震えながら合わさった唇を、冷たいと、意識の隅で思う。その感触が狂いそうなくらいにいとおしくて、和秋はまるで熱に浮かされたように自分の唇をただ押しつけた。合わせただけで、それ以上何の技巧のない口接けに、もっと、と飢餓感が増す。
戸惑って、――もしかしたら呆れているのかもしれない雄高が、固まってしまったように動いてこないのを良いことに、和秋は何度も冷たい唇を啄ばんだ。キスのやり方ならまだ覚えている。この人が好む、キスなら。
抱き締めた身体が身じろぐ。腕が伝える、その震動さえも厭だと思う。どんな隙間も許したくはないと、首を引き寄せる力を強めた和秋の肩を、雄高の手が強かに押し退けた。
「……和秋!」
「……ッ、い……」
低い怒号と共に押し退けられた肩は後ろへと下がり、背中が鈍い音を立てて勢い良く扉に押し付けられる。痛みに顔を歪めたのは一瞬で、衝撃に思わず離してしまった腕を懲りもなく雄高に伸ばした。どうしてこんなに必死になってしがみ付こうとしているのだろう、冷静な思考ではそう考えるのに、身体は言うことを聞いてくれなかった。感情と思考と身体とが上手く噛み合わない。
衝動の理由が、アルコールだけではないことに気付いていたけれど、敢えて眼を瞑る。後悔なんて、明日の朝にでもしたらいい。今は離れたくない、離してほしくない。縋った指先がもう一度広い背中に触れると、雄高がふっと息を詰める気配が頭上でした。
「……いい加減にしろ」
何かを堪えるように抑え付けられて響く低い声を、どうしてと見上げた眼は、もしかしたら濡れていたかもしれない。
「……いやや、……」
和秋は駄々を捏ねる子供のように首を振り、視線でねだった。
「……離さんといて」
雄高の瞳の奥が揺れる。突飛な行動に及んだ和秋を持て余すように、眉間に皺が寄るのが見えた。怒っているのだろうか、迷っているのだろうか、呆れているのだろうか。そのどれにも思えて、雄高の感情を結論付けることができない。
「……も、あかん……?」
肩に食い込んだままの指先が雄高の動揺を教えていた。痛い。この痛みが雄高にも伝わって、動揺も戸惑いも迷いも何もかも飲み込んでしまえばいい。
「俺、もう、あかんの……っ」
身体を離すために掴まれた肩にも、油断すれば崩れ落ちてしまいそうな和秋の身体を支えるための力が存在した。痛いくせにやさしい力だ。
なんて馬鹿なのだろう。
突き返してしまえばいいのに。
抱き締めてくれる気がないのなら、こんな身体なんか突き飛ばしてしまえばいいのに。
なのにやさしいこの人は、頼ってくるこの哀れな指を完全に突き離すこともできないで。
「――もう……俺に触られるんも、厭なんか……」
項垂れて呟いた言葉は掠れて、きちんと雄高の耳に届いたのかどうかも怪しい。やさしいこの人でも厭なのかもしれない、もう過去になってしまった自分に触れられるのは厭なのかもしれない。そう思えば視界が滲んだ。哀しいとは少し違う感情に、啜り泣いてしまいそうな気がして、きつく唇を噛む。哀しくはないのなら何だろう、今この胸を占めている感情は、何と名付ければいいだろう。
「……なんにも、言わへんから」
今縋らせて。今だけ縋らせてと繰り返し思う。
惨めなくらいに思う。
「もう、なんにもほしがらへんから……っ……」
喉の奥から搾り出すようにちいさく叫ぶ。肩を強く握り締めていた雄高の指先の力が、気が抜けるようにふっと緩んだ。そのまま、とうとう離れてしまうかと思われた腕は、一瞬の怯えを裏切って和秋の身体を抱き竦めた。
前から背中にかけて回された腕が、身体中が軋んで悲鳴を上げそうなほど強く強く和秋の全てを包み込んだ。その強さに咄嗟の呼吸が止まる。一時は何が起こったのか判らずに、しかしその思考停止から解けたあと、抱き締められている、その事実に涙が出そうになった。痛い、息ができない。
そっと顔を上げると、僅かに翳りを帯びている雄高の目と視線が合った。
どうしてこんなに哀しい顔をしているのだろうと、疑問がはっきりとした形になる前に、開いた下唇を軽く食まれて背中が震える。
「……ッ、ふ……」
思わず竦んだ身体を尚いっそう強く抱き締められ、すっかり扉へと押し遣られた背中が痛みを訴えた。痛みなんてもうどうでもいい、と思う。この腕が抱き締めてくれるなら、離さないでくれるなら。
口接けが徐々に深まって、漏れる吐息は甘く色付いていく。そういえばキスも久し振りだと思い出して、また泣きたくなる。
こんなに惨めなくらいほしがっていたのに、どうして一年も離れていられたのだろうと不思議になった。離れていた一年間、自分を奮い立たせていた何かは、今ここには欠片も残っていない。
プライドや意地という名前の、大切な、しかし寂しいそれは、ここにはもう。
それが幸いなのか、それとも間違っているのか、判断がつかないでいた拙い思考を、雄高の冷たい指が遮った。
「……ン」
裾をたくし上げられ、素肌が冷たい空気に触れる。服を掻い潜ってきた指先が壊れ物を扱うように、やさしく肌に触れた。
脇腹辺りに落とされた冷たい刺激に喉を晒して声を殺すと、また唇を奪われる。吐息を逃がすことすら許されず、苦しげに眉を寄せながら、懐かしすぎる感触に目を閉じて浸りそうになると、突然胸に痛みが走った。
「……痛…ッ」
上へ伸びた雄高の指が、きつく胸元の突起を抓み上げる。強烈すぎる刺激に厭だと首を振っても、許されることはない。手酷く扱われているのに、身体は少しも拒絶を見せなかった。それでも今度は痛みがなく、さっきよりは少しだけやさしく触れた指に安堵する。
柔らかな刺激にも下肢へと集まっていく熱は誤魔化しようがない。触れられているのは肌と胸だけなのに、どうしてかもどかしさに似た甘い感覚がじわりと広がって、足元を覚束無くさせた。せめて雄高が同じように感じていてくれていればいいのに。そう思いながら掌を下肢に伸ばすと、僅かに熱を持つ前に触れた。
雄高のそれに触れるのは初めてではなかったが、自分から進んで触れたのはこれが初めてで、そしてすぐにこれが最後なのだろうと思い直す。最初で最後だからと割り切ってしまえば、羞恥も簡単に捨ててしまえそうな気がした。一方的に与えられるのは厭だからと、自分に言い訳をして、辿り着いた指先をそっと動かして擦り付ける。男の身体がどうすれば感じるかなんて、身を持って知っている。
喉の奥で小さくうめいた雄高の吐息が鼓膜を震わせる。押し殺したような小さな声に、思わず止め掛けた指を叱りつけて、和秋は懸命に指を動かした。自分が感じているこの甘い感覚の何割かでも、きちんと彼に返せていると、そう思えることに救われる。
そのうち雄高の片手が下方へと降ろされて、性急な手付きでフロントを広げた。微かなはずのジッパーが降ろされる音でさえ大きく響く。
「ぅん……ッ、ン……」
恥かしいと感じる暇もなく引き出された性器を、やはり忙しない動きで擦り上げられる。次第に濡れた音を立て始めるそれと、互いの呼吸音だけが暗い空間をいっぱいに占めていく。交わす言葉もなく、触れ合わさった場所だけで感情を分けあっているような、そんな錯覚に攫われた。
雄高の指の動きに合わせて、自分の指を動かそうとしても、身体を支配していく快感に上手く動いてはくれない。震える指を何とか動かして、同じように雄高のそれを解放して直接掌に握り締めると、いっそう熱い吐息が首筋に触れて、ぶわりと肌が粟立つ。
こんな場所でと辛うじて残る理性が叫んでいる。
辛いのは自分の方だろうと、そう教えてくれている理性の欠片を振り切って、びくびくと身体を震わせながら和秋は大きな掌に吐精した。
「ぁ、……ン……はッ……」
高まるのが常になく早いのは、久し振りだったせいだろうか、それともこの人が相手だからだろうか。恍惚する頭で考えようとすると、達したばかりで萎えたそれに残る白濁を絞り取るように指を上下されて、それはすぐに力を取り戻してしまう。喉を突いて溢れそうな喘ぎを堪えながら、止まらないと思う。こんなふうにされたら、止まらなくなる。
再び啄ばむキスを繰り返し、それに酔っている合間に下着ごとジーンズを完全に足首まで落とされる。右の内腿をふわりと指の柔らかい部分でなぞられて、勃ち上がった前が性懲りもなく期待して震えた。内腿をやさしく撫でていた指は、そのままそれを掴み上げると大きく脚を広げさせ、濡れた指先がまだ硬い入口を爪で触れる。
反射的に強張ってしまった身体から、吐息と共に力を抜いて、和秋は雄高の首に両腕で縋り付いた。
痛いなんて言葉は、絶対口にはしないように、唇を思い切り噛み締めやがて来るはずの衝撃に耐える。それを見兼ねたのか、和秋、と、雄高が囁くように名前を呼んだ。
「……力むな」
「……ッ、あ、」
静かな声が落とされて、はっと我に返った瞬間、前をきつく扱かれて思わず声が溢れる。隙を狙うような遣り方で与えられた快感に、一度漏れてしまった甘い声は留めどなく次々に零れた。ふわりと、ひどく自然に身体から力が抜けた一瞬を狙って、指先が抉り込むように蕾に入り込む。
「……ひ、ぁ……」
狭い入口を抉じ開ける指の動きに、思わず叫び出しそうになる。先走りの力を借りても、到底楽に解れてくれそうにない。しかしそこに、雄高を受け入れたいと思うのは、間違いなく自分の我侭だ。
少しでも痛みを見せたら、雄高は身体を離してしまうかもしれない。そう思えば、どんな泣き言も口には出来ない。
丁寧とはとても言えない愛撫が、それでも和秋の性感帯を知り尽くしているとでもいうように、指を小刻みに内部で揺らす。
「……ふ、……ぁ……」
覚えられていた弱い部分を爪で引っ掻くように刺激されれば、漏れる淫らな音が聞こえて恥かしさに気が狂いそうになる。止めてほしい、止めてほしくない。正反対の希望は、そのうちただの喘ぎに霧散した。
指が乱暴な動きの中にも気遣う様子を見せて、固いだけだった内壁を蕩かしていく。気を抜けば自分から腰を振ってしまいそうになる甘い感覚に切なく眉を寄せて、和秋は胸を反らせた。
もう大丈夫かと判断されたのか、指は呆気無く引き抜かれ、引き止めるように収縮した淫らな自分の一部の動きにかっと熱くなった顔を伏せる。すぐに後ろに熱が押し当てられて、意識せずに身体を強張らせた和秋の背中を、雄高の掌がそっと撫でた。動こうとはせず、ただ宥めるように上下する掌の動きに、恐る恐る伺うように顔を上げて視線を合わせた。
「――……ゆ、たかさん?」
切れ切れの吐息の合間に、動かない雄高に声を投げる。視線を合わせたまま、それでもどこか憂いを帯びているかのような目の色に、突然不安になった。
まさか。
まさか、この後に及んでまで迷っているとでもいうのだろうか。
「……なあ、キスして」
立ったままの行為がどれほどに辛いかなんてことは今更で、もう自分も彼も引き返せない場所まできていることは確かなのに。
まだ迷っていると、この人はいうのだろうか。
――辛くたって、いい。
和秋は自ら脚を広げて誘う恥かしい行為を自分に許した。
どんなに痛んでもいい。
「キスして。……叫ばんでええように、口、塞いどいて」
瞼を降ろしながら告げると、言葉を紡ぎ終えた唇に柔らかな感触を与えられる。薄く唇を開けると、容赦なく舌を吸い上げられ、敏感になった身体はそれだけでも反応してびくりと震えた。その隙を狙ってか、一気に熱が穿ち込まれる。瞬間叫び出しそうになった唇は、和秋の言葉通り塞がれ、叫びは鼻から抜ける喘ぎにしか変換されない。
「ッ……んっ、ん……」
雄高が動く度、掴まれた腰を揺さぶられる度、喉から弾け出しそうになる悲鳴は、望みのまま次々と雄高の唇に吸い取られていった。
「……満足か」
激しい振動に更に霞みがかかる視界の中、唇を離して雄高が囁いた。
「――これで、満足か」
すっと心の一部に冷や水を注がれた気がして、和秋はひやりと動きを止めた。浴びせられた短い一言は、信じられないくらいに冷たい声をしていた。動きを止めた和秋を追い詰めるように腰を動かされ、何のことだと問いかけるために開いた唇からは切ない吐息が零れた。
「ひぁっ……ああ、ぁ……」
嘘だ、と思う。
自分の中にいる雄高はこんなにも熱いのに。
身体はまだこんなにも火照っているのに。
揺さぶられながら声もなく仰ぎ見た雄高の顔は、今までに見たことがないほどに切なく歪んでいた。
「――ゆ、たか……さ、」
傷付けたと、瞬時にそう思う。
傷付けた。
自分の何かが、今、この人を傷付けた――。
愕然とそう感じるのに、震えが止まらない身体を支えてくれる腕は暖かくて。
何も言えず、和秋はそっとその肩に頬を摺り寄せて目を閉じた。
次に目を開いたとき、視界にまず飛び込んできたのは白い天井で、ここはどこだろうとぼんやり考えることから始めた。確かに見覚えのあるものだけれど、どうしても心の隅に引っ掛かって思い出せない。思い出すことを拒絶しているかのように、思考は素早く動いてくれていなかった。
寝返りを打って反対方向に身体を回転させると、まだぼやけて見える視界に、今度は青いシーツが飛び込んでくる。波打つシーツの向こう側には、間違いなく知っている扉が。
これは、雄高の寝室だ。
当たり前だと、一人で笑った。
この場所が雄高のマンションの一部であることは判り切っていたことで、それでも暫く考えなければ正解が見えてこなかったのは、夢であればと、心のどこかで願っていたせいだ。夢であれば。昨夜の何もかもが、夢だったら。
最後にしてしまった。
最後だと自分に言い訳をして、縋ってしまった。
不思議と後悔はなく、清々しさに似た気分で和秋はそっと身体を起こす。この気持ちは多分、雄高の寝顔を最後に見たあの朝の気分に少しだけ似ている。
別れを決めていた、しかし油断を見せれば未練が心からはみ出しそうで必死に我慢をした、もう会わない、関係がないと思い込むことで振り切った。あの人の助けなんかなくとも生きていけると信じた。事実、この一年自分は上手くやってこれていたはずなのに。
それが、この様か。
笑いたい気持ちと泣きたい気分が混ざり合って、結局和秋は再び笑った。唇を歪めたそれは、ただ哀しいだけの笑みでしかない。その苦さも、十分承知していたけれど――
――なんだ。全然駄目じゃないか。
――結局、何ひとつ大丈夫になんてなっていなかった。
再認識したのは自分がどれほどあの人に飢えていたのかという事実と、自分の弱さだ。
――弱かったな。
大丈夫だと言い聞かせていただけで、こんなにも弱かった。
あと一度でも顔を見たら揺らいでしまう、そう思って顔を見ずに去ったのに。予感は的中した。しかも一年後にだ。もう笑うしかない。
立ち上がろうとして、自分がまだ裸身であることに気付いた。服はと見渡しても、見える範囲にはない。もしかしたら洗濯でもされているのかもしれないと考えた。あながち冗談にはならない。
取り敢えずシーツを掻き集めて身体を覆い、さてどうしようかと首を捻ると、寝室のドアが開いた。
「――洗濯、してくれたんか」
そのときは多分、自然に笑えただろう。和秋は自分に合格点を与えてやる。笑えた。まだちゃんと笑えた。それだけが特技なのだから、これくらいやって退けなければならない。
扉から部屋に入ってきた雄高の手には、幾つかのタオルに混ざって自分の服が見えた。
「相変わらず至れり尽せりやなあ、あんた。乾燥機があると便利でええわ」
「そろそろボロがきてるからそのうち買い換えるがな。……さっさと着換えろ、風邪を引く」
「引かへんわ、こんな時期に」
そろそろ薄手のシャツ一枚でも平気になってきたこの時期、風邪なんて容易く引けるものではないと反論しながらも、和秋は素直に衣服を受け取った。
「……今何時?」
「十時すぎだ、学校は大丈夫なのか」
洗濯をされてその上乾かされているとなれば、相当に時間が経ってしまっているかと思えば、それほどでもない。この時間なら午後からの大学には余裕で間に合うだろう。和秋が頷いてみせると、そうかと短く返した雄高はベッドの端に腰を降ろす。
「……こっちで進学したのか」
「――うん」
ベッドのすぐ側に置かれたテーブルから煙草と灰皿を引き寄せながら雄高が問いを寄越す。僅かに躊躇って、和秋は肯いた。
「進路決めたんは……結構ギリギリで、ずっと迷ってたんやけど、結局こっちにした」
「親父さんとお袋さんはどうした。帰って来いって言われていたんじゃないのか」
雄高は唇に煙草を挟みながら、抑揚のない声で立て続けに尋ねて来る。
「……言われた。でも、帰らへんかってん」
なんて今更な会話だろうと思う。
間違っても、今このときになって訊かれたい問題ではない。
「先生、めちゃくちゃ怒ってはった。……あっちで世話になってた監督からも誘いがあったらしいけど、断って、」
本当は、あのころ訊かれたかった。
帰ろうか、それとも残ろうかとずっと迷っていたあのころに。そして、ここにいろと、言って欲しかった。
「……それから、ずっとこっちや。大阪には一回も帰ってへん……」
立てた膝に額を押し付けて答えれば、声はくぐもって響く。
――本当に、今更だ。
どうしてかこの人は一度も、自分の進路について尋ねてこようとはしなかったけれど。
本当はあの日、尋ねてほしかった。
「千種は役に立つか」
「……? 役に立つっていうかなあ……」
世話にはなってるけど、と口篭もりながら答える。雄高は、それならいい、とだけ返すと、それきり黙り込んで煙を燻らせた。
会話が途切れてもここを離れる気はないらしい。仕方なく和秋はシーツを跳ね除け、受け取った衣類を身に付け始める。今更恥かしがったってどうにもならない。
服を着る身体の動きは、恐ろしいくらいに鈍かった。過ぎていく時間をまるで名残惜しんでいるかのようで、まさかと首を振る。
ただ、身体が痛むだけだ。
昨晩のとんでもない場所での行為に、慣れない身体がダメージを受けているだけだ。
「……あんた、昨日俺に「満足か」って訊いたやろ」
服を纏い終えると、顔を合わせないまま、和秋は独り言のように口を開く。
身体はずっと軋んでいる。学校やバイト先で少し苦労するかもしれない。あんな格好で、あんな場所でセックスに及んだせいだ。何もかも自分で望んだ。自分で選んだ。だからこの痛みでさえ甘いと思う。ひどく自虐的な甘さであっても、それは事実だった。
「――…「満足」や」
だから、微笑みすら唇に浮かべて答えた。
清々しいくらいの気分で。
「俺は、満足や。他にはなんにも要らへん」
聞きようによれば、それはひどく情熱的な愛の言葉に聞こえていたかもしれない。しかしそれが愛情を表す言葉として耳に届くには状況が悪すぎた。時が悪すぎた。自分の恋が深すぎた。
「俺が、何かに縋ってないと上手く生きていけへん人間や言うんも、よぉ判った。けど、それはあんたには関係ないことやから、」
空を漂う煙の形すら愛しいと思う、そんなものにすらこの人の影を探してしまう。それくらいに、想いすぎた。
だからせめて終わらせてあげようと思う。
中途半端なまま残してしまった自分の恋を、今度こそ終わらせてあげよう。
最後に愛してもらえた。それ以上。
求めないでいよう。
「……迷惑かけてすまんかった。犬に噛まれたとでも思うて、忘れてくれ」
語尾は小さく震えていたかもしれない。それでも和秋は出来る限り真っ直ぐに告げた。少し潤んでしまった目は隠しようがなく、つい俯いてしまう。多分、泣きそうな顔には気付かれなかっただろう。
トン、と、灰皿に灰を落とす微かな音が、長い沈黙に大きく響いた。
「……昨日は俺に縋って、それから次は何に縋るつもりだ」
すぐ隣から聞こえた声に思わず顔を上げそうになって、堪えた。今顔を見れば泣いてしまう。また縋ってしまう。
「……判らん」
自分が縋りたいのはただ一人だけなのに、そんなこと知るはずがない。次なんて考えたこともない。後にも先にも、雄高だけ、ただ一人だけ。
そうやって力なく首を横に振ると、顎を乱暴に掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。
「ッ……」
痛みに思わず顔を顰めた和秋を、真正面から見つめて雄高が囁いた。
「……「先生」か。それとも別の奴か」
どうしようもなく合わさった視線に動揺しながらも、和秋はなぜか仰ぎ見た雄高から目を反らせなかった。
先生は関係ない。あの人の存在を忘れさせてくれたのは雄高なのに、その張本人が何を言うのだと愕然とした和秋に、雄高の声が続ける。
「……縋るなら、誰でも同じか」
声はいつも通り静かで、――ほんの少し、普段より低い気はするが、それでもどんな感情も読み取ることはできないあの声だ。なのに、目が違う。
――ああ、また、
またあんたは、悲しい眼をしている。
「――それなら、俺じゃなくてもよかったな」
そう言い捨てると、雄高はふいと和秋から視線を背け、立ち上がる。何かを言い返そうと息を吸い込んだ和秋を、遮るように雄高は続けた。
「飯がいるなら食っていけ。準備は出来てる」
まだ長く伸びる煙草の火を灰皿で揉み消すと、雄高はあっさりと寝室から出て行く。
閉じていく扉の、スローモーションにも見える緩やかな動きを、和秋は馬鹿みたいに見つめていた。
声をかけることも、引き止めることもできないで。
ただ呆然と、見つめていた。
――俺じゃなくてもよかったな。
その声が、言葉が耳を離れない。
それは、あんたのほうじゃないか。
「――俺やなくてもええのは、あんたの方やろ……」
しかし声は返らない。
あの人は扉の向こうで、遅い朝食の用意でもしているのだろうと思うとおかしくなった。変わらない。変わっていなさすぎる。そんなふうに甘やかしてどうするつもりだ。また自分を捕えるつもりか。愛しては、くれないくせに。
「……誰でも、……ええわけ、ないやろ」
縋ることが出来ればよかった。
あの人以外の誰かに助けを求めることが出来ていれば。
「……違うって言うたら、あんた、縋らせてくれるんか」
もう姿の見えないその人に向かって、和秋は小さく呟いた。
あの人はいつも、いとも簡単に両手を広げて、縋りたい人を助けてくれる。自分も例外ではなく、いつもいつも、あの人に甘えていた。だけどそれは自分の望むものとは少し方向が違っている。
「――縋りたいのはあんただけやって言うたら、あんた俺のものになってくれたんか……ッ」
ならないくせに。
絶対に、そうはなってくれないくせに。
自分を一番にしてはくれないくせに、雄高があんな顔をしてみせるのは狡いと、和秋は声を殺して泣いた。
傷付いたみたいな顔をして、自分じゃなくてもよかったのかと、そんなことを訊いてくるのは狡い。誰よりも何よりもそれを言いたいのは自分のほうなのに。
愛しいと今にも叫び出しそうな心臓を抑え付けて、泣いた。
ほしがっているのはいつも自分で、求めたあの人は容易くこの腕から擦り抜けてしまう。だけどそれはあの人が自分本意なせいではない。和秋が泣きながら行かないでと引き止めたあの日だってそうだ。彼は由成と恭一のために出て行ってしまった。置いていかれたのは和秋でも、あの人はあの人なりの信念があって、大切な人たちがいて、それを守るためのことだったから。
だから好きになった。
――そんなふうに、恭一や由成を、たくさんのものを大切にしている人だから。他人事に傷付いて帰ってくるような不器用でやさしい人だから、好きになれた。
なんて矛盾だ。これでは本当に、あのころからひとつも変わっていない。
少しは強くなれたと思っていた自分が嘘のようだった。
「………ッ……」
頬を伝う雫の形に、ポツリとシーツが痕を作った。あまりの情けなさに、痛む胸を両手で押さえ付けて嗚咽を殺す。
今にも漏れてきそうな声を噛み締めながら、和秋は小さく「好き、」と呟いた。
――一番になれなくても。
「……まだ、あんたのことがっ……」
あのころ一度も言えなかった言葉を涙に混ぜて、そっと呟いた。