「一人一競技は必ず出て下さい。紅白青選抜リレーは各学年からチームごとに選抜ですが、徒競争と学年競技は全員参加です」
教壇に立って声を張り上げているのは、委員長の――確か、橋本とか言うクラスメイトだ。ざわつく教室内に響くその声も、和秋の耳を素通りする。
「競技って何があんの?」
「騎馬戦、棒倒し、玉送り、借り物競争、綱引き、玉入れ、パン食い競争、二人三脚。援団は騎馬戦に出て下さい。応援団は各クラスニ名ずつね。これも後で決めるから。――それから盆踊りとフォークダンスも全員参加」
今年もやんのかそれ、と教室中からブーイングが沸きあがる。どうやら恒例競技のうち、とんでもなく不評らしい。騒がしいブーイングに引き戻された和秋は、そりゃそうやろ、と納得した。この歳で盆踊りだのフォークダンスだの、真面目にやってやれるはずもない。
「しょうがないじゃんか。やるって決まっちゃったんだから。――ええと、紅白青選抜リレーの選手に選ばれたら、他の競技出なくても良いよ。出ても良いけど、うち人数足りないから」
「何人か二回出なきゃだめってこと?」
「うん、うちのクラスだと――三人かな、二回出てもらうことになる。ウチから選抜が出たらまた変わってくるけど、騎馬戦でだいぶ人数取られちゃうから」
「なあ清田――」
ふと疑問に行き当たり、前の席に座っている清田の背中を突付く。振り返った清田の耳に唇を近づけて、和秋は声を潜めた。
「……あんな、俺今ものすご疑問やったんやけど。フォークダンスて、ここ――」
――男子校だ。見渡す限り見事に野郎ばかりだ。コロブチカならまだしも、オクラホマミキサーを躍るとなると眼も宛てられない。
「女役も俺らがやんの。一応は外部も自由参加ってことで、見に来てる保護者とか別の高校の女子とかが輪に入ったりもするんだけど――足りない場合は、背が小さい順から女役。だから両方躍れるように練習」
「げ」
予想が当たってしまった。しかも飛びきり悪い予想だ。和秋の身長は飛び抜けて低くもなく高くもない微妙な位置にある。外部から参加する人数によっては、女性パートに回される可能性がないわけでもない。
「フォークダンスはまだ良いんだって。彼女が見に来て参加してくれるヤツもいるしな。――ただ盆踊りがなあ……」
清田は嫌そうに頭を掻く。確かにこの歳で盆踊りは恥かしい。非常に恥かしい。しかも和秋なんてこの地域の盆踊りを踊れない。どうしようと和秋が頭を抱えるのを見て、清田が気の毒そうに呟いた。
「……教えてやっから。フォークダンスは躍れるだろ?」
「……何とか……けど俺女役なんか躍れへんで……」
「俺らは一年のときに体育で教わったからなあ。……どうだろ、今年もやんのかな……」
のんびり呟く清田の声に、委員長の声が被さる。
「ニ限目の体育で50mのタイム測って選抜決めるから、どの競技に参加するかは六限までに決めておいてください!」
橋本が声を張り上げ、言い終えたと同時にチャイムが鳴り響く。生徒はそれぞれ立ち上がると、面倒臭そうに着替えを始めた。
ストレッチと称して、適当にやっている体操に、つい真面目に取り組んでしまっている自分に気付いて苦笑する。怪我は怖いからと真剣にやらされた過去の習慣がすっかり染み付いてしまっているのだ。
この時間は合同体育で、隣のクラスとも一緒にタイムを測るらしい。隣のクラスには――奥村がいた。
どうやら隣のクラスが先に走るらしく、和秋のクラスの生徒は体操を終えるとグラウンドの隅に追い遣られた。陽射しがジリジリと強くなるこの時期、他の生徒と同じように和秋は日陰を求めて地べたに座り込む。
「清田、何に出るん?」
「玉入れ? ……一番楽だし」
和秋が元いた学校では、玉入れは女子の競技だった。男子高校生の玉入れなど和秋は一度も見たことがない。それも新鮮で楽しそうだ。
「なら俺もそれにしよかなあ……」
「おまえ紅白リレーに出されるんじゃねえの?」
全校生徒の人数の関係で、チームは紅、白、青の三つに分かれている。正しくは「紅白」リレーではなく、「紅白青」リレーなのだが、中々染み付いた言葉は抜けないらしい。
「……どやろ。俺より早いヤツなんか、いっぱいおるやろぉ……」
元々身体を動かすことは大好きで、体育祭という単語を聞いただけで心は踊る。授業が潰れる回数が多くなるのも喜ばしい。
それでも出来るだけ、走るだけの競技には出たくなかった。
「お、奥村」
遠くに見えるグラウンドの端に、三人の生徒が姿勢を屈めてスタートを待っているのが見えた。その一人は、清田の言うように確かに奥村だった。
「あいつも結構早いから、多分選抜だろうなあ……」
ホイッスルが鳴り響く。
奥村はスタートの瞬間から違っていた。
「……早い」
それは感嘆だった。いや、感動と言った方が近いのかもしれない。
意識せず、するりと唇から零れ落ちてしまった溜息のような言葉に、清田は頷く。
「だろ」
他の二人は恐らく陸上部ではないのだろう。スタート時から飛ばしていた奥村は、更に半分を過ぎた地点から更に加速し、同時に走り出した二人に圧倒的な差をつけて、あっと言う間にゴールインした。
「うちあんま陸上は強くねえんだけどな。あいつは早いみてえ。つか短距離はメインじゃないらしいけど」
清田は他人事のように言って退ける。和秋はその返事を忘れるほど、奥村を食い入るように見つめていた。――綺麗なフォームだ。
「……走り高跳び?」
「そうそう、多分ソレ。やっぱそういうの判るもんか?」
「――多分、やけど…」
これは勘だ。走り方だけでその選手が主に何の競技をやっているかなんて判断出来るほど、和秋は知識が深くない。しかし奥村の場合は想像出来てしまったのだ。その脚が地面から離れ、軽やかに飛ぶ姿が。
「……奥村、すごい……」
身体中に何かが駆け巡る。もう忘れたと思っていた衝動だ。――走りたい。無性に強く思った。競争心とは違う何か。――走りたい。ただあのころのように。奥村のように自由に走りたい。
身体を動かすことは好きだ。少なくとも頭を使うよりは何倍も自分に合っている。――特に今は考えたくないことが多すぎて、この時期は幸いしているのだ。
――走りたいんやったら走ればええやんな。
「何やってんのおまえ」
突然身体を折り、柔軟体操を始めた和秋に清田は目を丸める。
「や、せっかくやし。ちょお頑張ってみよかと」
「……って、おまえ暫く走ってねえんだろ、そんないきなり走って大丈夫なのか?」
「やからストレッチしてるんやんか。おまえも付き合え。背中押して」
「はあ?」
「俺が肉離れなんか起こしたら可哀想やろ」
なんで俺が、などと文句を言いながらも清田は和秋の背を押し、ストレッチを手伝ってくれる。――やっぱり清田はええヤツや、和秋は胸の中でそっと笑う。
「おまえ身体柔らかいな」
「うん。俺、実は元体操選手やってん。すごいやろ」
「嘘吐けッ」
今は誰も。そう、誰も自分のことなんて見ていない。視線の痛みなど、きっと感じない。だから多分走れると和秋は信じた。
顔を上げると、走り終えた奥村が近付いて来るのが見える。
奥村はストレッチを始めた和秋たちを見て――少しだけ、笑ったように見えた。
「岸田。走るの」
「走るで。授業やもん」
しかしそう話し掛けてきた奥村はちっとも笑ってなどおらず、やはり無表情のままだった。さっきのはただの錯覚だったらしい。
「……つか、矢野だし」
冷静にツッコミを入れた清田の声に、あ、と奥村と和秋は顔を見合わせる。あまりにも自然に呼ばれたせいで、自然に応えてしまっていた。
「……あかんなあ、まだ名前慣れへんわー…」
「良いよ。矢野でも岸田でもどっちでも。――楽しみだ」
「ん。俺も楽しみや――」
走るのが楽しみだと思うこの気持ちは、どれほど振りだろう。誰とも争うことなく、ただひた走れる。走っている間は、何も感じない。何の痛みも思い出さない。
(――このまま)
走ることを完全に思い出せれば、もう辛くはないだろうか。
それが不可能なことだと知っている。走ることを思い出せば、恵史が和秋を連れ戻しに来るだろう。そして元の学校に戻って――また走れなくなる。その繰り返しに違いない。
弱い自分が走れるのはこんなに小さな場所だけで、あのころのように広すぎるグラウンドでは、この脚はきっと動かない。
時間は緩やかに過ぎていく。
――あなたがいても、いなくても。
(――…考えるな)
自分にそう言い聞かせながら、和秋はそっと目を伏せた。
「――和秋くん最近見かけないですねえ。来ないんですか」
背後から聞こえた無遠慮な声に、雄高は盛大に顔を顰めた。煩いとばかりに手を上下に振り、しかしこの不躾な客を持て成すために淹れてやった珈琲をその前にそっと置く。
「そういえばこの間和秋くんに会いましたよ。ここで。風邪引いてるみたいでした。可哀想」
そんなことは言われなくても知ってる――喉元まで出かけた言葉を寸でで飲み込み、雄高は黙って手元に置いた数枚の紙を神城に渡した。あまり喋りたい気分でもない。神城は受け取ったそれに素早く目を通すと、幾度か頷き、
「結構です。では予定通り書き進めてください。締め切りは――」
判っているという意思表示のつもりで雄高は頷く。それを確認すると神城は愉快そうに笑った。
「……必要最低限以外のことは喋りたくないって感じですねえ。そんなに喉が痛むんなら喉飴でも買ってくればよかった」
要らない、そう伝えるために雄高は首を振る。妙なところで恩を売られてしまえば、この男の場合後が怖い。ただでさえ、急に穴が空いたからと言って恐ろしく短い締め切りで有り得ない枚数の原稿を平気で人に要求出来る人間なのだ。
「風邪、和秋くんから移されたんでしょう」
問い掛けではない、断定する強さで神城は言う。答える気は毛頭なかった。
「風邪、移したって知ったら和秋くん気にしそうですもんねえ。――先生らしい。非常に」
そこで神城は声を潜めると、ほんの僅かに口の端を上げた。
「――健気」
「……何が言いたいんですか」
無理に押し出した声は、低く掠れた。喉の痛みもさることながら、今はいちいち言葉を出すことすら億劫なのだ。熱や頭痛はないとは言え、喉をやられてしまったのは不便だった。今の雄高では、口で神城に勝つことができない。
「いいえ、なんにも。――じゃあ僕これで。あんまり長居して風邪移されちゃうのも厭だし」
神城がこんな風に失礼なことを平気で言って退けるのは、実は担当者と作家というだけの関係ではない所為だ。和秋が思うよりもこの男との付き合いは長く、故に神城は和秋に興味を持ったのだろう。
「さっさと帰って下さい」
「帰りますよ。この後楠田先生のところにもお邪魔するし」
雄高が神城と知り合ったのは偶然だが、ずっと前に作家を志していた友人の手助けをしてくれたこともあるのだから、そうそう悪い縁でもなかったのだろう。自分にとっては厄介な知人のひとりでしかなかったとしても。
「楠田先生にね、随分前からうちの雑誌のインタビュー出て下さいってお願いしてるんですけど。だめ。絶対やってくれない。なんででしょうねえ」
「……官能小説家に何訊きたいんです、神城さん……」
「だってあの人売れますよ。そのうち。今よりもずうっとね。だから今のうちにツバつけときたくて。ほら、うちが発掘したんだ、っていう感じね。でもまだ時期じゃないのかな、だから出てくれないのかな。あなたからも何か言っといてくださいよ」
学生時代から出版社にアルバイトとして勤めていた神城に、恭一のことを話したのは雄高だ。そう言えば今、作家を欲しがっている部門はありますよ、書いてみて下さい、良い作品だったら僕が推薦しておきます――そう言った神城の言葉を、雄高はそのまま恭一に伝えた。所謂それが、官能小説だったわけである。
一介のアルバイト風情の推薦が頼りになるものかと思いながら雄高は展開を見守っていたが、運良く恭一の作品は担当者の目に止まり、とんとん拍子で友人はデビューを果した。恭一が強運の持ち主――勝負強いとも言うのだろうか――であることは知っていたものの、さすがの雄高もそのときは彼の運の良さに驚いたことを覚えている。
「……無駄だろう」
そう言う意味では神城は間違いなく恭一の恩人のひとりだった。しかしインタビューは、明らかに恭一向きの仕事ではない。それで雑誌が売れるとも思わない。――神城が担当する雑誌は、女性向けの月刊情報誌なのだ。有名人のインタビューは扱うこともあるだろうが、それが官能小説家というのは如何なものか。
「じゃあ梶原先生に出てもらおうかな」
「厭です」
「あ、そんなこと言っちゃって。せっかく縁起の良い話があるのに、もう黙っておこう」
軽々しい口調で言った神城は、じゃあ僕はこれでと腰を上げる。玄関に向かいかけたその襟首を捕まえて、声も低く雄高は尋ねた。
「何ですか。早く言ってください」
「いやいや大した話じゃないんですよう。手、離してください。スーツが皺になるでしょ」
じゃあアイロンでも――そう言いかけて、止めた。この会話は、どこかで聞いた気がするし、今はほんの少しだけそれが痛い。
「……大した話じゃなくても。中途半端だと気になる」
「ほんと大した話じゃないんですけどね。――香織、結婚します」
少しも変わらない声のトーンで、神城はそう告げた。あまりにも自然に言われた言葉に、冗談か本気かと雄高は神城の眼を真っ向から覗いた。顔は笑っているのに眼だけは笑っていない。そんな表情のとき、神城は真剣なのだと雄高は知っている。
雄高は、ゆっくりと掴んだ襟首の指から力を抜いた。
「――そうですか」
「はい。式はまだ先で――半年後かな、それくらいだけど」
「どこが大した話じゃないんだ。充分大事な話でしょう」
「大事じゃないですよ。あなたにはもう。――ほら。皺になっちゃったなあ」
神城は奇妙に寄ったスーツを整えながら呟く。掌でパン、と軽くスーツを叩く仕草を見せてから、あ、と奇妙な声を上げた。
「それからもうひとつ。写真集出しましょう」
「――は?」
唐突な話題の転換に、雄高は思わず眉を寄せる。相変わらずペースの掴み難い男だ。
「写真集って言っても、あなたが今までウチに載せてきたコラムと旅行記の纏めですけどね。でもあなたの写真、中々評判が良い。だから写真のページを大幅に増やします。この間撮って来て頂いた写真も含めて、比率で言えば、四割。異例です。でも僕はそう考えている」
「――そんな話、初めて聞いたが」
「今言いましたもん。評判良くなきゃあなたなんか使ってませんよウチで。――僕は本当は、写真を八割程度使いたい。けど却下されました。当然です。あんた写真家としては無名ですから」
「だろうな。――四割というのも無謀に聞こえるが」
「売り文句は北沢常保氏の愛弟子。掲載する写真についてはまたお話しに来ますが、北沢氏の名に恥じない写真を選んでください」
雄高は厭そうに顔を顰めたものの、取り敢えずは頷いておいた。自分は北沢を敬愛しているが弟子入りした覚えはないし、勿論向こうだってこんな不出来な弟子を取ったつもりもないだろう。しかし北沢の名を出すと神城が言う以上、もう一度北沢に逢いに行こうと密かに決める。もしもそれで北沢が少しでも拒絶反応を見せれば、何と言っても出版の話は破棄させなければならない。
「この話、僕が推したんだから売れてください。下手したら僕クビです」
「――努力はするよ。ありがとうございます」
「商売ですから」
神城はそう言って笑うと、今度こそリビングの扉を開けると玄関へ向かった。その背中に、雄高は一言だけ呟きを落とした。
「――…ご結婚、おめでとうございます」
「――勘違いしないでください。だからって君が許されるわけじゃない。君がやっていることは間違っている。僕は今でもそう思う」
神城は振り向かず、どこかくぐもった声で返す。
「それでも君が独りでいる理由はどこにもない。だから君には早く気付いて欲しい。君は最初から全部間違っている。それに――気付いてください」
神城はそれだけ言うと、リビングの扉をそっと閉めた。短い足音の後、玄関の扉が開き、静かに閉ざされる音を聞く。
昔、同じことを言われた。もちろんそう言ったのは神城だ。今とは違う、もっと感情を昂ぶらせた声音で。雄高はあれ以来、神城の激した声を聞いたことがない。あれほどに神城を憤らせた非は自分にある。それは判り切っていることだった。
「――間違いなんて言われても、どうしようもないんだよ神城さん……」
今日神城が告げた二つ目の事項は、これからは今までよりもひどく忙しくなると知らせた言葉だった。ならば今までのようにはいかなくなるかもしれないと、雄高はぼんやりと思う。
――与えることだけで確立していた自己というものが、自分の中には確かに存在する。
神城の言う間違いは、多分そこにあるのだろうと、雄高は頭では理解している。しかしそれを間違いだと言われても、今更どうしようもない。常に自分は与える側だった。求めることをしなかった。
――欲しいものは全てだったと言えば、今度は殴られるくらいじゃ済まないだろうな。
そんなことをふと考えて、雄高はひとり苦笑を落とした。
まだ、「彼」に渡していない土産と――そして彼の過去が、テーブルの隅に置かれている。写真を引き寄せて、まだ幼さの残る写真の中の少年をそっと見つめた。
写真の中の和秋は、中学生くらいだろうか。まだほんの子供で――いや、今も彼は子供なのだ。身体が大きくなっただけで、精神は不安定な時期を生きている、幼い子供。
そう思うと余計に、自分に対する嫌悪感が沸き出て来る。その小さな子供に対して自分は何をしただろう。和秋にしても由成にしても、彼らが自分と歳が離れていることを雄高はそれほど実感したことがなかった。だけど明らかに違うのだ。
――自分が間違っているというのなら、きっと和秋も同じように傷付けてしまう。
どこか切なさに似た気分を味わいながら、雄高は写真を裏返すと、そっとテーブルに置いた。
少しだけ迷って、雄高は携帯を取り出す。メモリにまだ残る女の名前は、しかしここ何年も口にしたことはない。この番号はまだ有効だろうか。そう思ったものの、指は躊躇わずにスムーズに動く。何度も和秋に電話をしようとして、その度に躊躇って止めたことが嘘のように、指の動きは何の迷いもない。
――これが、「違い」か。
唐突にそんなことを思った。
現在この番号は使われておりません。機械染みた声を覚悟していた雄高を裏切って、掛けた番号は何の変わりもなく聞き慣れた電子音を導いた。番号が使われていることが確かでも、出た人物が違っていれば意味がない。
安心するのはまだ早いかと思った瞬間、聞き慣れた女の声が耳に届いた。
『――雄高?』
懐かしい声で呼ばれた瞬間、時間の流れは緩やかになる。彼女はいつでも開口一番に自分の名を呼んだ。少し甘えるように、何かを確かめるように、微かな声で自分の名前を囁いた。まるで時代が遡ったように、穏やかな気持ちで雄高は口を開く。
「……番号、変わってなかったんだな。良かった」
『うん。……あなたも。まさかと思ったけど……』
「今日、神城さんから聞いた。どうしても言いたくてな。――結婚おめでとう、香織」
一度は添い遂げようと心に決めたその女性は――あのころと少しも変わらない声で、ありがとうと笑った。
数年振りに聞いた声だった。