意識して指に力を込めていなければ、今にも携帯を取り落としてしまいそうだった。
今、何を言った。
母は、いつも通りのあの声で、何を言った――
「――和秋?」
母親のメッセージを聞いたきり口を閉ざし、蒼白になってしまった和秋の顔を見て、雄高が訝しげに眉を潜める。
メッセージは十秒もかからなかった。時間が出来たら帰って来い。なぜなら、恵史が倒れたから。倒れて今現在入院しているからと、ひどく淡々としたメッセージだけを告げた。
「……どう、しよう……」
倒れた、入院した。――あの人が。自分にやさしかったあの人が。
「帰らな……あかん、帰らなっ……」
メッセージは短く簡潔だったからこそ、訳の判らない恐怖感に突き落とされてしまいそうになる。正体のない何かに足元を掬われてしまったような感覚に、和秋は唇を震わせた。
「和秋?」
「雄高さん、どうしよう……っ」
帰らなければ。それだけの言葉が胸に渦巻く。帰らなければ。――帰って、あの人の顔を見なければ。
「恵先生、倒れたって……」
降って沸いた出来事に、動揺するしかない和秋の肩を掴んで雄高が支えた。落ち着こうと思うのに、思えば思うだけ舌が縺れて動かない。
「今日の昼間倒れて、今入院してるって……母さんが、……どないしよう、俺帰らな……!」
あれほどに帰りたくなかった、苦い思い出しかない土地に、今すぐ飛び帰りたい。あの人がいる。あの人の元気な姿を今この目で確認しなければならない。
「倒れた? ……どうして」
「判らん、判らへん、けど電話やったら言えへんことかもしれへん……」
早く、早く。一刻も早く。強迫観念に似た思いで、携帯電話を強く握り締める。メッセージの再生をとうに終え、無機質な電子音しか響かせていないそれの通話ボタンを雄高の指が押した。
「……母親に電話をかけ直せ、今すぐに」
雄高の指に励まされ、和秋は再び携帯電話を握り直した。震える指でボタンを押し、耳に携帯を宛てる。大丈夫だと言ってほしい。大したことではないと、言って欲しい。
「あかん、繋がらへん」
なのに、母親の携帯電話も、実家の電話も、幾ら鳴らしても反応がない。相手を呼び出す音だけが虚しく延々と響いた。
「病院にいるのかもしれないな」
雄高の声に頷き、ならば尚更恵史の容体は悪いのではないかと考える。気は逸る一方だった。
「…帰る」
結局自分を抑え切れず、立ち上がった和秋の腕を掴んで、雄高が引き止めた。咄嗟に邪魔しないでくれと叫び出しそうになる。
「今から行くのか」
「……そうや」
「大学はどうするんだ。今から行って朝までに帰れる距離じゃないだろう」
「……そんなこと気にしてる場合やない!」
ひどく冷静な声で引き止める雄高に、思わず怒鳴るような声で返してしまう。確かに明日は平日で学校は通常通り講義がある。しかしこの状況に置いて大学だのといえる神経も判らなかった。
「もしも先生になんかあったら、どないすんねんッ」
告げた言葉は、口にすると恐ろしいくらいの実感で身を震わせた。考えたくはない、考えたくはなかったが、その可能性がないわけではない。
「少しは落ち着け」
雄高が言うように、平静でいられたらどんなによかっただろう。雄高が動じずにいられるのは、所詮他人事だからだ。
「今から行くにしても持ち合わせはあるのか。それから病院の名前は、病室は」
「……そんなの、移動してる間におかんと連絡取って、それから……」
薄情に聞こえる雄高の言葉は、しかし真実だ。母親と連絡を取れない今、病室はおろか病院名すら判らない。このまま大阪に向かうには心許なさすぎる。そして何よりも、
「……あかん。金ないわ。先に銀行行かな……」
現実問題として何より切実なのがそれだった。
ほんの少しだけ冷静さを取り戻した和秋が、財布の中のカードを確認していると、徐に雄高が立ち上がり電話の受話器を上げた。
「大学は休むんだな?」
「え……うん、そのつもりやけど……」
今すぐは無理でも、せめて明日には向かいたい。その前に母親と連絡を取るのが先決だと判っていても、気は逸る一方だった。
「朝まで待てるか?」
「――え、」
言葉の意味を計り兼ねて眉を寄せた和秋を余所に、雄高は電話越しに誰かと連絡を取り合っている。
短い会話を交わした後、ものの三分ほどで通話を終えると、雄高は受話器を戻し和秋の顔を見遣った。
「金はどうでもいいから、とりあえず明日の朝まで待て。俺も朝までに仕事を片付けておくから」
「……な、なに?」
雄高の中では何やら話が片付いてしまったようだが、和秋は一向に着いていけていない。説明を求めても、雄高は仕事に取り掛かるためか、早速本棚から幾つかのファイルを引っ張り出す。
「朝になったら連れて行ってやる、だから今は我慢しろ。――朝になる前に連絡がつけば一番いいんだけどな」
「連れていくって……」
「連れて行くって言っても、俺が連れて行ってやるわけじゃないが。おまえを運ぶのは新幹線だ。保護者は必要だろ。とりあえず、今は落ち着け。もし母親から電話がかかってきたら教えろ」
少しだけ笑って告げると、雄高は今度こそ仕事に没頭し出した。手元の動きを眺めていると、ファイルから散らばるのは雄高が撮影したらしき写真で、どうやら雄高はそれらを選別しているようだ。
雄高は――付き添ってくれると言っているのだろう。
雄高にとって恵史は全くの他人で、関係を言葉にすると、知人の義理の父親というややこしい上に殆ど無縁に近い相手になる。雄高が和秋に付き添って恵史を見舞う必要などない。それでも、冷静さを取り戻した思考で思う。
「……おおきに」
一秒だって待てない、今すぐ恵史に逢いたいと心臓を嫌な鼓動に弾ませていた焦りが、嘘のように引いていく。
自分に今何よりも必要だったのは、焦ることでも動き出すことでもない。落ち着くことだ。
今からここを立ったとしても、病院の面会時間に間に合うかどうかすら危うい。そんなことにすら気付けなかった自分は、相当に冷静さを欠いていた。
「寝るんならベッド使ってもいいぞ」
「……うん。けどその前に飯やろ。冷蔵庫借りてもええ?」
雄高が頷いたのを確認して、和秋は久し振りにこの部屋のキッチンへと足を踏み入れた。雄高が仕事を始めるというのなら、おさんどんは自分が引き受けるべきだ。
何が作れるだろうと冷蔵庫の中身を確認しながら考える。
母親のメッセージを聞いたその瞬間よりは、随分と気分が静まった。なのに、指先が震えるのはどうしてだろう。
――先生、
考えまいとするのに、考えてしまうのは。
今にも涙が溢れてきそうになるのは。
――俺、まだ言うてへん。
もしもこのまま逢えなくなってしまったら。
そんな思いが浮かんでは消えていくのは、どうしてだろう。
――まだ、先生に言うてへんことがあるのに。
それから雄高はこまめに誰かと連絡を取り合ったり、かと思えばパソコンを弄り出したりと、殆ど和秋と会話を交わすことなく専ら仕事に取り掛かっていた。和秋が作った夕食にも見向きもせず、ただ一言眠たくなったらベッドを使っても構わないと言ったきり無言を貫き通している。
普段から言葉は多くはないが、仕事の最中になると更に酷い。特にカメラを手にしているときは、人が傍にいても気を遣うことなど皆無に思えた。和秋も付き合ってリビングでだらだらと過ごしていたものの、深夜二時をすぎても雄高の仕事が終わらないことを見て取ると、諦めて先に寝室へと向かった。
寝心地の良かったベッドは、今も穏やかに眠りへと誘ってくれるだろうか。そうであればいいのにと期待して、扉から漏れるささやかな光を眺めながら横になる。
――先生、俺な、
決めたばかりだった。必ず、そう遠くはない日に必ず、あの人の顔を見て、しっかりと自分の足で立ちながら言いたかった。
――走りたいねん。走ってもええやろか。
恵史が笑って許してくれなければ、臆病な自分は走り出すことができないかもしれない。
――もう、先生が喜んでくれるタイムは、出せへんかもしれんけど、走りたいねん……。
それでも走りたい。
だから頷いてほしい。
我侭な自分を、どうか、許して欲しい。
何もかもに許しを乞わなければ生きていけない自分が、一番に弱く臆病なのだと思い知りながら、涙が滲んでくる前にと和秋は無理矢理瞼を落とした。
朝、和秋は盛大に蹴飛ばされて目を覚ました。
「なっ……な、」
危うくベッドからずり落ちそうになった身体を腕で支え、ぱくぱくと金魚のように口を開いたり閉じたりする。心臓に悪い起こされ方もあったものだ。
「さっさと起きろ。出るぞ」
なんて手酷い遣り方だと反論するよりも先に、準備をしろと慌しく急かされる。見れば雄高は既に支度を整え、車の鍵を手にしていた。もう少し時間に余裕を持って起こしてくれてもよかったのにと胸のうちで文句を言いかけて、ふと気付く。ギリギリまで寝かせてやろうと思っていたのなら、それはやはり雄高の思い遣りなのかもしれない。
――それにしたってこれはないやろ……。
蹴飛ばされた腰が痛い。あんまりだ、あんまりの遣り方だ。
「声をかけても怒鳴っても揺すっても起きなかったんだ。仕方ないだろ」
一旦着換えのためと荷物を取りに和秋のアパートに寄り、駅までの車の中で小さな声で非難すると、雄高はさらりとそう返した。完全に気力を失って、和秋は一刻も早い到着を祈る。
旅行慣れしているだけあって雄高の手際は良く、和秋がぽかんと立ち尽くしている間に二人分の切符を購入し、予め確認していた通りの時間に新幹線に乗り込んだ。約三時間程度の道のりが、長いか短いかと言えばやはり長く感じる。
手持ち無沙汰気味だったその間、交わした会話といえば、仕事は片付いたのか、和秋の頬の傷は大丈夫かと、いずれもその程度の短いものだ。
「――口ん中はまだ痛いけどなあ……」
表面から見える青痣は徐々に目立たなくはなっているものの、恭一に言われた通り食事をしても口の中の痛みが強烈で、あまりおいしいと感じられない。しかしどれほど咥内が痛くても腹は減る。だから痛みを堪えて口の中に運んだコンビニの菓子パンも、やはり美味いとは思えなかった。
暫く寝る、と言って瞼を閉じ、それきり本当に寝てしまった雄高の横顔を眺めながら、そういえばこの人は結局朝方まで仕事をしていたのだろうかと考える。タフであることは充分承知しているが、相変わらず無茶な方法を取る人だ。
移動の間に何度か母親の携帯を鳴らしてみたが、結局連絡は取れず終いだった。
携帯の充電が切れそうだと、ぼんやり思う。一旦アパートの寄ったのだから、そのときに充電器も持ってくればよかった、いや充電器だけがあっても意味がないか――そんなことをつらつらと考えながら、窓の外の景色を見つめる。隣の雄高は穏やかな寝息を立てて、完全に寝入っている様子だった。
――何なんだろう。
付き添ってくれたのはいいが、眠られてしまうと時間潰しの相手にもならない。
――役に立たへん人やなあ……。
何のために付き添ってくれる気になったのかは知らないが、役立たずと罵る心の声とは裏腹に、感謝していた。
例え話相手にはならずとも、気を抜けば涙が出そうになるこの時間、傍にいてくれる誰かが隣にいる。それが雄高であることに、感謝していた。
『なんやあんた、もう来たんかい』
気が抜けたような声に、こちらが脱力してしまいそうになる。母親と漸く連絡を取れたのは大阪に着いてからで、何度かけても繋がらない携帯にどうしようと肩を落としかけたそのとき、留守番電話に吹き込んでおいたメッセージを聞いた母親が和秋の携帯を鳴らしたのだ。
「なんや、やないわ、来いいうたんはそっちやないか」
『誰も即日来いとは言うてへんわ。時間が取れたらでええて言うたやろ。あんた大学はどうしたん』
ああ言えばこう言う。口の減らない女だ。
「大学行ってる場合やないやろ、先生が倒れたってときに」
こんなにのんびりと世間話を続けている場合ではない。母親からか、と視線で尋ねて来る雄高に頷いて見せて、和秋は尋ねる。
「ほんで、母さん今どこにおるん」
『どこって、病院や』
やはりずっと恵史の傍で看病をしていたらしい。携帯が繋がらなかったのも仕方がない。――そして母が付き添っていなければならないほど恵史の容体は悪いのかと、背筋に冷たいものが走る。
「……俺も今からタクシー拾ってそっち行くし。どこの病院や」
『はあ、かまへんけど』
和秋の勢いに圧されるように、母親は病院名と所在地を告げた。
『和秋、あんたなんでそんなに慌ててるん』
訝しげな母親の声に、どうしてあんたはそんなにのんびりしていられるんだと叫びたくなる。それを懸命に堪えていた和秋の耳に、信じられない声が降ってきた。
『もしかして、なんや勘違いしてへん?』
「ただの盲腸ってどういうことや!」
「”ただの”て言うたらあかん。盲腸に失礼や、怒られるで」
「盲腸が怒るか!」
数十分後、病院に辿り着いた和秋を、待っていた母親はあっさりとした顔をして出迎えた。
「盲腸言うたかて馬鹿にでけへんで。恵史さん腹膜炎も起こしてはってん。えらい痛がりようやったから母さんそらもう驚いてもうて」
盲腸、つまり虫垂炎という名前のそれが、恵史の病名だった。
「それならそう言うとけや。メッセージの残し方言うんがあるやろ……」
倒れて入院したと聞いたからどれほどのものなのかと心配して来てみれば、それが盲腸だったと言うのだ。脱力してしまうのも無理はない。勿論虫垂炎が馬鹿に出来る病気ではないとは思う、思いはするが、感情と理解は別である。
「それはこっちの台詞やわ。こんな男前連れてきといて、友達が一緒におるんならおるて言うといてや。母さん碌に化粧もしてへんのに。ああ恥かしい」
タクシーから降り、その場に座り込んでしまう勢いで脱力した和秋を苦笑混じりに眺めていた雄高に向かって、母はにこりと微笑んだ。
「和秋の母親の弓子言います。和秋のお友達やろか。和秋がいつもお世話になって」
友達と呼ぶには歳が離れすぎているが、元より大雑把な性格の弓子はそんなことなど気にしていないらしい。雄高は曖昧に頷いて、どうも、と頭を下げた。
「梶原です。――たまたま彼と一緒にいたので、ここまでついて来てしまったんですが、お邪魔ならどこかで時間を潰しておきます」
「そんな大袈裟なもんでもないんですよ。よかったら一緒に見舞ってやってください。退屈かもしれへんけど」
弓子はおおらかに笑って、和秋と雄高を促してからのんびりと歩き出す。
「先生、どんな感じやの」
病院の自動ドアを潜り、院内へ足を進めた途端、病院特有の香りが鼻をつく。考えてみれば、病院と名の付くところに足を伸ばしたのも、故障したとき以来だ。
「昨日学校から病院に運ばれてなあ、すぐ手術や。今はまあまあ元気やで、もう起きてはるし、暇や暇や言うてはったけど、しゃあないわ。暫くは安静にしてもらうしかあらへん」
「……そう。元気なんか」
人騒がせな人だ。なのに、大した病気ではなかったと実感した途端、胸の奥から沸き上がってきた安堵に、泣きそうになる。
「……よかった」
心配して付き合ってくれた雄高には申し訳ないが、本心だった。盲腸でよかった。命に関わるような病気ではなくて、本当によかった。
「ああほんで、梶原さん」
エレベーターに乗り込んで、弓子は徐に首を傾げた。恵史が大事に至らなくてよかった。本当によかった。――だからと言って。
「――はい?」
「よう誰かに似てるって言われません? 誰やったかなあ、なあなあ和秋、あれ何て俳優さんやったっけ、ちょっと梶原さんに似てへん?」
――だからと言って、母親のこの能天気ぶりはちょっとないんじゃないか。
「そこのおばちゃんちょっと黙っといてや……」
思わず壁に頭をぶつけそうになりながら、地の底から響き渡るような声で和秋はぼそりと呟く。
「なんやのその言い草は。一年ぶりに会った母親にその態度なんか。――梶原さん、言われません?」
「――さあ」
めげない弓子に続けて尋ねられ、さすがの雄高も困ったように曖昧な笑みを返している。和秋が若い男を連れてきたからはしゃいでいるのかもしれないが、これでは付き合わされる雄高が可哀想だ。
「このおばちゃんに無理に付き合わんでもええよ。ほたっといたらよぉ喋んねん。まともに相手してたらこっちが疲れてまう」
「そんで和秋、そのほっぺたどないしてん」
そして不意を打つやり方で、今まで気にもしていなかったようなことを訊いてくる。舌打ちしたい気分を堪え、少しの沈黙の後「こけた、」と答えた和秋に、弓子は目を瞬かせた。
「ふぅん。あんたええ歳になってもまだ鈍臭いんやな」
「やかましいわ!」
そうこうしているうちにエレベータの扉が開き、恵史の病室がある階へと到着する。こっちや、と先導する弓子の後ろを着いて歩き、辿り付いたのは小さな個室だった。手術後だから個室に移されたのかとも思ったが、どうやら見ている限り、この病院は個室の数が多いらしい。
気がねなく来客を迎えたり入院生活を過ごすには、個室の方が都合が良いのかもしれない。
「恵史さん、和秋着いたで。えらい重病人扱いしてもろて、よかったなあ」
扉を横に引き、病室へと入りながら弓子が面白がる口調で告げる。誰のせいだと噛み付きかけて、開いた扉の向こうに見えた恵史の姿を目にした瞬間、言いようのない感覚に胸がいっぱいになってしまう。
「弓子さんも悪いよ。ちゃんと説明してあげなかったんだから勘違いするのも無理ない。――悪かったな和秋、わざわざ来てもらって」
上半身を起き上がらせた姿勢で和秋を待っていた恵史は、和秋に向かって小さく笑みを見せた。一年ぶりだった。――帰って来てほしい。家族になろうと、手を差し出してくれたこの人を振り切ったあの日から、もう一年以上の月日が流れた。
「ほんまに……人騒がせや……」
「俺のせいなのか?」
声が詰まって、うまく喋れない。
この人の期待に応えることができず、息子にもなれなかった。あの日、見捨てられたも同然だと諦めて、一度も望まなかったその人の声が、身体が。
「……何しててん。身体丈夫なんが自慢やったんやろ」
「うん。丈夫だと思ってたんだけどな。盲腸には勝てなかったよ」
穏やかに笑っている恵史は、もしかしたら最初から、許していたのかもしれない。――我侭を、許してくれていたのかも、しれない。
「――そちらは?」
恵史が流した視線の先は、雄高に留まった。
「梶原さん。和秋の友達やって。ここまで付き添ってくれてん」
「そうですか。お手数おかけしまして……」
弓子の答えを聞いて、恵史は申し訳なさそうに頭を下げる。それに、いえ、と首を振り、雄高は思い付いたように弓子に視線を向けた。
「すみません、喫煙できるスペースはありますか?」
「ああ、それなら談話室がすぐそこにあるわ。案内するついでに珈琲の一杯でもどうです。アホな息子がお世話になってるお礼に」
弓子の提案に異を唱えることはせず、雄高は去り際に和秋を一瞥すると、少しだけ微笑ってそのまま背中を向けた。部屋を出るついでとばかりに弓子は病室に飾られてあった花瓶を手に取り、続いて部屋を出て行く。
残された和秋は、馬鹿みたいに突っ立ったまま白い床を見つめていた。
――傍にいっても、いいのだろうか。
「和秋、おいで」
やさしく投げられた声にはっと顔を上げ、和秋はそろそろと足を踏み出す。何を躊躇う必要があるのだろう、そうは思っても、気安く傍には寄れない。
恵史が示したパイプ椅子に腰を降ろしても、顔を上げられない和秋に、参ったなあ、と困ったような恵史の声が落ちる。
「――和秋はまだ怒ってるのか」
その言葉に弾かれたように顔を上げ、和秋は慌ててかぶりを振った。
「なんで俺が怒って……っ」
怒る理由などない。怒っているのだとしたら、それは恵史の方だ。
「先生、やんかっ……」
今でもまだ鮮明に思い出せる。帰って来て、一緒に暮らさないか。もう二年も待ったんだと懇願され、和秋が首を横に振ったとき、彼がどんなに切なそうな顔をしていたか。
「先生のほうが、怒ってるんやんかっ……」
家族として過ごす時間を求めていた恵史を、自分は我侭な理由で拒んだ。呆れられても、見放されても仕方がない。
「……うん、怒ってたよ。哀しかった。俺は和秋の父親にはなれないんだと思うと、寂しくて仕方がなかった」
言葉とは裏腹に、恵史はやさしい笑みを浮かべて、点滴と繋がった腕を上げると和秋の頭を撫でる。
「俺はずっとおまえの父親になりたかったんだ。それを受け入れてもらえなかったのは、正直辛かった。――あのとき、突き放したら頷いてくれると思っていたのに、結局おまえは言うことを聞いてくれなくて、……それもショックだったよ」
よくやった、頑張ったと誉めてくれたあの掌と同じ感触で、恵史は和秋の髪をやさしく撫でた。
やさしい笑みの中に、どこか苦さを含んだ感情が見える。
何かを悔やむように、自分に言い聞かせるように、恵史は言葉を続ける。
「――おまえがまだ小学生だったとき、俺が夕食を作りに行ってやったこと、覚えてる?」
和秋はそっと頷く。忘れられない、忘れたいとは思わない、暖かな記憶のひとつだ。母親の帰りが遅いとき食事はどうしているのかと尋ねられ、自分で作っていると答えたとき、恵史はひどく驚いたような顔をしていた。自分で作っているとはいえ、そのときはレパートリーも少なく、単純な料理しか作ることが出来なかったけれど、恵史の中では驚愕に値したらしい。
それからすぐに、恵史は和秋の家に訪れるようになった。
「俺だってこっちで独り暮らしを始めたばかりで、碌な料理なんて作ってやれなかったけど、おまえはすごく喜んでくれて、美味いって言いながら全部食べてくれて、――おまえは、ずっと、そうなんだと思っていたんだ」
確かにあのころ、恵史の腕前は上等とは言い難かったように記憶している。それでも重要だったのは、恵史が自分のために時間を裂いてくれたという事実だった。
嬉しかった。
極端に大人に構われることが少なかったあの頃、恵史が自分のために時間をくれていることが、嬉しくて堪らなかった。
「あのときに嬉しそうに笑ってくれたおまえのままなんだと思っていて、だから、俺が頭を下げればきっと帰ってきてくれると信じていた。――それなのにおまえは帰るとは言わなかった。あのとき俺は、裏切られた気分になったよ」
少なからず胸の痛みを覚えて、和秋はそっと視線を落とす。
「……ごめん、なさい……」
「おまえが謝ることじゃないよ」
しかし恵史はふっと吐息のような笑みを零すと、些か乱暴な手付きで和秋の髪をくしゃりと掻き混ぜる。
「俺は多分忘れていたんだろう。おまえが高校二年のときにここを離れて、あっちで暮らしていた時間のことを、考えていなかったんだ。その間色々あって、離れ難い人やものができていても不思議じゃない。なのに俺はそれを考えてやれなかった。――おまえはまだ俺のことを好いていてくれてるだろうって自惚れてたんだよ」
間違いなく、何かを悔やむ響きで恵史は微かな溜息を落とした。
「……俺、先生のこと嫌いやない、嫌いやなんていっぺんも思ったことない」
「うん、それは判ってる。――でも和秋は、俺や弓子さんよりも大切なものがたくさんできたんだと思うと悔しかったよ」
乱暴だった指の動きが止まる。頭の上に乗っていた掌は、そのまま下降して和秋の頬を滑った。
「ぁ、これは、こけて……」
「色々あったんだろう」
慌てて言い訳を口にした和秋をおかしそうに笑って、痣になった傷痕を、恵史は指先でやさしく撫でる。
「もう二十歳だもんなあ。……おまえが二度と走らないって決めたのも、帰らないって決めたのも、色んなことを体験して考えた結果なんだろう。――俺がなにもしてやれなかったのは、悔しかったなあ」
触れられればまだ痛みを僅かに残すそれを、心配そうな顔付きで撫でられれば、拒むことなど出来ない。
どうしてだろう。こんなにも指がやさしいのは。
――ああそうか。忘れていただけだ。
「恵先生、恵先生って金魚の糞みたいに着いて来てくれた和秋は、もういないんだな」
この人は、いつだってやさしかった。
自分にいつだってやさしかった。
「せんせ……ごめんなさい……」
視界を霞ませる水滴がそのまま流れて涙になる。子供のように泣きじゃくって、和秋はごめんなさい、と繰り返した。
「うん。俺もごめん」
止めようのない涙を恵史は指で拭いながら、「泣き虫」と笑った。
「和秋があんまり良い子だから、俺は色々無理言いすぎてたな。――ごめんな、こんなんじゃ父親になれなくて当然だった」
声もなく、和秋はひたすらに首を横に振った。違う。良い子なんかじゃない。良い子でいれたことなんて、一度もない。
愛が欲しくて、誉めてもらいたくて。いつでも自分を支配していたのは、それだけだった。
「一年間、連絡も取らずにいたらおまえが根を上げてくるかもしれないって少し期待してたんだ。――こんなんじゃ、良いお父さんにはなれないよな」
「ち、がっ……ごめんなさい、ごめんなさ……」
「意地張ってる場合じゃなかったのになあ」
どこか感慨深く呟いて、恵史は和秋の顔をそっと覗き込んだ。
「――ずっとひとりでがんばってたんだな。えらいな、和秋」
もうずっと前から、そうだった。
ずっとこの人は、そうだった。
父親なんて役割を与えなくても、ずっと前から、自分の大切な部分を所有している、大切な人だった。
――あなたに誉めてもらいたくて、
――愛が欲しくて。
「せんせ、俺な……」
恋をした、そのときの感情は欠片も残っていなくても、間違いなく大切だった。
しゃくりあげながら呟いた言葉は、途切れ途切れに震えた。伝えなければ。伝えて、許してもらわなければ。
「走りたいねん……走ってもええかなあ……」
「――何度も言ったよ、和秋」
誉めてもらえるようなタイムも出せなければ、弱い自分は、いつかまた走ることを放棄してしまうかもしれない。そうなれば再び恵史を失望させてしまうことになる。それでも許してほしかった。背中を押してほしかった。
「もうおまえを戒めていたものは何も残っていないんだろう」
最後の許しを与えられた。――何かが弾けて、綺麗に消えていった。漠然と、そんな気がした。
「男は面倒臭いなあ」
談話室には自動販売機が備えつけられている。隅にはテレビ、棚にはマンガや小説、そして新聞。誰が興じるのかは知らないが、将棋やオセロまで用意されてあった。ここなら時間を潰すことも出来るだろう。周囲を見渡せる喫煙スペースで煙草を燻らせていると、弓子が溜息のように呟いた。
「えらい気が利くと思うときもあれば、なんでわざわざそんなことすんの、てツッコみたくなるようなこともよぉやるし。アホばっかやな」
紙コップの珈琲を受け取りながら呟かれた言葉に、雄高は苦笑する。アホばっか、とは、己の息子と旦那を示して言った言葉なのだろう。
「意地ばっか張っといて、簡単なことひとつも判らへん。顔突き合わせて話ししたら、一発で片が付くことやろうにね。こんなことでもないとでけへんのやろか」
「――もしかして、諮りましたか」
「……ふふ。何のことやろ」
微かに笑って見せた弓子の笑みに、やられたかもしれない、と思う。
あの短いメッセージは、もしかして故意的に残されたのか。しかし弓子が認めない限り、推測の域を出ない想像だ。
「梶原さんは、気が利きすぎて逆にあかんタイプやろか」
熱い珈琲に眉を寄せた弓子が口にした言葉に、雄高は一瞬動きを止める。
「あの子は、時間が経てば経つほど、言いたいことを言えなくなる性質でしょう」
「うん、和秋はたぶんそうやろねえ……」
ええタイミングやったと、弓子は笑う。
「梶原さんは全部知ってるんかな」
「大まかにしか聞いていません。余り余所者が口を突っ込むことでもないでしょう」
「弁えてはるね。幾つ?」
「今年で二十八です」
何でもないような会話を交わしながら時間を潰す。どれだけの時間を与えてやれば、二人の溝は埋まるだろうかと考えているのは、恐らく雄高だけではないはずだ。
「和秋と仲はええんかな。ええんやろうなあ、やないとわざわざ大阪まで着いてこぉへんか」
雄高に投げた問いも、すぐに自己完結してしまう。さっきからずっとこんな感じだ。和秋の「ほたっておけばよく喋る」という評も、あながち外れてはいないらしい。
「和秋、そっちでどんな感じです。うまくやってるんやろうか、あの子人付き合い下手糞やから友達できてるんかな。梶原さんがおるんやったら大丈夫かなあ、しっかりしてはるみたいやし。――ああ、喋りすぎてるかなあ。ほんまによぉ喋るおばちゃんやって、和秋に怒られてまう」
少しだけ笑い、ふうっと吐息を紙コップにかけてから、弓子は微かに珈琲を啜った。
「――大きなってから和秋が私に友達会わせたん、梶原さんが初めてやから、嬉しなってるんかもしれへん」
砂糖ミルクなしの珈琲が苦いのか、それとも呟いた言葉が苦かったのか。苦笑染みたものを浮かべてから、弓子は続ける。
「言うても、小さいころの和秋がどんな子と友達やったんかも、殆ど知らへんのやけどね。あの子昔から人見知り激しいわ人付き合い下手やわで。しかも遊ぶことも知らんのよ。ずうっと陸上ばっかやってたから。――それでも中学校まではちゃんと友達もおったみたいやけど、高校んときはさっぱりやったみたいで」
誰に似たんやろうなあと、呆れ半分、そして穏やかなやさしさを半分混ぜた顔で呟く弓子の言葉を聞きながら、雄高はただ静かに相槌を返す。
「高校のときの話なら、少しだけ聞きました」
「ほんまに? 情けないけどなあ、競争に負けたんは。あの子の父親も陸上選手やったけど、そこまで弱なかったのにな」
父親が陸上選手だったとは知らなかった。少しの驚きを内心に留め、雄高は弓子の言葉に耳を傾ける。
「……可哀想なことしたなあ。走るんやったら、どこの高校でもおんなじやったのに。あの子、私と恵史さん気にして、あの高校行ってもうて」
少しだけ落とされた声のトーンに顔を上げる。見れば、どこか遠くを見るような顔で、弓子はそっと呟きを落とした。
「ぜんぜん気付いてやれへんかったなあ。昔っからまともなことはよぉ言わん子やったけど、あの子があそこまで追い詰められてたん、気付けへんかったわ……」
「……お仕事を持たれていたんでしょう」
「うん。けど、忙しかったのが理由になるやろか」
――なりはしないだろう。言葉には出さず、深い場所で呟く。
母親が仕事で忙しいのは仕方のないことだと、和秋は和秋で弁えていた事情ではあっても、多少は心の中に蟠っているはずだ。
「あの子のことはずっと大切や。ずっと自分とあの子のためにやってきてん。――想ってても態度に出せへんかったら、おんなじことやな。あの子は私んこと、近所のおばちゃんにしか思うてへんかもね」
最後は冗談に紛れさせて雄高に伝えたその言葉が、まるで贖罪のようだと思う。いつの間に自分は神父になったのだろうと、雄高は僅かに苦く笑った。
「そこまで馬鹿じゃありませんよ」
「……そうかなあ」
「恐らく」
間違っても恨んではいないだろう。恨んでいる人間に対して、和秋は愛を乞わない。愛し方が違っていただけだと、いつか知るはずだ。傍にいて、近くから手を差し伸べることだけが、愛ではない。
「久し振りに帰ってきたと思うたら、ほっぺたに殴られ痕つけて帰るような息子やけどね。――男は乱暴であかんわ。今度の子は女の子がええなあ」
気付いていたのかと苦笑しながら、雄高は短くなった煙草を添え付けの灰皿に押し付ける。和秋はもっと上手な嘘を覚えるべきかもしれない。
そんなことを考えていたから、うっかり聞き流してしまいそうになった。何かとんでもないことを、このひとはさらりと言わなかったか。
「……女の子、ですか」
「うん。男はひとりで充分」
弓子はにこりと笑ってから、指を四本立てて見せた。
「五ヵ月。久々の子育てや」
「五ヶ月!?」
「なんや、気付かへんかったんかい」
「気付くかッ」
雄高と共に病室に戻って来た母からたった今告げられた言葉が信じられず、和秋はまじまじと弓子の腹を見つめた。そう言われれば、体全体の膨らみが増しているような気もする。しかしただ少しふっくらした程度、体型の変化だと思ってしまえばそれまでだ。
「女の子か男の子かまだ判らへんの?」
「聞かへんことにしてんねん。そっちのが楽しみやろ。何となく女の子のような気もしてんけどなあ」
確かに以前、妹か弟産んでや、と言った記憶はある。しかしまさか現実として目の前に突き付けられるとは思いもよらなかった。
「……大丈夫なんか?」
「何の心配してん」
「や、もう、なんかいろいろ……ぜんぜん実感沸かへん……」
二十年間一人っ子として生きてきたのに、今更兄貴になるなんて事実があっさり受け入れられるはずがない。
「まあ、けど、……おめでとう」
「何他人事みたいに言うてんねん。あんたも当事者やろ」
ただ呆然と口を開きっぱなしでいた和秋に、弓子は呆れたような視線を投げた。
「あんたの家族が増える言うてんねん。もっと嬉しそうな顔か嫌そうな顔でもしたりや」
「……嫌そうな顔でええんかい」
他人事だなんて思っていたわけではないが、ひたすらに実感が沸かない事実に言葉がないだけだ。冷たいようで暖かい母親の言葉に、和秋はほんの少しだけ、笑った。
「うん、そやな。――俺の弟か妹やもんなあ…… 」
くすぐったいようなこの感触は、たぶん、喜びと言うのだろう。
「……観光案内とかせんでもよかった?」
「観光目当てじゃないからな。それはまた今度にしてくれ」
帰りの新幹線に乗り込んだのは、遅い昼食を摂った後だった。
明日は土曜日なんやからよかったらゆっくりして行きや。母親のその提案を飲まなかったのは、雄高の都合を考えたからである。確かに明日は土曜日で、大学は休みではあるものの、雄高の仕事がそうだとは限らない。一刻も早く戻って身体を休めた方が雄高のためではないかと思ったからだ。
「……ごめん、ただの盲腸で」
「何のドラマを期待しているんだ、おまえは。――大事にならなくてよかったな」
ただでさえ母親の短いメッセージに異常なほど動揺し、雄高を巻き込んだ形になってしまったというのに、これ以上自分に付き合わせるのは申し訳がない。
その上恵史はただの盲腸だったのだ。どうしてあんなにも平静さを失ってしまったのか、今となっては思い出すだけで恥かしい。
「無駄足にはならなかったんだろ」
「……うん」
「ならいい」
そう言うと雄高は行きと同じく「寝る。」と言い残し、瞼を落としてしまう。よぉ寝る人やな、そう思いながらも止めはしなかった。彼の睡眠時間が多いに削られてしまったのは、自分のせいだ。
――俺も寝ようかなあ。
目を閉じ、眠りへと落ちようとしている雄高の顔を眺めながら、和秋も背凭れに深く身体を預けて目を閉じる。
――もう、戒めているものは何もない。
きっと最初からそんなものはなかったのだろう。
自分の足を戒めていたのも引っ張っていたのも、和秋自身で、それでも誰かに救ってほしかった。恵史はそれをいとも簡単に振り解き、そしてまた、隣で目を閉じている雄高が今背中を押してくれている。
「俺も無駄足じゃなかったな」
てっきり寝入ったと思っていた雄高が、目を閉じたままぽつりと呟いた。
「……なんで?」
「おまえの母親と話ができた。面白い人だった」
そんな理由かと顔を顰めかけた和秋に、片目だけをそっと開けて雄高は視線を寄越す。
「おまえの心配をしていた。友達は出来てるのか、人付き合いは上手くやれているのか。――おまえ、大阪にいたときそんなに友達少なかったのか」
「やかましい」
友達が少なかったわけではない。ただ、陸上に時間を費やしすぎて、普通の中高生が過ごすような時間を、友人と共にした記憶が少ないことは確かだった。普通なら、友人を家に迎えたり、自分が赴いたりするのだろう。和秋にはそれがなかった。そのせいで母親が息子に友達がいないのだと勘違いしていたのだとしたら、責任は和秋にあるのかもしれない。
「自分の母親のことを近所のおばちゃんと同じだと思うか?」
「はあ? ――なんやそれ。思うかい、近所のおばちゃんごときがあんなにやかましかったら堪らへんわ、とっくの昔に無視しとる」
和秋の答えに雄高は気のせいか、満足そうに笑って再び眼を閉じる。
「いつも傍にいて、近くから手を差し伸べることだけが愛じゃない」
「……あんたが愛なんか語ったら気色悪いな」
「悪かったな」
それきり雄高は口を噤み、暫くの間沈黙が続いたかと思うと、規則的な寝息が聞こえ出した。今度こそ眠ってしまったらしい。
傍にいて、苦しいときには手を差し伸べて抱き締めて、甘やかすことだけが愛じゃない。そんなことは和秋だって知っている。あの女にはあの女なりの愛し方があった。だから自分は、許せていた。
――母さん、ごめんな。
――父さんみたいに走られへんで、ごめんな。
流れる景色を眺めていると、どんどん離れていく距離が実感として胸に迫った。どんどん離れていく。恵史から、そして母から。
ひとつひとつ、数えてみる。恵史から許されたこと。自分が兄になること。来年から自分が兄になるのか、二十歳も離れた妹か弟ができるのかと思えば、実感が伴わない以上に胸がくすぐったい。それでもきっと、自分は大阪に帰らないのだろう。家族が増えても尚、自分がその中の構成員として迎え入れられると知っても尚、自分があの土地に帰ることは、多分ない。
距離はきっと、いつか自分を寂しがらせるかもしれない。それなのに今、少しも寂しいと思わないのは何故だろう。こんなにも満たされて、穏やかでいられるのは。
隣に雄高がいる。ただそれだけのことが、こんなに嬉しいのはどうしてだろう。
車内の揺れが時折身体を揺らし、心地好い震動に和秋は目を閉じた。
離れていても、変わらずにいられる愛し方がある。
それを知っているのに、離れたいとは思えない人がいる。
――傍にいて。
揺れている。
揺れながら、考えている。
あのとき携帯が鳴らなかったら、甲高い音が空気を切り裂いていなければ。
自分はどの道を採っていただろう。雄高に何を伝えていただろう。
――傍にいて、愛したい。
答えはもう、どうしようもないほどはっきりしていた。
大したことはしていないはずなのに、雄高の部屋の扉を開いた瞬間、どっと身体中から疲れが沸き出してきた。移動距離と時間が長いだけで、体力はかなり消耗する。しかも一日の間にあの距離を往復していれば尚更だ。
自分が高校生だったとき、恵史がよく日帰りで会いに来てくれていたことを思い出す。それがどれほどに労力のいることだったのかを思い知って、和秋は感謝した。
「飯にするか?」
「まだあんま腹減ってないんやけどなあ……」
時間はそろそろ夕食時だとは言え、昼食が遅かったせいで空腹を訴えていない腹を押さえながら曖昧に答える。
それでもキッチンに立った雄高は、疲れ果てた和秋とは逆に元気を持て余しているようだ。元々タフなことに加え、乗り継ぎを除いた移動時間を全て睡眠にあてていたのが効果しているのだろう。
「あんた元気やな……」
和秋はあそこまで揺れ動く車内で熟睡することが出来ない。途中雄高に付き合って眠ろうとしたものの、駅のアナウンスで浅い眠りから引き戻され、また浅い眠りへ、を繰り返して今に至っている。
「よぉ眠れたか」
「おかげさまで」
移動中に熟睡できるくらいの神経でなければ、カメラマンのような仕事は務まらないのだろう。ソファに座り込むと、散らばったままになっていた切れ切れの紙片が目に付いた。祐正の父親に切り裂かれた写真たちだ。片付けることをすっかり忘れていたそれを、一枚指先で摘み上げる。これが欲しいと言ったとき、自分がどんな気持ちでいたのかが、じわじわと胸に甦った。
「なあ、なんか袋あらへん? 持って帰るから」
「……本気だったのか」
ドリップで珈琲を淹れていた雄高が視線で和秋が指差す紙片を確認し、顔を顰める。
「冗談にしとけ」
「なんでや。まさか捨てるつもりやないやろな」
「そのまさかのつもりだ。どうせもう見れるようにはなれない。――珈琲要るか?」
簡単に言い切った挙句、珈琲だのと訳の判らないことを言い出した雄高に眉を顰め、和秋は懲りずにテーブルの上の紙片を掻き集めた。
雄高の言うことは勿論一理あるものの、このままゴミにしてしまうのは不憫だ。
「――和秋、俺はもう気にしてない」
「うっさい。あんたが気にしてへんでも俺が気にしてん」
意固地になって掻き集めた紙片を満足げに見下ろし、手を差し出すと、観念したように雄高が大型の封筒を棚から引っ張り出してそれを渡す。これくらいに大きな封筒なら、全て納まり切れるだろう。
「そんなもん持って帰ってどうするつもりだ」
「――わからん。どうしよう」
――きっと宝物のように大切にするから。そう思っただけで、具体的にどうしようかは考えていなかった。写したものを視覚に伝える媒介としての役目は果せないのなら、仕舞っておくくらいしか道はない。
「ええねん、捨てられるよりはましやろ」
雄高が気にしていないという以上、紙切れは紙切れでしかなく、このまま燃やされてしまったとしても誰も気には留めないのかもしれない。それが嫌だと思うのは、和秋の勝手だ。
「あんなあ、俺いっぱい考えてんけど――」
一枚一枚を丁寧に封筒へと落としながら、口を開く。
揺れながら考えていた。――ずっと、考えていた。
「あんたの世話になるん、嫌や」
カップを二つ手にした雄高がリビングへと戻り、和秋の横に腰を降ろす。遠くはなく、しかし密着するほど近くはない距離。今、自分と雄高の心の距離を表すとしたら、こんなものなのだろうと当てもなく思った。
「――それで?」
「今更言えたことやないんやけどな。今日一日で厄介なことに巻き込んだこと考えると」
「……厄介だとは思ってない」
「うん、あんたはそう言うんやろうと思うてた」
目の前に置かれたカップから、暖かい湯気が立っている。それでも珈琲には手を出さず、和秋は封筒の中に紙片を仕舞う作業を続けた。
「けど、嫌や。あんたの世話になるんも、縋るのも。そういうのは、違うんやと思う」
今、自ら課したルールを破ろうとしている。恋人にはならなくてもいい、その代わりただひらすらに心地の好い、やさしい関係でいたいと自ら願ったルールを、自分勝手に壊そうとしている。
気付いてしまった。
「……俺、愛したいねん」
――気付いてしまった。
「あんたに縋るんも、世話を焼いてもらうんも、俺が欲しかったことやない。これからもずっと恋人なんかになれへんでええ。それは変わらへん。そんなもんになったら、厄介事抱え込んでまうだけや。――せやから、愛したいだけやねん」
やさしいこの人を、縋りたいときに手を差し伸べてくれるこの人だけを好きでいたわけじゃない。もうずっと前からそうだったのに、どうして今まで忘れていられたのだろう。
この人が縋りたいときに、その腕が向かう先が自分であればいいと確かに思っていたはずなのに、どうして忘れていられたのだろう。――自分が一番に欲しかったのは、雄高のやさしい部分でもなく、強い部分でもなく、ただひたすらに弱い部分だったのに。
電車の中で揺れていたあの時間、そのことだけを考えていた。
――あのとき鳴らなかったら。
携帯が鳴っていなければ、自分から口接けて、好きだと言ってしまいそうだった。
認めるしかない感情は、もうずっと前から息衝いている。それを認めれば、きりなく欲しがってしまいそうで、それが恐かった。
「あんたがやさしいのは充分判ってる。誰にでもやさしいのは、あんたのええところや。せやから恋人にはなれへん」
自分の恋心がいつか雄高の足を引っ張ってしまう、ただそのことが、恐かった。
「なれへんけど、俺、あんたを愛したいんや。もっと愛したいんやって、――気付いた」
何かを言いかけて口を開いた雄高を遮って、和秋は続けた。
「それで、かまへんか」
全ての欠片を集め終わり、封筒をテーブルに置いてから漸く視線を合わせる。雄高は無表情に、どんな感情を微塵も見せず、ただ黙り込んでいた。
「……あかん?」
好きでいることを、愛していることを拒まれてしまえば、自分は彼の傍にいることができなくなってしまう。だから頷いてほしい。それでいいと、許可してほしい。
「……どうせ、おまえは俺の言うことなんて聞くつもりがないんだろう」
何も欲しがらないから。
これ以上欲張りにはならないから。
「俺が何を言っても、――信じようとしないんだろう」
長い沈黙を隔てて雄高が口にした言葉に、僅かばかり胸が痛む。過去、何もかもを信じられなかった自分を非難されている気がした。
「……信じるって、何をや」
だから、言いたくもなかったことが口を突いて出そうになる。必死に飲み込んでいた、ひどく女々しい、みっともない思いが。
必死で押し殺していた、なのに間違いなく本心に一番近い言葉が。
「何を信じたらよかったんや。あんた、なんにも言うてくれへんやんか……」
溢れ出しそうな感情を殺して、和秋は奥歯を噛み締める。
信じられなくしたのは誰だ。
「あんたは、ずるい」
信じられる言葉なんて、ひとつも与えてはくれなかったくせに。
「……いつも俺に決めさせるやんか」
大人ぶって、何もかもを和秋自身の手に委ねようとする、しかしそれはやさしさなんてものじゃない。卑怯なだけだ。
離れるのも傍にいるのも和秋の自由だと、突き離しておいて、そんなことを口にするのは卑怯だ。
ルール変更に口を挟むくらいなら、最初から拒絶してくれた方がよかったのに。
「俺が何を考えているか判るか」
判るはずがないと無言で首を振る。判るくらいならこんなに辛い思いはしなかった。信じられなくなることなどなかった。
「どうやったらおまえが逃げていかないか、考えている」
反射的に雄高を仰ぎ見て、和秋は慌てて視線を反らした。何の話だと、不用意に跳ね付けられないくらい痛い視線で、雄高がずっと自分のことを見つめていたからだ。
「あのときから、ずっと考えている。今度こそ逃げられないためには、どうしたらいいか、……考えても、結局判らない。だからおまえに決めさせるしかない」
知らない、と思った。
こんなにらしくない雄高を知らない。
雄高はいつでもマイペースで、和秋の都合などお構いなしで、自分のやりたいことだけを見事に遣って退けている。
置いて行ったじゃないか。あのとき、自分の想いも知らず、置いて行ったじゃないか。
「やから、ずるいねん……っ」
何もかも自分に委ねておいて、そんな顔をするのは狡い。
――そんなふうに想われていたことなど、自分には気付かせずにいた雄高が、狡いと本心から思う。
一度も欲しがってはくれなかった、それが、自分で決められなかっただけなんて、どっちが子どもなんだ。
頭を垂れて、和秋は唇を震わせる。
「……愛してた?」
訊きたくて訊けなかった、一生胸に仕舞っておくつもりだった言葉を、そっと唇に乗せる。
「あのころ、あんた、俺のこと愛してた?」
もしもその問い掛けに、頷かれてしまったら。
――だめになる。
「おまえは信じないんだろうな」
雄高は少しだけ微笑って、やさしくない手付きで和秋の身体を引き寄せた。雄高の指先が髪を掻い潜り、和秋の頭を己の胸に押しつけた。顔を押し付けられ、狭まった呼吸器官が苦しい。
「……愛してたよ」
苦しくて息ができない。抱き締める腕の力が強すぎる。その力が、たった今囁かれた雄高の言葉にいっそうの実感を帯びさせた。
「……うそつき」
あまりにも切ない腕の力に透明な雫が頬を濡らして、まさかと思う。簡単に涙が溢れてしまう、それくらいこの言葉を欲しがっていたのかと、情けない自分を痛感した。――今なら泣いてもいいのだろう。
どうせこの顔は雄高には見えない。ならばどれだけ泣いたって構わないはずだ。
「あんたは、嘘ばっかり言う……」
この人を、愛したい。
ただそれだけだった。
――ただそれだけだったのに。
「あんたが好きや」
涙で濡れた顔をそのままに、腕の中で囁いた言葉は、篭もって雄高の耳に綺麗には響かなかったかもしれない。
うそみたいだと思う。
――うそみたいに、遠回りをした。
「あんたが、好きや」
もう一度口にした言葉は、さっきよりも明瞭に空気を震わせたはずだ。今度こそ届いただろうか。届いていなければそれでもいい。そう思っていると、抱き締める腕に力が加わった。さっきよりも強く。
「――うそつき」
吐息のような声が頭の上から降って来る。仕返しのように与えられた言葉に少しだけ笑って、和秋は雄高の背中に腕を回した。
「……好きや」
うそつきでいい。何もかもが、うそでいい。
愛したい、その感情だけが自分の胸の中にあればいい。
「……あんたが好きや。ずっと、好きやった」
あの頃一度も言えなかった言葉を、雄高のいない部屋で呟くしかなかった言葉を、和秋は涙混じりに何度も何度も繰り返した。