最後の夜に



「やばい。ぜってーやばい」
 頭を抱えている清田の片手には、白いプリントが握られている。無視するのはさすがに気が引けて、和秋は「何が、」と尋ねてやった。もう一人会話に参加しているはずの奥村は、そもそも清田を慰めてやろうという気がないらしく、さっきから読み耽っている雑誌から顔を上げようともしない。
 尋ねたものの、清田の嘆きは判り切っている。先日行なわれた実力テストのことを言っているのだ。ついさっき、その結果が返された。
「なんで今になってここまで成績が下がるんだ……」
「油断したんやろ」
「それに反論出来ないのが痛えよいっそ……」
 本気で落ち込んでいるらしい友人を横目に、和秋は紙パックのジュースをストローで啜り上げる。
「つかおまえそれ美味いの?」
 チュルチュルとジュースを吸い上げる和秋を見て、清田は大袈裟に顔を顰めた。
「うーん……意外と」
 いちご抹茶と書かれた小さなパックを先程自販機で見付け、興味半分で買ってみたのだが、意外なことに大当たりだった。美味いのだ。今日は運が良い。
「いちごと抹茶って相性ええんかもなあ、大発見や」
 思わず唸ってしみじみと紙箱を眺めてしまう。清田は頭を掻き毟った。
「悠長なこと言ってんじゃねえよ、おまえまだ進学先すら決まってねえんだろ?」
「見当はつけてんけどなあ」
 割合早い時期から志望校を決めていた清田や奥村と違い、中々ここ、という大学が見付かっていないのは確かだった。だからと言って就職する気もない。
「まだ親とも話してへんしな。近いうちに大阪帰らなあかんかも。面倒や」
 溜息を吐いた和秋に、奥村が漸く雑誌から視線を外して顔を上げる。
 一応会話は聞いていたのか、眉間に皺を寄せた奥村は和秋をじっと見つめた。
「面倒なんて言ってる場合か」
「だな。さっさと話して決めて来いよ、志望校。決めるの遅くなれば遅くなるほど後からキツい思いすることになるぜ」
 二人して畳みかけるように言われ、和秋は思わず黙り込む。
 判っとる――負け惜しみのようにそう呟いてから、空になった紙箱をぺしゃんと押し潰した。
 逃げられない距離まで来てしまっている。
 直接対決は、きっともうすぐなのだ。
 
 
「おーい、矢野」
 どこかのんびりとした声で引き止めた声に、和秋は駆けていた足を止める。声は覚えがあるもので、そろそろ聞き飽きてきた感の強いクラス担任のものだ。
 のんびりとした性格はそこそこにうけがよく、しかし無闇に生徒に干渉したがるのは頂けないというのが、彼についての評判だった。
「すみません」
 てっきり廊下を走っていたことを咎められるのかと思った和秋は、肩を竦め頭を下げる。
「ちゃんと早足で帰ります」
「駆け足も早足も危ないよ。いや、違う違う。そうじゃなくってね」
 担任の教師は和秋を手招きすると、「ちょっといいか、」と首を傾いだ。
「あー……」
 この後はバイトが詰まっている。しかし正規の許可を得ていない和秋は、それを告げることが出来ず、渋々頷くと教師の後に続いた。
「本当は進路相談室の方がいいんだろうけど、遠いからね」
 教師はそう言って、和秋を近くの理科準備室へと招いた。
「ちょっと埃臭いけど我慢してくれ、ああ座って」
 粗雑に置かれた古い椅子を示されて、和秋は時間を気にしながらも腰を降ろした。わざわざ人気のない場所に誘われたとなれば、それなりに込み入る話をするつもりなのだということは予想がつく。ダッシュでバイト先に向かえば何とか間に合うだろうか。
「それでね、大学のことだけど」
 担任が切り出した言葉は、和秋の予想通りのものだった。
「この間の進路希望調査のとき、矢野は白紙だっただろう。進学するつもりはあるみたいだけど、まだ大学は決まっていないんだよね?」
「はい」
「気になってるところもない?」
「……はい」
 正直に答えた。
 それこそ朝、清田や奥村と交わした会話通り、和秋の進路は今だ定まっていない。
「できれば地元で、て、考えてるんですけど」
「地元っていうのは大阪?」
「いえ、……ここで」
 担任は難しい顔をして腕を組んだ。
「そうかあ。こっちの大学っていうなら、まあ判らない部分が多いから決め難いのかもなあ」
 地元の人間に比べれば、どうしても和秋の情報は限られてしまう。だからこそ、決め兼ねている。清田や奥村と違って、そこまで真剣に学ぼうとする志もない和秋には、どこの大学も同じようなものに見えてしまうのだ。
「成績で決めるっていうんなら、先生も幾つか進めてやれる大学はあるんだがな。そういうのはなあ……」
「……はあ」
 心配されているのは判るが、和秋はただ苦笑を返す他なかった。この時期、のんびりしすぎていると指摘されても仕方がないくらい、和秋の将来に関するビジョンはぼやけている。
 疑ったことがなかった。
 走り続けることを。
「……ここだけの話なんだがな」
 何がここだけの話なんだと、和秋は眉を潜める。言い方が穏やかではない。
「おまえが欲しいって言ってくれている大学も、あるんだよ。この間、その大学の陸上部の監督さんから直々に電話があって――」
 握り締めた指先だけが反応した。
「おまえが陸上止めてから……一年か?」
「……もうすぐ、二年になります」
「そうか。ブランクは大きいが、努力でカバーできないほどじゃあないだろう。考えてみる気は――」
「どこですか」
 言葉を遮って切り出した和秋に、教師が目を丸めるのが気配で判る。
 これは、三年前と同じパターンだと、和秋はぼんやりと思い出した。
「どこの大学で……監督って、誰ですか」
「……おまえも知ってる人だろうな」
 教師が口にした名前は、彼の予想通り和秋の胸を揺さぶった。
「はい。大阪のとき……お世話になった、監督です」
 たった今聞いた大学と隣接する高等部に、つい最近まで自分は所属していたのだ。つい最近といっても、もう一年半がすぎている。そんなに経つのかと、和秋は指先を強く握り締めた。
「高校のときのおまえも良く知っていると言っていたよ。今は大学部の方の監督を任されているようだ。それでおまえをこっちに戻したいと――」
 今更、今更何を言うのだろう。
 罵った、その同じ口で。
「……考えて、おきます」
 動かない足を、役立たずだと、期待外れだと罵ったその口で、何を今更言うのだろう――。
「先生、俺もう帰ってもええ?」
 和秋は顔を上げると、動かない足を無理矢理奮い立たせて立ち上がる。
「ああ。悪かったな、引き止めて。ちゃんとよく考えておけよ」
 まだ、凍り付く。
 思い出せば背筋を凍り付かせる、足を痛ませる、あの言葉を漸く忘れかけていたのに。
「……はい」
 いつまであのころの思い出は自分を打ちひしがせるのだろうと考えながら、和秋は少しだけ笑って頷いた。
 今更と思うのに、それでもまだ求められていることをどこかで喜んでいる自分が、唐突に哀れになった。



「恵先生、」
 その日バイト先から帰って来た和秋は、連絡なしに表れた父親の姿に眼を見張った。まったくこの人は始末が悪い。いつだってアポなしだ。
「今日はバイトだったのか? 遅かったな」
「うん。――すまん、待ったやろ?」
 慌てて部屋の扉を鍵を使って開ける。どうぞ、と中へ招くと促されるまま恵史は扉を潜った。テーブルの横、窓際に背を向け、恵史は胡座を掻いて座り込む。
「――どしたん、今日は」
 尋ねながらも、和秋はどこかで予感していた。
 そろそろ、直接訊かれても良い時期だ。
「ちょっと話したいことがあってね」
 曖昧なまま逃げるわけにもいかないだろうと諦める。
 自分の答えなら、もう何ヵ月も前から決まっていた。
「……進路のこと?」
 そう遠くはないキッチンでコーヒーを淹れながら重々しく切り出すと、恵史は困ったように小さく笑った。
「……勘がいいね」
「そういう時期やからな」
 今日も学校で進路に関する指導が行なわれたばかりだ。すでに推薦や指定校枠やらで合格をもぎ取っている生徒もいる。
 恵史が改まって自分に話さなければならない用件といえば、それしかなかった。
 勝負時や。
 和秋は唇を引き結ぶと、湯気を立てるカップを両手に持って恵史の元へと向かった。



「――だから和秋。もう良いんだよ。もう良いから、帰っておいで」
 懇願するように続けられた言葉に、少しだけ心が揺れた。
「もう、陸上が辛いなら無理に続ける必要はない。だから、帰ってきてくれ」
 それは間違いなく懇願だった。
 困り果てて、和秋は眼を伏せる。真っ直ぐに義父の顔を見ることがどうしても出来なかった。
「……けど先生、ほんまはずっと、俺に陸上やらせたかったんやろ」
「そんなこと……」
 口篭もる恵史の動揺を的確に見抜いて、和秋は少しだけ笑った。
 陸上と言うスポーツは、言ってみれば自分と恵史を繋ぐ大切な糸だ。それがなければならないと信じていた。それがなければ、省みてもらえないと信じていた。
 この人は期待していたはずだと、確信に近く思う。
 自分が見ることの出来なかった世界を、和秋に託したいと心のどこかで、強く願っていたはずだと。
 ――だから自分は愛された。
「……俺が、ここにおりたいって言うても、駄目なんか」
「和秋――困らせないでくれ」
 恵史は人の良さそうな穏やかな顔を、悲痛に歪めた。
「陸上のことは――もう、ええねん。こっちにおった間に、整理がついた。……走るんは、まだ好きや。けど……」
 その痛ましい顔を見れない和秋は、顔を俯かせたまま続ける。
「先生には、ほんまにごめん。正直足はもう……多分、痛ならへんと思う。けど、今の俺には、走ることが大切や思えへんねん」
「だったら……」
「でも、俺、ここから離れたないよ。帰りたない」
 どうか判ってほしい。祈るように思いながらも、和秋は詳しく話すことを避けた。もちろんこの土地を離れたくない理由のナンバーワンは不毛なもので、胸を張って話せるわけなどない。
 しかしそれだけが理由でもない。和秋がここで手に入れたものは、あの冷たい場所では絶対に手に入らなかった。
 友達だとか、恋人だとか。そんな名前の、暖かな人間関係を失いたいとは思わない。
「――やっぱり、俺が理由なのか」
「違う。……それは、違うって、何回も言うてんやんか」
 同じ問い掛けを繰り返す恵史に、少しだけ哀しい気持ちになりながら和秋は重ねて言った。
 それだけは違う。
 決して、恵史と母が結婚することを快く思っていたわけじゃない。
 苦しくて苦しくてどうしようもなかった時期は――もう、とうの昔に終わっていた。
「頼む。帰って来てくれ、和秋」
 強い口調で言ったかと思うと――恵史はいきなり、和秋に向かって頭を下げた。ただ頭を下げただけではない。額を床に擦りつけて、土下座して見せたのだ。
「な……せ、せんせっ」
 慌てて顔を上げさせようとしても、恵史は少しも動こうとせずに言葉を続けた。
「俺だけじゃない。弓子さんだって寂しがってるんだ。弓子さんは俺と再婚して、少しでも仕事に余裕が持てるようになったらおまえに構ってやれるって――そう言って、ずっとおまえが帰ってくるのを待ってたんだ」
「――かあさん、が?」
 初めて知らされた事実に驚愕した。
 母は昔から仕事の虫で、それは母子家庭で息子を育てていかなければならない母親としては当然の姿ではあったものの、和秋は幼少時まともに母に構われた記憶などなかったのだ。
 それも仕方がないことだと知っていた。母に愛されていないと思ったこともない。あのひとはあのひとなりの遣り方で自分を愛してくれた。
 独りで過ごした幼い日々を、恨んではいなかった。
「俺と再婚を決めてくれた一番の理由は、それなんだと思う。収入が増えれば、今までみたいに弓子さんが仕事で無理をする必要もなくなるだろう。空いた時間をやっとおまえのために使ってやれるって――何度も、嬉しそうに話してた」
 寂しいと思うことはあっても、恨んだことはなかった。
 ええ子や。和秋、もっとがんばりや。――そう言って撫でてくれた手が。
 やさしかったから。
「弓子さんのためにも、帰って来てくれ。もうあのひとは――おまえの帰りを、二年も待ってる」
 あの女は、素直じゃない。
 稀にではあるが実家に帰った和秋に対して、彼女は親不孝者だの二度と帰って来なくて良いだの、罵詈雑言しか浴びせなかった。しかし会う度に見せる、不機嫌なくせにやけにはしゃいでいるような、そんなアンバランスな印象が、不思議と記憶に残っている。そのはしゃぎ様は新婚で気が浮ついている所為だと思っていたけれど――
 嬉しかったのか。
 あのひとは、たまにしか顔を見せない自分の帰りを、喜んでくれていたのか――
「……先生、」
 新婚だからと気を遣って帰ることをしなかった自分を、和秋は悔やんだ。
 そんなふうに、待ってくれていた人の存在を知らなかった。
 それでも答えは決まっている。
「――ごめん」
 自分は結局、親不孝者なのだ。
 最初から最後まで、この人の息子にはなれなかった。
「俺、帰りたない。ここにおりたい。ここで……進学したい」
 あの場所には、ここで手に入れたやさしい人たちがいない。
 あの人がいない。
「――どうしても?」
 過去、誰よりも大切だった恵史を裏切ってでも。
「……うん。ごめん」
 自分を想ってくれる、素直じゃない母親を悲しませても。
「仕送りを止めると言っても?」
「――うん。そこまでは甘えてられへんよな、さすがに。……自分で、何とかする」
 恵史は顔を歪めて沈黙した。
 どうしてここまで頑なに和秋が拒むのか理解できないのだろう。理解して欲しいとも思わなかった。自分が今同性と付き合っていることを知らせてしまえば、親不孝者どころではなくなってしまう。
「――判った」
 喉の奥から振り絞るかのように響いた恵史の声は苦々しかった。
「もう好きにしなさい。――二度とここには来ない」
 憤りを押し殺して告げられた言葉に、ああ、と思う。
 今、見限られた。
 大好きだったこの人に、たった今見限られた……。
「……ごめん、なさい」
 恵史はそのまま無言で立ち上がると、真っ直ぐ扉へ向かい和秋の部屋から去って行く。背中を呼び止める暇もなかった。
 きっと怒っているのだろう。
 そして同じくらい傷付けた。
 自分が傷付けたのは、恵史だけじゃない。母も同じくらい悲しむはずだ。
 最初から最後まであなたの善い息子ではいられなかった。
「――ごめんなさい」
 それでも、どうしても手放したくなかった。
 自分勝手でも何でもいい。どうしても離れたくないひとがいるのだと、もしも恵史に告げられていたら。
 少しは許されただろうか。
 あのころ、恵史によって癒されそして同じように恵史によって齎された傷を、本当に癒してくれたあの人の傍に、どうしてもいたかったと――告げて、いれば。
 それだけは出来ないと、首を振る。
 そんなことを言ってしまえば、もっと恵史を傷付ける。そして、当惑させてしまうに違いない。
 和秋は一度も口を付けられなかったコーヒーカップを引き寄せ、それを口元に運んだ。
 苦い。
 雄高は――何と言うだろう。そう考えて、和秋はほんの少しだけ笑った。あのひとはきっと何も言わない。
 帰るのも帰らないのも和秋の自由だと、そう言い放つに違いない。
 だけど一度でいい、一言でいい、傍にいろと言ってくれたら。
 恵史と母から見捨てられても構わないと思った。この選択を後悔することはない。
 一度でいい。一言でいい。それだけで忘れられる。恵史に見限られた辛さも、母を裏切った後ろめたさも忘れられる。
 願う気持ちとは裏腹に、決して欲しい言葉をくれない雄高を思って、和秋は少しだけ泣いた。
 ひとりでなにかを決めるには、自分はまだ幼すぎたということに、このとき和秋は気づかなかった。