Breath


 下肢に違和感を感じて薄らと目を開くと、そこには青いカバーの枕がある。既に見慣れてしまった感のあるそれに、視界を奪われてしまっていた。あれほどの高熱の中で、よく息苦しさも感じずにすやすやと寝ていられたものだと自分に感心してしまう。のんびりと考えられたのはそこまでで、和秋は直ぐにどう考えても異常な自分の体勢に気付いた。
「ちょお……何してんっ……!」
 良く考えれば、自分があお向けの姿勢で寝るはずもないのだ。決まって和秋は右横向きで、膝を抱えるように背を丸めて眠る。ひどく寝相が良いことだけは自他ともに認めていることで、一度その姿勢で寝てしまえば目が覚めるまで微動だにしないのだ。
「――起きたか」
「そら起きるわ!」
 雄高は今や和秋の胸元のボタンを外し、素肌を晒させようとしているところだった。
「人が寝てる間に何してんねん!」
 大いに焦って声を荒げれば、頭に鈍い痛みが走る。叫んだ分痛みは増すようで、和秋はそのまま枕に顔を押しつけると低く呻いた。
「イ、った……」
「熱がまた上がってるんだ。大人しくしとけ」
 熱が上がったと言われなくても、具合が悪化しているのは自分でも判る。絶え間なく続く頭痛がそれを教えてくれるのだ。しかし解せないのは、それでどうして自分がこんな恰好で、そしてなぜ雄高が自分の服を脱がせようとしているのか、ということだった。
「とりあえず汗拭いてやるから、服を脱がせろ、そしてお前は大人しく寝てろ」
「寝れるかー!」
 自分でやるとほんの少し抵抗しただけで息が上がってしまう。これは和秋に体力がないというわけではなく、ひとえに熱が上がっている所為だ。ぜえぜえ言いながらも必死に雄高の腕を押し返す和秋を見て、雄高は盛大に溜息を吐いた。
「ガキが妙な気を遣うんじゃない。すぐ終わるって言ってるだろ。――手間をかけさせるな」
 その言葉に和秋は思わず息を飲む。雄高に手間をかけさせている――そんなことは判っていた。迷惑をかけたいなんて、一度も思ったことはないのに、なぜか雄高の前にいるとその方向にしか転がっていかないのだ。これ以上手間なんてかけさせたくはない、それは確かだ。しかしそれとこれとは話が違う。
「手間なんかっ……世話してくれ、言うた覚えあらへん……っ……」
 それなのに確実に抵抗は弱まっていった。自分が暴れることが雄高にとって「手間」でしかないのなら、抵抗してはいけないと、なぜかそう思ってしまう。
「判った判った。文句は後で聞いてやる」
 適当に和秋の文句をあしらうと、雄高はボタンを外しきった胸元を広げ、無遠慮に和秋の素肌を晒した。露わになった素肌が、直接触れる外気をリアルに感じてぶわりと粟立った。
「冷た……」
「気持ち悪いか?」
 ひんやりしたタオルが胸元を滑る。つい呟きを落とし、眉を寄せた和秋に、雄高が同じくらいに小さな囁きで尋ねる。密やかな内緒ごとを交わすような声音に、なぜだか胸が高鳴った。
「……だいじょうぶ」
 その指の動きには何の含みもなく、ただ淡々と和秋の肌を撫でた。機械的な指に、どうしてここまで恥じ入る必要があるのかと思っても、混乱と羞恥は和秋をひどく戸惑わせる。触れているのが雄高の指であるというただそれだけのことに緊張した。
「……も、ええ、やろ……」
 そんなばかな、とかぶりを振る。少女のような恥じらいを悟られないようにと、懇願染みた響きで言いながら雄高を仰ぎ見た。ふいに顔を上げただけなのに、その瞬間、想像もしていなかったほど真摯な表情をした雄高と、視線が重なった。
 彼は――なんだかとても、不思議な顔をしていた。
「……あんた、見過ぎや」
「悪いな。人を観察するのが趣味なもんで」
「趣味悪いな」
「よく言われる」
 乾いた唇を誤魔化すような言葉すら、上滑りしていく。彼の指は――まだ肌の上から動かない。
 頼むから離してくれと、言いかけて開いた唇は、ゆっくりと閉ざされた。心臓が跳ねる音を誤魔化したくて、どうか気づかれないようにと祈った。
「どうした」
 静かなあの声が、鼓膜を震わせる。それは水の膜を隔てるように、ぼんやりと、やわらかく頭の中でエコーした。
「……何が?」
「変な顔を、してる」
 この声が。
 耳元で、ささやくみたいに、脳みそを揺さぶるから。
「――それは、あんたやろ」
 見上げた雄高は、何かを堪えるような顔をして、かすかに眉間に皺を寄せていた。変な、顔や。笑いかけて、ゆっくりとあがった唇は、いびつな形で歪んでしまう。上手に笑みが作れない。
 再び視線が絡み合ったその瞬間、雄高が、吐息だけで、笑った。
「そうか」
 笑みを作るのに失敗した和秋の唇を湿らせるように、何かが触れて、すぐに、離れた。
「変な顔を、してたか」
 小さく笑って、離れていった雄高は、やっぱり少し、困ったような顔をしていた。
 くちびるだ、と思った。
 今触れたのは、間違いなく、彼の唇だ。
 だけどまだ夢から目覚められないように、和秋はただぼんやりとその唇を追った。やわらかい。だけど少しかさついた、女性のものではない、唇――
 ああ。彼は。
 困っているのだ、と、唐突に、思った。
「……あんた、タバコのにおいが、するんやな」
 困っているのだ。
 大の大人が。
 余裕ぶって、なんだかよくわからないけれど自分をかまってくれて、からかって、いつでもやさしい、この男が。
 ただ自分と見詰め合っただけ一瞬に、こんなに困惑しているなんて。
 胸が震えた。
「嫌か」
「いややない……」
 自分がこの男を困らせる。彼の動揺を誘う。
 彼の指先が肌に触れる、それだけのことに固まって身動きが取れない、こんな自分が、彼を、戸惑わせる。
 頭、おかしなってるんかな。
 どこかで、自分の声が囁いた。
 俺、熱で、どうにかなってしもたんかなあー―。
「――いややない。いややないよ、梶原さん」
 自分に言い聞かせるように呟いて、和秋は、自らゆっくり瞼をおろした。
 小さく息を呑む気配のあと、力強く引き寄せられる腕を知った。


 こじ開けられたその瞬間、不思議と痛みはなかった。明らかな異物感を主張する指を飲み込んだままの身体は強張って、喉まで熱い何かが競り上がってきそうになる。
 知らない、と思った。こんな感覚は今まで一度も、感じたことがない。
 三分前、「知っているのか、」と、雄高は聞いた。彼が何を憂いて、何を尋ねているのか、多分和秋は明確に判っていた。けれど熱で、何もわからないふりをして――和秋は答えを返さなかった。
 同性のセックス。それが何を意味して、どういう行為で、何をするのか、そんなことは、とっくの昔に知っている。
 抵抗する力すら奪われてしまいそうになる、これは一体何だろうと熱に浮かされた思考で考えても答えは見えない。その瞬間、指先がいっそう深い場所まで侵入していくのを身体で感じる。
「ッ、――かじわら、さ……」
 強い羞恥が限界になり、勘弁してほしいと、もはや泣きを入れながら雄高を見た。こんな場所を他人に曝け出したことなど一度もないのだ。立てた膝がガクガクと揺れるのは混乱しているせいなのか、それとも暴かれたそこからじわりと広がる感覚のせいなのか、判断出来ない。
「………おい」
 唐突に、どこか困惑を含んだような、ひどく複雑そうな雄高の声が落ちてくる。
「な、に……?」
 早くどうにかしてほしい、もうこんな深い場所まで入れられれば、何があっても出て来ないんじゃないか、なんて思いながら、弾む息の下から首を捻る。
「……いいのか?」
 何をいまさらと笑いかけた唇は、温かな感触をした何かに塞がれる。それが雄高の唇だと気付くには、少し時間が掛かった。
「……ふ、……」
 ただでさえ高熱に苦しんでいるのに、その上唇を塞がれてしまっては息は上がる一方だ。思考がぼやけて抵抗を忘れる。それを良いことに雄高の舌先は好きに和秋の口腔をまさぐる。これをキスと呼ぶことを思い出すまで、矢張り時間が要った。
 息継ぎの合間に漏れる声は既に甘い吐息だけで、鼻先を擦り合わせるようにキスを繰り返しているうちに、いつの間にか自分からも求めるように頬を寄せていた。自分よりは体温の低い雄高の唇がやけにひんやりと感じて、それがひどく心地好い。
 差し込まれた指が突然内部で折り曲げられると、喉を反らして喘いでしまう。うつ伏せのまま首だけ背けてキスを受けていた恰好は、体勢的にも呼吸するにも苦しかった。それに気付いたのか、雄高の腕が和秋の腰を抱え直して、ゆっくりと身体を正面に向かせた。その間も雄高の指は深い場所へ潜り込んだままで、自分が少しでも動けばその指先に苛まれる感触がじわじわと広がっていく。
「も、……いやや、……」
 こんな所で感じるなんて知らない。――自分の置かれた状況が信じられなくて、和秋は固く目を瞑った。後ろをほんの少し触れられただけで勃ち上がっている自分など、まさか認められるはずもない。しかし隠しようもないそれは、雄高の目前にしっかりと曝け出されている。震えながら勃ち上がった可哀想なそれに、雄高の大きな掌が触れた。
「や、ァ……あ…」
 雄高の掌は男の掌だと思う。女性の柔らかなものとは違う、ゴツゴツとした固くて大きな手。それを信じられないほどリアルに感じて、和秋は身を捩る。思わず腰を引きかけると、追うように後ろを蝕む指先が更に深みへと進んだ。気が付けば、雄高の指を付け根まで深く咥え込んでいた。一本とは言え、ぐるりと腸内を掻き回すように動かされると、声は堪えようもなく溢れてしまう。
「かじわら、さ……梶原さんっ……」
 みっともない声を出してしまうよりは、無茶を強いている男の名を繰り返し呼ぶ方がマシに思えた。だから和秋は懸命にその名前を口にした。少なくとも雄高の名前を呼んでいる間は、妙な声を出さずに済む。
「――名前。教えただろ」
「…ぁ……ン、ぅっ……」
 指の腹がある場所に触れた瞬間、身体が大きく跳ねてしまう。前に触れられるのと同じくらい、それ以上に強い快感に、鼻にかかったような甘い声が零れる。和秋の些細な反応も見逃さずに、雄高は執拗にそこを指の腹で擦り上げた。
「や、いややそれっ……な、に……」
 指がそこに触れれば、それすら今は痛みのない刺激にしかならない。意識ごと飲み込まれそうなくらいに大きな快感に怯える和秋を知ってか知らずか、雄高は震える和秋自身を包み込んだ掌を、緩く上下に動かした。前後から与えられる快感に啜り泣きのような声を漏らしてしまう。
「――…ゆ…たか、…さ」
 熱を持った先端から溢れ出した液体は雄高の指をも濡らして、淫らな水音を立てている。どうしようもない羞恥に耳を塞ぎたくなって、啜り泣きながら雄高の名前を呼ぶ。この声で、少しでもこのいやらしい音が掻き消されれば良いのに。
「……たか…、……雄高さん、指……いやや――」
 感じることを知られてしまった入口は、容赦なく広げられた。そのうち指が、二本三本と増やされていくと、さすがに圧迫感で苦しさが増す。それでも触れること自体を止めてほしいとは思わなかった。ただ、苦しくて苦しくてどうしようもないこの感覚を、どうにかしてほしかった。
「……まだだ」
 もうとっくに限界なんて通り越している気がするのに、雄高は許してはくれなかった。昇り詰めたいのに、達しそうになる度に根元を戒められる。噴き出しそうな熱と内部を占める指先に、枯れてしまった喉はそれでも喘がずにはいられなかった。
 この先にあることを、雄高がしようとしていることを、和秋は知っている。開かされた脚の間に迎える男を、身体で受け入れなければならないのだろう。和秋自身が漏らしたものを潤滑油代わりに、女のように濡れてくれない後ろへと塗り付けられる。そこから零れる湿った音が、静かな室内にやけに響いた。
「…たすけて……」
 雄高さん――泣きながら、多分そう呼んでいたのだろう。こんなに苦しいのは風邪のせいなのか、それとも雄高のせいなのか、それすらどうでもよかった。
 ――和秋、と。まるで自分の声に応えるように、やさしく名前を呼ばれた気がする。ひどく静かな、そして低いあの声で。耳元で囁かれたその声は、和秋を駄目にする。名前を呼ばれただけで何もかも許せる気がした。どんな痛みでも良い。どんなに辛くても良いから。そう思った瞬間、中に収まっていた指が全て引き抜かれ、立て続けに身体の中心に鈍い痛みと熱が走った。鋭い切っ先で身体を引き裂かれるような痛みに、和秋は声にならない叫びを上げる。
「……ッ…は、……」
 苦しい息に胸を喘がせて衝撃に耐える。今までの快感はどこへ行ってしまったのだろう、そう思うくらいの痛みなのに、止めてくれとは言わなかった。言おうとも思わない。今までに聞いたこともない、雄高の熱い吐息を首筋に感じるだけで、うしなった快感が呼び起こされるように身体が震えた。
「……和秋」
 僅かに息を荒げながら雄高が囁く。ゆっくりと体内へ侵入してくる雄高の熱に、彼自身も限界が近付いていることを知った。
 ――そんな風に呼んだりするから。
 動かない雄高に焦れて、和秋は恐る恐る腰を揺らした。引き攣るような痛みに眉を寄せると、雄高は知り尽くしたポイントを的確に責めてくる。
 ――自分は多分、この人の吐息ひとつで、どうにかなってしまう。
 雄高が与える感覚に、既に朧気だった思考は更に輪郭を失う。これが現実のことなのか夢なのか。終いにはそんなことさえ疑った。夢ならこんなふうに、快くはならないことも知っている。夢ならこんなに――。
「――和秋」
 囁くこの人の声だけで切なくなったりはしない。
 激しさを増した雄高の動きに、まともな思考はあっという間に霧散した。

 

 

 

 




(――別に、見慣れたいわけやあらへんかったけど)
 目を覚ましたときは既に昼過ぎだった。まだ少し寝足りない気もするが、無理矢理に覚醒しようと開いた目は、カーテンの間から差し込む光に染みて痛んだ。既にこの白い天井は見慣れてしまった。そう、眠りに落ちる直前まで啜り泣きながら、ぼんやりとあの天井ばかり見詰めていたから。
 少しでも身体を動かせば鈍痛が甦ってきそうな気がして、和秋はごくゆっくりと寝返りを打つ。矢張り関節やら腰やらと様々な筋肉が痛みを訴えた。眠っている間は感じていなかった、明らかに熱の所為だけではない痛みまで次々と沸きあがってくる。
「……ありえへん……」
 痛みと共にぼんやり甦った記憶に、思わず青くなったり赤くなったりしながらも愕然としてしまう。有り得ない、その言葉だけがぐるぐると頭の中を駆け巡った。
「えーと……な、なに……?」
 何が起こったのだろうと考えるまでもなく、重たい腰やまだ僅かに疼くような痛みがあらぬ場所に残っているおかげで、折角ぼやけてくれていた記憶がまざまざと甦る。してしまった。事実はただそれだけである。熱が上がってしまった。それまでは良い。しかしその後が頂けなかったのだ。冷静に考えればおかしい話で、大の男が高校生相手に、せっせと体の汗をぬぐったり、着替えを手伝ってくれる必要が、どこにあったというのだろう。世話好きという性格を考慮したって、あのとき力づくでも雄高を止めればよかった。
 晒された肌が感じた外気と視線に宛てられて、欲情しまったのは彼ではなく自分が先だったはずだ。そもそも引っ越して以来、男子校のせいか彼女のひとりも作る暇がなかった和秋が、他人の体温を傍に感じたのも久々で、若い身体が火照るのに多くの理由は要らなかった。――だからって。
 何か雄高は言っていた気がして、そして自分もそれに何かを答えたような気がするのだけれど、矢張り良くは思い出せない。
「……俺最悪や」
 人の自宅で熱を出して世話を焼かせた挙句、勝手に欲情して相手をさせてしまった。薄々判ってはいたものの、自分はとんでもない馬鹿らしい。落ちこんだ気分のままふて寝したい気分だったが、そうは言ってられず和秋は久し振りにベッドから身体を起こした。
 よろよろと立ち上がってから気付く。汗や精液で汚れているはずの身体は綺麗に拭かれていて、その上新しいパジャマに着替えさせられていた。パジャマは随分ぶかぶかだから、多分雄高のものなのだろう。それにしては随分と可愛い柄で、クマとウサギの小さな絵があちこちに散らばっているそれを雄高が愛用しているとは到底思えない。こんなものが雄高の家にあること自体がおかしくて、和秋はひとりでそっと噴き出してしまった。
 リビングへと続く扉に手をかけて、和秋はふと動きを止める。寝室に雄高がいないことを不思議には思わなかったものの、そういえばリビングからは物音ひとつしないのだ。人気がないことを訝しみながら扉を開けると、予想通りそこに雄高の姿はなかった。
 テーブルの上に置かれたメモ用紙が目について、和秋は覚束無い足取りでテーブルまで歩み寄るとその紙を摘み上げる。目を通してみると、メモ用紙にはやや右上がりの、中々達筆な字で簡潔なメッセージが書かれていた。
 ――朝、熱を測り直したらまだ下がってなかった。薬を飲んでおくように。水は冷蔵庫。
 ただそれだけの文は、間違いなく和秋へ向けられたものだろう。用紙が置いていた隣に、見覚えのあるカプセルが二錠並べられていた。愛想のないメモ書きに従って冷蔵庫に向かい、コップを拝借してミネラルウォーターを注いでから錠剤を飲み干す。どうしようかと少し迷って、コップは軽く手洗いしてシンクの横にそっと置いた。書かれていたことをやってしまうと、一人で他人の家にいるというこの状況はどうも落ち着かない。
 仕方なくソファに身体を沈ませて、和秋はメモ用紙を睨みつけた。
 親の敵のように睨んでみても、書かれた内容が変わるわけでもない。他に書き様はないものだろうか。例えばどこに出かけて何時に帰るとか、安静にしておけだとか。――別に、そんなことを期待しているわけではないけれど。
「……ああ、……」
 ふとある考えに行き当たって、和秋は唇を噛んだ。ソファの隅には和秋の服が綺麗に畳まれておかれている。洗濯して乾かしてもらったのだろう。それを見ると、自分の考えが徐々に確信に変わっていった。
 ――どうせ勢いやっただけやろ。
 帰れと言わんばかりに置かれた衣服。淡々としたメッセージ。もしも雄高にとって昨日の行動が意味のあるものだったのなら、きっとこんなことはしない。好きなだけ人の身体を使っておいて放り捨てるような、こんな真似は。
 間違っても一人部屋に取り残されることはなかっただろう。今ここに自分がひとりでいる、その事実が、雄高の胸を占める自分の割合を示している気がした。少しは気にかけられていると思っていた自分は、思い上がっていたのだろうか。
 或いはもしも、愛想を尽かされてしまったのかもしれないとも思う。どうしてほんの少し触れられただけで欲情なんてしてしまったのだろう。雄高は無理矢理奪うようにしてくれたけれど、自分はきっと彼以上に人肌を求めていた。嫌がっていたくせに、途中から訳が判らなくなって、みっともなく啜り泣いたり喘いだりしてしまった自分に、きっと愛想を尽かしてしまったのだ。
 止まらない思考はどんどんマイナーになっていく。ここに雄高の姿がない、それだけのことに、ありえないくらいに哀しくなった。
(帰ろ……)
 まさか涙が零れ落ちないようにと睨むように暫く服を睨んでいるうちに、決心が着く。待てとも大人しくしていろともメモには書かれていない。帰れという無言のメッセージが隠れているのかもしれないとさえ思う。――雄高はそこまで冷たい人間ではないと、判っているけれど。
 身体が訴える痛みを悉く無視して、手早く昨日着ていた服を着直すと、和秋は着せられていたパジャマを畳んでソファの上に置いた。手ぶらで来たから持って帰る荷物もない。寝室の枕元に置かれていた携帯だけは忘れずにポケットに突っ込むと、さっさと玄関から出て行く。途中、鍵はどうしようかと少し迷ったものの、オートロックやし構へんか、そう気楽に決め付けた。
 良く考えれば意味のないセックスをしてしまった翌日に、その相手と顔を合わせるというのは、相当に気まずいものだろう。だから雄高も部屋にいなかったのかもしれないし、だから自分は雄高の不在に安堵するべきなのだ。
 そう思うのに足取りは重く、酷く緩慢なものになる。エレベーターから出て、オートロックの自動ドアをくぐるまで、きっと祈っていた。
 ――どうか早く帰って来てと。
 引き止めて、さっさと寝ろと叱り付けて欲しかった。雄高のメモ書きを信じれば和秋の熱はまだ下がっていないらしかったが、痛む関節や筋肉を除いて、身体の調子は随分良かった。朝計ったときに何度熱があったのかはしれないが、今はもう平熱に近い状態に戻っているのだろう。
(――甘えてるな)
 ひとり零した笑みは苦かった。恵史との再会に揺さぶられ、ふいに思い出してしまった寂しさに、雄高の温もりは覿面だった。考えてみれば最初からそうだ。人の弱いところを熟知しているかのように、あの男はするりとさり気無い優しさで心に入り込んでくる。優しくされていると気付かない優しさで。
「あれ、和秋君? どうしたのこんなところで――」
 その優しさがもしも自分だけに向けられているものであれば、もっと素直になれていただろうか。そんなことを考えながらマンションから一歩足を踏み出すと、訊き覚えのある声が和秋を呼び止めた。それは望んでいたあの人の声ではなかったけれど。
「……ええと、……神城さん」
 答えるまでに沈黙があったのは、再会があまり喜ばしくなかった人物だったせいだ。それでなくてもこんなふらふらな状態なのに、神城の相手が出来るほど元気が余っていない。
「神城さんはなんでこんなとこおるん……」
「うん先生にね、ちょっと用事。仕事関係とあとお茶でも貰おうかなあって思って」
 おっとりと笑うこの人が、ちくちくと針で突付くように他人を苛めることを趣味としていることは、初めて会ったときに判った。その遣り方は苛めるというよりは嫌がらせに近い。本人は構っているという意識しかないのかもしれないが。
「あの人、今おらんで。どっか出掛けてるみたいやから」
「――へえ」
 一刻も早く神城と別れたい和秋は、それだけ告げると足早に神城の傍を横切った。そりゃあ残念、無駄足だなあとのんびり呟いた神城が、和秋の背に向けて尋ねる。
「じゃあ和秋君が先生と一緒にいたのは何時頃まで?」
 その言葉に咄嗟にピタリと足が止まり、勢い良く神城を振り返ってからハッとした。――鎌をかけられた。その上自分の行動は、神城の言葉を肯定してしまっている。
「あ、図星だ。すごいなあ僕の勘。泊まったの? すごい寝起き顔だもんねえ。目が赤い」
 そこまで寝惚けた顔をしている自覚はなかったものの、慌てて目を擦る。すると神城が愉快そうな声を立てて笑った。ああまた揶揄われた――胸の中で舌を打ちながらも、再び神城と向かい合った和秋は仕方なく口を開く。
「――昨日熱が出て、ちょっと世話になっとったんや。けどさっき起きたらもうおらへんかったから、ほんまに今あの人がどこにおるかは知らんで」
「熱? 大丈夫? そういえばまだ顔が赤いなあ。僕送ってあげようか」
 自分に雄高の居場所を訊いても無駄だと念を押すように言った和秋に構わず、神城はしきりに首を傾げている。雄高の所在はあまり気にならないらしい。
「要らん。ひとりで帰れる――」
「そう? なら無理にとは言わないけど――そうかあ熱かあ。看病かあ。絶好のチャンスだなあ、先生」
「……何の話?」
 しみじみと呟かれた言葉に、何か含みが持たれているような気がして、和秋は思わず眉を寄せた。
「和秋君、あんまり先生に甘えないようにね。思う壷だから。先生にとっては好都合なのかもしれないけどねえ。僕はどうかと思うんだそういう一方的なのは」
「やから何の話や」
 はぐらかすように長々と告げる神城に、和秋は苛立った声で再度尋ねる。神城はにこりと笑って、実験なんだよと言った。
「……実験?」
「そう実験みたいなもんだよ、あれは。悪趣味だ。可哀想。だから僕は君が傷付かないようにと思って忠告したわけなんだけど」
 神城の言葉はどうも要領を得ない。途切れ途切れのキーワードに戸惑う和秋をからかっているようだ。
「何が悪趣味で何が可哀想やねん」
「悪趣味は先生。可哀想は君。先生ね、多分試してるんだよ。楠田先生――ああ君は知らないかな、楠田先生。知らないよねえ」
「楠田――由成?」
「ああうん弟さんの名前はそんなんだったかな。どうして知ってるの? ああそっか学校が一緒。なんか先生がそんなこと言ってたねえ。僕は弟さんとは少ししか会ったことないけど。楠田先生のところね、すごく仲が良いんだよ」
 神城の言葉はもはや一方的である。知ってる?と神城は緩く首を傾げられ、和秋はやっとのことで頷いて見せた。
「仲良いって言ってもね、普通の仲のよさじゃなくてね、本当に仲が良くて。ありえないくらい。血も繋がってないのにどうしてあんなに仲良くしてるんだろうって不思議なんだよ僕も。――それで多分、先生は楠田先生のことが羨ましかったんじゃないかなあって」
「……羨ましい? 兄弟で仲がええのが?」
 血が繋がっていないの下りに些か疑問を持ったものの、本人――楠田由成のいないところで彼についての話題を口にするのは気が咎めて、和秋は神城の言葉を待った。
「兄弟っていうのはあんまり関係ないかな。誰でも良いんだよ多分。親でも兄弟でも友達でも恋人でも良かったんだろうけどね。お互いの存在なしでは生きられないっていうの? そういうのが羨ましかったんだねえ」
 お喋りな神城の言葉を頭の中で整理する。楠田由成はその兄とありえないくらいに仲が良い――神城の言葉を借りると、「お互いの存在なしでは生きられない」ほどに。その感覚はいまいち和秋には理解出来ないものの、それは他人の話であって共感する、しないは関係ない。そして雄高はその二人それが羨ましかったと言う。全ては神城の憶測ではあるが、和秋は素直に頷けなかった。
「……あのひと、他人を羨ましがるようなひとやないやん」
「うん? うんそうだねえ。羨ましがる前に力づくでどうにかしそうだもんねえあの人。羨ましがるっていうのはちょっと違うのかな。――和秋君、先生って尽くすでしょ?」
「――は?」
 また訳の判らないことを言い出した。神城は和秋の疑問をひとつも解明しないで、次々と疑問符を増やしていくばかりだ。やっぱりからかわれているだけかもしれない。
「先生、ものすごーく尽くしてくれるでしょ?」
「――…尽くすっていうか、世話焼きやなって思うたことはあるけど…?」
 軽めに否定しながらも、尽くすというのは言い得て妙だと和秋は思う。確かにあの世話焼きぶりは異常で、「尽くす」という表現の方がぴったり来る気がした。
「世話を焼いている時点で先生の「実験」はスタートしてるんだよ。君が依存してくるどうか」
「………依存、」
 もう和秋は神城の言葉を鸚鵡返しに呟くことしか出来ない。
「君をめろめろに甘やかして世話焼いて尽くして、結果君が先生に依存して、先生なしでいられないようになるかっていう。実験だね。そうなれば先生の思う壷なわけなんだけど」
「……何それ……わからん……」
「先生はすごく世話焼きで優しいひとだけど。色々間違ってるんだよ、多分ね。――誰彼構わず優しくしたって、誰かの一番になれるわけないのに」
 呟いた和秋を無視して、神城は続けた。その言葉のある部分が引っ掛かる。――誰彼構わず。その言葉に、なぜか酷く胸が痛んだ。
「……もし、俺がほんまにあのひとに依存したら……どうなるん?」
「実験終了。あとのことは知らないよ。実験が成功した試しなんかないんだから」
 雄高は優しい人間だとそう思っていた。そしてそれは多分間違いじゃない。だけど何かが違っている。和秋の思い描いていた優しさと、それは最初から何かが違っていた。
「だってあの人、自分がそんなに好きじゃない人にでも優しくするからね。自分の「かけがえない人」に同じように思ってもらいたいって言うんなら理解は出来るけど。「どうでも良い人」に自分を好きになって欲しいなんて思うんだから」
 誰にでも無制限に与えられる優しさにどれほどの意味があるだろう。自分だけに向けられたものでなければ、どれほどの優しさであったとしても、それは無意味なんじゃないか。
「先に相手が気付いて逃げちゃうんだ。この人は自分のこと愛してないんだなって。――そりゃあ判るよねえ。自分だけに特別優しいかと思えば、結局誰に対しても同じなんだから」
 ああそうか――和秋は納得した。誰彼構わず行なわれることだから「実験」なのかと。
 雄高に甘やかされるのも、また依存するのも、決して自分ではならない理由など最初からなかった。
 ――そう思うと、胸が軋んだ。
「……それ、別に俺やなくてもよかったんやんな。実験……」
「うーん。高校生っていうのが良かったのかも。ほら、楠田先生の弟さんも高校生だから。歳の差がある相手なら何とかなるって思ったのかもねえ」
 神城の言葉が上滑りしていく。どの言葉も和秋の胸の痛みを拭ってはくれない。
「自分なしではいられないように、なんて状況に人を追い込むくせに、自分は誰でも良かったなんて、ひどい話でしょ。だから君も気をつけて」
 気をつけてと言われてももう遅い。今から気をつけてどうにかなるものなら、胸は痛まない。
「……なんでそんなこと……」
 ひどい話だ。完全につけ込まれてしまった。ただでさえ弱っているところを拾われて、少し優しくされたくらいで、神城の言うように「あなたなしでは生きられない」状況に危うく陥るところだった。
 ――大丈夫、まだ引き返せる。
 ほんの少しだけ、あの人が自分の中で特別になっているだけだから。今ならまだ大丈夫。
「先生、寂しがり屋だから」
 唇を噛み締めた和秋に、神城は呟きを落とした。
「でも遣り方が間違ってる。一方的に与えたって何も生まれない。――あの人はそれに気付かないとね」
「……神城さんはなんで、そんなこと俺に言うん?」
 人から言われるのではなく、せめて自分で気付ければ、そのときまではあの人の傍にいれただろうか。
 神城はふいに奇妙な顔をすると、小さな声で囁いた。
「――そろそろ先生にも幸せになってもらわなくちゃ」




「何家捜ししてんだテメェは」
 背中を軽く蹴られる。痛いと文句を言いつつも、雄高は構わずダンボールの中や棚を漁っていた。
「今朝実家に帰って探しても見付からなかったんだ。だとしたらここにあるんじゃないかと思ってな」
「人ンちを倉庫扱いしてんじゃねぇ。おまえいい加減持って帰れよソレ」
 二人しか住んでいない広い屋敷には当然空き室が幾つかあり、そのうちのひとつに、マンションに入り切れない私物や、昔、恭一の家に運び込んだものなどをそのまま置かせてもらっていた。マンションの収納は限りがあるし、ましてや実家まで持って帰るのも面倒臭いものは、すべてこの部屋に置いてある。
「……これを全部持って帰るには、丸々一ヶ月掛かりそうだな」
「ばーか、んなに掛かるかよ。引っ越し業者に頼めば一発じゃねぇか」
 マンション内を探して見付からないものは、まず実家を探してみて、それでも見付からなければこの部屋を探してみる。ここまでくればこの家は、第二の実家に等しい。
 中には幼い頃の写真やラクガキ、玩具なども出て来るものだから、時間の経過は恐ろしいとしみじみ思う。
「そんで、何探してんだ。大変そうなら手伝ってやるが」
 文句を言いながらも結局は手を貸してくれる、それがこの友人の良いところだ。探し物を言えば、面倒臭そうな顔をしていても全力で探し出してくれるだろう。
「いや、そんなに見付け難いものじゃない。多分すぐ見付かる。――北沢さんの写真だ」
 北沢は雄高と付き合いの長いカメラマンである。歳は五十六十の初老の男性だが、その写真に惚れ込んだ当時中学生だった雄高の一方的なラブコールから付き合いが始まった。そのとき、たまたま北沢が遠くはない場所に住まいを構えていたのも理由だろう。
「北沢さんの? あの赤と緑のアルバムに入れてたヤツか? …待てよ。それは確か――」
 彼はひどく気の好いおっさんで、雄高がアポなしに家を訪ねても、仕事がない限りは相手をしてくれていた。なぜか馬が合い、話題は写真だけに留まらず、歳の離れた友人関係を築くうちに短い取材などには雄高を伴わせてくれるようにもなった。
 北沢は孫がいてもおかしくはない年齢だったが、子供はいないのだとそう言って寂しげに笑ってみせたことがある。恐らく自分は、子供か孫代わりに可愛がられていたのだろうと雄高は思う。
「ほら、ここだ。この間由成が引っ張り出して見てたんだよ」
 この間という割には、えらく判り難い場所に収められていた赤いアルバムを、恭一の手が引っ張り出すと、それを雄高に手渡す。予想はしていたが、埃が被って汚れてしまっている。緑のアルバムはコッチと、続いて恭一が取り出した緑色のそれも同様だった。
「……この間って言うのはいつのことだ」
「あー…いつだ。一年前くらいか?」
 そりゃ判り難い場所にあるはずだと納得して、雄高は赤いアルバムを捲った。一年間の間にも、ここにはこつこつと雄高の私物が増えていくのだ。
「多分、このアルバムだったと思うんだが――」
 何冊か写真集を出している北沢の、所謂没写真――もしくは商業用ではない北沢のプライベートの写真を、雄高は譲り受けている。これが雄高の宝物だということは言うまでもない。しかしその譲り受けた写真の数が膨大すぎて、マンションに残している気に入りを収めた数冊のアルバムを除いては、実家か恭一宅に保管してあるのだ。
「――そういや沖縄行ったついでに会って来たんだろ、北沢さんにも」
 雄高が捲るアルバムを横から覗き込みながら恭一が尋ねた。ああ、と頷き返しながらも雄高の目はアルバムを追っている。
「元気だったか」
 人を撮るのが好きだった。彼の写真には鮮やかな表情を残したまま、まるで空間だけ切り取ったように時を止めた人々が写っている。見ているだけでリアルな感情が流れ込んでくる。そんな写真を撮る人だった。そして、人間が好きだと言っていた。――その人が、人間を避けるように、沖縄の人口がひどく少ない地域に移り住んだのは、まだ最近の話だ。
「……ああ。会ってもらえないかもしれないと思ったんだが、喜んでくれた」
 人間をあんなに愛した人が、まるで人間を厭うように写真を撮ることをパッタリと止めてしまった。そのことを、心から残念に思う。
 あの人の写真が――あの人を通じて見ることの出来る人々が、本当に好きだった。
 そんなことを思いながらアルバムの何頁目を捲ったとき、雄高は手を止めた。開かれたそこには、数枚の写真に渡って、同じ少年が写されていた。今まさにスタートを切ろうとしている瞬間、少年が走っている姿、ゴールへと辿り着いた瞬間――様々な様子が映されているそれは、どこかの競技場で撮ったものだろう。
 ――目的は選手じゃなかったんだが、良い走りをする子がいてな。思わず何枚か撮ってきちまったよ。写真じゃスピードが伝わらねえのが悔しいが――気持ちの良い走り方をするんだ。
 その写真の裏には、「岸田和秋」と北沢の字で書かれていた。
 ――見つけた。
 写真ではスピードが伝わらない――北沢は言っていたが、雄高はそうは思わない。この写真に写るまだ幼い和秋が、小さな肩で風を切っているように見えたからだ。走っている人物を北沢が撮影することは珍しく、しかし彼の特徴である臨場感溢れる写真だった。故に印象に残っていたのだろう。「岸田和秋」という名前で、この写真を思い出すほどに。
「その写真がどうかしたのか?」
「いや――」
 何て偶然だと内心驚きを隠せなかったものの、雄高はその写真を一枚一枚丁寧に剥がす。全てを手に収めてしまってから、こんなもの持って帰ってどうするつもりだと、僅かに苦笑する。――あの子は多分、もう自分の部屋を出て行っている頃だろう。自分は出て行かれても仕方ないくらいのことを仕出かしてしまったのだから。
「恭一、ちょっと布団貸せ」
「あ? まだ何かあんのかよ、さっさと帰れよてめェ」
 寝不足なら帰って寝ろと、恭一は至極真っ当な悪態を吐く。
「――体調が悪い。どうも熱があるみたいでな」
「……それを先に言え――!」
 自分から布団の在処を探すまでもなく、病人なら病人らしくしろと怒鳴られながら恭一のベッドに寝かし付けられる。実はすっかり和秋から風邪を移されてしまっていたらしく、朝起きた瞬間から頭痛に襲われていた。熱を測ってみると微熱だったものの、昨日の和秋を見ていれば恐らく熱は上がっていくのだろうと予想出来た。
「……雄高さんどうしたの?」
 扉から顔を覗かせた由成が、心配そうに尋ねる。
「風邪を引きやがったとさ。体温計持って行ってやれ、俺は風邪薬探してくるから。――てめェは寝とけよ、動くんじゃねェ」
 指差されて忠告される。そこまで高熱でも重病人でもないんだが、と否定する前に恭一は部屋から出て行ってしまった。和秋から風邪を貰ってしまったのは完全に自業自得だ。病人相手に無茶をした罰かとひとり小さく笑う。しかし雄高が風邪を引いたことを知れば、和秋は気にするだろう。
 だからほんの少し恭一の家で休んでいくつもりだった。なのに恭一たちは甲斐甲斐しく看病してくれるつもりらしい。勿論雄高には、そっちの方が都合が良い。
 そういえばまだ土産を渡していない――そんなことを思い出す。なのに眠たくて仕方がなくて、雄高は静か目を閉じた。