はじめて整ったグラウンドを駆けたのは、八歳のときだった。
――あんたのお父さんがな、ここのコーチに世話になってたんや。あんたも教えてもらったらええわ。
そう言った母に連れて行かれた見知らぬ場所には、見知らぬ大人しかいない。目の前に立つ人の好さそうな人物が父の古い知り合いだと言われても、今一つ実感が沸かなかった。自分にとっては面白くも何ともない、詰まらない場所であることに変わりはない。しかし早く帰りたいと駄々を捏ねても、母は許してくれなかった。
――知らんわ。そんなもん知らん。おれ走りたない、疲れるし。
――ええからいっぺん走ってみ。お父さんなあ、走るん速かったんやで。もう馬みたいやった。あんたもお父さんの子や、走ってみたら案外性に合うかもしれん。運動会でもいっつも一番やんか?
あの女が何度も何度も勧めるから、結局自分は負けてしまった。一度きり、そう約束をして、渋々頷く。
――いっぺんだけやで。ほんまに知らんで。
こんな場所で走る意味が判らない。それでも、言われるがままに走ってみた。
運動会みたいに走ればええやんな、そう気楽に思うことにして、借り物のスニーカーで駆けたグラウンドは、驚くくらい走り易かった。学校のグラウンドとは全く違う、整った地面を蹴り上げる瞬間に感じたものは、恍惚感や爽快感に似ていたのかもしれない。
――あはは。ほんまに速いなあ和秋。馬みたいや。鼻先に人参ぶら下げたらもっと速く走れるんちゃうの。
――その誉めことば何とかならんのかい。
あの女の言葉はいつもそんなふうに要らない憎まれ口が含まれている。しかし、その顔がどこか嬉しそうに見えた。
顔も知らない父親の知人だとかいう男が走り終えた自分のところへやってきて、「すごいなあ」と頭を撫でる。
――坂上さん、どうやのウチの子。
――速い速い。びっくりしたわ。さすが秋弥くんの息子や。しっかりした走り方教えてやったら、これからえらいこと伸びるかもしれん。
――ほんなら坂上さん教えてや。この子家におるとテレビゲームばっかしてんねん。
――いや、そやけど和秋くんがひとりでここまで通うのは遠いやろう。弓子さんかて毎日付き添いはしてあげられへんのやから。誰か周りに教えてくれる人おらへんのか。
――おったらええねんけどなあ……。
母は少しだけ困ったように笑って、和秋に向き直った。
――どおや和秋、あんたそれだけ速いんやったら走ってみる?
あんたすごい子なんやで。そんなん、母さんずーっと判っとったけどなあ。和秋がそんなに速く走れるんは、母さんの自慢や。
そう言って、あの人が、頭を撫でてくれたから。
――うん。
深くは考えないままに、気が付けば頷いていた。
――走るん、気持ちよかった。おれ、もっと走りたい。
誉めてもらえるのが嬉しくて、嬉しくて。
母さんの自慢や。――そう言って撫でてもらえるのが、嬉しくて。
――ちゃんとした人に、教えてもらいながら走ってみようか。母さん探してみるわ。それまでは坂上のおっちゃんに世話になっとき。
あの人がそう言って嬉しそうに笑った。
どうしてだろう。
今でも鮮明に思い出せる。
走る、走りたい。そう決めたとき、一番喜んでくれたあの女の笑顔を、今でもはっきりと覚えている。
愛された記憶なんて、そう多く残っていないのに。
走れば走るだけ、打てば響くようにして結果となって返ってきた。最初のうちは、単純にそれが楽しかったのだろうと思う。しかしそれが全て自分の力だとは思わない。自分は多分、コーチに恵まれたのだ。ほぼ一対一で自分に対して力の全てを注いでくれた人が傍にいた。その人は、少しでも速く走れるための力を惜しみなく自分に与えてくれた。
中学三年の夏、大会記録というものをはじめて破った。すごいことなのだろう。よく判らなかった。ただいつもより気持ち良く走れたと、そう思った。
やはり一番に喜んだのは、その人だった。その人に喜んでもらえたことが、何よりも一番嬉しかった。
暫くすると部活中に、見知らぬ人々がよく自分に逢いにくるようになった。どこかの高校の監督だという。驚くほど無知な自分は進学先を決め兼ねて、結局あの人を頼った。あの人は、自分の知る監督の所属する高校を勧めた。だからそこに決めた。
何も考えていなかった。あの人がその高校に進めと言う。だから決めた。
高慢で、怠惰だったのだろうと今なら思う。
何ひとつ自分で決めたことなどなかった。
――それはもしかしたら。
最初から、誰かのせいに、したかったのかもしれない。
進学先の陸上部も、最初から楽しい場所ではなかった。
聞こえるように囁かれる陰口にも、最初は呆れるだけで気には止めなかった。自分には足がある。誰よりも走れる足がある。ならばそんな罵倒なんて痛くも痒くもない。自分はこの場所にいて、選ばれるだけの資格を持っている。
上級生を差し置いて監督からの期待を受ける新入生を煙たがる気持ちは理解できないものではなかったが、それが重なれば苛付いた。
『――でも先輩、』
だから時には皮肉を返した。言われっぱなしは性に合わない。聞こえるような罵倒を口にするくらいなら勝てばいい、自分の足に勝てばいい。
『あんたら、俺より早く走れへんやろ?』
勝てるものなら勝ってみろ。
そんな実力もないくせに。
『……負け犬の遠吠えは見苦しいだけやで』
――この自分に勝てるものなら勝ってみろと。
醜い罵声に平気な顔をして答えたあの頃は、本当は、何をするのも苦しかった。
走っていれば何もかもを忘れられていた過去が嘘のように、走っていてもいつも誰かの視線を感じて、それが足を戒めているような気さえした。
見えない何かに文字通り足を引っ張られているような息苦しさを、いつもいつも感じていた。
『……岸田、少しは立場考え』
そう言ったのは誰だっただろう。もう顔も思い出せない。名前も思い出せない。
チームメイトだったはずだ。多分同じ学年の、――彼は、どんな顔をして、自分に言っただろう。
『おまえの実力はみんな判ってる。その上での野次や。気にするなとは言えへんけど、おまえが大人しくしとけば先輩たちかてそのうち判ってくれる。やから下手に口答えすんなや』
チームメイトの忠告に、そのとき自分は何と答えたのだろう。
『おまえが少し立場を弁えれば、先輩たちかて何も言わへん。やから――』
そう、きっと、嘲るような顔をしていたに違いない。
『――立場を弁えなあかんのは、どっちや?』
そう言って、笑っていたのだろう。
『俺か? 違うやろ』
笑っていても苦しかった。――あの頃は。
『大した力もないくせに口ばっか動かしとるあいつらや』
すべてが敵だと思っていた。
――判ってや。
――俺かて、苦しいねん。
――判ってや、松岡。
(……松岡?)
強くなり始めた陽射しと、窓から吹き込むまだ涼しい風が眠気を誘い、教授の声が上滑りしていくのを自覚しながらも、和秋は敢えて自分に覚醒を促さなかった。相変わらずの睡眠不足で、休息は明らかに足りていない。それをどこで補うかと言えば、講義中しかなかった。
幸いこの時間はノートを取らずとも、出席状況で成績が決められる授業だ。とりあえず顔を出しておけばいいだろうと、和秋は再び眼を閉じるも、先刻限界まで迫っていた睡魔は中々やってこなかった。
――嫌なことを思い出したせいだ。
疑心暗鬼の塊とはまさにあれのことだろう。過去の自分を思い返して、和秋はそっと顔を顰めた。痛くて苦い、決して楽しくはない思い出たちだ。
それでも確かに自分のひとつ。自分を構成する記憶のひとつである事実が、殊更に苦さを増させる。
(……誰、やったっけ……)
うたたねの最中に巡った記憶のうち、ぼんやりとしか思い出せないその人の名が、もしかしたらそうだったのかもしれない。松岡。そういえばそんな名前のチームメイトもいた気がする。思い出せないというよりは、思い出したくないのだろう。パラパラと白紙のノートを捲りながら、自分の弱さに笑う。もうずっとこんな調子だ。大阪を離れてから、丁度三年。その間に忘れられることは忘れてきた。あの頃の思い出をできるだけ遠ざけてきた。
陸上も遠ざけた。
多分、今全力を出して走ったとしても、例えば記録を破ったころのようなテンションは維持できないだろうと冷静に思う。時間が経ちすぎてしまった。三年間と言う月日は長く、そして重い。体力も技術も相当に落ちてしまっているに違いがないのだ。高校時代に捨ててきた情熱を、今更惜しんだところでどうしようもない。
(結局、未練があるんやな)
遠いところまできてしまったと、ぼんやり思った。
あのころ世界は小さくて、手を伸ばせば何でも手に入ると信じていた。すべては自分の力次第で、手に入らないものは何もない。努力は必ず実を結ぶ。信じていた自分は幼くて、小さな世界に生きていた。
きっと幸せだったのだろう。
なのに今、歓声は遠い。
(俺はなんにも、……捨てられへん)
未練なんてものは、数えればきっと、両手でも足りない。たくさんのものを捨てて、落として、努めて忘れてきた。
そのうち最も大きなものは、ついこの間捨ててきた恋心と、今も燻るように残ったままの走ることへの執着なのだと、心のどこかでは気付いていた。
(……大丈夫)
いっそう強い風が扉から吹き込み、長くなった前髪を揺らす。心地好さに目を閉じて、大丈夫と、根拠もなく繰り返し心の中で呟いた。
忘れる方法は単純で、何もしなければいいだけだ。
走ることを忘れたいのなら走らなければいい。
あの人を忘れたいのなら、会わなければいい。
そんな単純なことを続けていくうちに、きっとどんなことでも忘れていく。
どんなに強い恋心も、どんなに熱かった情熱も、いつかは嘘のように消えて行く。
――忘れてしまえば、なかったことと、同じことだから。
そう呟いて、大丈夫と笑った。
心が弱くなったときに、会いたいと願っても。
決してすがることをしない。
動き出すことを止めて、衝動が過ぎ去るのを息を潜めて待てばいい。
ただそれだけの、全ては単純で簡単なことだ。
校門を出て、今日の予定はとぼんやり考える。バイトが入っているが、それまで三時間弱時間が空いていた。買い物でもしとくかと足を進めかけた瞬間、ポケットに突っ込んでいた携帯が震動を伝えた。
「イテテ……」
ふいをつく震動は心臓によくない。どうもバイブレーションが強すぎると顔を顰め、相手を確かめないまま引っこ抜いた携帯を耳に宛てる。
「はあい?」
途中で欠伸が混ざって、奇妙に間延びした声になってしまった。今頃眠気がきやがったかと胸の中で毒づいて、返事を待つ。聞こえてきた声は、意外と言えば意外な相手だった。
『時間はあるか』
――相変わらず主語と挨拶をかっとばして喋るヤツやなあ。
少しだけ笑って、和秋はすぐに頷いた。
「バイトあるから、あんま遅くまでは無理やけどな。今からやったら三時間くらい空いてるわ」
『そうか、なら丁度良い。今から出てこれるか』
電話の相手――奥村拓巳は、相変わらずの淡々とした調子で話を進める。
「平気。清田も一緒なん?」
『いや』
清田はいないと告げた声に、少しだけ驚く。奥村に誘われるときはいつも、必ずと言っていいほど清田というおまけがついていた。――いや、逆か。奥村に誘われることの方が少なく、清田に呼び出されたときはいつも隣に奥村がいたのだ。
「バイト? あいつも最近バイト忙しなってんやろ、ゴールデンウィーク全然遊べへんかったって愚痴ってたで」
『さあ。今日バイトがあるとは聞いてない。――そうじゃなくて、君に会わせたい人がいる』
「なん、……誰?」
清田抜きで会うとなれば、それなりの用事があるのだろうとは察しがつく。しかし会わせたい人というものに、全く心当たりがない。
『……僕が会わせたいと言うのは少し違う。君に会いたがっている人がいるんだ』
「――奥村の知り合いか?」
尋ねると、奥村は短い沈黙の後、ああ、と頷いた。
もしかして、陸上関係の誰かだろうかと朧気に想像する。奥村と自分の共通点といえば、清田という友人関係を除いてはそれくらいしか思い付かない。
「大学の知り合い?」
『そうだ。……無理にとは言わない。矢野が嫌なら、何とか言い包める』
言い包めるとはまた大袈裟な言い方だ。思わず笑ってしまってから、和秋は「ええよ」と頷いて返した。
「奥村のともだちやったら、変なことにはならへんやろ」
『――僕もそう祈ってる』
溜息混じりにも聞こえた声に、和秋は首を傾げた。
「なんや、おまえのほうが心配してるんか」
『判らない。僕には判断材料がない』
確かに何が善しで何が悪いのか、判断が可能なほど、自分は奥村に過去を語っていないのだろう。それ故の憂いであるのなら、大丈夫と笑う他なかった。
「大丈夫や。……いつまでもこんなことで引っ掛かってたら、前に進めへん」
いつかは越えなければならないものならば、今直面したって構わない。
ただ、誰だろうと不思議に思う。
こんなにも情けなく惨めになった自分に会いたがっているのは――誰だろう。
奥村に指定されたのは、大学からもそう遠くはない場所にあるカフェだった。バイトがあると言った自分を気遣ってくれたのだろうか。落ち合う場所が飲食店なら、バイトに出る前に軽く何かを腹に収められる。丁度よかったと、そこまで気負わずに足を向けた。
終わってしまったことだからと思えば、今更気負う必要もなかった。
カフェが近付くと、入口の近くで佇む奥村の姿が目に入って来る。
「わざわざ前で待っとってくれたん?」
奥村はゆっくりと視線を向け、それから僅かに口元を上げて笑って見せた。
「目印代わり」
「いらへんて。俺ここ知ってたもん」
「そうか、なら無駄骨だった」
軽口を叩きながら扉を押すと、カランと涼しげな音が静かな店内に響いた。
会わせたい相手というのは、多分先に店内で和秋を待っているのだろう。さらりと視線を巡らせてみても、それらしき人物は見当たらなかった。
「……矢野」
「なん?」
「後悔していることはあるか」
閉まった扉を背に立ち止まった奥村が、ひどく静かな声で尋ねた。
「――わからん」
一瞬だけ呼吸を止めて、それでも和秋はすぐに笑った。
後悔したいことは、あるのだろう。
例えば驕っていた過去。居丈高にチームメイトの忠告を振り切ったあの日の自分はなんて幼かったのだろうと今なら思う。
諦めてしまったことも、投げ出してしまったことも、全てが後悔に値する。あの時間は戻らないと嘆いても、今更どうなることではないと判っていても。
「後悔なんて、……したないけどなあ」
――まだ夢に見る。あの日の輝き。
その苦さを振り切って、和秋は改めて奥村へ視線を合わせた。
「ほんで、誰なん?」
その問いかけには答えず、奥村は黙って店内の奥へと足を向ける。行けば判るということなのだろう。
奥村の後ろを着いて一番奥の席へと辿り付いたとき、その席に腰を降ろしていた男が立ち上がり、奥村に向かって手を掲げた。
「待たせた」
「そうでもあらへん。三分だけや」
愛嬌たっぷりに笑って見せた男は、続いて和秋へと視線を流す。唇を歪めて、「久し振りやな、」と男は告げた。
「――覚えとるか、岸田?」
視線が合ったその瞬間、急激に時間が過去へと戻る。遡った記憶の中に、男はいた。
――弁えろ。
「……ま、」
そう言った。そのとき彼は――少し、そうほんの少し、苦々しい顔をしていたのかもしれない。こんなことは言いたくない、それでも自分しか言える人間がいないと、そう――
少しずつ、少しずつ思い出す。思い出したくもないことを、思い出す。
「――松岡か……?」
「そおや。よォ覚えとったな。おまえのことや、もう俺のことなんか微塵も覚えてへんかと思うてたわ」
確かに彼は、他のチームメイトとは少しだけ違っていた。後にも先にも、自分にあんな言葉をくれたチームメイトは存在しない。キャプテンも監督も、誰一人として和秋の立場を心配するような言葉など、くれなかった。
懐かしいチームメイトを目の前にして、余りの驚愕に立ち尽くしている和秋を揶揄するように松岡が笑う。
「……随分変わったやないか。おまえそんなに大人しいヤツやったか?」
「……な、……」
口を突いたのは、か細い吐息だけだった。
「……何の、用や」
漸く返せた言葉は、僅かに震えていた。愕然とした思いが胸を占め、そのうち、どこかやるせなく、苦い感情が喉まで競り上がってきて叫び出しそうになる。
「ええから座れや、ホラ奥村も」
促されて、というよりはほぼ無理矢理のように引っ張り込まれ、和秋は松岡の隣の椅子に腰を降ろした。その向かいに奥村が座る。
「……松岡」
「判っとる。少し話がしたかっただけや」
諌めるように呼んだ奥村の声に、松岡はどこか不貞腐れた子どものように唇を尖らせて答えた。
この男は、昔からこんなふうに妙な愛嬌があった。だからか上級生からの受けはよかったと記憶している。――何もかもが自分と違った。同じ学年で、同じような立場でありながら、何もかもが違っていた。強さも。
(――……岸田、少しは立場考え)
(――おまえが大人しくしとけば先輩たちかてそのうち判ってくれる。やから下手に口答えすんなや)
そう言って、厳しく自分を諭したチームメイトに対して、その何倍もの棘を返した傲慢な自分が、今何を言えただろう。
「……今更俺に、何の用や」
「そうカリカリすんなや。奥村がおまえと知り合いや言うから、懐かしなって呼び出してもろただけや」
無邪気に笑ってみせた松岡が、しかしどこか目に険を帯びさせていることに、和秋は気付いていた。それはそうだ。自分と彼は、懐かしいからと肩を叩いて再会を喜ぶような仲では、決してなかった。
「……昔話するような仲でもあらへんやろ」
松岡も和秋と同じく、短距離を専門とした選手だ。部内ではライバル関係にあったと言って良い相手で、特にスランプの最中は酷かった。和秋が調子を落としてゆくのと反比例するかのように、松岡は順調にタイムを上げていき、囁かれる罵声にはいつも、松岡が引き合いに出されていた。
思い出したくもないことを――思い出す。
「そうやな。俺も別におまえと仲良く昔話する気はあらへん」
「……なら、なんで呼び出したんや」
忘れたかった。
忘れていたかった。
ライバルを気遣う余裕があった松岡と、それに対して高慢な嫌味しか返すことのできなかった自分との違いを見せつけられた過去を、消し去りたかった。
「話すことがないんやったら帰らせてもらうで」
虚勢を張って答えた自分に、松岡は気付いただろうか。
痛むはずのない傷が疼き出した気がして、和秋はそっと拳の形に指を握り込んだ。――痛い。あの頃の記憶は全部、もう直ったはずの傷を、痛ませる。越えなければならない痛みは、本当に越えられる日がくるのだろうか。
「まあ待てや。転校してから今まで、どうしてたんや。大会では顔も名前も見かけへんかったけど?」
「……辞めた」
松岡は躊躇いなく、触れてほしくない部分へ言葉を投げ付けて来る。その度に、ズキンと疼くような痛みが増した。痛むのは、足か、それとも心臓か。それすらも判らないくらいに痛んでいる。
正体不明の痛みを、恐いと漠然と思う。――そう、過去と対峙するのは恐ろしい。今にとんでもない醜態を晒してしまいそうな自分を感じていた。
「何やて?」
松岡は片眉をピクリと跳ねさせ、問いを重ねる。和秋は「辞めたんや、」と出来るだけ淡々と言葉を返した。
「陸上は、とっくの昔に辞めてる。大阪出たときからいっぺんも走ってへん。俺はもう二度と陸上に関わる気もあらへん」
「――辞めた、やって?」
松岡は椅子を蹴って立ち上がると、信じられないとでも言いたげな顔をして、上から和秋を睨みつけた。
「何回同じこと言わせるつもりや。――すっぱり辞めた。もう俺は陸上とは無関係の人間や」
強い視線の力に負けて、和秋は無意識に眼を反らしていた。松岡は、まだ走り続けているのだろうか。それなら、眩しい。松岡のすべてが、今は、眩しい。それは羨望と言う名前の感情なのかもしれない。真正面から受け止めて認めるだけの強さは、なかった。
「……そんなことが許されると思ってんのか!」
松岡の口調がいきなり激昂した。はっとする間もなく、素早く伸びた腕に胸倉を掴み上げられる。自然浮いた身体は椅子から離れ、中途半端な体勢に和秋は顔を歪める。
「どの口がそんなことほざいてんねや。おまえから陸上取ったら何が残る言うねん。なんにも残らへんやろがッ」
「松岡ッ」
「黙っとれ奥村!」
制止しようと立ち上がった奥村を一喝し、松岡は再び怒気を露わにした表情で和秋に向き直る。
突然響いた松岡の怒声に驚いて、周囲のテーブルに座っていた客たちがざわめき出した。
「――まさかおまえ、まだ逃げてるんか」
溢れ出しそうな怒りを懸命に抑えた声で、松岡が低く呟く。
「……逃げる……?」
何を言うのだろうと、半ば呆然とその言葉を繰り返す。逃げる、その言葉の意味を、松岡は理解しているのだろうか。自分が何から逃げたかったのかを知っているとでもいうのか。――そんなもの、自分でも良く判っていないのに。
「おまえに何が判んねん」
松岡の怒りの理由は、和秋には判らない。ぶつけられる烈しい憤りに眉を寄せて、吐き捨てる。
「俺が陸上辞めたって、おまえにはなんの関係もあらへん」
ほたっといてくれ。――そう言って、掴まれた腕を解こうと手首に手をかけても、松岡の強い力はびくともしない。
「俺の足は、動かへん」
それでも指を引き剥がそうと掴んだ手首に力を込めた瞬間、降って来た松岡の声に、思わず和秋は言葉を失う。
「おまえとおんなじ、故障や。捻挫とちゃうけどな。――三年の夏、アキレスがイってもーた。日常生活には何も困ることはあらへん、せやけど俺は、もう二度と走られへんねや。判るか」
走ることができない――走る力を失ってしまったと、今、松岡は言った。
心臓が跳ねた。嫌な鼓動だ。
「……ほんま、なんか……?」
「ああ、ほんまや。判るか。おまえとちゃうねん。走れるのに走らへんおまえとちゃう、俺はもう、走りたくても走られへん」
判るか。――松岡は再び声を落として言った。
「走りたくても走られへん俺の気持ちが、おまえに判るか、岸田」
――判る。
そんなのは、痛いくらいに判る。
しかしその言葉を口にすることはできない。
走ることを放棄しただけの自分と、松岡の苦しみは、比べられるものではない。
恐かった。
「おまえには、まだ走れる足があるはずや」
思い出すことが恐かった。
走ることは、イコールであの頃の記憶たちと結び付いてしまう。
そのことが恐かった。
今の自分が、過去の自分を責めることが。
「なんでおまえは、走らへんねや。怪我なんかもうとっくの昔に治ってるはずやろ。やのになんで、走らへん」
どうして走ることを止めてしまった。そう問いかけたいのは、松岡ではなく自分自身だ。――どうして止めてしまった。二年もの時間を、どうして走らずにいられた。過ぎた時間は戻らない。その時間、自分が選手として失ったものは大きかったはずなのに。
松岡の言葉が、重い鈍りのように胸の奥へ沈んでいく。
深い場所へ沈み込んだそれが、やがて黒い染みを広げて、視界さえも暗闇に覆われていくような錯覚を覚えた。
「俺、は……」
あのときの絶望感を思い出すくらいなら捨ててしまおう。捨てて置き去りにしてしまおう。そう決めて、捨ててきた。
何もかもを、大阪に置いてきた。
「……俺は、陸上なんか嫌いやったよ」
愛した人に一番に愛されなかった可哀想な過去も、愛されたいがために走っていた日々も、それだけにしか自分の存在価値を見出せなかった哀れな自分も、周囲が見えずただ傲慢だった弱いだけの心も。
全部、捨ててしまいたかった。
「おまえみたいに陸上好きなヤツ腹立つやろな。けど――俺は、ずっとずっと、大嫌いやった」
和秋は、笑った。
多分あのときと同じ顔をして。
――嘲るような顔をして、笑っていた。
松岡の顔が嫌悪と憤りに歪んだのが視界に見えた。ああ、やっぱり怒ってもうた。しゃあないか。――そう思った瞬間、頬に熱い衝撃が走る。
力の限り振り落とされた拳を頬に受けて瞬間よろめいた身体は、しかし胸倉を掴んだままの松岡の手によって引き上げられる。
「……もういっぺん、言ってみ」
ひどいことを、言っている。
頭のどこかではわかっていた。
陸上だけにすべてを注ぎ込み、上を目指して強く生きてきた松岡に、――そしてその道を突然閉ざされてしまった彼に、自分は途轍もなく残酷な言葉を叩き付けているのだろう。
――だけど、
「俺は陸上が、ずっと嫌いやった。走りたくなんかない。――二度と」
しかしそう思い込む以外に自分に残された道はあっただろうか。
口の中に滲んでいく鉄臭い血の味を噛み締めながら、和秋は同じ言葉を繰り返した。嫌いだった。ずっと、ずっと、嫌いだった。
そう思い込む以外に、あのいとしさを手放せる方法が、見付からない。
松岡はどこか愕然と、しかし掴み上げた胸倉を離さないまま、血を吐くように呟いた。
「嫌々走ってて、――ずっと、そんなふうに思いながら走ってて、おまえはあんなにッ……」
客席のざわめきが遠い。ただ悲痛に震える松岡の声だけが、鼓膜を打った。
「あんなに、……俺が憧れるくらい、速く走れてたって言うんか……ッ!」
そうだ。
(――立場を弁えなあかんのは、どっちや?)
そう言って何もかもを遠ざけて嘲ったあのとき。
本当に醜かったのは、誰だ?
和秋は余りの痛みにそっと、眼を閉じた。
落ちていくのは早かった。
あまりにも呆気がないくらい、後悔する隙も与えずに、自分は落ちていった。そして苦しさにただもがいた。その苦しみに、今松岡はいるのだ。
「……何言うてんねん、松岡」
あのころ彼は眩しく、そして強かった。選手としてメンタル面に大きな欠陥を持っている自分なんかより、将来が明るく拓いている選手だったのに。それは誰の目から見ても明らかな事実だったのに、なんてひどい話だろう。
「俺なんかに憧れてたって、……そんなこと、言わんといてくれ」
――なんて不出来な運命だろう。
運命は自分と彼とを置き去りにしている。走るという、ただそれだけの行為を愛しただけなのに。それなのに、こんなにも切ない思いをしてしまうのはなぜだろう。
「おまえは、俺なんかより、ずっと速よ走れてたやんか……」
早かった。落ちていくのは、早かった――
「俺なんかより、ずっとええ選手やったやんか……」
走れればいい。それだけでいい。そんなのは嘘だ。結果がほしい。努力に見合った結果が欲しい。そう望んだことが、そんなにもいけないことだったのだろうか。
自分がそう望む以上に、周囲に結果を求められたことが、いけなかったのだろうか。
「……松岡、」
どこでおかしくなってしまったのだろう。震えながらも強い力で自分の胸辺りの服を掴んでいる松岡の指を見つめながら、呟いた。
「俺は、おまえみたいに強くなれへん。おまえの代わりには――なれへんよ」
松岡は弾かれたように顔を上げ、しかしすぐに俯くと唇を強く噛み締めて呻いた。
――悔しいのか、哀しいのか。
(悔しい、やろなあ)
「……ほんまに、陸上、嫌いやったんかっ……」
「……嫌いやったよ」
哀しいやろなあ。――やけど走られへんよ。
おまえはおまえや。俺は俺や。
俺は、おまえの代わりには、走られへんよ。
「間違っても俺は、走られへんようになっても他人に自分を重ねたりはせえへん」
「……ッ」
望んだ答えを得られなかった松岡が目許を赤く染め、拳を高く振り上げたのが見えた。
――もう一発くらい殴られとこか。
和秋は、やがてくるはずの衝撃のために、ぎゅっと目を閉じた。