要は欲張りなのではないか。冷静に思えるまでには、時間がかかったのだと思う。あの人は、誰からも――少なくとも、自分が気に入った人間に対しては――善人だと思われたいのだ。だからあれほどに世話を焼く。それは善人とは少し違うと和秋は気付いている。そんなのは――ただの欲張りだ。
反対に自分は、誰彼構わず世話を焼く余裕なんてものは全くない。特に恋愛事に関しては目を瞑っているつもりだ。そんな厄介事、第三者が下手に首を突っ込んだところで、余計にこじれるだけに決まっている。
だからあの人の間違いは、その辺りにあるのだろう。――懐かしい言葉を思い出す。
そんなところに今更気付いたところで、どうにもならないけれど。
「和君、明日学校は?」
思考は唐突に遮られた。耳障りの良い千種の声に、はっとして和秋は我に返る。もう思考はかなりぼやけていたが、それでも懸命に考えを巡らせた。日課表を思い出して、答える。そう、確か明日は午前に授業は入っていなかったはずだ。
「えっと、午後からやったっけ」
「じゃあもうちょっとゆっくりしとく? なんか顔赤いっていうか青いからそろそろ帰った方が良いんじゃないかなって思ったんだけど。……さっき間違ってのんじゃったの、けっこう回ってる?」
どうしよっかと、千種は心配そうに緩く首を傾いだ。
うっかり間違って千種のグラスを口にしてしまっていたことに気づいたときには、もう遅かった。実のところ相当に動揺していたらしい和秋は、ほとんど無意識のままアルコールを口にしてしまっていたのだ。千種が慌てて止めてくれたおかげで、ほんの僅かな嚥下で済んだものの、飲み慣れない僅かなアルコールが胃の中で踊っている気がしていた。
「あー…ほんならそろそろ帰っとこうかなあ。千種くん学校大丈夫なん?」
「俺はねえ、明日四コマだけなんだよ。四年生にもなると楽だよー」
あれから、雄高とは一度も会話を交わしていない。和秋の話相手はもっぱら千種で、雄高は弟と口喧嘩を交わしている。
少なくとも和秋は雄高を気にはかけているが、この一、二時間で一度も視線が合わないところを見ると、雄高はすっかり自分の存在を忘れてしまっているらしい。
「四年生ってそんなもんなん?」
だから自分も努めて千種と会話を続ける。平気な顔をして。
「そんなもんそんなもん。一年生二年生でがんばっとけば三年四年で楽できるからがんばってね。――ええと、何の話だっけ。そうだったそうだった、もう帰る? じゃあ兄ちゃんに送ってもらう?」
「ええよ、歩いて帰るわ。まだ終電あるし」
丁度頭を冷やしたかったところだと、和秋は千種の申し出に首を振った。
「だめだよ、ふらふらじゃん。…ごめんね、俺もうちょっと気をつけてればよかったね」
「俺が間違ってもうたのが悪いんやし、大丈夫。多分――」
心配そうに千種が見守る中、テーブルに手をついて腰を上げた和秋は、しかし縺れる足に邪魔をされ上手く立ち上がることが出来なかった。
「ほら言ってるだろー! そんなんで歩いて帰るとかぜってー無理!」
千種が慌てて手を貸してくれたおかげで床に尻餅を着くことは何とか免れたが、ギリギリの姿勢でテーブルに懐いている自分の格好に、おかしいな、と和秋は首を傾げた。
「……ちゃんと立ったつもりやねんけど」
「それはね、酔っ払いっていうんだよ和くん」
揶揄半分、心配半分の複雑な表情で笑うと、千種は掴んだ和秋の腕を引き上げた。
「……ごめん」
「いいよ。大丈夫? ごめんね? 」
「……何やってんだおまえら」
降って来る呆れ声は雅也のものだ。いつの間にか長男と次男の会話は止んで、視線はすっかり自分に向けられているらしい。
恥かしい。慌てて立ち上がろうとすれば、その分余計に足が縺れた。
仕方ないなあ、と千種が笑う声がしたかと思うと、彼は兄たちのほうへ向き直り、
「和くんこんな感じだし。そろそろお開きにしよっか」
明るい声で提案した。和秋は慌てて千種を見返し、首を振る。
「ええて、俺が帰るだけやし」
「でもひとりで帰らすのもアレだしね。丁度いいから兄ちゃんに送ってもらいなよ」
「けど、」
こんな形でせっかくの兄弟の集いを邪魔してしまうのは忍びない、自分が帰ることでお開きになってしまうというのなら、この場に留まった方がいいんじゃないか。そう思っている間にも、胃の調子が急速に下降した。
「ほらあ、もう顔色悪くなってるじゃんか。ちょっと待っててね、俺会計済ませてくるから」
千種は和秋の背を撫でて、一番に席を立った。ほら行くよと割り勘相手の次兄を誘い、レジ前へと去って行く。千種の後を追って立ちあがった雅也が、去り際に胸元のポケットから小さな包みを抜き取ると和秋の前に置いた。
「何?」
「胃薬。俺も酒弱いから常備してんの。飲んどけ」
「ありがとお。……雅也さん、酒弱いんや? 好きそうやのに」
別段自分は酒に弱いわけではない。ただ今日は飲み合わせとペースが悪かっただけだと胸の中でだけ返して、和秋は包みを受け取った。そういえば前回も今回も、雅也は酒を一滴も口にしていない。
「弱いっつーか酔いが回るのが早ェんだよ。その分冷めるのも早いんだけどな。ウチで酒に強いのは千種くらいだ、あいつは怪物」
へえ、と頷き返そうとして、一瞬包みを破ろうとした指が止まる。千種だけ。その言葉が引っ掛かって、思わず雄高を見た。自分の記憶が正しければ、このひとは大層酒好きだったはずだ。
「……俺は弱いわけじゃない」
視線に気付いたのか、雄高がどこか憮然と呟いて返す。思いがけずかち合ってしまった視線にヤバい、と思いながらも、雄高が言葉を返してくれたことに安堵している自分を、どうしようもなく自覚してしまう。ただそれだけ、ただそれだけのことで、こんなにも安心している自分を。
「弱くはねえよな、酔いが回ったら寝こけちまうってだけで」
雅也は愉快そうに笑ってそう言い残すと、千種の後に続いて去って行く。レジ前で勘定している二人の背中を眺めながら、ビリ、と小さな音を立てて、包みを破いた。千種にも、雅也にも、取り残されてしまった。
「……そんな愉快な酒癖持ってたんか」
「気付いてなかったのか?」
二人っきりの気まずい空気の中、小さな声で尋ねると、すぐに切り返される。
「……酒が入ったらよう寝る人やなとは思ってたけど」
揺らせばさらりと流れ出そうな粉を、口に含んで水で喉に押し込めば、口中に独特の味が広がった。――苦い。
「一緒に酒飲んだことなんか、なかったやろ」
だから気付けるはずがないと、和秋は言外に訴える。酒癖を見抜くといっても、一緒に酒を飲んだ記憶はない。この人は案外うるさくて、無論和秋が未成年のためでもあり、おまえは酒癖が悪いと言われ続けていたせいだ。出会いがあれだったのだから、それも致し方ないのかもしれない。
「……そうだな」
雄高は薄く笑い、和秋がグラスを空にしたのを確認すると立ち上がる。何の未練もなく自分に向けられた背中を、ぼんやりと見つめた。遠ざかっていく。何の意味もなく、未練もなく。だんだん、遠くなっていく。このまま放っておいたら、彼はあの扉を潜って、もう二度と会えないひとに戻ってしまう。
嘘みたいだと思う。
あんなふうに思い出のひとつにしかなっていないことが。
過ぎればどんな時間も思い出になってしまうことが。
――このまま、この背中を見送れば最後、二度と、声を聴くこともないのだということが。
和秋は衝動的に椅子を蹴るように立ち上がる。ふらつく足を自覚して、それでも何かに取り憑かれたように扉に向かう背中を追った和秋の指は、気が付けばまるで縋るかのように、雄高の腕をきつく掴んでいた。
「……和秋?」
訝しげに呼ぶ声に思わず心が震えて、それからはっと我に返ったときにはもう遅い。
僅かに震える指先が白くなるくらいの強さで、咄嗟と言えど何故か雄高の腕に縋っていた事実に、さあっと血の気が引いた。
「――ご、ごめん」
何てことを仕出かしてしまったのだろうと後悔しても、掴んでしまった指先を今更なかったことにはできず、和秋は慌てて掴んでいた腕を離す。まだ、震えている自分の指を、間違いなく自分が動かしてしまった指を、信じられない思いで見つめた。何てことをしてしまったのだろう。今、何を。
顔を上げれば、雄高はきっと呆れた顔をしているに違いない。それとも、こんな自分を、おかしいんじゃないかと嘲ってはいないだろうか。そう思えば、視線は凍り付いたかのように、床に縫い付けられたまま動かすことができなかった。
固まってしまった和秋の頭上から、ちいさな、ひどく小さな吐息が落とされる。
その溜息にも反応して、びくりと震えてしまった身体に、どうか気付かれることがないようにと祈る。それはとても虚しい祈りだろう。意味もなく敏いこのひとは、気付いてしまったに違いない。自分の動揺にも、戸惑いにも、何もかも、もう気付いてしまっているに違いない。
どうしよう、どうしよう、この指先が今消えてなくなってくれたらいい。そんなふうに堂々巡りの思いを抱きながら、血の気が引いた指先をじっと凝視していると、今度は反対にその手首を雄高に掴まれる。
「な……」
痛みを感じるくらいの強さで掴まれた手首は、そのままレジの方向へと引っ張られる。なに、と尋ねる声も、驚愕か酔いのせいか、呂律がうまく回らない。
「ゆ、雄高さ……」
呆然とその名を呼んだ和秋の腕を掴み、あまつさえそのまま店から連れ出そうとしている雄高はあの表情を読ませない顔で、まるでそれが当然のように和秋を引き摺り歩き出す。
「ご馳走さん」
途中、レジ前で勘定を済ませている弟に声をかけた雄高に、千種が朗らかに笑って手を振った。
「うん、またねー。たまには帰っておいでよ」
和くんもまたね、と笑う千種は、通りすぎる和秋をただ穏やかに見送った。
必死に何か言葉を返そうとするのに、頭が上手く回ってくれない。救助を求めて千種に視線を遣っても、いつもの顔をして「ばいばーい」と手を振っているだけで、ただ、雅也だけがどこか苦々しい顔付きで自分たちを見送っているのが視界の隅に見えた。どうやら二人とも見送っているだけで手は貸してくれないつもりらしい。
「雄高さん、――待って、」
結局下二人の兄弟に見送られ、長男は和秋の腕を掴んだまま店を出た。腕を突っ撥ねようとしても力は到底敵わず、足をどうにか踏ん張って留まらせようとしても、そもそも足に力が入らない。
「――雄高、さん」
逸る心臓の音を煩いと跳ねのけて、すっかり乾いてしまった唇を潤すように、そっと声を投げるのに、――何度も、何度も呼んだって、答えは一度も返らない。そのうち、そのことが無性に悲しくなって、和秋は項垂れるように腕に引っ張られるがまま歩いた。
沈黙が怖いとなぜか思う。この人の考えが読めないのは前からだが、一年近い空白の時間を隔ててしまえば、まるで得体の知れない恐怖感が身体中を襲った。
そのうち駐車場に辿り着き、見覚えのある車の前で雄高は足を止めた。車はまだ乗り換えていなかったのかと感心したのは一瞬で、雄高の短い「乗れ」という言葉に心臓が縮み上がる。
一挙一動にびくびくしてしまう自分がとことん情けなく、そんなことを気にもしていない様子の雄高が、理不尽だと思う。
こんなふうに自分だけが怯えているのは、理不尽だ。
「……なんのつもりや」
「いいから乗れ」
和秋の腕を離すと、雄高は先に運転席に乗り込んでしまう。
震える指と足をどうにか動かして、和秋は助手席のドアを開けた。
「……いきなり連れ出して、車に連れ込むなんか、まるきり不審者やで」
出来る限り普通の声で言ったつもりが、それでも僅かに震えてしまう。何に怯えているのか、自分でも良く判らない。
怖かった。ただひらすらに恐ろしかった。
「先に引き止めたのはおまえだろ」
「――…謝った、やろ……」
「謝ってほしいわけじゃない。……何か言いたいことがあるんじゃないのか」
静かに響いた声は、まるで心中を全て見透かしているような、そんな気がした。知っているのなら、わざわざ訊かなくたって良いだろうと歯噛みする。
知っているんだろう。自分でも良く判らない、あの瞬間の焦燥の理由を。
引き止めてしまった指先の意味を、あんたはきっと、知っているんだろう。
「――俺の勘違いか」
黙り込んでしまった和秋の横顔を一瞥して、雄高が小さく舌打ちする。それがひどくらしくない仕草に思えて、少しだけ身じろいだ。
「何か言いたいことがあるんじゃないかと思って連れてきただけだ。勘違いなら悪かったな」
雄高はあっさりとそう結論付けてしまうと、自宅の方角はどっちだと問うて来た。このままアパートまで送ってくれるつもりらしいが、答えを躊躇って口篭もる。
「……怒ってへんの」
「何が」
ともすればエンジン音に掻き消されそうなくらいに小さくなった声に、雄高は含みなく、すぐに尋ね返してくる。何が、なんて、訊かないでほしい。
「……わからへんのやったら、ええ」
自分だけ気にしていることが、自分だけが気に病んでいることがとんでもなく場違いな気がして、そうやって話を切り上げようとすると、「もう忘れた、」と雄高が前を向いたまま、呟くように告げた。
「もう、忘れた。――だからそんなにびくびくするな」
――忘れたと、ただそれだけの言葉をやさしく告げた声に、和秋は膝に置いた指先を、きつく握り締めていた。
「――忘れた?」
「多分、おまえが今気にしていることは、もう忘れた。だから俺は怒ってもないし、気にしてもいない」
相変わらずやさしい声が、ひどい言葉を囁く。
忘れたと言う。本当に忘れてしまったのか。
あんなに、泣いた。
残された携帯のメッセージに、痛んで痛んで堪らなかった心臓を、この人は知らない。それでも。
簡単に忘れられることだったのか。
あんたにとってはその程度のことだったのかと叫びたい衝動を、必死に堪えた。
「もう一年以上も前のことだ。おまえも、……気にしなくていい」
ハンドルを切る傍ら、見慣れた仕草で雄高が煙草を探る。咥えて火を付けられたその先端から、流れるように煙が視界を遮った。
指を折って数えれば、もうそんなになるだろうか。一年と少し。そんなに長い時間を隔ててしまったこの人は、もう何もかも忘れてしまったと、そう言うのだろうか。
こんなにもまだ胸を痛ませるこの人は、もう、忘れてしまったと。
「……だから怯えるな」
雄高が続けた言葉が、どこか困惑を含んでいるように聞こえた。どうしてだろうと考える前に、噛み締めた唇から嗚咽が漏れる。
「わ、……忘れた、なんか……っ」
煙が沁みて滲んだ目尻から、ほんの少しの涙が零れた。ひとつ零れてしまえば、あとは止まらない。震えた言葉と、それから涙の味に、喉の奥が痛んでいる気がした。
「そんな、簡単に、言うな……」
雄高の言葉が真実ならば、あの日別れを告げたのは確かに自分だったはずのに、置いてけぼりにされたのはむしろ自分の方だった。まだこんなにも縋っているのは自分なのだと思い知らされる。
こんなふうに振り回されるのは、厭だ。
離れていてもなお振り回される。まるで呼吸をするのと同じように、自然と思い出させて胸を痛ませる。
そんな記憶に縋りたいわけじゃなかったのに。
「――おまえも忘れろ」
――酔っ払い、と、小さく笑う雄高の声が、記憶をより鮮明に甦らせた。
伸ばされた片手が、くしゃりと髪を撫でた。髪が伸びたなと、声が一人ごちる。うん、と、自分でも不思議なくらいに、和秋は素直に頷いた。
――あんたが、言ったから。
伸ばしたらどうだと、あなたが言ったから。
「おまえは泣き上戸か。――あのときも泣いてたな」
ほら。
うそだ。
忘れたなんて、嘘じゃないか。
忘れてはいなくても、今更蒸し返すほどのことじゃないと、雄高はそう言っているのだろう。今更責めるつもりもない。今更、理由を問うつもりもない。それはきっと、無関心に近い感情だと思う。――いっそ叱ってくれればよかったのに。
まだこんな自分に心を残してくれている部分があるんじゃないかと、自惚れることもできたのに。
「いい加減、泣き止め酔っ払い」
こんなに涙が止まらないのも、どうしようもない嗚咽が零れてしまうのも、そうか、酔いのせいかと、和秋は冷静に思う。――そうか、なら、そういうことにしておこう。
「俺に申し訳ないなんて思うくらいなら、もう忘れろ。そんなもんは、背負らなくていい」
雄高の言葉が、どこか見当を違って聞こえるのも。
怒りを予想して恐れていた自分を気遣ってくれた雄高の答えが、「忘れた」という望まない言葉だったことも。
ぜんぶ、酔いのせいにしておこう。
「……あんたは、全然変わってへんな」
無関心なら放っておいてほしい。
あのまま、知らない顔をして、通り過ぎてくれてよかった。
なのに根本的にやさしいこの人は、きっと自分を哀れんでくれたのだろう。あの日何も言わず去ってしまった過去に、まだ縋りついて捕らわれている自分を。
哀れんだからこそ、忘れろとそう言ってくれているのだろう。
――やさしい。だけど。
もう想いを残していないなら。
やさしく、なんて。
意味のないやさしさなら拒絶したいプライドとは裏腹に、髪を梳く雄高の指先を、どうしても拒めなかった。気持ちがいい、やさしいと、そう思えばどうかもっと触れていてほしいとさえ思う。
「……和秋、」
ハンドルを切るためか、雄高の指先がそっと離れた。その瞬間に感じた感情は、もしかしたら飢餓感に似ていたのかもしれない。ぬくもりが離れることを嫌がった、この感情は。
「……おまえ、いつからだ」
いつから、そんなに。雄高の呟きは、途中で溜息のように静かに消えた。きっと独り言だったのだろうと聞き流し、それでも疑問が残る。
何だろう。何を言いたかったのだろう。車中に漂う煙を眺めながらぼんやり考える。
いつからこんなに、
いつからこんなに、ボロボロになっていたのだろう。
あのとき敢えて突き放したものを、今また縋ろうとするくらいに、弱くなってしまっていたのだろう。
そう思うとまた泣けてきて、和秋は唇を引き締めて泣いた。
泣いたのも、あの日以来だ。合格発表の当日だったあの日。この人が残したメッセージを泣きながら聴いた、あの日以来。
「……顔色が悪いな。車酔いか」
そう呟かれて、大丈夫、と強張る声で、やっと返す。
心地が好いはずの車の震動は、今や胃の気持ち悪さに拍車をかけるものでしかなくなっている。しかしあと十分や二十分なら保つだろう。アパートに駆け込んで、頭から布団をかぶって眠ればいい。頭痛も胃痛も翌朝には綺麗になくなっているはずだ。時が経てば忘れる痛みのように。
「一度停めるか」
「……ええ。平気、大丈夫」
意固地になって首を振る和秋を余所に、雄高はアクセルを踏み込んで速度を上げた。傾いた車体が大きく揺れ、同じように揺れた身体に固く目を閉じる。ひどい頭痛がした。
そういえばアパートの場所を教えていないのに、どこに行くつもりなのかと、それすらを問う余裕もなく、和秋は口元を押さえて目を閉じた。
胃はムカムカしている感じはするが、雅也がくれた胃薬が功をなしているのか吐き気はない。頭痛が強いだけだ。これくらいなら大丈夫だと思うものの、酔っ払いの思考がどれほど頼りになるものなのかは怪しい。
車は見覚えのある景色をぼんやりとフロントに映し出している。懐かしいと、心のどこかが泣いた気がした。この道筋をまだ鮮明に覚えていた。
覚えている。あの角を曲がったらすぐに見える。この人の住む場所が。
雄高はやや乱暴な運転で車を駐車させると、運転席を降り、助手席まで回ってきた。
「吐き気は?」
「……ない」
心配性やなあと、呼吸だけで笑う。そんな重病人でもなければ怪我人でもない、ただの酔っ払いなんて、この辺に捨ておいてくれればいいのに。
「歩けるか」
「……うん」
差し伸べられた手に首を振り、自力で地面に足を着ける。予想していたよりも、しっかりと立つことができた足に安心して、和秋は雄高の後ろを歩いた。
このまま雄高に着いて部屋まで上がれば、懐かしすぎる思い出たちに、いっそう傷付いてしまうことは目に見えて判っている。それでも足は素直に動く。エレベーターで雄高の指が知った番号を押した。十一階。忘れられない部屋。
「……大人しく着いてくるとは思わなかった」
狭い箱の中で、雄高が呟きを落とす。止まない頭痛に顔を顰めながら、和秋は微かに笑った。何を今更。ここまで連れてきておいて、何を今更言っているのだろう。
「……嫌がる元気も残ってへんだけや……」
それは、疲労に似ているのかもしれないと思う。あるいは、諦観。そんなふたつの感情に似た気分が、何もかもから抗う術を奪った。
帰るといえば、彼は帰してくれただろうか。引き止めることもせず、ただ見送ってくれただろうか。もしもそうなら、考えたくない。引き止めてほしい。引き止めてほしくない。だから、考えない。
深夜の空気を、甲高い二つの足音が静かにこだまする。エレベーターを抜けて短い距離を歩けば、すぐに部屋に辿り着いた。雄高が鍵をつけて扉を開けている間、そういえば鍵はどうしただろうと考える。卒業式を終えて、大学の入学を間近に控えた――あれは三月だっただろうか。味気のない封筒に包んで返した、あの鍵は、もう他の誰かの手元に渡っているのか。
そう思った途端、考えられないくらいのスピードで、身体中から血の気が引いた。
――そんなのは、
一度諦めてしまったあの恋が今目の前にある、手を伸ばせば届く距離にある。そのことが、こんなにも自分を欲張りにさせているのか。なんて我侭だと思うのに、一旦その感情に蝕まれてしまえば、まるで呪文のように、その言葉が頭の中を駆け巡る。
――そんなのは、厭だ。
さっさと入れと促され、玄関を潜る。もつれた足は、扉を閉めた瞬間力が抜けて、そのまま背中を硬質な扉に預けると動かなくなった。
ともすればズルズルと玄関先に座り込みそうになる。ひどい頭痛のせいでも、むかつく胃のせいでもない。
心が泣いた。
懐かしいと。
愛しい愛しいと、泣いた気がした。
扉に背中を押し付けた和秋の身体をくぐって、雄高の指が内側から鍵を回す。ガチャリ、と落ちた音が、ひどく耳について響いた。
「和秋?」
動かない和秋に、雄高が怪訝に眉を潜める。
歩けないのかと尋ねる声に、和秋は首を振った。
縋るなら、同じ。
誰に縋るのも、何に縋るのも、同じ。
だけど許されるのなら、できることなら、縋るのは、このひとがいい。
「――雄高、さ……」
そっと口を開いて呼んだ。
「……どうした」
扉に凭れ掛かったまま動かない和秋を訝しむように、雄高が顔を覗き込んでくる。至近距離で見つめた目の奥があんまりやさしい光をしていて、また泣きたくなった。
縋りたい。
今だけでいい。
今、離さないでくれたら、それでいい。
躊躇いなく伸ばした腕で、雄高の首を抱いて引き寄せる。衝動とは違う、言うなればひどく狡い、狡猾な意思を持って抱き寄せた腕に、雄高が少しだけ眉を寄せる。暗がりに見える雄高の顔は、呆れているだろうか。酔っ払いの悪戯だと思ってはくれないだろうか。
自分がばかみたいだと笑う。
縋りたいといえば、きっとこの人は拒まない。
やさしく愛してくれるはずだと思う。
だから。
今また愛してほしいと、引き寄せた雄高の唇に、和秋はそっと口接けた。
和秋、と、驚愕を含ませた声で、名前を呼ばれた。自分でも判らない行動を、雄高がなお訝しむのは無理がない。
近く鼓膜を震わせる声すら覚えている。
雄高の戸惑いを無視して、懐かしい唇に愛してほしいと口接けた。