「痛そうですね。よく我慢できたなあこんなの。口ん中いっぱい切ってんじゃないっすか」
痛そう痛そうと繰り返されれば、そういえば痛いかもしれない、と思ってしまうのが人間で、一度そう思ってしまえば痛みは増していく一方だった。さすがに体育会系の拳は生半可ではない。
口を開きかけ、頬の内側に沁みた鋭い痛みに顔を顰めた和秋を、少年は押し留めて笑う。
「無理に喋んなくていいですよ、痛いっしょ。言いたいことがあったら紙に書くとかで」
冗談のように笑いながら告げた少年は、仕上げとばかりに和秋の唇の端に瘍創膏を張り付けた。手際はいい。口を動かす毎にじくじくと疼く痛みを無視して、和秋は口を開いた。
「おおきに。こんなんしてもらわんでもええのに」
鏡を見せられたとき、こんなにもはっきりと痕がついてしまっていたのかと仰天した頬は、ぴったりとガーゼで覆われている。さすがに咥内のケアはできないにしても、表から見える部分は、目の前の少年の手によって次々と手当てを施された。
「だって梶原さんから言われたからね。言われた通りにしないとあとで何言われるか判んねーし。なんか飲みます? って、痛いか」
何はともあれまずは手当てだと雄高のマンションに引っ張り込まれ、先日訪れたときもう二度と来ることはないと思っていた部屋に足を踏み入れた和秋を、この少年が出迎えた。確か、ゆうせい、そう呼ばれていた気がする。
彼に傷の手当てを命じた当の本人は、和秋を部屋に放り込むと同時に再び部屋を出て行ってしまっている。
この少年が誰なのか、雄高とどんな関係なのか、そして何故この部屋にいるのか。一切の説明を与えられないまま、あっと言う間に傷は見事に覆い隠され、更に飲み物だの何だのと客人扱いをされている。この状況は、どうにも馴染み難い。
「平気。いちいち痛がってたら何にも飲めへんし」
しかし、雄高に言いつけられたから、という理由からだけではない親切さで、少年は世話を焼いてくれている。それがぼんやりと伝わって、和秋は首を振った。
「そりゃそうだ。――熱いモンは止めといた方がいいですよね、えーと……」
「水でええよ水で」
「そんなわけにもいかないでしょ。なんか適当にジュースでいいっすか、炭酸以外がいいのかな沁みるのかな……」
最後の方は殆ど独り言状態で呟くと、彼は首を傾げながらキッチンへと去って行く。その背中を眺めて、ああ、と気付く。彼は、多分この間擦れ違ったあの少年と同一人物だ。あの日擦れ違い、またこの時間この部屋にいるということは、かなり頻繁に雄高のところへ入り浸っているのだろう。まるであのころの自分のようだ、本当にそのままだ――そんなことを思いついた自分に、和秋は苦さを殺した。
気分がそれなりに落ちついてきて、詰まらないことを考える余裕が出来たらしい。
それが何だというのだろう。あの頃の自分と同じポジションの誰かが、今雄高の側にいる。それを気にする理由など欠片もないはずだ。望んで焦がれたポジションを手に入れた今、何を気にすることがあるだろう。
――手に入れた。やさしい位置を。例えばあの幼馴染みのように、その弟のように。躊躇いなく彼に縋れる位置を、手に入れた。
恋人なら。恋人でないのなら。
雄高と別れてから、その違いを考えていた。
――恋人でさえ、なかったら。
言葉にしてしまえばひどく単純で醜い感情など、この胸には生まれなかった。
「どうぞ」
目の前に差し出されたグラスに思考を中断され、和秋は顔を上げる。
「……おおきに」
礼を言って頭を下げると、少年は屈託なく笑って「いいえ。」と首を振った。
自分の分のグラスを片手に、少年は和秋の向かいに腰を降ろす。グラスの中で揺れるのはミックスジュースのようだ。酸味と甘味が溶け合った香りが鼻腔を擽る。――沁みるかもしれない。覚悟して、和秋はそっとグラスに口を近付ける。
果汁は遠慮なく傷口に沁み入った。
「あ、やっぱ沁みました? でも他に飲めそうなもんなかったんスよ、すいません」
思わず顔を顰めてしまった和秋を見て、少年が慌てたようにグラスをテーブルに置く。
「や、平気。すまん、気ィ遣わせて」
「梶原さん飲み物ロクなもん置いてないんですよ、それこそ水くらいしかなくて、他全部アルコールばっかだから」
責任を雄高に転嫁した少年らしい狡さに少しだけ笑って、沁みた傷口の痛みが胸の奥底にも感染したような疼きに気付く。これは、何だろう。
「酒だけで冷蔵庫殆ど埋まってるんですよ。毎日毎日酒ばっか飲んで身体壊しちまうっての」
この痛みは何だろう。
――そんなこと、知っている。
雄高のことなら、それくらい知っている。そう叫びたい衝動が、僅かに沸きあがる。
「あ、それで、梶原さんですけど、あと三十分くらいで帰ってくると思います。今日打ち合わせ入ってて。でもそんなに時間かかんないって言ってたから、多分もうちょっと」
他愛もなく雄高の不在の理由を告げて、少年は一度テーブルに戻したグラスを再び手に取った。
彼は一体何者だろうと思えば、まるで不快感に似た認めたくない感情が存在しているような気がして、口に残る果汁に酸味が増した気がした。雄高のスケジュールを知り、和秋を客人扱いしてみせるこの少年は――雄高とどんな関係にある人間なのだろう。どうでもいい、関係がない、そう思っても、頭はさっきからそればかりを考えてしまっている。
「……君は?」
馬鹿みたいな堂々巡りに捕らわれてしまう前に、和秋は口を開く。見ず知らずの他人である和秋の問いを受けて、少年は素直に自分を指差した。
「俺? ――ああそっか、まだ名乗ってないっすね俺。北沢祐正です」
「――北沢?」
どこかで聞いたことがある名前だ。首を傾げたのは一瞬で、引っ掛かった記憶はすぐに解ける。しかし、まさかと否定しかけた和秋の呟きを掴まえ、祐正は顔を上げた。
「知ってます? 俺のじーさん」
かち合った祐正の目は、期待のようなものを含んで輝いている。強い視線の力に思わず身動ぎして、和秋は鸚鵡返しに尋ねた。
「……じーさん?」
「そう、じーさん。北沢常保、俺のじーさんなんです、父方の。――じーさんのこと、知ってるんじゃないんですか?」
和秋から返った反応の鈍さに、期待が叶えられないと悟ったのか、祐正はしょげたように肩を落とした。
「――いや、知ってるけど、知ってるいうんも微妙やけど……」
北沢と聞いた瞬間思いついたのは正に北沢常保その人で、しかしその北沢が目の前の少年の祖父だと言われてもピンと来ない。ぼんやりとしか記憶に残らないその人は、考えてみれば孫がいてもおかしくはない年齢なのだろう。
「会ったことあんの?」
「一回だけな。もう何年も前やけど」
「……そっか、じゃあじーちゃんの知り合いってわけじゃねーんだ?」
残念ながら、和秋とて北沢常保自身を良く知っているわけではない。面識があるとは言えそれはただの一度きりで、それ以外のことは雄高の口から語られた情報でしか彼のことを知らないのだ。
何故かしょんぼりと肩を落としてしまった祐正に首を傾げながらも、和秋は問いを重ねる。
「なら、あの人と知り合いなんも、そのじーさん繋がりなん?」
「繋がりっていえば繋がりなんですけど厳密に言えばちょっと違う。かも。俺あの人の弟子なんです」
「……弟子? 誰の?」
「だから梶原さんの」
押し掛け同然ですけど、と小さく付け加えた祐正の顔を思わずじっくりと凝視して、和秋は言葉を失った。
「あの人いつからそんなこと始めたんや……」
似合わない。病的な世話焼きとはいえ、他人の、しかもこんな少年を手取り足取りで教育するような性格ではなかったはずだ。
「あ、だからその辺は押し掛けで。梶原さん超いやがってたけど、俺も最近あの人の弟子って何だかなって感じだし」
想像してた人と違った、と、拗ねた子どもの口調で言われてしまえば、和秋は思わず噴き出してしまうしかない。
「あんな性格であんな写真撮るなんか詐欺じゃないスか。もっと普通にやさしい人かと思ってたんですよ。……それで、あの人はじーさんの弟子でしょ?」
「……世間的にはそうなってるって聞いてるけどなあ」
確か雄高に聞いた話によれば、本人たちは弟子入りした覚えも弟子に取った覚えもないという、摩訶不思議な師弟関係にあるらしい。
「俺もそう聞いた。実際は弟子でも何でもないみたいだけど、でもじーさんのこと、ちょっとは知ってるってことでしょ。だから梶原さんに会ってみたくて、ちょっと強引に接近してみたんですよ」
話を聞けば聞いていくうちに、謎ばかりが深まる。何故そこまで祖父のことを気にしているのか、そこまでして雄高と交流を持ちたがっていたのか。
和秋の疑問を読んだように、祐正は笑って、
「俺じーさんと会ったことないんですよ、生まれてから一度も」
あっさりと、いとも簡単に言い切った。
「――一回も?」
「そう一回も。お互い生きてんのにそんなのおかしいスよね。おかしいんだよ。でも、親父が会わせてくれなくて」
祐正はグラスにちまちまと口をつけながら、ジュースに混じる酸味に時折顔を顰めつつも続けた。
「昔から親父とじーさん仲悪かったらしくて。俺はそのころ生まれてなかったから詳しいことは知らないけど、じーさん写真撮るのに世界中駆け回ってて、親父とか、ばーちゃんとかに迷惑かけてたみたい。元々親父とは反りが合わなかったらしいんですけどね。輪をかけて仲悪くなっちゃって」
初めて聞く話だ。
雄高からは勿論こんな北沢の話など聞かされたことはない。
「ばーさんは恨んでなかったみたいだけど、もう何十年も前に死んじゃった。そんで、何年か前にじーさん身体壊して倒れちゃったんですよ。そのときに色々あって、」
祐正はそのとき初めて苦々しく顔を顰めてみせた。大人びた表情をする子だと感心した和秋を余所に、「金が絡むと恐いね、」と祐正は独りごちる。
「じーさん下手に稼いでるから、財産とか印税とかの問題で揉めちゃったんですよ、親戚一同で。本人まだ生きてんのにね。そっからじーさん人間嫌い」
祐正の言葉は最もで、生きているうちに財産分与だの何だのと揉められては、当の北沢本人は面白い気分ではなかっただろう。
「子どもながら金の力は恐いって思いましたよ俺は。――そんとき叔父さんの会社が傾いてたり、親父も仕事がうまく行ってなかったりとか、理由はあるんスけどね。でも実の親父の前で、その実の親父が死んだ後の話してんだよ。厭ですよねそんなの」
人間不審になるのも判ると、祐正はどこか冷めた目で言い切った。仕方がないと口にしながらも、大人に対しての嫌味が篭もった口調に、和秋は苦笑を殺す。大人に対して潔癖なのも、この年頃の特徴だろう。――そして、唐突に気付いた。
「もしかして北沢さんが沖縄に行ったのってそれが理由?」
「当たり。なんだ、知ってんじゃん」
確か北沢は現在、人口がひどく少ない島で静かに暮らしていると聞いた。そう、まるで人を避けるかのように。本島からもかなり距離のあるその島に行きつくには、交通手段は船しかない。不便なところに篭もりやがってと、憎々しげに、しかし懐かしそうに雄高が言っていたことを思い出した。
「親父は会わせてくれないし、じーさんのこと何も話してくれないから今どこにいるのかも判らなかったけど、梶原さんなら知ってんじゃないかと思って」
「そんなにじーさんに会いたかったんか?」
「そりゃね。俺じーさんの写真好きだから」
少年らしい顔付きで笑顔を見せた祐正は、
「じーさんの写真見たことある?」
と和秋に向かって首を傾げた。
「あるで。そんなにいっぱいは見てへんけど、雄高さんが持ってる分は見せてもろた」
「じゃあいっぱい見てんじゃないスか。梶原さんはマニアでしょ。――じーさんの写真、すげえだろ。俺はじめて見たとき感動したよ。人間ってこんな色んな顔持ってるんだって思って、でも良く考えたら人間の表情って一瞬で変わっちゃうモンでしょ。で、二度とおんなじ表情は出来ないかもしれないんですよ、なのにじーさんはその変わってく一瞬の中で、一番いい顔選んで写真が撮れる人なんだよ」
マニアとはひどい言い方だ、などと思っているうちに、祐正は一気にそう捲くし立てた。目は輝き、語気に熱が篭もっている。
「全部違うんだよ、おんなじ感情でも嬉しい顔も悲しい顔も全部表情が違うんだって気付いて、人間って面白いなあって。俺もそういう写真撮ってみたくなっ、て――」
よっぽど北沢の写真が好きなのだろうと、勢いに圧倒されながらも聞き役に徹していた和秋に対し、祐正ははっと我に返ったように言葉を切ると、慌てて口を押さえた。
「――すいません俺ひとりで喋り捲ってて、しかも怪我人相手に」
「え、別にええよ、おもろいし」
別に謝ってもらう必要はないと首を振っても、冷静さを取り戻したらしい祐正は困ったような表情を見せる。
「俺よくこうなるんです、じーさんの写真の話してると好きすぎて誰彼構わず喋り捲っちゃって呆れられる。梶原さん相手だと話通じるんですけど」
「……ああ、マニアやから?」
北沢常保マニア同士なら話が弾んで当然だろう。想像するとおかしくなって、和秋は笑った。
「マニアだから。――そうじゃなくて、そういう理由なんです、俺がじーさんにどうしても会いたかったのは」
先程の熱っぽさとは打って変わって、祐正は自分の振る舞いを恥じ入るように大人しくなり、話を締め括った。別に恥じることでもない。
「夢中になって、自分忘れるほど好きなもんがあるのはええことやろ、俺なんかに謝ることもないし」
「いや、でも他人の迷惑を考えろって梶原さんに言われたんで」
すみませんと再び頭を下げる祐正の姿に、和秋は思わず声を立てて笑った。何はどうあれ、雄高の言い付けは守ろうとしているらしい。面白い、そして素直な子だ。とは言え自分とはそう歳は離れていないのだろう。恐らくは二つ三つほどの歳の差だ。その僅かなだけ年下の人間を捕まえて「素直な子」も何もあったものではない。
「あ、そういえば俺今日ちょっと驚いたんですよね。梶原さんのお客さんって大抵神城さんくらいの歳だからこんなに若いお客さんが来るとは思ってなくて。って言ってもまだ二、三ヵ月の付き合いなんですけど」
思ったより雄高と祐正の付き合いは短いらしい。もっと長い付き合いなのだとばかり思っていた。内心驚きを隠せなかった和秋の顔に、ふと祐正の視線が留まる。
「……何?」
穴が開くほど見つめられる、とはこのことだろう。無遠慮な視線で眺めてくる祐正に、多少の居心地の悪さを感じて、和秋は思わず腰を引く。
「いや、どっかで見たことある顔だなって思って」
呟きながらも祐正の視線は和秋から離れない。それならこの間、雄高の部屋の前で擦れ違ったときではないか。そう言いかけた和秋を、祐正の盛大な叫びが遮った。
「――判ったッ、岸田和秋!」
鼓膜を右から左へ突き抜けるような大声に思わず身を竦ませながらも、祐正がたった今呼んだ名前に和秋は目を見張った。それは正しく自分の名前で、しかし現在その名前は正確ではない。
「あんた岸田和秋だろ、陸上選手の」
「……そう、やけど。なんで知ってんの……」
ここで姓が変わった経緯を説明するのは面倒臭く、祐正が自分の名前を知っていることに対する驚愕で口が上手く回る気もしなかった。渋々頷いた和秋に、祐正は満面笑顔で満足げに頷いてみせると、「ちょっと待ってて、」と言い置いて、寝室へと消えて行く。寝室の奥で更に扉が開く音が続き、そう言えば寝室の向こうには小さな書斎があったことを思い出した。書斎が書斎として使われることはなく、和秋がこの部屋に出入りしていた頃は専ら物置部屋と化していたはずだが、今もそうなのだろうか。
つらつらとそんなことを考えていると、数冊のファイルを抱えた祐正が戻ってくる。そんなには厚くないそれを和秋の真横にドサリと置くと、祐正はファイルを開き始めた。
「これじゃないっすか、岸田和秋。――大阪の宝城中学、八月二十一日の日本中学校陸上競技選手権大会、100Mで大会記録更新。期待のジュニア」
開いたファイルからは無数のスクラップが落ちて来る。その一枚を拾うと、祐正はそれを読み上げた。
「――これ、」
「梶原さんが陸上に興味あるってなんか似合わねーでしょ。だから覚えてたんだよね、なんでこんなにスクラップしてあるんだろうって。神城さんとかに探してもらったのもあるみたいなんですけど」
確かに、何度か新聞や陸上専門誌に掲載されたことがあった。
大々的に取り上げられたこともあれば、小さく名前が載った程度のものもある。大会で記録を更新したときは、それこそ見ている方が恥かしくなるほど大袈裟に褒めちぎられた記事もあって、和秋自身は気恥ずかしさからそれらを一つも手元に残していない。もしかしたら母親や恵史辺りなら保存しているかもしれないが、どちらにしても自分にとっては無意味な過去だ。
「……なんで……」
「なんでって、好きなんでしょ」
ファイルから吐き出されたスクラップには、中学時代のものもあれば、高校時代のものもある。どうしてこんなものをと思考が停止した瞬間、祐正が口にした言葉が、動かない頭にリフレインした。
「……好き?」
「だってこれ殆ど岸田さん関係の記事ですよ。よっぽど好きじゃないとこんなことしないでしょ。さすがにこれ見つけたときはストーカー一歩手前じゃねーのかと思って俺も慌てたけど、記事読んでると岸田さんすごいひとみたいだし、それならしょうがないのかな」
こんなふうに、切り取られた和秋の過去を集めることに、何の意味があるのか。
見れば、和秋が専門にしていた短距離に関する記事なども別に収められている。しかしそれらは全て、素人が読んでも何の面白味もないはずのものだ。例えば過去の大会記録、選手データ、それらを比較した検証など、雄高が読んで面白がるとは思えない。
そんな専門誌の切り抜きを、どうして雄高が所有しているのか。
岸田和秋と印字された記事を中心にして。
寄せ集めて、いとおしむように。
――和秋が、雄高の撮った写真を残らず収集していたように。
「岸田さんにも、夢中になれて、我を忘れるくらい好きなものあるんでしょ?」
呆然とスクラップを見つめることしかできなかった和秋に、祐正が記事のある文字を指差して首を傾げた。
「……うん」
――陸上。
大きく書かれた文字を見つめて、和秋は頷く。
走ることが好きだった。我を忘れて夢中になった。数時間前に痛感したばかりの事実は、ほんの少しの躊躇いのあと、素直に受け入れることができた。棘を除かれたように、痛みは和らいで胸へ落ちて来る。
「だよね。人間は好きなことやってるときが一番いい顔するんだよ。……ぁ、もうちょっと見ます?」
「や、もうええ。……ありがとう」
自分に関して長々と述べられた文章は恥かしく、そして幼い自分の写真を眺め続けるのも居た堪れない。申し出に首を振ると、祐正はスクラップをファイルに片付け始めた。
――だって、あんた、
それを眺めながらも、思考は別のところに奪われている。
――一回も、陸上のことなんか言うてへんかったやんか……。
雄高が陸上に関して、何かを口にしたことなど一度もない。
和秋が走っても走らずとも、自分には関係がないとでも言うように、無関心な顔をして。もちろんそれが、和秋にとって救いだったこともある。雄高にまで走ることを要求されていれば、間違いなく自分は壊れていた。
なのに、今目にした現実は何を意味しているのか。
自分の考えを、まさかと首を振って否定しているのに、恭一の言葉が唐突に甦る。
恭一は、――雄高は和秋に陸上を選ばせたかった。それと同じ強さで、陸上を選ばせたくはなかったはずだと、そう言っていた。
――矛盾、してる。
あの切り抜きは、恐らく別れた後に集められたものなのだろう。何故、別れた後に雄高がそんなことをしていたのか。考えれば、都合のいい結論にしか結び付かない。
雄高の撮った写真に雄高自身の影を追い求めていた自分の感情と、雄高の感情が同じものなら。
――愛してた?
「うわ、やべ梶原さん帰ってきたッ……」
切り抜きを懸命にファイルに戻していた祐正が、焦ったように扉を見遣る。気付いて耳を澄ませると、玄関の扉が閉まっていく音に続き、リビングへ近付く足音が聞こえた。
祐正は慌しく全ての切り抜きを仕舞い込もうとするものの、到底間に合わない。やがてリビングの扉が開き、散らばったままのスクラップと開かれたままのファイルを目にした家主は、――盛大に眉を寄せた。
「……祐正」
「あ、もうこんな時間だし俺もう帰りますね。いちおこれは片付けとくんで」
低い声音で呼んだあと、雄高はゆっくりと視線を動かして祐正を睨み付ける。しかし祐正はあからさまに視線を合わせようとせず、ぎこちなくも手早くスクラップを片付けた。
「じゃあ岸田さんまたね、お大事に」
ファイルを床に重ねてから立ち上がり、雄高の横を通り抜けた祐正は、あとよろしくと言い残すと脱兎の勢いで部屋を出て行った。
素早いと感心するよりも早く、玄関の扉が閉まっていく音がリビングに響く。
「――手当てしてもらったのか」
「見たら判るやろ。……それよりあんた、仕事よかったんか」
「今日は軽い打ち合わせだけだから、元々時間はかからない予定だったんだ」
床に置かれたままのファイルを手に取り、雄高は小さく溜息を吐く。気まずさに身動ぎしながらも、残された沈黙を振り切るように喉から声を押し出す。
「それストーカーみたいやで」
「……そうだな」
雄高がほんの少しだけ笑った気配がして、和秋は安堵する。――本当はお互い様だなんて、言ってはやらない。
「あんた、陸上に興味あったんか」
「ない」
「……ほんなら、なんで」
「おまえが走ってたからに決まってるだろ」
何を当たり前のことを、とでも言いたげな表情で、雄高は手にしたファイルで和秋の頭を軽く叩いた。
「ッた……せやかてあんた、一回も言うたことあらへんかったやろ、俺に。陸上のことなんか、」
今、こんなものを見せつけられたら。
訊きたくなってしまうのに。
「知り合いにそこそこの選手がいたら、そのスポーツ自体に興味を持ってもおかしくないだろう。何か文句があるか」
もしもその問いかけに、イエスと答えられたら、自分はただ信じていなかっただけだと思い知ることになる。信じることができなかった臆病な自分を突き付けられてしまう。
決めたはずだ。
恋人にはならない。――なれない。
信じられないのなら、一番になれないのなら意味がない。このひとを、また傷付ける。
「……ない」
叩かれた頭を押さえながら呻くように答えた和秋を見て、雄高が小さく笑い、
「飯は」
続けて尋ねた。
「食えそうか」
「食える。……腹減った」
「待てるか?」
和秋が頷くのを確認してから、雄高はキッチンへと赴いた。そう時間はかからないと言い残して、早速冷蔵庫の中身を物色し始めた横顔を、和秋は痛みを堪えながら見つめる。
当たり前のように交わされる会話、望んだ痛みのない関係。
ならばこれは、何の痛みだろう。
訊きたいことがあった。
――愛してた?
その問い掛けに、もしも予想通りの答えが返ってきたなら、恋にならないようにやり直そう、そう決めて周り出した歯車が、どうにかなってしまう。壊れないように注意をしながら、ひとつひとつ確認して動かしている歯車が、何かをきっかけに弾かれてしまう。
そんな予感がした。
それなのに、投げかけたい言葉がひとつ、どうしようもなく胸を疼かせる。引っ掛かって、歯車を上手く機能させない何かが胸に詰まって、それが殊更に心臓を痛ませた。
――あのころ、
俺を愛してた?
「気にせんでええよ。――うん、怪我も大したことなかったし。ぜんぜん平気」
タマネギを炒める独特の香りと、ホワイトソースの柔らかい香りが混じり合って鼻腔を擽り始めた頃、和秋の携帯を鳴らしたのはカフェで別れたままになっていた奥村だった。
『……でも』
皿に乗せられ湯気を上げているパスタを横目に眺めながらも空腹を堪え、敢えて明るい調子で話しているというのに、奥村の声は浮かない。
「そら無傷言うわけにはいかへんかったけど、奥村が気にするほどのもんやないて。やから大丈夫。な」
声のトーンが低いのはいつものことで、しかし奥村の声は明らかにいつもと違っていた。どこか気落ちしているように低い声で話す彼は、きっと悲痛に顔を歪めているのだろうと予想がつく。――ただし、よく見なければ判らないくらい僅かに、いつもと変わらないような表情で。
『……すまなかった』
「やからおまえのせいやないて。――それからな、松岡にもごめんて言うといて」
このまま延々と同じ会話を続けていれば、奥村はどんどん気を滅入らせてしまうに違いない。和秋は話題を切り上げ、少しだけ声を落とした。
「俺な、陸上嫌いとちゃうで。やから、松岡に、ごめんて言うといて」
『――伝えておく』
ほんの少しの沈黙の後、幾分か声を和らげて奥村は頷いた。
『……松岡は、君を嫌いじゃない』
「……うん、判ってる」
奥村から改めて言われずとも、薄々は気付いていた。憎まれてはいない。嫌われてもいない。だからこそ、松岡はあれほどに憤ったのだろうということ。
「あいつと俺はおんなじやから」
チームメイトだった期間は短く、また仲間だという意識を持ったこともなかったけれど、志すものは確かに同じだった。同志だった。
「俺も松岡、嫌いやない。悔しかったときはあったけど、嫌いやないよ」
もう少し何かが違っていれば彼との関係も変わっていただろうかと、和秋は穏やかな気持ちで思う。この頬を殴り付けられて尚、嫌いにはなれない。なれるはずがない。
「陸上も、あいつのことも、……嫌いやない」
もう少し自分が心を開けていれば、頼る、縋る、信頼するということを知っていれば。笑い合えていた時期もあったのかもしれない。そう考えれば、過ぎた時間を惜しいと思う。――容易く取り戻せるものではないけれど。
『僕も松岡も、待っている』
ひどく穏やかな声で、呟くように奥村が告げた。その声は、とてつもなくやさしい響きで耳に馴染む。
『君を待っている』
与えられた言葉を咀嚼して、和秋はゆっくりと頷いた。
「……おおきに」
やさしさを、やさしさとして受け入れられるようになるまで、随分時間がかかってしまった。いつ、と、確実な将来は約束出来ない。それでも走りたい。燻り続ける衝動を認めてしまった今、奥村の言葉は、ひどくやさしく心に沁みた。
また今度とお決まりの挨拶を交わして、そっと通話を切る。まだ頬は痛んでいたけれど、その痛みが少しだけ軽くなった気がした。
――謝れるかな。
いつか。
自分を心配してくれた、あの強い心を持つ同志に、素直に頭を下げれる日が来るだろうか。――くればいいのにと和秋は思う。そう遠くはない将来に、必ず。必ず、自分から彼に歩み寄れるようになればいい。馴れ合うことのなかった冷たい時代を忘れて、今度こそ違う関係を築くことができれば、それはどんなに嬉しいことだろう。
「嘘も方便だな」
通話を切った頃合を見計らって、雄高が声を投げてくる。雄高は既に食事の準備が整ったテーブルに肘を着き、待ちくたびれたとでもいうように軽い溜め息を吐いた。
「嘘も方便って、何のことやねん」
「それが大したことのない怪我なら、どの程度からが「大した怪我」になるんだ」
待ちくたびれるくらいなら先に食べていても構わなかったのに、しっかり和秋の電話が終わるまで待っているのが雄高らしい。空腹だったのは和秋も同じで、料理が出来上がったと同時に鳴った携帯には舌打ちしたかったものの、いざ出てしまえば容易く通話を切ってしまえる相手ではなかったのだ。
「……大した怪我っていうのは、あれやろ。命に関わるもんとか、入院せなあかんもんとか――」
「顔っていう一番目立つ場所を殴られても「大したことがない」?」
「女やないんやから……」
確かに顔に残った痕は、暫くは目立つだろう。しかしさっき述べたように、命に関わるような怪我でもなければ、入院を必要とする怪我でもない。ガキの喧嘩で負った傷が、それほど重大な怪我に繋がるはずがないのだ。
「手加減なしで殴られたんだろう。打ち所が悪けりゃ死んでたぞ、おまえ」
殴られた経由は予め恭一から聞いていたのか、雄高は和秋に理由を尋ねはせず、苦々しく呟きながら既に冷めてしまったパスタをフォークで巻き上げる。
「死なへんやろ、そんな簡単に」
「人間の力を軽く見るな。二回殴られてたら、どこかがおかしくなっていたかもしれないだろ」
そんな大袈裟な、と顔を顰めながら、和秋も椅子を引いて席に着く。このテーブルで食事を摂るのも一年ぶりかとしみじみしかけて、唐突に気付いた。雄高がしつこくこの怪我に対して口を挟んでくるのは、もしかして。
「あんた、怒ってるんか?」
「――……」
だんまりを通してフォークを口に運ぶ雄高の顔は、どこか不満げな表情をしている気がした。都合が悪くなったり図星を指されたりすると黙り込んでしまうのはこの人のくせで、まさか和秋があっさりと松岡を許していることが、不満だとでも言うのだろうか。
「……相変わらず判りづらいなあ……」
憤るくらい心配されていることも、うっかり気を抜けば見過ごしてしまう。この人は、そういう感情の表し方をする。――見逃したくないと、和秋は思う。どんな感情の変化も、動きも、見逃したくない。
「さっさと食え。――おまえのせいで冷めた」
「俺のせいかい。先に食ってたらよかったやんか、わざわざ待たへんでも」
恋人という関係ではなく、しかし友人と呼ぶには深すぎる、この関係につける名前がなくとも、ただ相手にとってやさしい存在でありたいと思うのは、自分だけではないはずだ。恋心というフィルターを無理矢理取り除いた今、昔よりは遥かに雄高の感情が判る気がした。
相手を思うことが当然すぎる関係になりたいと和秋が望んだ。不安も嫉妬も感じずに、ただ想っていたいと、望んだ。
「――さっきのは、友達か」
「うん、高校んときの。殴られたとき一緒におったから、心配して電話くれてん。気にすることないっていうてんのに何回も謝るから困った」
笑いながら告げると、雄高もほんの少しだけ表情を和らげて笑みを返した。
「良い友達だな」
「……うん。ええやつや、ほんまに」
「大事にしろ」
「……あんたが言うか」
笑ってしまう。「良い友達」であるはずの恭一を、日頃馬鹿だの阿呆だの罵っている雄高が言える台詞ではない。
「そいつ奥村言うねんけど、――俺んこと、待ってるんやって」
「待ってる?」
「うん。俺が走るの、待ってくれてるんやって。松岡と一緒に」
「松岡っていうのは――、ああ、おまえを殴ったやつか」
「そう、大阪んときチームメイトやった。あいつ、俺より早く走れてんで」
それから尋ねられるままに、和秋はぽつぽつとカフェで起こった出来事を語った。松岡という過去のチームメイトが走れなくなってしまったこと、どうして走らないのかと尋ねられたこと、――陸上が嫌いだと正面から吐き捨てて、松岡を怒らせてしまったこと。
「……やから、ほんまに松岡が悪いわけやなくて、俺が悪かってん。俺もたぶん、誰かに陸上のこと嫌いや言われたら、むかつくと思う」
その間雄高は相槌だけを静かに返し、思っていた以上に言葉は途切れず口を突いて出る。雄高が聞き上手なのか、それとも自分でも気付かないうちに誰かに心情を吐露してしまいたいフラストレーションが溜まっていたのかは判らなかった。
「……俺、ずっと陸上好きやったんやなあ……」
皿に乗った麺をフォークで突付きながら、ぽつりと独りごちると、雄高が笑った気配がした。
「知らなかったのか?」
「……忘れてただけや」
和秋がずっと走りたがっていたことなどお見通しだと言うような科白に、思わず雄高を軽く睨みつける。
「思い出せておめでとう。――それで、これからどうするつもりなんだ」
和秋の視線など物ともせず、マイペースに皿を空にしていきながら、雄高は尋ねた。これから先、と尋ねられ、ほんの一瞬言葉を失う。
「……まだ、考えてへん」
走りたい、そう認識したのはつい先刻で、これから先のことなど考えてはいなかった。どうなるだろうと想像もできない。走りたい自分を受け入れてくれる場所はあるのか、受け入れてくれる人間はいるのか。この脚は、動くのか。
「百メートル十秒二十三……だったか。――それは速いのか」
雄高が口にした数字は、高校一年の秋に和秋が打ち出したタイムだ。大会新記録であり、和秋の自己ベストでもあるその数字を、速いのかと真っ向から尋ねられれば、取り敢えず頷いておくしかない。
「自分で速い遅い言うんもアレやけどな。速いうちに入るんちゃうの、一応大会記録やし」
自分の記憶が正しければ、未だにその記録は破られていないといつか奥村が言っていたような気がする。ならば、一応は和秋は現記録保持者ということになり、そのタイムを遅いと言い切ってしまうのは全国の陸上選手に失礼だ。
「二百メートル二十秒は、」
「……それも速いんちゃうか」
――一体何なんだ。
怪訝に感じるよりも、ひとつひとつタイムを覚えられていることに気恥かしさを感じて顔を顰めかけたとき、食事を終えた雄高が静かにフォークを置いた。
「俺の陸上に関する知識はその程度だ。どれくらいのタイムが速くてどれくらいのタイムが遅いことになるのか判らない。自分のタイムなんて学生時代以降計ってないから比べようにも覚えてないからな。百メートル九秒は速いんだろうってことはさすがに判るが」
百メートルを九秒台で走れる選手は、世界クラスでも早々いない。それはそうだろうと頷きながらも、何を言い出したのかと和秋は黙り込んで言葉の続きを待った。
「だから俺が、走ることに関しておまえにしてやれることは何もない」
「……うん」
それこそ今更判り切っていることだ。全く期待していないとは言わないが、ライフワークに写真を撮る道を選んだ雄高に、陸上の後押しをしてほしいなどと望む方が無茶な話である。完全に、畑が違う。お互いがお互いに干渉できないのは、今に始まった話ではない。
「判ってる。これは俺の問題や」
だからこそ自分が独りで這い上がらなければならないのだと思う。誰の力も借りず、誰の助けも借りずに克服しなければならない。恐怖感と弱さから真っ向対決し、それに打ち勝たなければ走ることはできない。
「これだけは、俺がどうにかせなあかんことやから。……あんたに頼るつもりはない」
自分が雄高の仕事をただ見つめることしかできないように。
所詮は、なれない。
「こればっかりはな、俺も頼れとは言えない。何も判らないんじゃ口出しも手出しも出来ない」
――支えには。なれない。
「何も出来ないが、判らないからこそ出来ることもある」
元より孤独なスポーツに、救いを求めたことがそもそもの間違いだったのだと、続いた言葉を遮るより先に雄高が口を開いた。
「見ているだけじゃ駄目なのか」
低く落とされた声は抑揚がなく、ともすれば聞き流してしまいそうなくらいにあっさりと耳を打つ。
「――俺は何もしてやれないが、普段のおまえと、走っているおまえの両方を見てやるだけじゃ、おまえの力にはなれないのか」
しかしそれは抑揚がないからこそ強く鼓膜を打ち震わせた。鼓膜を震わせたその声は、すとんと胸の深い場所に落ちて来る。――見ている。その言葉が一体何を意味しているというのか。
和秋は思わず手の動きを止め、雄高を見つめた。
「例えばこの先おまえが走り始めたとして、またスランプに陥ったときも、俺は何も言ってやれないだろう。――ただそのとき、おまえの傍にいてやるだけじゃ、駄目なのか」
思ってもいなかった言葉に、動揺したように心臓が震えた。しかしそれは、決して激しい鼓動ではない。何かがひっそりと息衝いていくような、動き出したかのような、暖かで静かな脈動。――気を抜けば溢れていくような。
「――俺じゃおまえの力になれないか」
「……んな、……」
そんなわけがない。そう言おうとした唇は、うまく動かなかった。これは口の中が痛いせいだ。殴り付けられた頬が、痛むせいだ。
「あんた、俺に、走ってほしかったんか……?」
代わりに、自分でも予想もしていない言葉が口を突いて尋ねた。本当は、そんなこと、どうでもいい。今言われた言葉の重要さに比べれば、そんな問いかけは意味がない。
「おまえが望むなら」
なのに、あっさりと雄高は答えてみせる。和秋が予想もしなかった言葉を、予想もしなかった響きで口にする。
「……おまえが走ることを望んでいるなら、走ってほしかった」
見たかった、と雄高は静かな声で続けた。
おまえが一番好きなことをしている姿を、見たかった。
そんなことを告げられて、どうして揺さぶられずにいられるだろう。
どうして奪われずにいられただろう。
心を全部、持って行かれる。これ以上はないと思うのに、また更に多くを攫われる。
「――あんた、どこまで甘いんや……」
どこまで持っていくつもりだろう。恋にはしないと言ったくせに、頷いたくせに。――縋れる人間が他にできれば、あっさり自分を捨てていいと、冷たくてやさしい言葉を寄越したくせに。
「俺の全部、背負い込むつもりか」
すっかり食欲を失って、和秋はフォークを固く握り締めた。食事も喉を通らない苦しさとはまさにこのことかもしれない。
「……まさか」
苦しい。切ない。いとおしい。そのどれにも似て、どれにも通わない。
また愛してしまう。
愛してしまいそうになる。――愛してほしいと望んでしまいそうになる。
「他人を全部背負い込めるなんて思っちゃいない。俺はあくまで代用だ」
言われた意味が判らず、そっと眉を潜めた和秋に、雄高は微笑った。
「おまえを走らせるのは、俺じゃない」
謎掛けのような言葉に、しかしそれ以上追求することも出来ず、消化不良の痛みを抱えたまま和秋は目を伏せた。
――俺じゃない。
それはこっちの科白だと思う。
――あんたが必要なのは、俺やない。
もうずっと前から蟠っていた。雄高が必要なのは自分じゃない。同時に自分以外の誰でも違わない。雄高は誰も必要としない。ただ支えを必要とする人間に、それが自分の仕事であるかのように手を差し伸べる。
それを甘んじて受け入れる。自分じゃなくても同じだと理解した上で彼に縋る。
これは、そういう関係なのだ。一方的な依存と執着。それに胸を痛ませることなく、傍にいることができる。――そういう関係なのだと、浮かんだ苦さを、和秋はそっと胸の奥底に沈めた。
翌日、まずは謝罪しなければと千種に連絡を入れたとき、彼は独特ののんびりとした口調で「気にしないでいいよー」と笑っていた。
『マスターから聞いたよー、なんか喧嘩に巻き込まれちゃったんだって? 大変だったねー』
ホームのざわめきに掻き消されないように必死で千種の声を追う。この時間帯の駅は人が多く、その分雑音も響いて、携帯の声が聞き取りにくい。向こうは自分の声が捕えられているだろうかと思いながらも、和秋は答えた。
「そんなにひどいわけやないんやけど……」
千種に連絡を入れるよりも先に、バイト先に向かった和秋をマスターは大袈裟なくらいに心配し、暫く休んでも構わないと気遣ってくれた。見かけほど痛みがひどいわけではなかったし、これでも痕は軽くなった方だと告げても、マスターは暫くバイトは無理だろうと言い切った。確かにこの顔は接客業には相応しくない。
『俺ね、あっこの店、一時ヘルプで働いてたことあるんだよー。だから急に声かかっても仕事判んないってことはないし大丈夫。っていうか和くん休みの間俺が働くことになっちゃったしねー』
「えっ、うそ!?」
『いやほんとー』
マスター俺には厳しいんだから困っちゃうよねあはは。と気楽に笑った千種へ向かって、電話越しと判っていても思わず頭を下げたくなる。
和秋が休みを取ったとしてもバイトに入ってくれる人間の心当たりがあるから、とは言っていたが、まさかそれが千種だとは思わなかった。彼は彼で現在別のバイトをしているはずで、つまり和秋がバイトに出れない間はバイトの掛け持ちということになる。
『俺が今やってるバイト、結構自由が効くって判ってるからあの人も無茶言ってるんだよ。和くんに比べれば学校も暇だしね。だから今は大人しく怪我治すことに専念しときなよ』
「……けど」
マスターと千種が親しいのも理由のひとつかもしれないが、それにしても自分の不始末の尻拭いを千種にさせているようで気分が落ち着かない。返事を渋っている和秋に、千種は笑いながら、
『ねえ大人しくしとかないと部屋の柱にでも括りつけて動けなくさせちゃうよ』
と本気なのか冗談なのか判らない声で、和秋をこくこく頷かせた。
『働けなくなっちゃうと給料少なくなるから色々苦しいかもしんないけど。食費苦しくなったらウチおいでよ』
ウチ、というのは、即ち陽子のいる梶原家のことだろう。当然のことながら、陽子とも随分と顔を合わせていない。
『仲直り終了したんでしょ? なら兄ちゃんとこに飯たかりに行くとかさ。そしたら色々凌げるよ。便利だろあの人』
千種は笑っている。笑っているが、時折辛辣なことも言える人だと理解して、和秋は曖昧に頷いた。実の弟から「便利な人」などと称されていることは、雄高は知らないだろう。
『ごめんね』
そうこうしているうちに電車が目の前に停まり、通話を切ろうとした和秋の耳に、呟くような千種の声が届いた。
『俺ちょっと強引だったね。でも、許してあげてね』
何のことだと尋ね返す前に、「じゃあね、ばいばーい」と打って変わった軽い声を投げて、千種との通話は途切れた。
「――なに?」
今更尋ねても、携帯の向こうからは通話が切れたことを知らせる無機質な電子音しか聞こえない。仕方なくボタンを押して電源を切り、発車間際の電車に飛び乗る。
この時間帯は帰宅途中の学生やサラリーマンが溢れ返っている。それでも時間をずらさず、講義を終えバイト先に向かった後、直ぐさま移動手段である電車に乗ってしまったのは、会いたいからじゃない。
――ごめんね、
ゴトゴトと電車に揺られて数駅、すぐに着く。前に住んでいたアパートからは距離があるため、あの人のマンションへ行くには、今は電車を使わなければならない。以前に比べれば格別に不便なのに、足が向かってしまうのは。
――俺ちょっと強引だったね。
千種の言葉は、恐らく雄高と自分を強引に引き合わせたことに対する謝罪なのだろう。それならば、謝ってもらう必要などない。あのときはあのときで困惑したものの、今考えてみると、あれから事態はいい方向に転がっている。
松岡にありったけの怒りをぶつけられた昨日、もしも雄高がいてくれなければ、自分はまだ不安定だったはずだ。
――許してあげてね。
では、これは何に対する言葉だろう。
許さなければならないことなど、何ひとつない。何かを許せるほどの偉さは生憎持ち合わせてなどいないのに。
千種は何に対して謝りたかったのだろう、何に対して許されたかったのだろう。そんなことをぼんやりと考えているうちに、窓から見える風景は変わっていき、目的の駅に辿り着く。はっと我に返って、和秋は慌てて電車を降りた。考え事をしていると時間が過ぎるのは早い。
この駅からは歩いて十分か二十分程度だろう。決して短くはない道のりが、苦には感じられなかった。
縋れと言った、使えと言った。ならば好きなだけ頼らせてもらう。
千種の言う通り、働かなければ金を稼げないのは道理なのだ。だからその分頼らせてもらおう。どうせあの人は自炊を好んでいるのだから、ひとり分作る量が増えたってそう大変ではないはずだ。
理由を付けて、歩いている。
――飯食わせてや。この顔でバイト行けへんねん。食費切り詰めなあかんから。
何の用事だと訊かれる前に言ってやろうと決めていた。そう言えばあの人は拒みはしないはずだと思う。
もしも雄高が仕事で忙しいのなら、自分が作ってやっても構わない。食費が浮けばいいだけの話だ。
あの人が不在なら、待っていてもいい。
そんなこと苦にはならない。この一年間に比べれば。
――理由を付けて、歩いている。
一歩一歩足を進める毎に、近付いていく感覚がした。昨日別れたばかりなのに、昨日逢ったばかりなのに、足取りはあの建物が近付く毎に早くと自分を急かす。まるでそれが殺し切れなかった恋心が露出した証拠に思えてくる。そんなはずはないと、己の感情を抑制するにも限度があった。――いつか求めてしまう。予感は確かにしていたけれど、今はそれに知らない振りをする以外の方法を見付けられない。だけど、理由がある。恋以外の理由が今はある。だから自分はあの人に逢いにいける。
自分があの部屋を訪れるための理由を、心の中で形にしながら、沈みかけた夕陽に赤く染まる街を、和秋はゆっくりと歩いた。