飯は要らない、そう告げると、雄高は引き止めることもせず「そうか」と短く頷いただけだった。扉を開いた瞬間、飛び込んできたテーブルの上の皿は、間違いなく自分のために用意されていたものだろう。焼きすぎたフレンチトーストと両面焼きの目玉焼き。厭味かと思ってしまうくらいに自分好みの朝食だ。それらは誰の口にも入ることなく、シンクに流されていくのだろう。可哀想だ、と他人事のように思う。
――可哀想だ。
使われなかった皿をあとで洗うことになる雄高の胸が、少しでも痛んでいればいい。そんなふうに思ってしまうことが、とてつもなく卑しく思えて、和秋はひとり眉を寄せた。
「……ありがとう」
飯を要らないと突っ撥ねたのは、これ以上この人と顔を突き合わせることに耐えられなかっただけで、空腹ではないわけじゃない。正直をいえば今にも鳴りそうな腹を抱えている。また、あからさまな遣り方で、雄高を傷つけたかったわけでもない。だから和秋は、せめてと礼を言った。皿を片付けていた雄高が、ひどく小さく笑った気配がする。
「勝手に作っただけだ、気にしないでいい」
そんなふうに与えられる言葉に、時間が遡ってゆくような錯覚に襲われた。あのころと同じ、あのころもこんなふうに、遅刻しそうだからとあの人が準備してくれていた朝食を摂らないで学校に行ったことがあった。どうしてそんな面倒なことを、毎朝毎朝やって退けるのかと、不思議で堪らなかった。
「うん、けど、ありがとう。……ごめん」
雄高は、気付いているだろうか。彼が寝室を去った後、自分がひとり泣いていたことを。和秋がさっき洗面所で気付いた、眼の周りが少し赤く腫れていることを、もしかしたら気付いているのかもしれない。気付いていて知らないふりをしているのなら、それは紛うことなく、やさしさだと思う。
すこしだけ残酷な、やさしさだと、思う。
「……学校行くわ」
できれば一度自宅に帰りたい、だがそれで大学に間に合うだろうか。逃げるように思考を切り換えながら、和秋は告げる。ここから一番近い駅まで歩いて十分。それから電車を乗り継いで。大丈夫だ、間に合う。なら一度帰ろう、それから大学へ行っても間に合うはずだ。言ったきり、背中を向ける。雄高はやはり引き止めなかった。
これが違いなのだろうと、ぼんやり思う。
あのころとは違う。
あのころの雄高ならきっと、送ると言い出していたに違いない。
「……和秋、」
長い沈黙を置いて、雄高がそっと口を開く。そのまま足を止めて振り返りそうになった瞬間、来客を告げるインターフォンが高く鳴り響いた。
「――お客さんやで」
雄高が何を言いかけたのかは知らないが、会話は途切れてしまった。
小さく吐息を吐くと、雄高は壁際の受話器を上げ、ボタンを押した。
「……ああ、今開ける。さっさと上がって来い」
どこか溜息混じりのそれを背中で聴きながら、和秋は今度こそ玄関へ向かった。
声はもう追ってはこなかった。
上がって来たエレベーターは、丁度十一階で止まった。
和秋と入れ違いにエレベーターを出たのは高校生くらいの若い少年で、まさかこの子が雄高の客だろうかと足を止めかける。
擦れ違った瞬間ふと視線がかち合って、固まってしまった和秋に、少年は邪気なくにこりと笑って見せると、軽く頭を下げて会釈した。慌ててそれに倣おうとした和秋を気にも止めない様子で、彼は真っ直ぐに雄高の部屋へと向かって行く。鍵のかかっていない扉を開け、音を立ててしまっていくそれの向こうに、少年は消えていった。
てっきり仕事関係の来客だとばかり思っていたのに、それにしては随分若い。
そう考えて、他人のことは言えないと苦笑する。自分だって雄高の客にしては若すぎたはずだ。そう、ずっと、見当違いで不相応だった。
――まだ、
過去自分がそうされていたように、あの少年もまた雄高の世話になっているのかもしれない。あの人は誰にでも彼にでも節操無しに世話を焼きたがる。それが自分の仕事なのだと信じて疑わない。
もしもそうなら。
――変わっていない。
この一年は何だったのだろう。離れていた一年間、自分は少しも成長などしておらず、またあの人は少しも変わっていない。それならこの痛みと引き換えに手に入れたものは何だ。何のために、今もまだこの胸が痛んでいるのか。
もう何も、判らなくなった。
何ひとつなくしたいものなどなく、しかし自ら望んで手放したこの腕は今や空っぽで何も掴めない。
溢れそうなくらいの喪失感に今更嘆いても――。
一度だけ振り返って、自分を拒絶する扉を見つめる。
――さようなら、さようなら。
だけど、終わらせた。
もうあの人に揺れることはない。
二度と振り返ることをせず、和秋は懐かしいマンションを後にした。
今度こそ終わらせたはずだと、そのとき、強く信じていた。
「――おまえ、学校は?」
「だッから創立記念日だって言ってんじゃないすか、さっきから!」
しつけえなァ梶原さんは、と拗ねた口調で言い捨てた少年は、実はつい最近高校生になったばかりで、雄高が彼と初めて顔を合わせたときはまだ中学生だった。ごくたまに拗ねて歳相応の顔はしてみせるものの、子供染みた口調と表情が不似合いなくらい、彼は大人びている。全く厄介なものだと、雄高は思う。
「普段の行いが悪いから疑われるんだろうが」
「今日はホントのホントに休みだっつの。何なら学校に電話してみてよ、誰もいねーから。いやいるのかも。いるのかな。休みの日って先生いるんですかね?」
「俺が知るか」
厄介だ。大人扱いしていれば時折ひどく頼りなくみえるし、子供扱いをしたらそれはそれで一丁前に怒ってみせる。この年頃の少年と言うのは、全く扱い難い。
「神城さんから聞いてるよ。今日撮影入ってんでしょ、だからそれに連れてってもらおうと思って。役に立ちますよ俺」
「立たない。そんなに大掛かりな仕事じゃないんだ、おまえがいても邪魔になるだけだ」
「ひ、ひでえ……」
アシスタント気取りの少年のことが、実はそう嫌いではない。
彼が雄高の元を訪れたのは、数ヵ月前のことだ。どうやらカメラマンを目指しているらしい少年は、どこをどう勘違いしたのか雄高に弟子入りを申し出てきたのだ。もちろん雄高自身はしがない半端なカメラマンで、漸く軌道には乗り始めたものの、弟子を取るつもりもなければそんな大層な身分でもない。それでも少年を邪険に出来なかったのは、彼が過去の自分に似ていたせいだろう。
「じゃあ側で見てるだけでいいから。邪魔にならないように小さくなっときますんで」
「……荷物運びは?」
「やる!」
無条件に憧れて慕った北沢を、夢中で追いかけていた過去の自分に、重なる部分があったからだ。
例えばこの少年の将来は長く、これから開花していく分野があったとして、それが写真であるとは限らない。それでも彼が望むのであれば、自分の知る全ての知識を惜しみなく与えてやろうと思う。それが年長者の仕事だろう。
彼が憧れた夢から醒めて、カメラマンなどという危なっかしい職業に憧れていた過去の自分を恥じるときが来たとしても、それはそれで構わない。自分は出来る限りのことをしてやれたと、後悔はしないだろう。
「……おい祐正、飯は」
「食ってないっす。なんか食わせてくれんの?」
「冷蔵庫にあるもの適当に漁って食え。俺は一時間寝る」
「…………何スかそれ。訊いた意味全然なくないっすか」
「贅沢言うなら食うな」
一時間経ったら起こしてくれと頼んでから、雄高は少年に背を向けた。ちえ、と拗ね切った声が、未練がましく背中に投げられる。
「――梶原さんそういうとこ全然甘やかしてくれねーし。いいですよ勝手に食いますよ。冷蔵庫の中身全部食い切ってやる」
中々へこたれない少年は、早速冷蔵庫の中を物色し始めている。それに少しだけ笑ってから、雄高は寝室の扉を閉めた。扉の向こうから「フライパン借りますよお」と元気の良い声で問いかけられる。
了承の言葉代わりにドアを拳で軽く叩いてから、雄高はベッドへ向かった。
――無性に、疲れたと思う。
最近は、何から考えたらいいのか判らなくなるくらい、考えることが多すぎた。
目を閉じれば、あの顔が浮かんできそうで、少しだけ怖い。――らしくないと自分を嘲って、雄高は無理矢理目を閉じる。
それでもシーツに染み付いた彼の匂いがまだ残っている気がして、やさしい闇は中々やってこなかった。
仕事は順調に片が付き、撮影に借りた公園の管理者に頭を下げてから引き上げた。なぜ神城がスケジュールを知っていたのかは判らないが、今日は出版社関係の仕事ではない。知り合いが営むスタジオから請け負った仕事で、今日撮影した写真はパンフレットに使用されるらしい。
雄高は指定された写真を撮ることだけを任されており、それが終わればスタジオのデザイナーが上手く仕上げてくれるだろう。
「今日これだけで終わりっすか」
「終わりだ。大掛かりな仕事じゃないって言っただろ」
アシスタントのつもりなのか、張り切って着いて来た少年――祐正は、不満げな表情でとぼとぼと後を着いて来る。
仕事が終わったにも関わらず、自分から離れるつもりはないらしい。荷物も運んでもらわなければならないし、まあいいかと適当に結論付けて、雄高は四時間前に乗ったばかりのエレベーターのボタンを押した。
「もっと派手な仕事ばっかなのかと思ってましたよ、梶原さん写真集も出してんのに」
「あれは神城さんが推してくれたおかげで出版できたんだ。俺の力じゃない。……それと、おまえのじーさんのおかげだ」
微かな音を立てて、エレベーターが十一階に着いたことを告げる。扉を開いたまま、降りろと促しながら付け足すように告げると、祐正ははにかむようにして笑っていた。事実、つい先日売り出した写真集は、雄高にしてみれば時が早すぎる感のある出版だった。まだまだ自分は無名に近いカメラマンで、それほどの功績もない。それでも神城は、数年前に出した単行本の売れ行きが好調だったことと、根強いファンが存在していることを理由にして強く出版を推薦した。そして更に背中を押したのは、世間的には雄高の師匠ということになっている北沢常保その人だった。
「なあ梶原さん、俺のじーさんってどんな人? じーちゃんのこと、親父ぜんぜん話してくれなくて」
部屋に着いた途端、祐正はそう切り出した。雄高が一息吐こうと向かった先のシンクには、祐正が使いっぱなしにしたと思われる皿やフライパンが無造作に突っ込まれている。珈琲を入れる前に、まずこれを片付けなければならない。
「おまえちゃんと片付けろよ。……今度逢ってみればいいだろう。来月くらいには挨拶に行くつもりだ、着いてこい」
逢ってもらえんのかなあ、と祐正は苦く呟きながら、重たい機材をソファに降ろす。
「生まれてからいっぺんも会ったことないのに、いきなり孫ですとか言って受け入れられるもんですかね」
「……どうだろうな」
事実赤の他人の自分を、まるで息子か孫のように可愛がってくれたあの人なら、十五年、十六年くらい顔を合わせたことが皆無でも、あっさり受け入れてくれそうな気はする。しかし祐正の憂いも判らないことはない。
「……会いたいなあ」
それでも祐正が、どこか焦がれるような表情で呟いたりするときは、救われたと思う。
「俺さあ、はじめてじーちゃんの写真見たとき、すげえ感動したんですよ。こんな写真撮る人が俺のじーちゃんなのかって思ったら、もうめちゃくちゃうれしくて、」
自分に身内はいないのだと、寂しそうに笑いながら自分に告げた、あの人は。
「だから、……会いたいなあ」
――あの寂しい人は、救われた。
「……おまえのじーさんは、懐の広い人だよ。一度も会ったことのない孫でも、きっと受け入れてくれる」
多分な、と茶化して付け加えると、祐正は表情を和らげて小さく笑った。祖父に焦がれる気持ちと、祖父と仲違いをしているらしい父親との間に挟まれて、彼は自分にしかこんな心情を吐露できないのだろう。
「じゃあほんとに俺も連れてってくれます? 沖縄」
「夏休みに入ったらな。旅費は自費」
「うっそ、俺そんな稼げないって!」
北沢には息子がいないと、その言葉をそのまま信じていた雄高には、祐正が北沢の孫だという話は寝耳に水だった。事情を聞いているうちに納得はしたものの、どこか疑っていた雄高に決定的な証拠を見せたのは、祐正のファインダーを覗く横顔だった。
――俺は人間っていうのが好きなんです。汚いとこもいやなとこも、いっぱいあるけどさ。
そう呟きながら、ぎこちない手付きで雄高のカメラに触れる、その横顔が、確かにあの人の眼をしていた。焦がれて止まなかった、あの特別な瞳に。
――じーさんの写真見てたら尚更好きになったよ。
「……バイト先なら幾らでも紹介してやる。がんばって稼げ」
「がんばってって簡単に言いますけどね! ――沖縄行くのって幾らくらいかかるんだよ、あー頭痛ぇ……」
言葉通り頭を抱えて唸り始めた祐正を横目に、雄高は笑った。
もしも祐正が今よりも多くのことを学んで、本気で写真に取り組めば、あっさりと自分など超えていくことだろう。
――梶原さん、人間ってこんなにやさしい顔をするんだ。
あの人と同じ表情で、同じことを言った彼なら。
きっと北沢のように、やさしい写真を撮るだろう。
「ていうかさ、名前使われたからっていちいち沖縄まで挨拶に行かなくてもいいんじゃないっすか、話聞いてる限りじゃじーさん梶原さんのこと気に入ってるんだろ、なら大丈夫だよ。梶原さん変なとこで律儀なんだから。考えすぎると損しますよ損」
珈琲を注いだカップを手渡すと、ささやかに頭を下げた祐正は面白がるような口調で言ってのける。前回と同じく、今回の写真集の売り文句にも北沢の名前が使用されていることを指しているのだ。
「……今回は名前だけじゃなくてアドバイスも受けてるんだ。出版してお世話になりましたの電話一本だけじゃ味気ないだろう」
「そういうもんですかね。律儀っすねほんとに。――もしも俺が何年か先に写真集とか出せるようになったら、「梶原雄高の愛弟子」って言われるんですかね。厭だなそれ」
おかしそうに笑いながら言った祐正に、こっちから願い下げだと眉を寄せた瞬間、インターフォンが鳴り響く。今日はやたらと来客が多い。たった今ソファに降ろしたばかりの腰を上げるのは面倒で、祐正に出ろと指図する。
「……ここぞとばかりに使ってませんか俺のこと」
「珈琲代だと思え」
文句を言いながらも受話器を上げた祐正は、階下のオートロックを開ける手順を踏んでから受話器を戻す。
「誰だった」
「えーっと、楠田何とかさん。お友達ですか」
「…………」
祐正は人の名前を覚えない。名乗っても、その瞬間は苗字か名前かのどちらしか覚えきれないらしい。
どちらもお友達には違いないが、兄と弟のどっちだと考えかけて、すぐに答えが出る。兄の方はあの通りの出不精で、見事なくらいの引き篭もりだから、恐らく今日訪れてきたのは弟の方だろう。そう見当をつけて、雄高は結局ソファを立つ。珈琲カップをもう一つ出してやらなければならないだろう。
暫くして十一階に上がってきた客は、一度だけ玄関のインターフォンを鳴らすと、そのまま扉を開けて上がってくる。静かな足音がリビングに辿り着くころには、珈琲は淹れ終わっていた。
「……雄高さん、今いい?」
大学の帰りに寄ったのだろう。お邪魔しますと告げてから、少しだけ疲れた顔で、楠田由成は微笑っていた。
「今度のゴールデンウィークの……恭さんが無理言ったみたいで、ごめんなさい」
「気にするな。そんなに手間はかからなかった。丁度キャンセルが一件出たらしい」
計画性のない恭一による計画性のない旅行の尻拭いをさせられた雄高へ、由成が謝罪する辺りがこの兄弟らしい。笑ってから、雄高はカップを由成の前に置いた。
「ちゃんと楽しんで来い」
「うん。……ありがとう」
ただ、キャンセルの出た一件というのが、恐らく恭一が想像している部屋よりも上等なもので、宿泊料がとんでもない値段だということは敢えて黙っておく。これくらいの腹いせは許されるべきだ。
「ちゃんと雄高さんの分も楽しんでくる」
「土産は要らないからな」
ふっと口元だけを緩めて笑う、由成は昔から、こんなふうに穏やかに笑ってみせる子どもだった。随分大人びた子どもだったのだろうか、それとも大人しい子どもだったのだろうか。今はもう思い出せないくらいに長い時間を過ごした。
自分には弟がもう一人いるようなものだと思う。千種と、雅也と。その二人も、素直に可愛いとは思えないが、それでもやはり大切な弟たちで、しかし愛情深い両親のいる幸福な家庭に育った彼らよりは、由成を世話していたようにも思う。由成にとって自分を可愛がってくれる大人は、恭一と雄高くらいしか存在していなかったのだ。
「さっきの人は? 帰してよかったの?」
「北沢さんの孫だ。用事は済んだから構わないだろう」
祐正は由成が訪れたと同時に帰っていった。その辺りの察しのよさは、誉めてやっても良いだろう。
「――北沢さんの?」
不思議そうに首を傾げた由成も、北沢常保を知っている。雄高と同じように、身内がいないと聞いていた北沢に孫がいることを不思議がっているのだろう。
「俺もつい最近知った。……息子さんとは随分前に縁が切れていたらしい。それこそもう何十年の単位だ。写真で、じーさんのことを知ったらしい。縁は切れていても、血は繋がってるからな。気になったんだろう。それで俺のところに来た」
「ああ……雄高さん、愛弟子だから」
「……あの人にとっちゃ不本意だろうがな」
淹れ立ての珈琲に一度も口をつけていない由成の用事は、まさかこんな雑談めいた話ではないだろう。それで、と雄高は用件を促した。
「――何の用事だ」
ある程度は予想がついている言葉を待った。
笑みを消した由成は、一度だけ唇を引き結んで、真摯な表情を作る。――知ってた、と小さな声が尋ねた。
「雄高さん、……知ってた? 俺が、椛さんのこと、」
「……貴美子さんの葬式のときに、恭一から聞いた。それまでは知らなかった。……俺が、知るはずもないだろう」
それは、幼かった由成が起こした事故で、恭一の実母が命を落としたという、重たい事実だ。他人の雄高でさえ耳を疑った。まさかそんなことがあるはずないと、疑いたかった。
由成の母が死の間際に告げた言葉でなければ、一笑していたかもしれない。――なんて出来の悪いドラマだろうと。
「……雄高さんも、椛さんを知っているんだろう」
「ああ。……随分世話になった。いい人だった」
はじまりを、思い出そうとしても思い出せない。そこにいるのが当然のように――恭一にしても椛にしても、まるで生活の一部のように、当たり前に数々の記憶に溶け込んでいる。
だから彼女を喪ったとき、悲しみに絶望したのは恭一だけではない。
決してその悲しみの欠片を見せることはしなかったけれど――。
「雄高さんも、俺を許せない……?」
「……馬鹿なことを言うな」
しかし雄高は、小さな小さな由成の声を一蹴した。
「あの人が死んで哀しかったのは、俺も同じだ。……だが今そのことでおまえが傷付いて追い詰められるのを見て、何が楽しいって言うんだ」
もう充分に苦しんだはずだと、雄高は思う。
恭一も由成も、もう充分に苦しんだ。
「――恭さんは、きっと、俺のことを憎んでないっていうんだ。もう気にしてないって、俺にいうはずだ」
そうだろう。
恭一も同じ。望んではいない。そのことで、由成が傷付くことなんて望んではいない。
「……それは、ほんとうだろうか」
しかし由成は、まるで独り言のように続けた。
「あの人が苦しんできたところを、雄高さんはずっと見ているんだろう。なら、判るはずだ。……嘘だよ。あの人は、俺を許せないはずなんだ」
雄高は――眉を寄せた。
「――由成、」
そんな馬鹿なことがあるはずがない。そう咎めかけた唇を、しかし、どこか穏やかな由成の言葉が遮る。
「――雄高さんは、ずっと、恭さんの味方でいてあげてください」
許せないなんて、そんなことはあるはずがない。なぜなら彼は今現在を生きているからだ。恭一は母親を失って泣いてばかりいる十五の少年ではない。もうあれから月日は経ち、今を生きている。だから恭一は、許さなければならないのだ。由成を失わないために。そして、自分自身のために。
「俺はもうあの人の傍にはいられない。あの人の傍にいる資格が、最初からなかったから、」
なのに由成は、それすらを拒絶する。
恭一が許しても、自分が許せないのだと。
許せない自分を遠ざける。
「雄高さん。……俺は、楠田に帰るよ」
――やさしい場所から遠ざける。
雄高は声もなく、ただ由成の悲痛な表情を見つめた。
「だから……あなたは、あのひとの、味方でいてあげてください」
由成はそう言って、徐に頭を下げる。
そんな仕草を見たいわけではなく、しかし由成から視線を反らすこともできない雄高は、どこか切なさに似た気持ちで、ただ由成を見つめた。
――もう、ずっと、
――ずっと、長い間。
「……おまえに言われるまでもないな」
どんなことがあっても、自分だけは見捨てないと誓った。
早すぎたあの人の死に誓った。
「腐れ縁ってのは切ろうとしても切れるもんじゃないんだ。おまえにもそのうち判ると思うが、」
そうやって生きてきた自分のスタンスは、今更変えようとして変えられるものではない。何を今更と、その気持ちが強くある。そして同時に、自分が恭一だけの味方であるはずもない。
「俺にしてみれば、おまえも恭一も腐れ縁だけで繋がってる厄介な相手だ。俺が切ろうとして切れるもんじゃないんだよ」
――ずっと、長い時間、
あいつにとっておまえが家族だったように、自分にとっても家族だったのだと。
今の由成に、告げてやることはできないけれど。
「……俺は誰のことも見捨てない」
――だから俺はおまえの味方でいる。
おまえと、おまえの大切なあいつの味方でいる。
隠して告げた想いを、由成は汲み取っただろうか。
「……雄高さん、俺は、」
由成は頭を下げたままの姿勢で、声を詰まらせた。声を詰まらせて、ゆるい動きで、首を左右に振る。
「……俺は、誰にも守られなくてもいい。誰も味方じゃなくていい。だけどあの人だけは、……あの人だけは、」
震える声で告げられた言葉はひどく抑揚のないもので、それ故に深く胸を抉った。
もう、決めてしまったのかと、どこか喪失感に似た痛みが心臓を締め付ける。
「俺の分も、あの人の味方でいてください。何があっても、……あの人を、恭さんを、見ていて。こんなこと、雄高さんにしか言えないんだ」
そんなことを、震えながら告げた声に、胸を痛ませても。
歯車が最後の一周を、軋みながら廻り出した音を聞いていた。やがて壊れて弾ける運命の、脆すぎた歯車が円滑に廻っていた時間は少なかったに違いない。
――止まれ。止まれ、
壊れるくらいなら、止まれ。
「恭さんを、……お願いします」
どこも間違ってはおらず、それでも最初から壊れるしかなかった歯車なら、――それほどに哀しいことはない。
しかしその歯車は、自分のものではなく、あくまで由成と、そして恭一のものでしかないということを、雄高は痛いくらいに理解していた。修復を行なえるのも、無理にでも廻し続けることができるのも、本人たち以外にはありえない。
だから雄高は、――俯いたまま由成の髪を、そっと、撫でた。
おまえの味方だよと、言えない言葉を胸に仕舞ったまま、やがてひどい傷を負うであろう由成が今だけどうか救われるように。
大きくなった子どもの頭を、昔のままの手付きで撫でた。
たくさんのことが噛み合っていない。その歯車に無理矢理手を突っ込んで、軌道修正してやりたい。そんなことを考えてしまう自分は、思うよりも疲れているかもしれないと、ベッドに横たわったまま雄高は思う。眠ろうと横になったは良いが、どうも睡魔が襲って来ない。おかしなものだ。
時間を持て余し、ベッドサイドに置いたローテーブルの引出しを開けると、そこには数枚の写真が仕舞われている。元々はきちんと保管していたが、何度も繰り返し引っ張り出して眺めているうちに、仕舞うのが面倒になって出しっぱなしになっている写真たちだ。
電灯を点けることを面倒臭がっているうちにすっかり日は落ち、部屋はただ闇しか落とされていない。それでも、ぼんやりと部屋の形を映し出しているのは、やさしい月明かりと窓から見えるネオンだ。
これくらいの、ささやかな光があればいい。
照明の明るい光は目に痛すぎて、この写真を正面から見つめることが出来なくなる。
引っ張り出した写真を捲り、ある一枚で手を止める。
――昔、和秋に嘘を吐いた。
北沢が撮った和秋の写真はこれで全てだと彼に渡したけれど、どうしても手放せなかった写真が、一枚だけある。
北沢の写真を愛したから手放せなかったのか、彼を愛したから手放せなかったのか、今となってはもう判らない。
和秋に渡すことを躊躇って、手元に残しておいた、たった一枚の写真は、過去の和秋の写真だ。本人に言わせれば、中学二年生の夏に撮られたものらしい。
薄暗い闇に慣れた目に、指に挟んだ写真が浮かびあがる。
ゴールに辿り着いた瞬間、自然に溢れた零れ落ちるくらいの笑みの表情は、北沢にしか撮れなかったものだろう。
そして和秋にこんな笑みを与えるものは、陸上でしかありえない。
何年か前から、他人の人生に関わることは重いと、漠然と思うようになったことを、雄高は思い出す。
恭一や由成の行き先を、ただ見守ることしか出来ないように。
望まれたときに手を差し伸べることしか、出来ないように。
例えばカメラマンを目指す祐正に、思うよりもこの道は痛く厳しいものだと、そう教えてやることが正しいのだろうか。決して楽ではない道を、歳若い少年に敢えて選ばせる必要はない。
それでも。
それでも彼自身が望んでいるのなら、正しくはなくても、導いてやりたいと思う。彼がカメラマンの道を望むのなら、それを見守ってやろう。自己満足でしかなくとも、やるべきことをやらないで後悔するよりはずっといい。
だが、――和秋は違う。
和秋の将来は、祐正や恭一たちに比べると、自分の中で桁外れに質が異なった。
下手に手出しなど出来なかった。
彼が自分といて、また走り出すことを始めればどんなによかっただろうと思う。しかし自分はあまりに無力で、彼の背中を押してやることが出来なかった。雄高ができたのは、和秋の陸上への未練を気付かせないようにやさしく覆い隠してやることだけだ。和秋は自分の中にある陸上への未練を具間見る度に辛そうな顔をしていた。だから、気付かせないように、見て見ない振りをしていた。――そんなことしかできなかった自分は、間違いなく無力だった。
彼を陸上へと赴かせるものは、ただひとり、あの男しかいないことを。あの男だけが、和秋の足を戒めていることを。
雄高は、知っていた。
「――笑っているもんだと、思っていたんだが」
ひとり零した呟きは、どこまでも苦い。
大阪に帰ったものだとばかり思っていた。
そして、義父の元で再び陸上を始めたものだと、そう信じていた。
和秋が大阪に帰ることを決意すれば、好転する自体は幾らでもある。過去の確執、家庭、陸上、将来。そのどれをも、雄高は奪うことができない。
だから大阪に帰ったのだと信じていた。
自分と離れて、この笑顔を再び手にいれたはずだと、そう信じていたのに。
「……どうしておまえは、まだあんな顔をしてるんだ」
目を反らすようにして、雄高は一度は手にした写真を再び引き戸に仕舞った。――今は、この暗闇の中ででも少しだけ目に痛い。
想像していた笑顔は、和秋には残されていなかった。ひどく――そう、ひどく、疲れているように見えた気がする。この一年、どうやって生きていたのかと、思わず憤りそうになったくらいに。
一度でも。
一度でも傍にいろと告げていたなら、彼の将来を縛ってしまう。それを自分に許すには、想い過ぎていた。その葛藤を和秋は知らない、そんなことは知らなくていい。どちらにしろ和秋は傷付くだけだった。自分の傍にいた彼が傷付く一方だったことは、火を見るよりも明らかな事実だ。動き出せば壊れてしまう、そんな歯車なら、廻らない方がいい。だから歯車は動かない。自分と彼の歯車は、もう、二度と、噛み合わない。
雄高は知っている。だからこそ言えなかった言葉があった。もう随分と長い間、心の深い場所に沈み続けている言葉。言えるはずもない。
例えば恭一が由成によって安らぐように、由成が恭一によって安らぐように。
人がそれぞれあるべき場所で、成すべきことを為しているときにこそ、呼吸ができるように。
陸上は、和秋を輝かせる。
雄高はそれを、誰よりも知っていた。