そのときあの子は、不思議そうに首を傾げて、隣で頭を下げる兄を眺めていた。
友人の言葉通り、綺麗な子供だというのがその子の第一印象で、その分やけに表情のないその子を少しだけ哀れに思った。
――雄高、俺を助けてくれ。
その言葉にはどんな感情が混ざっていたのだろう。子供を哀れむ気持ちが強かったのか、それとも何があってもこの子を守らなければならないという義務感がその心を占めていたのか。
この子を守れるのは自分しかいない、だけどこの手は余りにも無力だから。
力を貸してほしいと、あの日彼は、多分はじめて自分に頭を下げた。
頭を下げる兄の姿を見て、その綺麗な子供は――ゆっくりと頭を下げた。
兄の動作を真似るかのように、ぎこちない仕草で、雄高に向かって頭を下げたのだ。
あのとき何が自分を揺るがしたかと言えば、それは友人の言葉ではなくて、
何もかも覚え立ての動きで自分に頭を下げた、あの子をひどく哀れに感じただけなのかもしれない。
哀れむ感情は、愛おしい気持ちに良く似ていた。
暇だ。
どうにも余ってしまった時間に嫌気が差して、雄高は手にしていた雑誌をテーブルに放り投げた。
急く必要のない仕事ばかりは山積みになっていたが、いまいち手をつける気にもなれない。そのままぼんやりと煙草の箱を引き寄せ掛けた瞬間、、携帯が軽やかなメロディを奏でた。
着信表示には、今現在取材で他県に出ているはずの友人の名が表示されていた。
「――どうした?」
『由成の傍にいてやってくれ』
わざわざ取材先から何の用だと思いながら通話ボタンを押す。のんびりとした雄高の応対を急かすかのように、友人の上擦った声が鼓膜を打った。
『俺も今、仕事を片付けて帰ろうとしてるんだが、今からじゃそっちに着くのは夜中になっちまう。それまでの間、あいつを一人にしないでくれ』
「……何があったんだ」
いつになく緊迫した恭一の声に、さすがの雄高も姿勢を正した。何かしら非常事態が起こっていることだけは判る。
『貴美子さんが倒れたらしい』
「――貴美子さんが?」
貴美子という名の女は、由成の実母であり、また恭一の継母でもある女だ。その女が倒れたのなら、確かに緊急事態だ。
「……容体は?」
僅かに声を抑えて尋ねると、静かな沈黙が返る。
「……恭一、」
『俺も詳しいことは判んねェんだ。ついさっき親父から連絡が入ったばっかだからな。今手術中らしい。由成はまだ家にいる、拾ってから病院まで付き添ってやってくれ。俺も後から行く』
「――拙いのか」
『良く判ンねェって言ってんだろが。――ただ、……』
恭一は言葉を濁し、黙り込んだ。
明言することは避けているものの、貴美子の容体がかなり思わしくないことは事実のようだ。まさかあの人が、と内心の驚きを隠しながらも、雄高は頷いた。
「できるだけ急いで帰って来いよ」
『ああ、判ってる。――頼んだ』
恭一は病院名を告げると、慌しく通話を切った。彼が相当に混乱していることは想像出来る。雄高自身もある程度の困惑は隠し切れない。
人の命がある日突然失われてしまう、呆気無いくらいに儚いものだということを雄高は充分知っていた。だからこその動揺と、焦りだ。
貴美子は強かな女だ。殺されたって死なないだろうと思えるほどに気が強く、頑丈な人間だった。――精神的には。
その女が倒れたという事実は、恭一や雄高以上の混乱を由成に招いているに違いない。
恭一の不在を狙って訪れた不幸に舌打ちする。由成にとって恭一は精神安定剤だ。その精神安定剤が不在の今、由成がどれだけの不安を抱えながらあの広い家で一人待っているのだろうと考えると、厭でも気が逸る。
ソファに投げ出していたコートを引き掴み、車のキーを壁から引き抜くと慌しく玄関に向かう。
玄関の扉を開いた瞬間、今まさに鍵を取り出して扉を開けようとしていたらしい和秋と鉢合わせた。
「ええタイミングやなあ……出かけるとこ?」
雄高の顔を見るなり、和秋は奇妙に顔を歪めて笑った。
どこか痛々しい笑顔で自分を見上げる和秋の姿に、訳の判らない焦燥が生まれる。
――何かが欠落してしまう、そんな気味の悪い予感に似た思いが浮かんだ。
「――……何かあったのか」
「……なんもない」
しかしそう答えた和秋の顔は、どう考えてもいつも通りの笑顔ではなかった。和秋は何かを懸命に堪えるかのようにきゅっと唇を引き結ぶと、そのまま顔を伏せてしまう。
「……出掛けるんやろ?」
「……中で待ってろ、すぐ帰る」
今すぐ抱き締めて話を聞いてやりたい衝動に狩られた。しかしそんなことをしている時間はない。
こうしている間にも、刻一刻と喪われていくものがある。それを嘆いて悲しんでいる子供がいる。
抱き締める代わりに和秋の頭を軽く撫で、雄高は和秋を追い越してエレベーターへ向かった。
和秋が動きを見せないことが気になったが、それでも迷いを振り切るように足を進める。
「行かんといて」
背中に、唐突な呟きが投げかけられた。
無理矢理押し出したかのように掠れた声に、雄高は一瞬だけ動きを止めた。
まさかと思う。まさか、彼がこんな言葉を口にするなんて。
「……今、行かんといて。頼む」
良く考えれば、彼の声に悲愴な何かが含まれていたことや、俯いた顔に痛ましげな表情を浮かべていたことに気付いていたのかもしれない。
「頼むから……今は、傍におって」
しかし雄高は考えることをしなかった。
考えれば動けなくなる。
人の命がかかっている。
「――すぐ戻る」
答えはすぐに出た。
今、和秋の傍にいてやることを選んで、もしもその間に貴美子の命が喪われてしまったら、自分はどれほど後悔するだろう。今由成の傍にいてやれるのは、自分しかいないと言うのに。
そして恐らく、それを知れば和秋も酷く自分を嫌悪するに違いない。だから雄高は敢えて由成の傍にいてやることを選んだ。
今は独りにしてしまうかもしれない、けれど自分は必ず帰って来る。そんな意味を込めて告げた言葉に、しかし和秋は俯いたまま動こうとしなかった。
時間はただ流れていく。この合間にも、貴美子の命が削られていっているのかもしれない。
雄高は今度こそ振り返らずに、その場を去った。
――和秋が静かに泣いていることに、気付かないまま。
由成を車で拾ってから直接病院に向かうと、既に由成の父親――庸介が先に病院に到着していた。
手術中、煌煌と光るそのランプの元、庸介は丁重に雄高に頭を下げた。
内心、雄高は驚愕していた。庸介はひどく多忙な人なのだ。経営者という立場上、まさか自分たちよりも先に庸介がこの場を訪れているとは思っていなかったのである。
庸介は、自分はすぐに病院を出らなければならない、恭一から話を聞いているが由成の傍にいてやってくれ、と再び雄高に頭を下げた。
頭なんて下げられなくとも、最初からそのつもりで来ている。
安心してください――そう告げると、庸介は後ろ髪を引かれているような様子を見せながらも仕事へと戻って行った。
「雄高さん、ごめん」
「馬鹿なこと言うな」
表情を強張らせている由成の肩を押して無理矢理ソファに座り込ませる。由成の身体はぎこちない動きで、それでも素直に腰を降ろした。
「恭一も今こっちに向かってる。もう少しだけ俺で我慢してくれ」
いつもと変わらぬ声で告げてやると、僅かに表情を和らげて由成は淡い笑みを零した。痛々しい笑みだ。彼の緊張や不安は、雄高では完全に拭い去ってやることが出来ない。早く帰って来いと、雄高は白い天井を睨みながら呪うように思った。
「雄高さんも……仕事とか、あったんじゃないのか」
「大して急がなきゃならない仕事はない。恭一もそれを知ってるから俺に連絡を寄越したんだろうよ。……余計なことは考えるな」
「……恐い」
もしかすると由成の肩や握り締めた指先が震えていることに、庸介は気付いていたかもしれない。気付いていたからこそ、自分に向かってあんなにも深く頭を下げたのか。
「何か他のことを考えてないと……恐いんだ」
「由成……」
握り締めた指が震えるのを厭うように、由成は更に固くその指先を握り込む。
「……母さんのことを考えると、全部悪い方向にしか行かない。だから……」
雄高は由成の隣に腰を降ろすと、くしゃりと乱暴にその髪を撫ぜた。
子供をあやす方法なんてものは知らない。
身体だけ成長していても、雄高の由成に対する印象は変わらない。由成はまだ子供だ。ひどく大人びた、年齢差を感じさせない奇妙な子供で、やっと手に入ったものを失うことに怯えている可哀想な子供。
前は、もっと違う意味で、哀れだと思っていたことを覚えている。
「……大丈夫だ」
何も持たないこの子が可哀想だと思った。
遠い昔、兄の仕草を真似て自分に頭を下げていた、この子のぎこちない動きを。
憐れんだ。
「大丈夫だ、由成。……もうすぐ恭一が来るからな。大丈夫だ」
何の根拠もない言葉を繰り返す。大丈夫、その言葉をどれほど雄高自身が信じられていただろう。
恭一の名に反応して、「恭さん、」そう祈るように呟いた後、由成は固く目を閉じた。
自分は無力だということを痛感する。胸に苦い思いが走った。
何の力もない。
最終的に由成を救えるのも支えるのも、ひとりしかいない。
「ごめん、雄高さん。……ありがとう」
それでも泣きそうに顔を歪めた由成が、その言葉を心から告げていることが判ったから、雄高は救われた。
「ごめんとありがとうは同時に使うモンじゃない。……前にも言ったはずだけどな」
――まだ、救われた。
恭一が病院に到着したのは、予想よりは早い時間だった。大急ぎで駆け付けたらしく、息を弾ませながら姿を見せた恭一に、由成はぼろぼろと声を殺して泣き出した。堪えていた何かが、恭一の姿を見た瞬間、溢れ出てしまったのだろう。その泣き顔を見て雄高は安堵する。下手に涙を我慢されるよりは、泣かれた方がずっと良い。
泣くんじゃねェよばぁか、いつものように口汚く罵る恭一の声は、どこか優しかった。
夜中というほどではなく、しかし面会時間は大幅に過ぎていたそのとき、手術はまだ終わっていなかったが、恭一が到着した時点で雄高の役目は終わる。
悪かったと珍しく殊勝に頭を下げた友人に、何かあったら連絡を入れるよう約束を交わしてから、雄高は病院を出た。
残して来た和秋が気懸かりだった。待っていろとは言ったものの、もしかしたら部屋にはいないかもしれない。先に彼のアパートに寄ってみるべきかと迷ったものの、雄高は真っ直ぐに自宅へ向かった。
携帯の電源を入れ直しても、期待していたメールも留守番電話も入っていない。何のリアクションもないことが、逆に寒々しく感じた。
半信半疑で開けた扉の向こうに、和秋はいた。
ソファに座り込んで膝を抱えている姿がどこか痛く見える。
和秋、そっと声を掛けると、和秋はビクンと大きく跳ね上がるようにして顔を上げた。
「おかえり」
玄関の扉の音にも、リビングに向かう足音にも気付かなかったのだろうか。
うとうとしていたらしく、和秋は幾度か手の甲で目を擦った。
「……悪かった」
多分、待っていたのだろう。
すぐ帰ると伝えた言葉は、多分嘘になってしまった。和秋がどれほどの時間を「すぐ」に感じるかは知らないが、雄高にしてみれば待たせすぎたと思う。元より帰宅がこの時間になるのは判っていたのだから、すぐ戻るから待っていろ、と言う自分の言葉は、最初から彼を引き止めるためだけの嘘だった。
和秋はその嘘を信じて待っていたに違いない。
「……何言うてんの。今更やん」
和秋は困ったように眉を下げて、それでも笑っていた。
「どうせ、恭一さんか由成君かの、どっちかやろ。いっつものことや。……あんたがあの人たちのとこにいくのなんか、いつものことや……」
呟きの語尾は、徐々に弱く、まるで溜息のように消えていく。
「……何があった?」
「何が?」
尋ねた雄高に、和秋は首を傾げて見せた。
「それより腹減ってもうた。あんたもっと早く帰るんかと思ってたから、何も食ってへんねん。何か食わせてや」
そう、確かにいつものことだった。雄高が恭一や由成の世話を焼くことも、心配をすることも、胸を痛ませていることも。
しかし今日はただひとつだけ、違っていた。
和秋が引き止めた。
行かないでくれと、傍にいてほしいと懇願した。
理由を今更尋ねても、もう答える気はないということなのかと、雄高は苦い後悔に愕然とする。
間違ってしまったと、なぜかそんな言葉が唐突に浮かんでは消えた。
「――冷蔵庫、ろくなもんは入ってないぞ。外に食いに出るか」
誤魔化されたことを自覚しながらも、雄高は敢えて普通の声音で尋ねる。
「ええよ面倒臭い。それくらいやったらデリバリーがええ。ピザの広告入っとったやんこの間」
「ピザな……腹が膨れるとも思えないが」
まるで普通に交わされる会話に、どこか齟齬感を感じても、それを問い詰める資格など与えられていない。
いつも通りに振る舞うこと自体がおかしいのだと判っている。
それでも雄高は苦い思いに、そっと蓋をした。