを、何の柵もなく受け入れる。その関係に、雄高が自分を頼るようになればいい、そう思うのは、ルール違反だろうか。
視線を反らせないまま、和秋が尋ねる。
「――それなら俺は、とっくの昔にルール違反だ」
雄高も同じように正面から和秋の目を見据え、囁いた。
言葉の意味を理解するより先に、唇に暖かい感触が触れる。それを雄高の唇だと知って、和秋は瞼を落とした。
恋にはしない。何度も胸の中で繰り返した。その言葉は今もなお深く根付いている。恋にはならないほうが賢い。恋にしてしまえば、懲りずに欲しがってしまう自分を知っている。にも関わらず、口接けを拒む言葉が見付からない。
触れていただけの唇が、和秋の拒絶が見えないことを確認すると、口接けを少しずつ深めた。キスを続け易いように傾けた首に雄高の指先が触れる。
感傷的になっているせいだと口接けの意味を定めようとしても、誤魔化しようのない感情が、雄高の背中を抱き締めて離さない。
縋りたい、縋ってほしい。支えられたい、支えてやりたい。よく似て少し違う意味合いの言葉が心奥に浮かんでは消えていく。
濡れた音と共に唇を離しても、何ひとつ言葉にはならなかった。きっと何を口にしても、空々しくてあっという間に掻き消えてしまう。
静かな吐息と視線だけが、自分と雄高を繋げている。
どうしよう。
――恋にならない理由がない。
言葉にするには難しすぎるこの感情は、多分、いとおしさに似ている。
目を反らされないうちに、和秋は引き付けられるように再び唇を寄せた。自分から口接けてしまえば、だめになる。重なってしまえば、もうどうしようもなく認めてしまうことになる。
――どうしよう。
なのに求めてやまない唇に、自分のそれを重ね合わせようとした瞬間、ポケットに押し込んでいた携帯が、強い震動で着信を伝えた。同時に軽快に鳴り響いたメロディに、和秋とそして雄高の動きが止まる。時間を止めてしまったかのように動きを固めた和秋は、迷う。今ここで携帯を取ってしまえば、きっとさっきのキスをなかったことにできる。けれど今を逃せば、二度とこの唇に触れることもないかもしれない。
迷って、随分長い間見つめ合っていた。ただじっと見つめてくる雄高の静かな目が、迷っているのは和秋だけではないと教えている気がする。
それとも、待っているのか。
自分がその境界線を踏み出すのを、待っているのか。
携帯がエンドレスに奏でていたメロディが、唐突にプツリと切れる。痺れを切らして相手が切ったのか、それとも留守番電話に切り替わったのか。そのどちらとも判断できず、そのどちらでも、どうでもよかった。
なのに和秋は、腕を解いた。
温もりを自ら手放し、身体を離すと雄高を抱き締める前の姿勢で隣に腰を落ち着かせる。
気を抜けば、ずるずると身体中から力が出て行ってしまいそうで、雄高の肩に凭れかかってしまいそうで。
「……俺、恭一さんみたいになれへんかなあ……」
迷っている時間が長すぎた。
逡巡しているうちはだめだと、メロディが途切れる直前に思ってしまった。
「おまえと恭一は違う」
「……うん、そやな」
即答した雄高の声に、和秋は少し悲しい気持ちで笑った。
――恋じゃなきゃ、だめなのか。
「俺、欲張りやねん」
問いかけるように口にした。
無理だと駄目出しされてしまった今、自分は何を目指せばいいのか。
――どのポジションに自分を置いてくれるのか、それが、恋以外でなければならないのに。
「俺を一番にしてくれへん人の恋人になんか、なりたないわ……」
キスを拒まなかったあのときに、何もかもを悟っているはずなのに、雄高は何も答えなかった。
「……えらい長いことなってたなあ。電話誰やろ」
沈黙を振り切り、少し前まで漂っていた甘いような空気もまるでなかったことにしてしまおうと、和秋は無理矢理声のトーンを上げた。携帯を引っ張り出し、着信履歴をチェックする。その間やはり雄高は何も口にしようとはせず、ただ時間を持て余しているかのように煙草の箱を引き寄せた。しかし僅かばかりの驚愕を含んだ和秋の呟きには、怪訝そうに反応を返す。
「――おかんや」
「母親? 大阪のか」
「うん。……なんでやろ、電話なんかこの一年かけてきたことあらへんのに……」
ほぼ絶縁状態で、大学に進学してからというもの母親は勿論恵史の声も聞いていない。自分勝手な息子に愛想を尽かしてしまったのは当然で、連絡がないのも仕方のないことだと思っていたのに、今さら何の用事だろう。
「かけ直せ」
時間を隔てた連絡が、あんなにも長いこと和秋を呼び出していた。何があったかは知らないが、些細な事情ではこの携帯を鳴らさないはずだ。――どうしてだろう、胸騒ぎがする。
「ん、……待って、留守電入っとる」
液晶に点滅しているマークを確認して、和秋は携帯を耳に押し当てた。お決まりのメッセージの後、懐かしい母親の声が耳を打つ。
懐かしいと、思う暇もなかった。
――いつでもええから時間取れたら帰り。
ぶっきらぼうで、短い言葉。それはいつも通りだ。他人には要らないくらい余計に口を利くくせに、息子相手の愛想を振り撒く必要はないと思っているのか、母親は和秋に対していつもこんな調子だった。
――恵史さんが昼間倒れてん。今、入院してはる。
いつも通りの母の声が告げる。
恐いくらいに、いつも通りの声が。