「――本当に、いいのか?」
担任の教師は、複雑そうな顔をして手にした紙を睨んでいる。
期限を少しだけすぎて、和秋が提出した進路希望表を、どこか納得のいかない顔で眺めていた彼は、和秋の顔を改めて見やると言い聞かせるように口を開く。
「これでおまえの一生が決まるかもしれないんだぞ。こんな話は二度とないと言ってもいいくらいだ。おまえの才能を無駄にするのは、俺も勿体無いと思う――」
素人判断だがなと苦く呟いて、教師はそれでも紙を受け取った。
「俺のは、才能やないです」
「しかしな――」
「もう決めたことやから。――提出、遅なってすみませんでした」
和秋は担任に頭を下げると、そのまま背を向けた。
職員室を出て行こうとする和秋の背中を、声が引き止める。
「矢野、いいんだな?」
同じことを繰り返し尋ねる声に、和秋は、強く頷いた。
頷いて笑った。
「はい」
不思議なくらいに、清々しい気分だった。
ふたつのことを、決めていた。
恵史とはあれ以来、連絡を取っていない。
結局和秋は実家に帰ることをせず、独断で大学を決め、両親には事後承諾という形で大学を告げた。
電話越しの母親の声は、いつも通りのぶっきらぼうな声で”どうでもええわ、勝手にし”という冷たい言葉を和秋に投げ、それがあまりにもいつも通りの声だったから、逆に少しだけ泣けた。
学費を自分で払うことは到底出来ないが、家賃を含めた全ての生活費は和秋が自己負担し、今後一切の泣き事にも両親は手を貸さないということで決着が着いた。
いつか必ず、学費も全て返すからと謝ると、母は電話越しで声を詰まらせていた。
泣いていたのだろうと、今なら思う。
思えばひどく、甘え下手な子供だった。
”まだ若いんやから、俺の弟か妹産んでや”と最後に笑って、電話を切った。
もしもそのとき告げた言葉が本当のことになれば、その子供を、できる限りたくさんの愛で愛して欲しいと思う。
親子として過ごした時間の思い出は、数えても片手に足りないくらいに少なく、だからこそ母が自分の帰りを待っていたという事実は、和秋をひどく打ちのめした。
だからごめんなさいと、心から思う。
痛い記憶が多すぎて。
――もう俺は、帰られへんよ。
うまく甘えることもできず、期待に応えることもできなかった和秋は、このとき両親との決別を決めた。
どうしてもっと上手に生きられなかったのだろうと思う。
なくしたいものなんてひとつもなく、大切なものばかりだったことは事実なのに、今やこの両手は空っぽになってしまった。
「和秋、早く食え。片付かない」
「ん」
急かされてテーブルに着く。並べられた料理は至って普通だった。
カツ丼なんか出てきたらどうしよう、なんて思っていたのに。
「カツ丼の方が良かったか?」
一瞬間の空いた和秋の思考を見透かすように、雄高が煙草を灰皿に押しつけながら笑った。
「……ええ。全然これでええ。そんな寒いことすんな」
「どっちにしろ普通カツ丼は受験前日に食うモンだな。合格発表の前日に食うモンじゃない」
雄高が煙と共に吐き出した言葉に、そりゃそうだと納得する。受験日の直前は顔を合わせていなかったのだから仕方ない。因みに受験日前日の和秋の夕飯はインスタントラーメンだった。
「もう終わってもうたもんな。今更食ったってしゃあないか、そんなもん」
いただきますと手を合わせて箸を持つ。
こんなふうにこの男と顔を合わせながら食む食事に、いつのまにか慣れてしまった。この空間をいきなり生活から切り離すことは、どれほど辛いだろう。いつになればそれに慣れることが出来るだろう。
そこまで考えて、和秋は思考を放棄した。
やさしい時間を自ら手放すことは、もう決めている。だから、と思った。
だからこそこの最後の夜を大切に過ごそう。
空っぽにしてしまうことを自分が選んだ。
誰のせいでもない。
ただひとつもしも何かが間違っていたのだとしたら。
「――人の顔を凝視するな。穴が開く」
「誰がや。自惚れんな」
やさしすぎるこの人と、貪欲な自分が出会ってしまったことだ。
指折り数えて待ったその日は、もう明日に控えていた。
「明日、朝早いんだろ」
「ん、」
まだ暖まらないシーツの上でごろごろと遊びながら曖昧に答えると、重ねて尋ねられる。
「まだ寝なくて良いのか」
「もうちょい」
自分を気遣っている雄高がやけにおかしくて、和秋は笑った。受験はもうとうに終わって、結果を控えているだけだというのに、今更何を気遣われる必要があるだろう。
「まだ、眠たないねん」
「緊張してるのか」
「どうやろな」
雄高はそう言ったが、実際のところ緊張など微塵も感じていなかった。何故か落ちた気がしないのだ。絶対大丈夫、と胸を張って言えるほど自信があるわけではなかったが、それでも受かっているはずだと信じられる何かがあった。
受からなければならない、受からなければ何一つ動き出さない――そんな、プレッシャーにも似た思いがあったせいかもしれない。
「……寝かせてや」
受験を終え、合格発表を明日に控えたこの日を迎えても、雄高には進学先の話を一度もしなかった。彼は今も和秋がどこの大学に進学するつもりなのか、そしてどの学部を選んだのかも知らないのだろう。
それでも雄高は尋ねることをしない。
「心配するくらいやったら寝かせて」
尋ねなくても、和秋が自分から離れることはないと――そう、信じているのだろうか。
だとしたら、傲慢だ。
「子守唄でも歌って欲しいのか、」
「それもええな。俺、あんたの声好きやから」
――愛されている者の、傲慢だ。
「……素直すぎて恐いな」
苦さを混ぜて、雄高は笑った。
「恐いて。素直になってみるもんやないな」
台無しや。そうやって返す声にも、どこか笑みを含ませた。
白いシーツに散らばった和秋の髪に、指先がそっと触れる。
やさしい手の動きで、髪を撫でた。
そうやって何度も繰り返し頭を撫でられているうちに、本当に睡魔が襲って来るのだから不思議だ。
多分、疲れていた。ここ数日のスケジュールがハードすぎることは自分でも充分理解していた。
それでも気を抜くわけにはいかなかったのだ。
気付かれないために。
「……気持ちええ。寝そうやなあ……」
「――寝ろ」
本当は。
まだ、眠りに就きたくなんてなかったけれど――
闇に負けて和秋は眼を閉じた。
意識はすぐに眠りに引き摺り込まれる。
本当に疲れていたんだと思うと、無性に自分が憐れになった。
「がんばったな、」
雄高の指はまだ動きを止めず、やさしく髪を撫でてくれている。
「……おやすみ、和秋」
名前を呼ばれても、
最後だと、決めていた。
「やから合格やって。――なんやおまえらもかい。二人揃って?」
携帯電話から聞こえるのは、清田鳴海の僅かに上擦った声だった。よっぽど嬉しかったのだろう。友人の清田、そして奥村拓巳も今日は合格発表だったのだ。
『その言い方だと、どっちがが落ちてた方が良かったみたいだな』
「ははは。そういうハプニングがあってもおもろいな」
同じ大学を目指していた二人は、どちらか片方だけが落ちるという不幸もなく、めでたく二人揃って合格を勝ち取ったらしい。――良かった、と思う。本当に、良かった。
『どうしたんだよ矢野。あんま嬉しそうじゃないみてえ』
「……ん? そんなことあらへんけど」
受かるに決まっている。――そう強く信じていた分、喜びが少なく感じるのかもしれないと、和秋はまるで他人事のように思う。
一際明るい声が上がる。友人たちと手を取り合って喜んでいる女子生徒が、嬉し涙を浮かんでいる姿が見えた。
微笑ましい光景に少しだけ笑みを零すと、和秋は掲示板に背を向け騒がしいその場からゆっくり離れた。
『他のヤツらも大体受かってたみたいだから、予定通りな。明日平気か?』
「うん、大丈夫や。七時からやったっけ?」
明日はごく親しかった友人たちと飲み明かす予定だった。誰かひとりでも落ちていれば気まずくなってしまう飲み会も、この調子なら無事楽しく過ごせそうだ。
『遅れそうなら連絡入れろよ。――って、おい奥む……』
『矢野、』
奇妙に清田の声が途切れたかと思うと、代わりに奥村の声が耳を打つ。どうやら清田から携帯電話を取り上げたらしい。
「合格おめでと、奥村。明日楽しみやな」
笑いながら和秋は正直な気持ちを告げる。
『もう決めたのか』
返って来る奥村の声は、なぜか硬かった。
「――うん」
見抜かれていたのだろう。
奥村は表情は豊かではないが、人の感情には敏感だ。
きっと、彼なら気付いていた。
「もう、決めた。……ありがとう」
ここ数日で慌しく、しかしひっそりと和秋が大学の近くでアパートを探していたことを奥村は知っている。
そして今日、今まで和秋が住んでいたアパートの部屋が空っぽになることを。
『そうか。――なら明日、無理はしなくていい。準備があるだろう。急がないで片付けが終わってからで良いから』
「ん、わかった」
『片付けが大変なら手伝いに行く。――清田が』
ちゃっかり付け加えた奥村の言葉に大笑いして、和秋は通話を切った。
善いやつらだと心から思う。
この土地で出会えたことを嬉しく思った。彼らは、あの冷たい場所では得ることが出来なかった大切なもののひとつだ。
そして一番に大切だったあのひとを、この日手放そうと心に決めていた。
自分が日に日に駄目になっていくことを予感してしまったあの日に、決めていた。
朝、顔を合わせずに和秋は雄高の部屋を出た。和秋が眼を覚ましたとき、雄高はまだ隣で眠っていて、起こすことも声を掛けることもせず、そのまま真っ直ぐに合格発表を確かめにやってきたのだ。疲れているのかもしれない。しかし、敢えて雄高を起こさずに部屋を出た理由は、それだけではなかった。
きっと一度でも声を聞いたら揺らいでしまう。
携帯を仕舞おうとした瞬間、液晶に留守電が入っていることを知らせるマークが点滅していた。さっき清田と電話をしていた最中に掛けられたものなのだろう。
誰からだろう、と不思議に思いながらも、和秋は再び携帯を耳に宛てた。
――何時になっても良いから時間が空いたら来い。祝ってやるから。
名乗りもせず、唐突に用件を告げただけの短いメッセージは、雄高の声だった。
可笑しくなって、和秋は小さく笑う。
祝ってやるって。
もしも不合格だったら、あの人はどうするつもりだったんだろう。
こんなメッセージを入れて。
いつもみたいに、変わらない調子で。
――馬鹿みたいやな。俺もあんたも。
鼻の奥が痛い。
同時に胸が苦しくて、和秋は意識しないままに頬を濡らしていた。
おかしくなる。このままじゃ、だめになる。
好きすぎて駄目になる。
あの人を待とう、何があっても待っていよう、そう決めた過去の誓いが嘘のように、自分は醜くなってしまった。
好きだから待てると信じた。なのに好きだから待てなくなった。
その矛盾が和秋を苦しめた。
(あのひとには、大切なものがたくさんあって、)
待てない。そう思ってしまったからこそ、和秋は決めた。
離れよう。自分はもう待てない。あのひとを好きすぎて、待つことができない。
あのひとが自分じゃない誰かを大切にすることが、耐えられない。
(その中に、俺の名前も――あって、)
涙は止まらなかった。
どうしてそれで満足できなかったのだろう。
それだけのことが嬉しかった時期も、確かにあったのに。
(それだけやったら、足りへん)
だけど、と和秋は思う。
あの人はあのままでいい。そのままでいい。何も変わってくれなくていい。
自分がだめなだけだから。
待てなかった自分が悪いだけだから。
(……ごめん、)
届かない言葉を胸の中で繰り返し呟いた。
(ごめんなさい、――雄高さん、ごめん)
動かない足を、無理に引き摺りながら歩く。擦れ違う人たちは和秋の涙を見て、ぎょっとした顔をしてみせるが、暫くすると同情に似た視線を送って来た。きっと不合格に涙している少年だと思ってくれているのだろう。
それが幸いした。
(俺、もう、待てへんわ――)
声には出せない。
あまりにも自分勝手な終わらせ方に、雄高は憤るだろうか。それとも。
ほんの少しでも胸を痛ませてはくれないだろうか。
そんな痛み、すぐに忘れてくれますように。
だけど時々思い出してくれますように。
祈るように思いながら、和秋は手の甲で涙を乱暴に拭った。
新しいアパートには昨日送った荷物が山のように積み上げられている。一刻も早く戻って、荷物の整理をしなければならない。
その前に――。
空が泣き出しそうに曇り出した。
降っても良い。涙を隠してくれるなら。
そうだ、あの日と同じように。
あのやさしい記憶たちは、暫くはこの胸を痛ませるけれど――
和秋は携帯を握り締め、真っ直ぐに歩き出した。
すこししか手に入らないのなら、――全部、要らない。
その日限りで解約した携帯は、雄高のメッセージを伝えたのを最後に、二度と鳴ることはなかった。