Breath




 どうしても身体からだるさは抜けてくれず、アパートに帰り着くなりベッドに倒れ込んだ。体温計なんて便利なものは果たしてこの部屋に置いてあっただろうか。否である。
 せめて雄高の家で、熱だけでも測らせてもらえばよかったと後悔しつつも、和秋はそっと瞼を閉じた。
 携帯電話を無意識に握り締めていた。もしかしたらマンションから出て行った自分に気付いたあの人が、電話をかけてくるかもしれない。
 万が一この電話が鳴ったら、間違ってもコールを聞き逃すことがないように。
 和秋はどこか切ない気持ちで眠りに就いた。
 熱はまだ、下がらない。

「――おかげでバイトにも行けへんかったし」
「そりゃ気の毒だったな」
 週が明けた月曜日、体調を崩していたことを早速報告すると、清田はあっさりと笑って言った。本気で気の毒だとは思っていないのだろう。
「風邪流行ってるみたいだしな、俺はまだ引いてねえけど。連絡してくれりゃ差し入れでも何でも持ってったのに」
「差し入れ要らへん。……今度から俺が倒れたらバイト代わってくれ」
「それは無理」
 無理を承知で言った頼みに、やはり清田は首を振る。当然だろう。日曜祭日でも部活に熱心な彼は練習を怠ることはないのだ。バイトなんかやってられるかというのが清田の本心である。
「良かったじゃねえか今日まで風邪引き延びなくて。連休ゆっくり休めただろ」
「休めたっていうかな……」
 しかし和秋にしてみれば、風邪なんか引いてる場合ではないのだ。ただでさえ休日は稼ぎ時なのに、それを欠席してしまったとあれば来月の給料にもだいぶ響く。憂いに頭を抱えてうんうん唸っている和秋を余所に、清田は扉の向こうに佇む生徒を見つけると、ひらひら手を振った。
 教室内に視線を巡らせていたその生徒は、どうやら清田の知り合いらしい。清田が振る手に気づくと、彼は窓際の和秋の席にやって来る。後ろ向きに和秋の机に肘をついていた清田に向かって、彼は徐に手を差し出した。
「辞書」
 呟かれた単語と差し出された手を見るところ、辞書を貸して欲しいという意味だろう。えらく端折ったもんだなと思いながら、和秋は二人の遣り取りをほけっと傍観した。
「良いけど。珍しいな、おまえが忘れものするのって」
 和秋には見覚えがないその生徒に、清田は机から辞書を引き摺り出すとそれを手渡す。目の前の二人の遣り取りを目で追いながら、和秋は首を傾げた。別クラスの生徒であることは間違いない。なのに、この少年を校内以外の、どこかで見たような気がしていた。それがどこだったかは、どうしても思い出せない。
「僕じゃない。返って来ない」
「誰だよ」
「高橋」
「アイツ借りたモン中々返さねえからな。おまえも貸すなよアイツに。――矢野、コッチ奥村。俺と中学が一緒」
 奥村という少年は、黒目がちな眼で和秋を真っ直ぐに見つめると、無表情にこんにちはと呟いた。キツい顔というわけではないのに何かしら無言のプレッシャーを感じさせる、中々個性的な雰囲気だ。その雰囲気に圧倒されながらも、和秋はコンニチハと鸚鵡返しに頭を下げる。
「――岸田和秋」
 そして奥村は――矢張り呟くように、ポツリと言った。
 その瞬間、和秋は絶句して奥村を凝視した。文字通り、身体が凍り付いたように思考を巡らせることさえ困難なのに、そのくせ心臓だけが早鐘を打っている。――どうしてその名前を。そう尋ねたいのに、唇が動かない。
「奥村、教室帰れよ」
 しかし気付かなかっただけで、凍り付いていたのは自分だけではなかったらしい。同じように清田もピシリと動きを止め、しかし和秋の様子に気付くとはっと我に返って、奥村を追い払う仕草を見せた。
「――悪ィ。こいつ悪いヤツじゃねえんだけど、ちょっと無神経なんだ」
「煩い。おまえほどじゃない」
 追い払われる仕草に些か気分を害したのか、奥村は眉根を寄せつつも和秋に背を向けた。辞書を持ってそのまま去って行くかと思われた彼は、しかし一度だけ足を止めて和秋を振り返る。
「君を、惜しいと思う。清田が止めていなければ陸上部に勧誘したかったくらいだ」
「奥村ッ」
「――気分を悪くしたならすまなかった」
 清田に諌められた奥村は、無感情に詫びると今度こそ教室から去って行く。残された清田が苦い表情で、すまないと噛み締めるように謝った。
「奥村、陸上やってんだ。走るのも好きだけど、走ってるヤツも好きだっていう妙なヤツで――おまえのことデカい大会とかで見てて、覚えてたらしくて」
 ――ああ。
 ふっと脳裏に甦る景色があった。見渡したのは広いグラウンド。その中に、あの少年の顔を幾度か見ただろうか。鮮明には思い出せないにしても、奥村と自分は同じ場所にいたことが何度かあるのだろう。
 だから、と清田が続けようとした言葉を和秋は遮った。
「待って。――待てや、清田。おまえ……知っとったんか」
 まるで今の口振りでは、和秋が以前陸上をやっていていたこと――適当に部活をやっていたという話が嘘だということ――、そして和秋の姓が違っていたことを知っていたようである。
 清田はほんの少しだけすまなそうな顔をして、しかしはっきりと頷いた。
「奥村から聞いてな。俺は陸上のこと詳しくねえから、最初はなんにも知らなかったけど。――けど奥村は、おまえの顔見てすぐに岸田和秋だろうって言うくらいだから、めちゃくちゃ覚えてたみたいで」
 清田の声を聞きながら、和秋は唇を噛み締めた。
「――おまえが勧誘、止めたって……?」
「……おまえ、ずっと陸上やってたんだろ? けど転校して来てから陸上部に入ろうとしないってことは、それなりに理由があるんだと思ってな。とりあえず今はテニス部に入ってるし、陸上部は何も言ってこないと思うぜ」
 自分を知る人間がひとりもいないものだと決め付けて安堵していた。――それが勘違いでしかなかったことを思い知った気がして、和秋はそっと顔を歪めた。現に自分の名前を覚えている奥村が、同じ学校にいたのだ。
「奥村も判ってる。別におまえを無理に陸上部に勧誘したりはしねえから。あんま気にするなよ。さっきのは――」
 ならば清田は自分の吐いた嘘に気付いた上で、何も知らない顔をしていてくれたのだろう。転入後和秋が陸上部に近寄りもしない理由をそれとなく悟って、気を遣ってくれていたのだ。思えば自分を引っ張り込むようにテニス部に入部させたのも、思い遣りの結果なのかもしれない。
 もしそれが真実なら、自分は清田の好意にどれだけ胡座を掻いていただろう。
「――あいつ、ほんとにおまえの走り好きだったみたいで、それを言いたかっただけなんだと思う。悪いヤツじゃないんだよ」
「……ん」
 今はそれが何よりも胸を痛ませる言葉であっても。
「……ありがとお、清田――」
 自分が思う以上に大事にされている。誰かがさり気無い優しさを与えてくれている。そう気付くには充分だった。
「――おまえ思ったよりええヤツやったな」
「――…照れてるだけなのか根性が捻じ曲がってるだけなのかはっきりしてくれねえかな」
 清田はそう言って悪態を吐く。根性曲がってるだけかもなあ――そうやって笑い返した。世界は自分が思うよりもやさしいひとたちばかりで、多分、幸せなのだろう。望んだわけでもないのに、他人を傷付けないひとたちに、いつの間にか囲まれて生きている。――なんて幸せなのだろう。
 それなのに、まだ空っぽなのはなぜだろう。笑いながらぼんやり思う。まだこんなにも心が満たされていないのは。
 自ら望んで手を離したものは大きかった。けれど代わりに得た場所も変わらず暖かかった。
 それなのに携帯が鳴らないことをこんなに不安がっている自分は、一体何なんだろう。




 病み上がりなんだから無理をしなくてもと心配する店長に笑って首を振り、いつも以上に仕事に精を出した。ただでさえ急に二日も休んでしまったせいで迷惑を掛けているのだから、これ以上怠けるわけにはいかなかった。
 バイトが終わると店長は茶封筒を和秋に渡した。先月分の給料である。月途中からのバイトであるに関わらず、ほぼ毎日出勤のシフトを組んでいたおかげで、そこそこ満足出来る金額が手に入った。
 しかしそこから雄高への借金を一気に返してしまったら、生活は苦しくなるだろう。散々迷った挙句、雄高の言葉に甘えて二ヶ月に分割して返金することに決めた。
 決めたものの、携帯を握り締めた指は動いてくれない。この指を動かしてメモリを呼び出して、今から金返しに行ってもかまへんか、それだけを口にしてしまえば済む話なのに。
 随分長い時間、携帯を睨みつけながら帰り道を歩き続けていた。悩んでいても仕方ない、そう振り切って漸くボタンを押した頃、アパートはもう目前に迫っていた。
 コールが一回二回と鳴り響く。いつまで経っても慣れない音だ。彼に電話をするのはこれで何度目だろう、緊張して乾いた唇を誤魔化すように、努めて思考を巡らせた。あの日以来一度も会っていないあの人の声に、それでも動揺してしまうだろうという予感は消えない。
 コールは続いた。いつもに比べれば、それが随分長かったように思う。――錯覚なのか真実なのか、判断は難しかった。着信表示は向こうに表示されているだろう。もしも雄高がディスプレイに表示された自分の名前に躊躇って、通話ボタンを押してくれないのだとしたら。そう考えると、痛みに堪えるように携帯電話を握り締める指先に力が入った。
『――何だ』
 長く続いたコールが途切れたかと思うと、いつものように簡潔で淡々とした男の声が鼓膜を打った。いや、いつもよりはやや低めで――そう、ほんの少しだけ不機嫌にも聞こえる声。だけど変わらずに、耳障りの良い、穏やかな。
 この声を聞くのはどれくらい振りだろう。そんなに時間は経っていないはずなのに、そう思うと胸が震えた。優しい声、この声があのとき宝物のように自分の名前を呼んだ。それがどれだけ嬉しかっただろう。
 例え神城の言うように下らない実験だとしても、これが誰に与えられる声であっても。
 ――自分はもう抗えないくらいに、この声に縛られているのかもしれない。
『――……おい、和秋?』
 咄嗟に返事を返し忘れた和秋に、不自然な沈黙を訝しむ雄高の声が響く。
「……ぅわ、すまん、……何や安心してもうた……」
 慌てて言葉を継ごうとすれば、意識しないままにそんな言葉が零れ落ちていた。
「――中々出てくれへんかったから。無視、されてるんかもしれへんて……」
 しかし唇から滑るように出て来る言葉は、自分でもおかしくなるくらいに本心だった。何を言っているのだろう、何を伝えるつもりだろう。滑稽だ。あんまり自分がおかしすぎて泣きたくなる。
 だけど、抗えない。
 雄高から返る声はない。あまりにも奇妙な自分の言葉に呆れて言葉もないのだろうと、和秋は苦く笑った。
「……すまん、妙なこと言ってんな、俺……」
 じわりと目尻に浮かぶこの熱は何だろう。鼻先を突き抜ける痛みは何だろう。
 ――この人は自分のこと愛してないんだなって。――そりゃあ判るよねえ。自分だけに特別優しいかと思えば、結局誰に対しても同じなんだから。
 神城の言葉が脳裏に過ぎれば胸が痛かった。どうして自分だけが特別じゃないんだと不条理な痛みに苛まれていた。それは、いとも簡単にたったひとつの理由を導く。
『和秋――』
 どこか戸惑っているような声が耳を打つ。この人の声は最初から特別だった。声もなく静かに笑う、その小さな仕草のひとつさえ特別だった。痛みにも抗えないくらい――この人のことを好きだった。
「……金、返しに行ってもええかな」
 雄高に会いたいと初めて思った。無意識に雄高を求めたあの雨の日とは違い、自分の意思で、今この人に会いたいと心から思う。
「バイト代、受け取ってきたから。あんたの言う通り分割にしてもらうことにしたけど……」
 自覚してしまえば溢れて止まらない想いを、それでも押し殺しながら告げる。自分にとっては特別でも、彼にとって自分が特別だとは限らない。神城の言うように、その他大勢と等しい存在である確率の方が高かった。ならば高望みはしないでいようと思う。ほんの少しだけ優しくされる、それだけできっと、空っぽだった胸の空白は満たされるのだから。
『……もう良い』
 なのに、返って来た声からは望んだぬくもりは与えられなかった。
『もう――金は無理に返さなくても良い』
 一瞬、言われた言葉が理解出来ずに、和秋はただ息を詰まらせた。その言葉にどんな意味が込められているのだろうと、ゆっくり咀嚼して飲み込む。――飲み込んで胸に落とした言葉は、鉛のように重たく沈んだ。
「――それ、もう来るなってことやんな」
 沈んだ鉛はとろりと溶けて、言いようのない感情へと変わっていく。この感情の名前を、知っている。
「俺に来てほしくないて、そういう意味やんな……」
 ――切ないという感情を、知りすぎている。
 あの日の朝、帰れとばかりにソファに置かれていた服に、込められている気がしたメッセージを、まさかと否定した。神城の言葉に混乱して、それでも良いと受け止めた。
 特別でも特別じゃなくても、気付いてしまったこの気持ちにどれほどの違いがあるだろう。
 好きだと思うこの気持ちは間違いなく自分のものなのに、雄高の意思などどうして関係があるだろう。
「……セックスしたから?」
 どうして今更この空っぽな胸が、他の誰かで埋められるだろう。
「セックスしたからもう金要らへんてことか。……えらい高く買われたもんやな」
 口にした言葉は、自分の心臓だけを深く抉った。こうしている間にも空洞は大きくなっている。しかしそれを雄高に伝えてどうなるというのだろう。
「男でも援交出来るもんなんやな。つまらん身体やったのに、買うてくれてありがとお」
 言葉は驚く程スムーズで、途切れることなくさらさらと口を突いて出てくる。その分、どこかが凍り付いてしまったように冷たくて、だけど鼻先だけは痺れるように熱い。この感覚にも覚えがあった。
 笑って言った、「おめでとう」と。
 泣きたい気持ちを殺して言った。「おめでとう、母さん、恵先生」。――笑って言った。あのときと今の気持ちは酷似している。
 雄高の返事を待たずに和秋は通話を切った。通話が途切れるその瞬間、雄高の声がかすかに聞こえた気がしたけれど構わなかった。――自分はうまく喋れただろうか。何の未練も残さず、あのひとへの想いを欠片も見せず、きちんとうまく喋ることが出来ただろうか。
 感情を隠すことは容易い。ほんの少しだけ、ほんの一瞬だけ自分の中の何かを凍り付かせれば良いだけなのだ。
 その後に溶けて溢れてくるものが、涙でも。
 会いたいと初めて強く思った。
 もう一度あの声で、大切に名前を呼ばれたかった。
 静かに笑うあのひとに、もう一度だけ。
 この瞬間、雨が降ってくれればこの嗚咽を隠してくれるのに。祈っても都合の良い雨なんて降ってはくれない。コンクリートに染みを作る涙などお構いなしに、晴れ渡った夜空には美しい満月が輝いている。
 その灯りの下、和秋は携帯を強く握り締めたまま、ただただ立ち竦んでいた。