綺麗だ、と思う。
なんでもない風景がこんなにも美しく見えるのは、きっとこの写真を撮った人物がやさしいからに違いない。この風景を愛しているからに違いない。なんでも愛したがったあの人の相応しい写真だと、和秋は思う。
和秋の視線の先には緑に溢れるポスターが貼られている。発売を数日後に控えた、あるカメラマンの写真集の広告だ。
そう言えばずっと前に、プロのカメラマンの定義を尋ねたことがある。どこからどこまでがアマチュアで、どこからがプロで、またどこまでいけば「売れている」ことになるのか、と。
彼はおかしそうに笑って「そんなものはない、」と答えた気がする。
カメラマンにも種類があって、例えばグラビアを撮影するカメラマン、スクープを狙うカメラマン、そして彼のように風景を専門にして多分野で活躍しているカメラマンと、それらを一括りにすることはできない。
またカメラマンの名前が世間に知られることはそう多くない。大体は被写体に目が行ってしまうせいだ。だからどれほど業界内で良い写真を撮ると評判のカメラマンでも、一般的に名が知られているとは限らなかった。いわゆる「知る人は知っている」状況が、カメラマンの普通の知名度らしい。
和秋も、ほんの少しだけ勉強をした。
今和秋の自宅には、北沢常保の写真集が数冊ある。人を褒めることなんて滅多にしないあの人が、自らの憧れと称するに相応しい写真たちだった。
ポスターの下部にあの人の名前が小さく記されている。その下には、これまで仕事でどんな写真を撮ってきたかが宣伝されていた。
「……値段がなあ……」
和秋は一人ごちた。
バイト代で生活費を賄っている学生にとっては決して安くない値段である。
それだけあればどれくらい食っていけるだろう、そう考えかけている自分に、慌ててかぶりを振る。
こんなケチ臭い勘定をしている場合ではないのだ。
ふいに頬に刺さるような視線を感じて、食い入るように広告を眺めていた自分に気付く。そういえば随分前からこの場所に立ち竦んだままだった。本屋の店員や客に訝しく思われたとしても仕方ない。
それでも立ち止まらずにはいられなかった、立ち止まって眺めずにはいられなかった。
まだこんなに特別なのかと自分で自分を嘲りながら、和秋は逃げるように本屋を出た。
その日初めて訪れた店で、待ち人を探して視線を彷徨わせていた和秋を、聞き慣れた声が呼び止めた。
「和くーん」
相変わらず間延びした調子で自分を呼んだその人は、こっちこっち、と居場所を教えるように手をひらひら振っている。
入口に近い場所に席を取ってくれていたせいで、そう苦労はせずに待ち人を見付けることが出来たことに安堵しながら和秋は足を向けた。
「迷った?」
「全然。判り易い場所やったし、ここ」
向かいの席に腰を降ろしながら答えると、「そうでしょ。」と千種は嬉しそうに笑う。気に入りの店を教えてあげる、その誘いに頷いてやって来たのがこの店だ。昼間は主に軽食やデザートを出している喫茶店だが、夜になると洒落た居酒屋風に様変わりするらしい。ライトを抑えた演出でどこか静謐な雰囲気のある店内が、昼間どんな姿をしているのか少しだけ興味が沸いた。
「ここほんとはケーキとかもすげー美味しいんだよ。でも夜は出してくんねーの。焼き鳥とかつまみとかになっちゃうから。残念だったねー」
「うん、今度昼間に来てみる」
「そうしてー。俺もここんとこ忙しくて中々来れなかったからさー、すげー久々ここ来んの」
相当に気に入りの店らしい。千種はさっきからにこにこと嬉しそうに笑っている。
奇妙なことに、この少年のような二歳年長の男とは、未だに連絡を取り合っている。何しろ大学受験時にギリギリまで迷っていた和秋の進路相談を、親身になって聞いてくれたのが千種だったのだ。
こう見えて顔が広い千種は、各大学に在学している友人や知り合いとコンタクトを取り、様々なことを調べてくれた。パンフレットを見るよりも、実際に在学している学生の話の方が参考になるのは言うまでもなく、下手をすると千種には進路相談の教師以上に世話になったかもしれない。
ここまでしてもらって申し訳がないと恐縮する和秋に、「俺もギリギリまで迷ってたからさあ、気持ち判るんだよね」と千種は気楽に笑っていた。
和くんが同じ大学だったら楽しそう、などとのんびり言っていた千種の言葉を裏切って、結局は別の大学に通うことになっても、どうしてか千種は事ある毎に和秋に声をかけた。
同じ大学、同じ学部の先輩を知っていた方が何かと便利だからと自身の友人を仲介してくれたのも千種であれば、バイトを掛け持ちしていた和秋に、割りの良いバイトを紹介してくれたのも千種だった。
雄高とは違う意味で、世話好きのする人だと思う。
世話になりすぎて申し訳ないと思う気持ちが半分、しかし千種は気がねなく頼ることが出来る友人のひとりだった。
「バイトどんな感じ?」
「おもろい」
「そっか、ならよかったあ」
間違っても雄高は、和秋の生活に無理矢理踏み込んでくることはなかった。大学の進路にしてもアルバイトのことにしても、何ひとつ口を挟んだことはない。
「マスター好い人だろ。ちゃんとやさしくしたげてねって俺から言っといたから」
打って変わって千種は遠慮なく和秋の生活に踏み込んでくるし、その生活が苦しいものだと知れば幾つも助言をくれた。そして和秋自身、それを迷惑だと思ったことは一度もない。友人だからだ。
「……やさしすぎや。俺、毎日食い物もろてるもん。おかげでバイト変えてから夕飯に困った覚えがあらへん」
「ははは。いいことだよ」
千種に紹介されたのは、やはり彼が行き着けだという小さなバーだった。店内はそれほど広くはなく、客の収容人数こそ少ないが常連は多い。加えて時給もよければマスターも好い人で、息子と同年らしい和秋のことを甚く気にかけてくれている。難を言えば、ほぼ毎日と言っていいほど組み込まれているシフトがしんどかったが、贅沢は言っていられない。
「あそこあんまバイトが入れ替わらないんだよ。同じ人に長く働いてもらいたいらしくてね。そんで一人とか二人とかしか採らないでしょ。だから休みは少ないのが気になってたんだけど、大丈夫? ちゃんと遊べてる?」
「遊ぶ暇なんか要らへんよ。試験の前は休みもらえるし、そんだけで充分」
「えらいねー……」
しみじみと呟いてから、千種は店員を呼んだ。注文を告げる際に「お任せでいい?」と尋ねられ、慌てて頷く。どちらにしても初見の店だ、メニューなんか判るはずがない。
千種はカクテルとソフトドリンクを1つずつ、それから幾つかのつまみを注文すると和秋に向かってにっこり笑った。
「遠慮しないで食べたいのなんでも頼んでいーよ、奢りだから」
「え、なんで!?」
「ああ、俺じゃなくてねー。今日はお財布係がいんの。もーすぐ来ると思うんだけど」
少年のように無邪気に笑った千種は、携帯を引っ張り出して時間を確認すると入口を見遣る。
お財布係、なんて言われても心当たりはひとつもない。首を傾げた和秋が釣られて入口へと視線を遣った瞬間、重々しく扉が静かに開かれた。
「あ、来た。いいタイミング」
千種は和秋を迎えたときと同様、手を掲げてひらりと手を振った。
和秋は聞いてはいなかったが、元より待ち合わせることは決まっていたのだろう。千種が振る手に気付いたのか、先ほど扉を潜ったばかりのその人は、ゆっくりと和秋たちのテーブルに近付いた。
「やっと来たー。お財布係ー」
「――誰がだ」
「社会人じゃん俺学生じゃん」
「うるせえ」
千種の頭を慣れた手付きでパシリと叩いたその人は――
暗い照明のせいで顔ははっきりとは見えない。しかしほの暗い店内でも、見える特徴で判別出来る。
あれからもう一年余りが過ぎていた。
この人の。
――声が好きだった。
「和くん?」
どうして。
千種は自分とこの人が絶縁中であることを知っているはずなのに。
別れを決意したあの日に頭を下げた。この人にはどうか自分の居場所を知らせないでほしい。何ひとつ告げないでほしい。そうでなければ、自分は千種との友好関係も断ってしなわなければならない。
千種は訝しそうにしていたが、ただならぬ和秋の様子を悟ってか素直に頷いてくれたはずだ。いつか仲直り出来たらいいね、そんな彼らしい言葉と共に――。
「和くん? 大丈夫?」
言葉を失ったまま、二人を凝視していた和秋を気遣うように、千種が顔を覗き込んでくる。
「――な……」
なんで、と震えた唇は、しかし声にはならない。
動揺を隠せず、それでもあからさまに動揺してみせるのは情けなくて、必死に平静を装ってみても努力は形にならない。
「うわあ、ごめん!」
まだ立ったままのその人をどうしても真っ直ぐに見ることが出来ず、和秋は固まったように千種を凝視していた。
「ほんとにごめん、和くんがそんなに驚くとは思わなくて! ――この人、俺の兄ちゃんです」
千種が慌てて継いだ言葉に、和秋はこくりと頷いた。知っている、そんなことは判り切っている。千種と知り合ったのも、元々はその兄と和秋が知り合っていたのが原因だ。何を今更。
「そうじゃなくて、そうじゃなくて、一番目じゃなくて二番目のほう! 雅也兄ちゃん!」
こんなに動揺しているのがバレバレじゃあ格好がつかない、とっととこの場から逃げ出したい、そんな気持ちを押し殺しながら耳に入れた千種の言葉は、脳みそに到達するまでやけに時間がかかった。
「……二番目?」
恐る恐る尋ねると、力強く千種が頷く。
「そう、二番目! 二番目の兄ちゃん!」
強い口調で言い聞かせられ、和秋は固まったままの視線をぎこちなく、佇んでいるその人の方向へと動かした。
顔を思いっきり顰めているその人は、相変わらず薄暗い照明にはっきりと顔は見えない。しかし髪形が違う、ほんの少し――声が違う。そして、仕事帰りなのか、サラリーマンらしいスーツを着ている。あの人はスーツなんて着ないはずだ。
「――二番目二番目連呼すんなよ」
思わず凝視してしまった和秋の視線を受け、雅也はひどく居心地悪そうにネクタイを緩めた。
「こないだまで地元離れてたんだけどねこの人、左遷されたらしくて今月からこっちで働いてんの」
「適当なこと言ってんなよおまえ。左遷ってなんだ左遷って」
「え、違うの?」
尋ね返す千種の声は至って真面目だ。本気でそう思っていたらしい。
「違う。むしろ昇進」
「え、めでたい」
返したのは和秋だ。最初こそ戸惑いと緊張で上手く口が廻らなかったものの、雄高とは別人だということが判ってしまえば何のことはない。千種の友人、つまり初対面の人間を交えて食事することはこれまで何度も経験している。
「あんま目出度くないんだよ。人手が足りてないから」
むしろ責任重大で面倒臭い――そう冗談のように付け足して、あの人に良く似た顔で、雅也は人懐っこく笑った。
「だからねー今日のお財布係はシャカイジンだからねー遠慮なく食べていいよー」
会話に割って入った千種がのんびりと笑ってメニューを和秋に押し付けた。それを躊躇いながら受け取って、そういえば、と雅也に視線を向ける。
「俺も奢ってもろてええんですか?」
「あ? いーよ別に。ついでだし。ってか千種は先におまえと約束してたのに俺が割り込んじまったからな」
悪かったとすまなそうに僅かに顔を顰めた雅也は、千種の頭に拳を乗せ「おまえは少し遠慮しろよ」と忠告するように言い足した。
「なんで俺が遠慮すんの。それって意味ないじゃんお祝いじゃん俺の」
拗ねたように唇を尖らせてみせた千種は、今春大学の四回生になったばかりだが、とても成人済みには見えない。言動も態度もひどく幼いのだ。これでいて、付き合っていくうちにしっかりしている部分も見えてくるのだから、人間と言うものは本当に判らない。
「――祝い? なんの?」
和秋が鸚鵡返しに尋ねると、千種はグラスを傾けながらあっさりと言って退けた。
「俺ねー、誕生日だったの」
「え、嘘。ほんまに?」
「うん。だから兄ちゃんが奢ってくれるって言っててさー、この人の空いてる日が今日しかなかったんだよ。でも今日は和くんと約束してんじゃん? だから俺と和くんの二人分奢ってくれるんなら今日でいいよって」
「ていうかそれあかんやん、俺が。邪魔やない?」
それどころか千種の誕生日すら知らなかった和秋は、当然祝ってやろうという考えもなく、完全にそのめでたい記念日をスルーしていた。――拙い。
「ごめん、俺全然知らへんかって……」
「だって言ってないもーん。知らなくたって当然でしょ。良いよもう過ぎちゃったことはさあ。呑もうよ。どんだけ呑んでも俺の財布も和くんの財布も痛まないんだよ? ちょっとすごいことだよこれ」
「だからおまえは遠慮しろっての」
雅也はひどく厭そうに顔を顰めた。
(――ああ、)
唐突に胸のどこかが痛んだ気がして、和秋は努力して笑顔を保たなければならなかった。
こんな仕草は本当に良く似ている。
あの人も良くこんな風に顔を顰めていた。ごくたまに面白がって困らせてみたときに、あの人はこんな顔をして、自分はそんな表情を見るのも好きだった。
良く似た人を目の前に長時間笑っていなければならないのは、ある意味苦痛だとぼんやり思う。しかし雅也に罪はない。
新しくオーダーしたグラスが運ばれて来る。グラスを揺らせば、ゆらゆらと美しく液体が波立った。和秋はその小さな波を眺めている振りをして視線を落とす。
馬鹿みたいだ、本当に馬鹿みたいだ――
「――からさ、今度いつ空いてんだよ兄ちゃん。あんたのスケジュール空かないと決まんないじゃんか」
「社会人舐めんなよおまえ。――来週、は無理だな。再来週なら空いてるかもしれない」
「なにそれ、そんなに忙しいのファミレスって。時間遅くなっても良いからさあ、来週くらいにしようよ」
兄弟の会話がどこか遠くで交差している。切れ切れに耳に届く言葉で、どうやら何かの計画を立てていることは理解出来るが、それ以外は何を話しているのか全く判らない。二人の意識が自分に向いていないのを良いことに、和秋は小さな溜息を吐く。会話に割り込んでいく元気もない。
「ねえねえ和くん、和くん今度いつバイト休み?」
いきなり話を振られてはっと我に返った和秋は、しどろもどろになりながら問いかけに答えた。
「え、えと――来週の水曜日」
「じゃー決まりだ。来週の水曜日ね」
「――おい、千種……」
「うっさいよもう。兄ちゃんの仕事のことなんか考えてたらいつまで経っても決まんねーの!」
「なんかって……」
呻くように呟いた次兄を綺麗に無視して、千種はにこにこと笑いながら和秋に告げた。
「和くん、来週の水曜ね。ここで。時間は今日とおんなじで良い?」
良い?なんて可愛らしく首を傾げられたって。
「……うん」
何の話か全く飲み込めなかったものの、まさか全く聞いていませんでした、もう一度話を最初から――などと言える厚かましさを持ち合わせていない和秋は、頭を疑問符でいっぱいにしながらもこくりと頷いた。
「来週の水曜日って――俺仕事上がり十時だぞ十時」
「それから来たら良いじゃんか、決定事項はもう変えられませーん。ねー和くん」
――いや、だから何の話。
そう問いかけたいのは山々で、しかし和秋は頷いた。
とにかく来週の水曜日、自分はもう一度この店を訪れなければならないようだ。
仕事を終えるのが十時だと言う雅也も同じくだ。翌日も仕事があるだろうに。少し気の毒になって、伺うように雅也を見ると、彼は仕方ねえなとでも言うように苦笑していた。末っ子に甘いのは本当のことらしい。
「兄ちゃん呑まねーの?」
「車で来てんだよ。呑めねえの」
「んじゃ和くん送ったげてよ。同じ方向なんだよ。和くん、それで良い?」
相変わらず千種のペースで続けられる会話に、和秋は頷くことしか出来ない。
「ええの?」
「いいよ帰り道だしね」
「――おまえが言うんじゃねえっつの」
呆れ果てた表情を作った雅也が、千種の額を思い切り指先で弾いた。
デコピンされたことを根に持っているらしい千種は、次兄を無視して和秋にだけ「じゃあね、ばいばい」と手を振った。
「……つまんねえことで拗ねやがって」
弟から「ばいばい」の一言も貰えなかった雅也は、憎々しげに吐き捨てるとキーを回す。その横顔がどことなく寂しそうに見えるのは、思い違いではないはずだ。
そう言えば兄弟が顔を合わせるのは随分久し振りだと言っていた。仕事で地元を離れていたというのだから当然だろう。きっと雅也は可愛い可愛い弟に会うのを少しは楽しみにしていたはずだ。
「仲ええなあ……」
思わず零れた言葉に、サイドブレーキを上げながら雅也は眉を顰めた。
「男兄弟なんてあんなもんだろ」
「――俺、兄弟おらへんから」
「一人っ子か。そんな感じだな」
雅也は笑うとギアを入れ、静かに車を発進させる。心地好い揺れに身を任せると、うっかりそのまま寝入ってしまいそうな気がして、和秋は会話を続ける努力をした。
「――一番上のお兄さんとは、仲悪いんやろ」
「……千種が言ったのか? 無駄なこと喋りやがって」
ハンドルを切りながら雅也は器用に煙草を咥えた。
「……仲が悪いってわけじゃねえ」
どこか拗ねたように、雅也は小さな声で返す。
「雅也さんが一方的に嫌ってるって言うてたで、千種くんが」
千種とは違った意味で人懐っこい雰囲気のある雅也相手には、和秋も気さくに話すことが出来た。三人揃ってここまで性格も喋り方も違うのは珍しい。
「嫌ってるわけでもねえよ。そういう簡単な問題でもなくてだな」
「コンプレックスやったっけ? 千種くんが言うてたけど」
「ああもううっせえな、黙っとけ」
「コンプレックス感じなあかんほど、出来のいい人でもないやろ」
「……兄貴のこと知ってるのか?」
どうやらそこまでは聞いていないらしい。和秋は「ちょっとだけ」と嘘を吐いた。
「元々あの人と知り合いで、千種くんとも知り合ったから」
「そんで今は千種の方が仲良いのか? 面白いな」
「うーん……」
詳しいことを話す必要はないだろう。どうせ本当のことなど言えやしない。千種にも「もう二度と顔を見たくもないくらいの喧嘩をした」と話しているのだ。言い訳を考えなければならないのは案外面倒臭い。
「……ああ、だからか」
煙草を横に咥えた雅也が、唐突に呟きを落とす。
「何?」
「おまえ、今日の夕方本屋にいなかったか? 兄貴の本の広告ずっと見てただろ」
さすがに車内が白くなる。窓を開けようと手を掛けた瞬間、投げ付けられた言葉に、一瞬動きが固まった。
「――雅也さん、あの本屋におったんや……」
あの突き刺さるような視線の中に雅也のものがあったのかと、和秋は内心動揺した。兄の写真集の広告をただひたすらに見付めている客がいれば、雅也でなくともつい眺めてしまうだろう。迂闊だった。――世間は狭い。
「たまたまな。けっこう長い時間あの広告の前にいただろ? 物好きなヤツもいるもんだと思って見てたんだけど、あれおまえだろ。どっかで見たことある顔だと思ってたんだ。兄貴の写真、好きなのか?」
「好きやない」
思わず強い口調で否定してしまってから、はっと我に返る。
「……知ってる人の名前やったから、何やろって気になっただけで」
言い訳のように付け加える。明らかに不審過ぎる和秋の態度に、雅也は僅かな沈黙を返した。
「……別になんでもいいけどな」
開け忘れていた窓を手探りで操作して開く。心地好く冷たい空気が鼻先を掠めて、和秋は煙と共に外の空気を吸い込んだ。深呼吸するには汚れすぎている空気でも、あっさりと動揺してしまった愚かな自分を落ち着かせるには充分だ。
「なんで、俺の顔見てあんなに驚いてたんだ?」
「――……驚かへん方がおかしいやろ」
和秋は雅也の顔を見ずに、笑った。
「あんたたち、似すぎやねん」
――やっぱり辛いと、らしくもない切なさに、雅也に気付かれないように和秋はきゅっと唇を引き結んだ。
良く似た顔を目の前に見てしまうのは。
あの人の面影を求めてしまうのは、あの人を思い出してしまうのは……。
それきり雅也は口を噤み、また同様に和秋も口を開こうとはしなかった。どうせもう直ぐアパートに着いてしまう。尋ねられるままに道筋を答えるだけの短い会話が何度か繰り返された。
こんなふうに、あの人に道を尋ねられながらアパートまで送ってもらったことがある。出会った最初の朝だ。
今日はどこまであの頃とシンクロするのだろう。あの思い出たちは、どこまで自分を痛め付けるのだろう。
今日は何度雄高を思い出しただろう――。
それもこれも、あの写真集のせいだ。あの広告のせいだ。そして雅也が雄高に似ているせいだ。
和らいでいた痛みが再び膿み出しているのを確かに感じる。
目に染みる煙草の煙に和秋はそっと目を閉じた。
楠田由成の母親が逝去したと聞かされたのは、それからほんの数日後のことだった。
あの日倒れたその人が、とうとう逝ってしまった。
あの人が倒れたのが、あの日でなければ。ほんの何日、数時間でも遅れていれば、彼は行かないでくれたのかもしれない。
そんな「もしも」に縋るのは好きじゃない。
しかし由成の母の死は、和秋にとって所詮他人事でしかなく、気の利いた言葉なんて言ってはやれなかった。
神妙な顔をしていた和秋に、由成は笑って「似合わない」と言い、逆に気を遣われてしまった感がある。
「――じゃあ楠田、大変だったんだな」
「うん、もうだいぶ落ち着いたみたいやけどな。学校休んだんも二日だけやったし、今はわりと忙しそうにしてるけどサボったりはしてへんし」
「偉いな」
「うん、偉いな」
大仰な音を立てて残り少ないアイスコーヒーをストローで啜り終えると、和秋はグラスをソーサに戻した。目の前で後輩のことをしきりに感心しているのは、高校のクラスメイトだった清田真咲だ。
「いまいち実感沸かねえよな。この歳で母親がいなくなるなんての」
「そうやなあ……」
和秋の実父は、和秋が生まれて間もなく逝去している。元から記憶に残っていないその人の死を悼めるはずもなく、やはり清田の言葉に同意したい気分だった。
辛いのだろうと、雲を掴むくらいの曖昧さで想像する。
現在絶縁中の両親を思うだけで胸は痛んでいるのだから、もしもあの人たちが二度と会えないくらい遠くに行ってしまったらと考えれば、悲しみなど容易には想像できない。
「俺らなんかしあわせやわ。おまえらも」
しんみりと呟いた和秋に、清田はおまえに言われるまでもない、と冷たく返し、その隣に座っていた奥村拓巳は微かに笑ってみせた。
卒業後も清田は勿論、奥村とも月に数回は顔を合わせている。互いのアパートの場所がそう遠くはないことが関係しているのだろう。そうでなければ高校時代どれほど仲が良かったとしても、こうも頻繁に会うことはない。
「楠田ってあの楠田だったんだな。俺いまいちそういう噂に詳しくねえから知らなかったわ。おまえ知ってた?」
視線を流されて、奥村はこくりと頷いた。「あの楠田」と言われても和秋は今ひとつピンと来ない。
「どの楠田?」
「だからあの楠田だろ」
やっぱり良く判らない。
清田が言うには、楠田由成の父親は大手企業の社長を務めているらしく、何でもその血筋も有り難いやら尊いとやらで、楠田家は地元では名の知れた家らしい。血筋云々はともかく、会社名には聞き覚えはあった。
「楠田ってそんな有名なんか?」
「色んな意味で。――気になるなら工藤にでも聞けば良い」
自分は知らない、どうでもいいとでも言うように奥村は冷たく言い放った。と言っても彼自身は冷たい態度を取りたいわけではなく、これが素の喋り方であることにそろそろ和秋は慣れてきている。
「ほんなら大変やなあ……」
「……何が?」
「そういう大きい家ってあれやん。家督争いとか財産争いとか。なんやえらい大変そうで」
「……ドラマの見過ぎだ」
カップを傾けた清田は、底に残る紅茶を飲み干しながら呟く。
「大変なのはおまえもだろ。親父と仲直りしたのか」
そうやって何でもない顔をしてデリケートな場所に遠慮なく踏み込んでくる、これが彼の長所であり短所だ。以前はもう少しだけデリカシーがあった気がするものの、付き合いの長さと比例して清田の突っ込みは容赦がなくなってきている。
曖昧に笑いながら、さてどう答えようかと考えていると、清田が「痛ッ」と呻いた。
「……いい判断やなあ」
素知らぬ顔で紅茶を啜っている奥村が、机の下で何をしたのか知る由もない和秋は、ただそうやって笑ってから腰を上げた。
「矢野」
「今から人と待ち合わせしてんねや。ごめんな、慌しくて。バイト休み少ないから、休みの日はスケジュール詰まってんねん」
代金の小銭をテーブルに並べながら告げた言葉は、嘘ではない。ゆっくり話していきたいのは山々だが、この後は千種との約束が待っている。
「また部屋遊び行くわ。飯食わせてな」
大学進学と同時に同居を始めた二人のアパートは、所謂「愛の巣」と呼べないこともなかったが、当の本人たちは気にしている様子もなく、いつでも和秋の来訪を歓迎した。最初は遠慮していた和秋も、一年も経った今では、飯に困ったときにはちゃっかり相伴に預かっている。
「おう、いつでも来い」
どうやら思いっきり足を踏ん付けられたらしい清田が、痛みに顔を歪めながらも手を振る。
「おまえバイトどうにかなんねえの? そんなに休み少なかったらいつか身体壊れちまうんじゃないのか」
「せやかて生活費かかってんもん、がんばらな」
最近は学業が本業なのかバイトが本業なのか判断出来ない有様だ。稼げるのは良いけどと清田が眉を寄せるのも無理はない。
しかし甘えるわけにはいかないだろうと、和秋はその心配に首を振ったみせた。
あれもこれも自分で選んだことだ。
「……無理は禁物」
小さく呟いた奥村の言葉に、和秋は腹の底から笑った。
一週間という時間はほんの一瞬だ。最近は時間の流れるスピードが速すぎて、時折自分がどこにいるのかを忘れてしまう。忙しすぎるせいだと清田辺りは顔を顰めるが、多分そうなのだろう。悪く言えば余裕のない生活で、大学に上がってからというもの和秋は恐らく毎日をギリギリで生きている。良く言えば充実している生活だとも言えなくはない。
これでも大学に慣れるまでは苦労していたが、千種が先輩を紹介してくれたおかげで、他の学生に比べれば要領良くやっているはずだ。サークルに所属していない自分がこれほど楽を出来るのも、そして何故か顔見知りが多くなってしまったのも、全て千種のおかげだった。
殆ど毎日のように働く日々も、バイトが休みの日は休みの日でコンパに引っ張り出される日々にも慣れてきた。
だから思い出すことは、少なくなった。
胸が痛むことも。
優しい気持ちになることも。
なのにあの人は卑怯だ。
直接姿も見せず、自分を容易に動揺させてしまう。
――こんなのは、卑怯だ。
一週間前訪れたばかりの店は、相変わらず薄暗い。視線を巡らせた先には、予想に反して雅也の姿があった。やはりスーツ姿で、てっきり一番乗りは千種か自分だろうと思っていた和秋は、僅かに驚きながら「この間はどうも、」と頭を下げた。
「仕事、十時上がりやなかったんですか?」
「んー、まあでも、ちょっとむりすれば何とかなる範囲だから」
いかにも眠そうに欠伸を噛み殺しながら雅也はネクタイを緩めた。
「遅くなってもええって千種くん言うてはったのに」
「あんまり遅い時間だと帰っちまうらしいからな、あいつが。次の日仕事があるんだと。俺も仕事だっつーの」
明日は昼間からだけどと付け加えた雅也の言葉に、引っ掛かる部分を感じて和秋は口を開いた。
「帰るって千種くん? なんで?」
千種は自分と同じく学生のはずで、バイトをしてはいるが”仕事”という呼び名はどうにも相応しくない。遅くてもいい、そう言ったのは千種のはずなのに、帰ってしまうとは一体どういうことだろう。
「――おい、おまえ」
雅也はどこか呆然とした顔で、和秋を凝視した。
「やっぱりそうだったのか……」
呆れ返っているような雅也の表情に心当たりはなく、和秋は何のことかとただただ首を傾げた。
「おまえさあ。この間、俺とちいの話訊いてなかっただろ?」
「――……」
ちいとは誰だろう、三秒考えて思いつく。千種のことだ。
雅也の予想は大当たりでも、はいそうですとは答えられず、和秋は曖昧に笑って誤魔化した。
「いや良いけどな、判ってたから。――今日、兄貴が来るんだよ」
しかし雅也が言い難そうに続けた言葉に、笑顔は長く続かなかった。
「……誰?」
雅也は困ったような表情で、コツリとテーブルを指先で叩いた。
「だから兄貴。おまえが広告見てたあの本、昨日発売されたの知ってるか? あれの発売を祝ってやろうって千種が言い出して、この間はその相談をしてたんだ。本当はもっと早くやろうって話してたんだが、兄貴と俺のスケジュールが中々噛み合わなくてな。おまえも一緒にって誘ったのは単に千種の思いつきみたいだけど、」
似たような気分を、ほんの一週間前にも味わった。
和秋はこんなにも簡単に揺さぶられてしまう。――あの人に関することなら、何であっても。
「――祝いって……それ、写真集のことやんな? そんで、兄貴って……」
雅也の言葉を遮って尋ねると、彼はどこか複雑そうな表情で頷いた。
「最初におまえが俺と見間違った、雄高の方だ。――だから」
兄貴といえば該当する人物は彼しかいない。問いかけではなく、確認だった。
「……雄高さん、来るん?」
固まった唇を、ぎこちなく動かした。言葉は掠れて、吐息のように唇から零れる。雅也はまた頷いて、「だから、」と続けた。
「ちいは気にしてなかったみたいだけど、態度おかしかっただろ、あのとき。それで後から聞いたら兄貴のこと知ってるって言うし、何かあったんじゃねえかと……とにかく兄貴にまんま会わせるのが心配で早めに来てみたんだよ。――おまえ絶対あのとき話聞いてなかったから」
最後に呟かれた言葉は正論で、それ以前も全てが正しく中っている。
千種の話を理解していないまま和秋が適当に頷いてしまっていたこと、雄高に良く似た雅也の姿に動揺していたこと、それが雄高との間に何かしら確執があってのことだということを、――雅也は正しく見抜いていた。
「……何があったのかは全然知らねえけど。何なら今のうちに帰っとけ」
隠していたつもりのものを容易く見抜かれてしまっている自分を情けなく思う。
――あの人が、来る。
しかし何故か、雄高が来ることを聞いた今、それほどの動揺はなかった。少なくとも初めて雅也を見たあの瞬間ほどの胸のざわめきは、今はない。
どうしてだろうと考えるまでもなく、答えは出た。
――あのときあまりにも驚きすぎてしまったからだ。
「千種は仲直りだとか何だとか訳わかんねえこと抜かしてやがったが、第三者がとやかく言えることでもねえだろ人間関係っていうのは。兄貴と顔合わせるのが厭なら、今のうちに帰っとけよ」
「――…うん」
雅也を見た瞬間に死ぬほど驚き、そして動転した。あれが、結局は今夜の前振りになっているんじゃないか。似たような驚きに心臓が慣れてしまったのではないかと、和秋はどこか冷静に考えた。考えて、ほんの少しだけ泣きそうになる。
あともう少しここで待てば、あの人と会うことができる。あの人の顔を見て声を聞いて、言葉を交わすことができる。
自分はどんな顔をしたら良いのだろう、あの人はどんな顔で自分を見るだろう。最初になんて声をかけたら良いだろう、あの人は何と声をかけてくれるだろう――。
「おおきに、雅也さん。けど、多分大丈夫や」
――そんな逡巡は、全てひとつのことを前提にしている。
会いたい。
――会えたら。
「無理するなよ?」
――会えたら、あの人は。そして自分は。
「それ言われたん、今日は二回目や」
言い聞かせるように顔を覗き込んだ雅也に、和秋は少し無理をして笑った。
「千種くんが折角そう言うてくれたんやったら、シカトするわけにもいかへんし。――この間めっちゃ驚いたから、今日は多分平気や」
「――俺は別にどっちでも良いけど、」
雅也は納得の行かない表情を浮かべるとそう呟いた。傍観者を決めたようだ。
「……そんなに、大したことやあらへんから」
自分に言い聞かせるために、和秋は呟いた。
大したことじゃない。
あの日の別れも今日の再会も、大したことなんかじゃない。
――怒っているだろうか。それとも。忘れているだろうか。
今日は。
この間に比べれば、まだましなはずだ。
不意打ちではなく心の準備ができるだけ、まだいい。
ふいに、雅也の視線が動いた。その視線の先が扉へと向いていることを知った和秋は、咄嗟に唇を引き結ぶ。
――振り向くことは、どうしても出来ない。
足音が近付けば、どうしようもないくらいに心臓が跳ねた。悟られないように、膝の上で手を握り込む。
「うっわ、なんでもう来てんの兄ちゃん!」
しかし響いたのは、能天気な千種の声だった。
「遅くなるんじゃなかったのー」
「時間が下がりすぎると帰っちまうんだろ。――そっちのが」
――千種だったのか。
ふっと気を抜きかけた和秋に、続いた千種の声はそれを許さなかった。
「一緒に来たのか?」
「違う、さっき一緒になった。扉の前で。兄ちゃんさ、仕事って言っても昼からなんだって。全然大丈夫じゃん。俺と和くんは明日も学校だから適度なところで解散ねー」
えへへと屈託なく笑いながら、千種が椅子に腰を降ろす。
どうしようもない確信と気配を感じて、和秋は一度だけ固く眼を閉じた。
「何やってんの早く座んなよ今日の主役じゃん。おめでとー!」
「いや早いだろおめでとうは。おまえタイミング読めよちょっとは」
呆れた声で雅也が茶々を入れる。
その明るい空気に励まされて、和秋はゆっくりと視線を上げた。それでも、まっすぐに顔は見れなかった。
「――久し振り」
雄高はひどく驚いたような顔をして、佇んだまま和秋を見下ろしていた。
――少しだけ、泣きたくなった。
視界に入るその人が記憶に残っているままの姿だと、あまりの懐かしさに泣きたくなって、上手く笑えたかどうかが心配になる。
雄高は和秋の言葉には返事をせず、眉間に深く皺を刻むと弟たちを一瞥した。
「……どういうことだ」
響いた声は低く、そして冷たく和秋の鼓膜を打った。すぐに反らされてしまった視線とその声に心臓が止まりそうになる。
「わあ恐い顔。和くん恐がってんじゃん、いーから取り敢えず座りなよ」
「人が聞いてないことをやらかすからだ。――どういうことだと訊いてる」
雄高は和秋の姿を見ず、千種に向かって辛辣な口調で続ける。
存在を無視されなかっただけ幸いかと、和秋はそっと眼を伏せた。
これではっきりしてしまった。
――怒っているか、忘れているか。
後者でないことは確実で、前者である可能性が高く、少なくとも雄高にとって思い出したいとは思わない過去であることも、ほぼ確かのようだ。
――当然だ。
甘い自分の考えに、歯噛みする。
「……大人げねえな。座れよ兄貴、あんたが来るの待ってたんだ、俺もこいつも。腹減ってんだから取り敢えずオーダーさせろよ。言いたいことあるんなら後にして」
刺々しい口調で雅也が言うと、漸く雄高は腰を降ろした。重たい溜息をひとつ吐き出す。その溜息ひとつにすら反応してしまう自分が途轍もなく惨めで、和秋は握り締めた拳を更に強く握り込んだ。
浅はかだ。
いきなり姿を消したのは自分の方で、それを今更どの面下げて会いたいなんて言えたものかと、そんなことも考えなかった自分の浅はかさが厭になる。こんなふうに傷付いたりするくらいなら、あのとき雅也の言葉に甘えて帰っていた方が賢かったのだ。
「気にしないでいーよ、和くん。この人驚いてるだけだから。あと超動転してるだけだから」
和秋の隣の席に腰を降ろした千種が、耳に唇を寄せてこっそりと耳打ちした。声が笑っている辺り信憑性は低い気がするが、和秋は一応小さく頷いた。
雅也がオーダーを済ませ、四人分のグラスが運ばれてきた頃には、和秋はどうして自分がここにいるのか良く判らなくなってしまっていた。
目の前で会話を交わす和気藹々とした――とは一部言えないが――三人は、間違いなく兄弟で、そのうち二人は説明されずとも一目見て血縁者と判る。その中にどうして自分がいるのだろう。居た堪れなさに逃げ出したい気分を殺して、努めて冷静に和秋は口を開いた。
――耐えられないのは、
「千種くん、俺帰ってもええ?」
小さな声で、千種に囁く。
「え、なんで?」
「ん。……なんや兄弟で仲良くやってんのに、あれやん。家族団欒邪魔してるみたいで申し訳ないし」
「いーよそんなの、この歳で家族団欒ってさあ。ていうかアレ仲良く見える? いつもの口喧嘩だよあんなの」
千種が視線を流した先では、雅也が一方的に雄高に噛み付き、雄高が静かにそれを受け流しているという、ひたすらな口喧嘩が繰り広げられている。口喧嘩というよりはじゃれ合いに近い。
「……帰るわ」
耐えられないのは、雄高が自分を見ない、ただそれだけの事実だ。
自分の方は痛いくらいに雄高を気にしているのに、雄高はまるで自分のことなど忘れてしまったかのように、見向きもしない。
優しかったあの人に、優しくされないこの状況に、これ以上耐えられそうになかった。
引き留める千種の言葉に首を振り、じゃあ、と腰を上げかけた和秋の腕を、誰かが強い力で引き止める。
痛いと眉を寄せかけ、その腕の正体を知った瞬間、和秋は声を失った。
「……帰るのか、」
短く問いかけたその言葉の後、雄高は掴んだ和秋の手首を引っ張って強引に席へと座らせる。
「もうすぐ料理が来るからそれだけでも食っていけ。どうせ勘定はこいつら持ちだ」
「……その通りでもあんたに言われると面白くねえよな……」
「そうだよー食べていきなよー。この間酒中心であんま食えなかったじゃんか、だから今日は食べとこうよ。お腹空いてたんだろ?」
三人続けて畳みかけるように言われれば、和秋もこくこくと頷くしかない。
和秋が頷いたのを確認してか、雄高の指はすぐに手首から離れていった。
やがて料理が運ばれて来て、肉が旨いだの魚が旨いだのと勧められるままにそれを口にしても、実際味など少しも判らなかった。
テーブルの下に隠して、今はもう自由になった手首を、そっと指でなぞる。
引き留めた力が痛いくらいに強かった。
――だから、
もう少しだけと言い訳をして、和秋は中々飲み込めない肉の塊を、正体のわからない液体で無理矢理喉へ流し込んだ。