Loop



 再び振り上げられた松岡の拳に、和秋は身じろぐことすらしなかった。松岡の怒りが凝縮された拳を受け止めることは、自分に課せられた罰だとさえ思う。過去の未熟な自分はどれだけ彼を傷付けたか、和秋に知る術はない。しかしそれに罪悪感を感じる程度には自分は成長し、そしてまた、彼の期待にも答えられない自分が、どこかで彼に申し訳なさを感じている。今までも、そしてこれからも。――自分は松岡にはなれない。松岡の代わりに走ることはできない。
 風を切って拳が勢い良く振り落とされるのを感じて、和秋はぎゅっと奥歯を食い縛る。しかし訪れたのは痛みではなかった。
「――暴力はよくねェな」
 どれほど待っても、予想していた頬への鋭い痛みは何故か襲っては来ず、代わりに鼓膜を打ったその声に聞き覚えがあるような気がして、和秋は閉じた眼をそろそろと開く。
 開いた視線の先には、振り上げた松岡の手首を戒めるように握り締める人物が佇んでいた。
「殴ると痛ェだろ。言って聞かねェヤツは殴るしかねェってのは賛成だが、それにしちゃあ場所が悪い。皆見てんじゃねェか、」
 恥かしい。そう言って、その人は肩を竦めて笑った。
「関係あらへんッ、何やねんあんた」
「確かに関係はねェんだが。ちょっとした顔見知りだ」
 語気荒く吐き捨てた松岡の怒気をさらりとかわし、なァ?と気安く視線を寄越したその人は、しかし松岡の手首をしっかりと握り締めて離さない。
「――ぁ…」
 和秋は瞠目した。いつの間にこんなすぐ傍まで来ていたのか、どうしてこんなところにいるのか、どうして松岡の拳を引き止めてくれたのか。様々な疑問と驚愕が混ざり合ってすぐに言葉が出て来ない。
「たまには外に出てみるモンだ。面白ェのが釣れた」
 その人はからりと笑うと、徐に松岡の手首を乱暴に放り投げ、代わりに和秋の腕を引き掴んだ。
「待たんかいっ、岸田!」
「岸田じゃねェだろ。矢野だろ矢野和秋」
 声を荒げる松岡の言葉を飄々と受け流し、それが当然であるかのように彼は和秋を店から連れ出す。松岡は追って来なかった。肩越しに振り返った先、奥村が松岡の腕を掴んで、彼に何事か話し掛けている姿が見えた。引き止めてくれているのだろう。――ならば、後は奥村に任せておこうと決めて、和秋は引っ張られるままその人の背中を追った。 
 扉を抜ける瞬間、知らない声が背中に届いた。
「どこに行かれるんです! まだ打ち合わせは終わってませんよ」
 責めるというよりは悲愴な響きをしたそれに、ヤベェ、と彼は子どものように舌を打ち、後を追って来るスーツ姿の男にひらりと手を振った。つられるように和秋も後ろを振り返る。追ってくるのは、知らない男だ。
「緊急事態だ、山内さん。また後で連絡する。悪ィな」
 それだけでいとも簡単に男を振り切ったその人は、問答無用で駐車場に和秋を連れて行く。ただ手を引かれていただけだった和秋は、我に返るとひどく遠慮がちに口を開いた。
「な、なんで……」
 どうしてここにいるのだろう、いやこんなに狭い街のことだどこかで擦れ違っていても仕方ない、しかし何故今この人が自分の手を引いて――助けてくれたのだろう。
 今だ落ち着かない混乱に、疑問は上手く言葉にならなかった。この展開に頭が着いて行かない。和秋は呆けたようにその人の名を呼ぶ。
「……恭一さん」
「おう、久し振り」
 楠田恭一は、まるで時間を感じさせない少年のような顔で笑った。




「岸田ってのは、前の名前か。お袋さんが再婚する前の」
「――はい、」
「それにしても盛大に殴られたな。暫く跡が残るぞ。口ン中切ってねェか、」
 矢継ぎ早に問いを重ねられ、和秋はゆっくりと頷いた。さっき感じた僅かな血の味は、落ち付いてみれば咥内中に広がっている。舌先で確認しただけで、殴り付けられた右頬の柔らかい部分は、歯に当たって切れているようだ。
「口ン中ってのは意外と治りが遅いからな。暫くは美味い飯食えねェだろうが。――ご愁傷様」
 和秋を車に押し込んだ後、愉快そうに笑いながらエンジンをかけた恭一の横顔は、最後に見た一年と少し前から、少しも変わっていないようだった。とはいえ、以前そこまで頻繁に顔を合わせていたわけでもない。弟のほうとはまだ辛うじて付き合いがあるが、さすがにその兄とは生活環境も違えばそのリズムも違う。雄高を除いてしまえば、接点は皆無に等しい。
「おまえも避けるとか殴り返すとかしろよ。やられっぱなしじゃ悔しいだろ」
 恭一は気軽に言葉を投げた。まるで何も気にしていない様子に気を抜かれ、和秋は「はあ、」と呆けた返事を返す。
「……悔しくは、なかったかなあ。そら、痛いけど」
「そんなもんか? 俺だったら倍にして返してるところだけどな」
 あなたならそうだろうと妙に納得してしまう。乱暴者とまでは評することはできないにしても、この性格の恭一であれば、和秋と同じ立場だったとしても躊躇いなく松岡を殴り返していたはずだ。
「どう考えても理不尽だろう、あの話は」
 しかし続いて恭一が零した言葉に、和秋は息を詰めた。
「おまえの身体はおまえだけのもんだ。それを他人がとやかく口を出してプレッシャー掛けんのは理不尽だろ」
 聞いていたのか。いや、聞こえていたのだろう。怒気を込めた松岡の声は、きっと店内中に響いていたに違いない。
「俺、昔――さっきも、もっとひどいことしたし」
 理不尽だといったその言葉は、自分を気遣ってのものなのだろう。それを理解した上で、和秋は首を横に振る。
「……松岡、俺んこと心配してくれてたのに」
 殴られた方がよかった。殴られるべきだった。
 もっと強い力で殴られたって憎みはしなかった。
「足、走られへんようになって、悔しいやろに……やのに俺に憧れてたって、言うてくれて……」
 それならばまだ許せたかもしれない。痛みだけでどうにかなりそうなくらい殴り付けてくれたなら、過去の自分を許せていたかもしれない。
 ごめんとありがとう、ただそのふたつの言葉を口に出来なかった自分を、許せていたかもしれないのに。
「だからそれは、松岡ってヤツの感情だろ」
 エンジンを暖めている時間を埋めるように、煙草を取り出した恭一が、その先端を咥えながら口を開く。
「おまえに憧れてたのも、おまえに走ってもらいたいのも、そいつの勝手な感情だ。そんで、それでも走れねェってのと、それに対して申し訳ないって思うのは、おまえの勝手な感情だろ」
 ライターで点した火が、息を吸い込んだ瞬間にいっそう強さを帯びる。そこで一旦言葉を切り、肺から息を吐き出しながら恭一は呟くように続けた。
「――他人の感情全部背負って生きていける奴なんざいねェよ。詫びるのも勝手だが、どっかで踏ん切りつけねェとこの先やってけねえぞ」
 恭一の言葉に、そうだろうかと、首を傾げている自分がいた。彼は一番よく知っているはずだ。他人の感情を全部背負って、自分のものにして、生きている人間を。
「殴られりゃ許されると思ったか、」
 吐き出した紫煙と共に尋ねられ、少しの間を置いて和秋は静かに頷いた。自分が与えた問いを肯定した和秋を見て、恭一はそうか、と笑った。
「――なら、もう一発殴られてやった。充分だ」
  どこか優しく、宥めるような声に、和秋はずっと強張らせていた拳の力をそっと解いた。膝の上で固まっていたそれは、無意識のままに強く握り締めていたらしい。掌を開いて確かめれば、爪の跡が残っているかもしれない。緊張していたのかと、このとき初めて気付く。
「稀に他人の感情を全部持っていこうとして泥沼に嵌まる奴もいるが、あれはただの馬鹿だ」
 長くなる灰を灰皿に落としながら、どうでもいいことのように言って退ける。自分の考えを読まれていたようだとギクリとした和秋を余所に、恭一は独り言のように続けた。
「あいつは、持っていかなくていいもんまで持っていっちまう。――おまえは馬鹿になるなよ」
 馬鹿だなんてあまりの言い草ではあるが、そうやって茶化して告げられた言葉の中に、見え隠れする恭一の本心は何だろうと和秋は少しだけ考える。
「――この間、その馬鹿に会いました」
 恭一は「そうか、」と、おかしそうに笑った。
「喜んでたか」
 しかし継いだ恭一の言葉には頷けず、まさかと慌てて首を振る。喜ぶはずがない。あの人が、自分との再会なんかに喜ぶはずがない。恭一は必死に否定する和秋の動きを、ちらりと横目で見た。
「あいつもな、今大変な時期になってやがるんだ。雄高のくせに生意気だろう。――なのに平気な顔して、俺と由成の面倒まで見るから、また辛くなる」
 恭一は、そしてまた、自ら望んで接点を断ちたかった人でもあった。彼は、雄高に近すぎる。恭一の口から語られる雄高が、多分一番に真実に近いのだろうと思えば、胸が痛い。
「もう俺と由成に構うなって言ったら、らしくもねェ顔してやがった。馬鹿だ」
 自分は、こんなふうに雄高を理解してやることはできない。恭一にはなれない。なれなかったから、耐えられなかった。
「おまえが雄高の傍を離れたのは、俺と由成のせいなんだろ」
 恭一は咥えていた煙草を指の間に挟み、灰皿の縁に押し付けて火を消した。問い掛けではなく、断定の響きをもって告げられた言葉に、和秋は恭一の顔を思わず凝視する。
「……悪かったな」
 それは違う、あなたたちのせいじゃない。そう否定しても、見抜かれてしまうに違いない。雄高に近すぎる彼なら、きっと見抜いてしまう。
「あの日――由成の母親が倒れた日、おまえを置いて行ったのは、どう考えてもあいつが馬鹿だったからだ。あのときは有り難かったが、俺もそこまでして助けてもらいたかったわけじゃねェ。――あのことでおまえが雄高に愛想尽かしちまったんなら、俺にも責任はある」
「違っ……謝らんといて、ください……」
 それでも和秋は首を振り、恭一の言葉を跳ね除けた。
 恭一に謝られることを望んでいるわけではない。
「俺が……一番、あかんかったのに」
 なのに、すまないと頭を下げられてしまったら、傲慢で欲張りだった自分が惨めになる。
「……悪ィ。別に泣かしたかったわけじゃねェんだが」
 つい顔を俯かせると、困ったような恭一の声が降ってくる。誤解されては堪らないと慌てて顔を上げた。胸が痛いのは事実だが、そこまで涙腺は弱くない。
「俺はこういうのは得意じゃねェんだよ。――あのな、矢野」
 和秋が泣いていないことを確認した恭一は、自分の勘違いを恥じるように、そして安堵したように小さく笑みを落とした。
「おまえ、俺になりたいか」
 即座に問い掛けられた意味が理解できず、目を見開いた和秋の顔を見て、恭一はおかしそうに口の端を上げると続けた。
「あいつは呼ばなくても寄ってくるし鬱陶しいくらい構ってくるしで、俺にしてみればウザったいことこの上ねェんだけどな。俺になりたいか」
「……なんで?」
 思わず問い返してしまった和秋に、
「俺は雄高のことが少しだけ判る。これくらいな」
 恭一は親指と人差し指とで一センチほどの僅かな隙間を作って見せる。
「あいつは俺のことには煩いくらい口を出してくるんだ。どうしてか判るか」
 もうとっくに車のエンジンは暖まっている。しかし恭一は車を発進させる気配を見せず、言葉を続けた。
「俺が大人で、あいつと対等だからだ。おまえとあいつが対等じゃないってわけじゃなくてな。――俺は、雄高の言葉を半分くらいしか受け止めない。それをあいつは知ってるんだ」
 このイレギュラーな空間は、多分自分のために与えられたものなのだろう。時間と、そして言葉を、今恭一に与えられている。
「上手く言えねェな。――例えば進学するときにな、雄高にこっちに残れって言われたら、おまえ大阪に帰らなかっただろ」
 雄高に言われるまでもなく、結果として大阪には帰らなかった。しかし和秋は、間を置いて頷く。――どこにも行くな、傍にいるなと、その言葉はあのころ何よりも欲しかった。
「雄高はそれが恐かったんだろう。自分の言葉ひとつで、おまえの人生を変えちまうことが。おまえには陸上もある。大阪に帰って陸上をやり直した方が良いんじゃねェかって思ってたんだ」
 本人から聞いたわけじゃないが、多分そんなとこだろう――恭一は最後にそう呟いた。
「……やってあのひと、陸上のことなんか一回も言うたことあらへんのに」
「無駄なことしか言わねェのがあいつの特徴だろ?」
「……」
 大真面目な表情で言われてしまえば、和秋もまた真面目な顔をして頷くしかない。付き合いが長いだけあって言い得て妙だ。
「だから馬鹿なんだ。何でもかんでもひとりで抱え込んで決めちまう。――人の選択に口を挟めるほど、偉くはないんだとよ。どの口が言うんだか」
 もう随分前、二人で軽く呑んでいた際に雄高がそう言っていたと恭一は付け加えて告げる。
 ――相手によって善くも悪くも人生が変わってくる。あいつらは俺たちが思う以上に多感な時期だ。そうは見えないガキでもな。
 そのとき雄高は、恭一にそう忠告を加えたらしい。そしてこれは自分の問題でもあると。
「あいつの言いたいことは判るんだ。――俺も恐かった。俺がやることなすことで由成の人生を変えるのかと思うと、恐かった。あのころのおまえらは、そういう時期を生きてたんだ」
 ならば下手に口を挟めるはずがない。どんな判断を下そうとも、それが自身で決めたことなら、ただ見守っていよう。
 それが恭一と雄高に共通する決断だった。
「だからあいつは嬉しかったはずだ。おまえが大阪に帰ってないって判って、――多分、嬉しかったはずなんだ」
 そんなはずはない。
 そんなはずがないと、恭一の言葉を否定する思考の中に、信じたがっている自分がいた。
 全て恭一の予想であり、真実ではない。彼自身が言ったように、雄高の口から語られたことではないのだ。
「もしも俺がおまえと同じ立場だったら、あいつは俺の背中蹴ってでも陸上やらせてただろうよ。それをおまえに出来なかったのは、あいつが矛盾してるからだ」
 しかし自分はたった今、思ったはずだ。
 恭一の口から語られる雄高が、一番真実に近いはずだと。
「矛盾……」
「矛盾だよ。おまえが陸上始めたら、自分の傍から離れてくのは目に見えて判ってる。あいつは陸上のことなんて判りゃしねェからな。だがおまえが陸上をやろうとしないのも厭なんだろ。だからなんにも言えねェんだ」
 馬鹿だろう。そう言って遠慮なく笑ってから、恭一は漸くハンドルを握り締めた。
「けど、恭一さん、」
「お前は、馬鹿になるなよ」
 俄かには信じ難い話でも、恭一から語られた雄高の心情なら、どれほど信じてられるだろう。――信じてもいいのだろうか。
 何かを問いたかった唇は、恭一の笑みに遮られた。
 もうお終いだと告げている。もう雄高の話は終いだと。――あの日のフォローをしてやるのは終いだとばかりに、恭一はゆっくりとアクセルを踏み込み、車を発進させた。
「――さて、どこまで送ろうか?」

 でも恭一さん。
 俺は、あんたが羨ましかった。
 あの人の近くにいる、あんたのことが、いつもいつも羨ましかった。
 決して言葉にしない想いを、心の深い深い場所に、そっと隠した。



 恭一に大学のすぐ側まで送ってもらってから、和秋は鈍い足取りで学内のグラウンドへと向かっていた。自宅まで送ろうかと尋ねられ、大学で降ろしてほしいと頼むと恭一は怪訝な顔をしたが、それもそのはずで、この時間なら今から顔を出せる講義はない。今学内に残っているのはサークル関係で残っている学生か、一日の最後の講義真っ只中の学生くらいだろう。
 陽は落ちかけ、既に辺りを赤く夕焼けが照らし出している。眩しい、痛い、なのにやさしい夕陽は、最後に見た恭一の顔を思い出させた。
 ――最近会うてないけど、由成くん元気にしてはりますか。
 車を降りる間際、思い出したように尋ねた和秋に、恭一はひどく柔らかい表情で「さあな。」と首を傾げた。
 ――あいつはこの間実家に帰っちまったから、知らねェんだ。大学で見かけたら、元気でやるように伝えといてくれ。
 その言葉の意味を、和秋は知らない。実家に帰ったとは、一体どういうことだろうと思考を奪われているうちに、恭一は頬を指して「ちゃんと冷やしとけよ」と一言残し、去っていった。
 殴られた後はそこまでひどいのだろうか。こればかりは鏡を見なければ判らない。
 ゆっくりと歩きながら時間を潰しているうちに、空は闇と太陽が溶け合い始めていた。もう数分で完全に陽が落ちてしまう。だからか、和秋が漸く目的のグラウンドに辿り着いたとき、各々活動に勤しんでいたサークルの面々はその場所から引き上げ始めていた。
「あれ、矢野? ってうわ、何その顔。どーしたの」
 途中、ジャージを着た学生に声を掛けられて、和秋は足を止める。見れば、同じ学部同じ学年の見知った学生だった。
「ん、ちょっと。こけた」
「こけてそんな顔になんの? あとで保健室にでも行っとけよ」
 顔を見るなり目を丸められ、やはり相当に酷いのかと和秋は苦笑を殺した。
「なんでこんな時間にいるんだよ、珍しいな」
「――そういやおまえ陸上部やったっけ」
 うん、と頷いて見せたその学生とは、ニ、三度呑んだことがある程度で、それほど親密な交流があるわけでもない。ただノートの貸し借りをするくらいには付き合いがあった。
「やりたくなったらいつでも言えよ、途中入部も歓迎だから」
 何かの折に、昔陸上をやっていたことを伝えたことがあった。
 大学に入って初めて陸上を始めたという彼は、勿論中高時代の和秋のことなど知らず、こうやって何度か気軽に誘ってくれている。有り難いと思う。何の拘りもなく、何も知らずに、ただ好意だけでそう言ってくれる人がいるのは。
「……おおきに」
「昔やってたスポーツって時々無性にやりたくならない? 俺今でも柔道やりたくなるもん」
「そんなちまいのに柔道やっててんなあ。びっくりや」
「ちまくて悪かったなッ」
 彼は憤慨する振りを見せてふざけてから、じゃあな、と手を振って背中を見せた。またノート宜しくと返してから、和秋はゆっくりと足を踏み出した。
 片付けも済み、グラウンドにはもう誰ひとりとして残っていない。ついさっきまではしゃぐように、また真摯な顔付きをして駆けていた人間がいたことなど想像も付かない静かさで、広すぎるその場所は和秋を迎え入れた。
(――100M、十秒二十三……それから、200M、二十秒二十五……やったっけ)
 思い出そうとすれば容易にその数字は浮かんでくる。眩しいあのころの、自分の存在価値。調子が良い日もあれば、悪い日もあった。結果を残せた大会があれば、まるきり駄目だった大会も。
(――…岸田、和秋……)
 それは誰の名前だろう。
 間違いなく自分はそう呼ばれていたはずなのに、もうその響きは遠い。
(……岸田、秋弥……)
 顔を知らない父親も、同じように陸上選手だったと母から聞かされたとき、だからかと納得したような気分になった。だから、そんなに自分に陸上をやらせたかったのか。母は、自分に愛した男の面影を重ねたかったのか。
 ――ならば一体誰が最初から自分だけを見ていてくれた。
 走れなくなったくらいで、どうしておまえを見捨てたりするんだ。やさしかったあの人の声すら、信じられなかった。
 そうだ。
 自分は誰のことも信じられていなかったということなのだろう。
 陸上にしか自分の価値を見出せず、それを続けることでしか愛されないと思い込んでいた。出会う人出会う人すべてが、陸上を通じてだけ、自分を見てくれている気がした。
 こんなにも弱くなければ、あと少しだけでも誰かのことを信じていられれば、何事にも左右されず走り続けることが出来ただろうか。
 ただ自分だけのために走ることが、出来ていただろうか。
(俺のためだけに、走って……)
 誰かの顔色を伺う臆病な自分でさえいなければ、走り続けることが可能だっただろうか。
 押し殺していた真実が、僅かにでも姿を垣間見せれば、残りは容易く曝け出ててしまう。
 いとおしかった。
 スタートを切る瞬間の緊迫感も、頬が風を撫でる瞬間も、ゴールを踏んだ瞬間の爽快感も――何も考えず、ただひた走り続けていた時間も。
 とても、いとおしかった。
 それなのに何故辞めてしまったのだろう。
 どうしてこの脚は、まだ動いてくれないのだろう。
「……ぃ、なんか……」
 唇が、僅かに動いた。
 誰もいないことを知っていて尚、何かを叫び出したい衝動は、喉に絡まって出て来ない。
 ――本当は、
 陸上と言うスポーツは、いつの間にか自分の価値を計る物差しになってしまった。自分のためにだけ走れなくなった、そうすればまた罵られた。嫌いだった。そんなもの要らないと心から思った。
 ならば、頬を滑る涙は、何だろう。
 ――本当は、嫌いなんかじゃ、
 衝動がそのまま形になって溢れ出す涙は、何だろう。もう辺りは薄暗く、自分の影すらも見付けられないグラウンドを、ぼやけさせてしまうこの熱い雫は。
 ――本当は、ずっと、嫌いなんかじゃなかった。
 和秋は誰もいないグラウンドに膝を着く。
 掌を地面に押し宛てると、爪先が砂を掻いた。
「……はしり……た、……」
 走りたい。
 ――走りたい。
 ただそれだけの言葉を、まるで自分を責めるかのように――何度も何度も、繰り返し胸のうちで叫んだ。
 体力の落ちすぎたこの身体で走っても、誰もが振り返り気に留めるようなタイムは、二度と打ち出すことなど不可能だ。それでもこの身体の奥底から沸いて来る衝動は、一度気付いてしまえば、見て見ぬ振りができなかった。
 誰も関係ない。
 自分だけのために走りたかった。
 恐怖感に捕らわれて動かない足でさえそう思う。――走りたい。ずっと。走りたかった。
 このまま駆け出してしまおうか。そう考えた自分にちいさく笑う。それはそれでいいかもしれない。誰もいないグラウンドなら間違いなくこの足は動く。
(――矛盾ばっかりや)
 走りたい、だけど走れない。走りたくない、なのに走りたい。
 矛盾している。
 ――あの人も自分も、矛盾している。
 目尻に浮かんだ雫が、まさか涙になって零れ落ちないようにと、砂で汚れた手で乱暴に顔を拭う。そのとき、微かな足音が背に近付くのを感じた。
 反射的にびくりと身体を強張らせ、後ろを振り返る。まだ誰か学生が残っていたのだろうか。――その思考を裏切って、目に飛び込んできた人物に、和秋は瞠目した。
「――ひどい顔だな」
 暗がりでも和秋が誰何を確認出来たのと同じく、相手も和秋の顔を確認出来たらしい。腫れ上がった和秋の頬を見て、その人は眉を寄せた。落とされた声も苦々しい。
「冷やさなかったのか」
「……な、んで……」
 和秋から少し離れた場所でその人は足を止め、溜息混じりに口を開いた。
「――時間になってもおまえがバイト先に現れないから、千種に店の人間から電話が入ったらしい。とりあえず今は千種がおまえの代わりをしているから安心しろ。――そんな顔じゃ無理だろう」
 ああ、そういえば夕方からバイトがあったはずだ。すっかり忘れていた――そんなことを、思い出す余裕もなかった。自分がバイト先に現れないとなれば、仕事を紹介してくれた千種に連絡が行くのも仕方がない。明日にでもマスターと千種に頭を下げなければ。おかしなくらい冷静に考える反面、指が、そして足が、身体中の全てが動きを止めてしまっている。
 まだ、問いかけの答えを、貰っていない。
「それから恭一からも連絡が入った。――寄ってたかって世話好きな人間に恵まれたな」
「……あんたも、やろ……」
 途切れそうになる声を何とか押し出し、それだけ返すと、雄高はふっと声なく笑った。
「……そうだな」
 僅かに困り果てたような表情で、目だけを和らげて微笑った。――そうだ、困っている。今目の前に突然に現れた雄高は、確かに困惑していた。なぜだろう。困惑しているのも戸惑っているのも自分の方で、決して雄高の感情ではない。
「今回ばかりは参った。――どいつもこいつも、俺を唆しやがる」
 なのに、確かに困ったように笑って見せるから。
「何が、唆すや……」
 一度は忘れた、捨てたはずの想いが、
 ――あなたに還っていく。
 感情も思考も心も身体も、全てあなたに還っていく。
 まるで世界の中心にいるように、あなたがそこにいるように。
「――…あかんやろ」
 心を揺さぶるのはまるでこの人だけだというように。
 自分のすべてがこの人を中心に、回っていく。
「あんた、なんで、こんなとこにおるんや……」
 ゆっくりと着いた膝を起こしながら、和秋は立ち上がった。情けない姿を見られたと思う以上に、胸から溢れ出しそうなこの熱い感覚は何だろうと考える。
 溢れてしまう。
 この人があと一言、何かを言ったら。
「――…おまえが泣くからだ」
 雄高はほんの少しだけ眉を寄せて、真っ直ぐに和秋を見つめながら呟いた。
 ああ、だめになってしまう。強い予感がした。
 また、だめになってしまう。
「……泣いてへん……ッ」
 和秋は俯き、再び泣いた。涙は次々と溢れて、止める術を持たない。
 雫を伝う頬が熱くて、涙はこんなに熱かっただろうかとぼんやり思う。涙というものは、もっと冷たいはずだ。心なんてものを凍て付かせるくらいに冷たいものでなければならない。
 そんな涙しか、知らない。
「判り易い嘘を吐くな」
 呆れたように呟かれても、和秋は首を振った。
「――あんたに関係ないやろ……」
「ああ、関係ないな。これっぽっちも俺には関係ない」
 あっさりと言い切った雄高は、和秋にゆっくりと近付くと、右腕を揚げた。
 指先がやさしく涙を拭う。
「離れても、おまえは笑っているはずだと思ってやってたのに、どうしておまえはまだ泣いてるんだ」
 熱い涙は、雄高の指先も暖かく濡らしているだろうか。そう思えば、懲りずに涙が溢れた。それでも不思議と嗚咽は零れず、和秋はただじっと雄高を見上げたまま、涙を流し続けた。
 どうして。
 どうして笑っているなんて思うのだろう。
 心の全てを持っていってしまった雄高と離れて、どうして笑えていられただろう。
「――縋れるやつは、いなかったのか。ずっと」
 縋れる人間なんているはずがない。あなた以外なら他の誰でも駄目なのだと痛切な気持ちを言葉には出来ず、和秋は殺した嗚咽に喉を鳴らした。
「なら縋らせてやる。おまえが泣いたときに、他に誰も支えてやる人間がいないなら、俺が支えてやる。――もう、決めた」
「……なに……」
 続け様に与えられた言葉が信じられず、和秋は瞬きを繰り返す。その度、新しい涙が零れて頬を濡らすのに、それを情けないと気付く暇もなかった。
「俺は俺の気が済むまでおまえから離れない」
「――なに、言うて……」
「今言った。――俺は今後一切おまえの感情を考えないことにした」
 言っていることは滅茶苦茶で、その言葉だけを掴まえて考えれば果てしなく自分本位な響きをしている。なのに、涙を拭った指先は、やさしく傷ついた頬へと触れる。
「――…それが厭なら、さっさと他に縋れるやつを作れ」
 最後にそっと、囁くように低く告げた声に、雄高の真意を朧気ながらに掴んだ気がした。
「それまでは、あんたに……縋ってもええの……?」
 涙が止まらない。
 指がやさしくて――触れられた傷口が痛くて。
 口を動かせば、咥内にどうしようもなく血の味が滲む。飲み込めば、苦く胸の中に広がった。
「無理矢理にでも縋らせる。……だからおまえは、泣いてるんじゃない」
 他に縋れる人間ができるまで、と言った。それは、雄高のやさしさだろう。どうしてだろう。あんなにも判らなかった雄高の感情が、今は手に取るように判ってしまう。
 同じ思いを抱いている。これ以上好きになっても、自分は傷付くだけだ。だからもう恋人には戻らない。同じ思いを、今、抱いている。
「……も、厭や……」
 決して抱き締めない雄高の腕が告げている。――恋人には戻れない。
「あんたが、他の誰か見てるんが……いやや」
「――判ってる」
 雄高はその大きな掌で、和秋の涙を残らず掬い上げた。
「恋人には、ならへんよ……」
「……ああ、」
 同じことを繰り返す。ならば、恋人なんて関係じゃなくてもいい。
 縋ることを許してくれるのなら、あなただけがいい。誰でも良いわけじゃない。――もう言えなかった。
 恋人じゃなくてもいい。
 キスもセックスもいらない。
「判ってる。……好きなだけ使え」
 そこにいてくれたらいい。――抱き締めて、涙を止めてくれたら。
 雄高はほんの少し乱暴な手付きで、涙に汚れた頬を拭い取る。好きなだけ使え――雄高らしい言い方だと、和秋はほんの少しだけ笑う。
 やり直そう。最初から全てのことを巻き戻して、恋にならないように注意しながらやり直そう。
「……手当てだな」
「ん、」
 帰るぞと促され、暖かかった掌が頬から離れる。覆うものを失った頬は風に吹かれて痛みを感じるが、さっきまで胸に暗く広がっていた苦しみは、気付けば軽くなっていた。
 ――また、
 また、この人は他人の感情を持って行ってしまった。
 松岡に気付かされた陸上へ焦がれる思いも、それによる鋭い痛みも、いつの間にか和らげてしまった。――それだけのために、ここに来てくれた。相変わらずだ。相変わらずの病的な世話焼きで、優しい人。
 ――おまえ、俺になりたいか。
 ふいに恭一の声が甦る。
(――なりたかった)
 何にも嫉妬したくはなかった。
 恋人にさえならなければ、恋にさえしなければ、きっと、もっとやさしい気持ちだけで、この人を大切にしていたに違いない。大切だと思う気持ちだけが、あればよかった。
(俺は、あんたが羨ましかった。――恭一さん)
 先を歩き出した雄高の、近くて遠い背中を追う。
 ――望んだ、傷付くことのないポジションを、自分は今手に入れたのだと思った。