Breath



 三十八度五分。
 雄高が告げたのは体温計に示された数値で、和秋にしてみれば今までに有り得なかったくらいの高熱である。
「――おまえ、何時間あそこに突っ立ってたんだ」
「何時間ってほどでもあらへん……五分くらい…?」
 嘘だと見抜かれるに違いなくても、待った時間を大幅に鯖読みする。――たかが五分程度雨に打たれただけで、あそこまでずぶ濡れにならないことくらい、雄高には判ってしまうだろう。
 やけに頭がぼんやりして思考が纏まらないと思っていたら、それもそのはずで、自分はしっかり風邪を引いていたらしい。熱に浮かされて意識を失った後、雄高に抱き止められたらしい自分は、そのまま部屋に運ばれてベッドに押し付けられたようだ。
 和秋が眼を覚ますと、寝ている間に着替えさせられたのか自分のものではない大きめなシャツを着せられているわ、濡れていた髪はすっかり乾いているわの至 れり尽せり状態で、見慣れない天井を眼にしていた。熱が下がっていない割りには、意識を失う前よりは思考がすっきりしているのは、多分寝不足の所為もある んだろうと、目覚めたとき既に傍らにいた雄高が言った。
「気持ちよさそうに眠ってたからな」
「……そんなに寝てた?」
「四時間ほど」
 げ、と慌てて時計を見ると、確かに記憶に残る時間からきっちり四時間が経過している。
「……俺、ここに来るといっつも寝てる気がするわ……」
「それは良かった。よっぽどウチのベッドは寝心地が良いんだろうな。――薬、飲めるか?」
 軽く皮肉ったあと、雄高は和秋の額に手を押し付けながら尋ねた。大丈夫と頷くと、薬を探すためか雄高はリビングへと去って行った。その背中を見詰めなが ら、ふと思う。――やはり、とんでもなく迷惑をかけている気がした。眠っている人間を着替えさせるには力が要るだろうし、もちろんこの部屋に運んでくるま での間もそれはそれは大変だったんじゃないか。しかも運んでもらったのは、二度目だ。
「悪い、錠剤しかなかった。平気か?」
「平気。幼稚園児かい、俺は」
「自己管理が出来てないのはガキの証拠だ」
 水を注いだコップと錠剤を二錠渡しながら、今度から子供用の風邪薬を常備しとこうと雄高が真顔で言った。子供用の風邪薬といえば、やけに甘ったるい味の 液状のアレである。雄高の言葉はどれが冗談でどれが本気か区別が付かないので、和秋も同じように真顔で首を横に振った。
「要らん。ぜったい飲まへんからな、そんなもん」
「冗談だ」
 あっさりと返される。これ以上会話を続けるのも馬鹿らしくなって、和秋は錠剤を口に放り投げるとそれを水で喉へと流し込んだ。熱を持った喉を冷たい水が流れていくのがやけにリアルで、気持ち良い。
 喉が乾いていたのか、いっぱいに注がれた水は容易く飲み干してしまう。空になったコップを運ぼうとしてベッドから起き上がろうとすると、雄高がコップを奪った。
「寝ろ。明日は休みなんだろう」
「……今日、金曜日やったっけ」
 土、日と二日もあれば、どうにか熱は下がるだろうと楽観して取り敢えず安堵する。タイミングが良いのか悪いのかは判らないが、どうやら学校を休む必要はなさそうだ。しかし、もしも熱が下がらなかったらバイト先には連絡を入れなければならない。
「……あ、給料……出てんねや、もう……」
 和秋のバイト先は今時珍しく給料手渡し制で、和秋自身がバイト先に赴かない限りバイト代は手に入らない。這ってでも給料を貰いに行くべきか、などと考えていると、降って来た掌が和秋の瞼を覆った。
「馬鹿なこと考えてないで寝ろ。腹が減ったら粥でも何でも作ってやるから」
 雄高の掌によって齎された暗闇に、思わずふっと笑ってしまう。その掌は冷たくて気持ちが良い。氷枕の代わりにはなるだろうか。
「――何も訊かへんのやな、」
 どうして雨の中、傘も差さずに待っていたのか、それまでに何があったのかと、雄高は一度も尋ねて来ない。尋ねられるのが当然だと和秋は思っていたのだ。理由のない行動だと言い訳するには、今日の自分は明らかに不審すぎる。
「訊いてほしいのか」
「……判らん」
「訊いてほしいなら訊いてやる、訊いてほしくないなら――何も訊かない」
 どうして雄高を待っていたのか、その理由すらはっきりと知ることのない自分に比べれば、彼の言葉も行動も、ひどくシンプルだ。だから心地が好いのだろうかと思う。
「こんなことなら寄り道なんかしないで真っ直ぐ帰ってくりゃよかったな。悪かった」
 どうしてこんなところで謝るのだろうとおかしくなって、和秋は笑いの混ざった吐息を漏らした。掌が顔を覆ってくれているおかげで、雄高の顔は見えない。それを良いことに、ゆっくりと口を開いた。
「――……俺な、陸上やっててん。前の学校で……」
 とりとめのない会話のように、呟きを落とす。独り言のようなそれに、雄高はひとつひとつ静かに相槌を返してくれた。
「部活か」
「うん、けど、ずっと前から――小学校くらいのときから走ってたから。そんときは、部活やなくて、地域のクラブの中で走ってたんやけど……」
「……意外だな」
 小さく返した雄高の声に笑ってしまう。今思えば、自分でも不思議なくらいだった。努力の分結果が返ってくるのが一番嬉しくて楽しかった。それでも毎日続 いた練習は決して楽しいことばかりではなかったのに、どうしてあれほど長いこと走り続けていられたのだろう。
「……めっちゃスポ根少年やってん。国体出たことあるんやで」
 すごいやろ。おどけて言った声は、それでも少し掠れてしまう。それを喉の痛みの所為だと決め付けて、和秋は続けた。
「――去年、故障して。それからもう、走れへんことなった」
 あれは冬だっただろうか。練習中にバランスを崩して、そのまま足首を捻ってしまった。ありがちな怪我だと思う。
「怪我か?」
「……てほど、大したモンやなかったけど。なんかな、――走れへんねん。丁度その時期スランプ入ってたのも原因やと思う。けど、急に駄目になってもうた」
 実際、怪我自体は大したものではなかった。医者にも看てもらった結果、今まで通り走るのに何の支障もないと言われたにも関わらず、和秋の足は今も痛み続けている。
「大会が近くて、けどタイム、全然良うならへんくて……焦ってた」
 和秋が転校前にいた高校は体育会系の部活動が盛んで、故に陸上部にも同年代では名の知れた選手が多数所属していた。その中でも推薦で進学した和秋は、上級生にも劣らぬ実力を持っていると自負していた。――あの日まで。
「俺、あかんねん、競争するの」
 情けない声で告げた和秋の言葉に、雄高が小さく笑う気配がした。
「ひとりで走ってる分には気が楽でも、他人が関わって来ると違うか」
「うん。部活になると、他の選手も練習中とか一緒やんか。先輩も同級も、みんないっつもピリピリしてて――それで、おまえらに負けるかって思えたらよかったんやけどな。あかんかった」
 息が詰まるというのは、多分あの感覚のことを指すのだろう。誰かのタイムが上がれば部内は喜ぶどころか逆に緊張し、剥き出しの闘争心に張り詰めた。その 雰囲気にやられてしまったのだと、今は冷静に思う。むしろ試合前の緊張感は心地良いと思う。しかしそれとは全く種類の異なった妬みや視線苛まれ続けて、タ イムはどんどん落ちていく。焦れば焦るだけ、自分が駄目になるのが手に取るように判った。――そして怪我をきっかけに、和秋は完全に走ることを放棄した。
「グラウンドに立ったら、急に痛なって、足が」
 医者に完治を言い渡されてすぐに立ったグラウンドで、走ることがどうしてもできなかった。あの痛みと恐怖感を思い出すだけで、背筋が凍りそうなくらいに痛みが増す気がして堪らなかった。そんなときに唯一手を差し伸べてくれたのが、恵史だったのだ。
「……そんときに世話になってた小学校の先生が、今日来て……」
 ――頑張りすぎちゃ駄目なんだ。もう頑張らなくて良いんだよ。
 今必要なのは努力ではなく、休むことなのだと教えてくれたのは恵史だった。今まで十分頑張って来たと自分を認めて褒めてくれた、唯一の人だった。
「教師が? ……えらく面倒見が良いな。小学校のときの担任なんだろう」
 訝しげに雄高が尋ねた。疑問はもっともだ。和秋自身、恵史とこんなに長い付き合いになることなど想像もしていなかったのだから。
「ん。昔から陸上関係のことでもだいぶ世話になってたから」
 救われた。
 ――和秋、頑張ったね。もう頑張らなくて良いんだ。
 恵史のその一言に、どれだけ救われただろう。
「……俺、だめやのに。めちゃくちゃだめになってんのに、それでもあのひと褒めてくれて――嬉しくて」
 あんなに苦しい空気の中で、どれだけ努力をしても誰も褒めてはくれなかった。あるのは妬みや憎悪に似た、マイナスの感情しか含まれない視線だけで、それ を寂しいと思う気持ちを弱さだと決め付けていた過去の自分が、少しだけ哀れになる。――あの日恵史に言われるまで気付かなかった。自分があんなにも懸命に 走り続けていたのは、
「……ずっと、誰かに褒めてもらいたかったから、嬉しくて」
 和秋がずっと幼い頃、陸上で良い結果が出れば母は喜んでくれた。――ええ子や、和秋。もっと頑張りや。そう言って頭を撫でてくれた。忙しい仕事の合間を縫って精一杯祝ってくれた。それが――嬉しくて嬉しくて。
 それだけのことだった。
 母に褒めてもらうのが嬉しかった。ただそれだけのことで走り続けていたのだと思う。母に省みてもらえる唯一の手段を、他に思い付かなかったのだ。そしてそのうち恵史に褒めてもらうことが一番に嬉しくなった。
「――その先生な、今俺の親父」
 自分の瞼を覆い隠していた掌を取り外す。寝ろと言われたものの、どうも眠気はやって来ない。ベッドからゆっくりと身体を起こし、伺い見た雄高は、訝しそうに首を傾げていた。
「親父?」
「うん。父親。――俺のおかんと再婚してん。いつの間にそんな仲良くなってたんか知らんけど」
 淡々と答えているのに胸の内が少しだけ苦いのは、あのときの感情を思い出しているからだ。母と恵史に結婚することを告げられたあのとき、なくしたくなく て必死に繋ぎとめていた大切なものを、一気になくしてしまった気がしていた。母と恋と。どっちのほうが重たかったなんて、答えを知らない。
「……中々複雑だな」
「……再婚したのも最近でな。俺、矢野やなくて、岸田やってん。岸田和秋。まだ「矢野」て名前、ほんまは慣れてへん」
 雄高はなぜか、ひどく複雑そうな顔をしていた。どうしたのだろうと思ってその顔を眺めていると、ぽつりと呟くように尋ねられる。
「それが家を出た理由か?」
「ちゃう。別に母さんが再婚するんが厭で、家出てきたわけやない。その先生に世話になってたから、嫌いやないし、むしろ……好きなんやけど。ていうか」
 言うべきかどうか、少しだけ迷って口を閉ざした。雄高は言葉の続きを待ってか、静かに言葉も発さない。どうしようかと迷った末に、和秋は結局口を開いた。
「先生のこと好きやったから、家――出たかってん」
 言い切ってしまってから、急に不安になる。
「――気持ち悪ない?」
「何が」
 雄高は別段驚いた様子もなく、また気持ち悪がっている様子もなく、至って普通の顔で緩く首を傾げている。
「……やから、」
「男相手に恋愛感情を持っていることか」
 過去形やけど――控えめに付け加えて、それでも和秋はコクリと頷いた。和秋の常識の中では、男性相手に恋愛感情を持つ――つまりは同性愛というものは明 らかに異質で、自分の判断する「異質」の中に和秋はいた。故に、誰にも明かせない密やかな感情だった。だからこそ、ひたすらに苦しさは募る一方だったの だ。
 もしも誰かに明かせていれば、これほど思いつめることもなかったかもしれない。
「……俺の友人に、五年……六年か? とにかく、えらく長い間同性相手に恋愛をしているヤツがいるんだが」
「六年?」
 その年月に和秋は絶句した。和秋からしてみれば、六年という年月は気が遠くなるような時間である。高校に上がってから段々と時間が過ぎるのは早くなって いる気がしているものの、六年という歳月は桁が違う。自分の身に置き換えて考えてみようとしても、まず六年後の自分が想像出来ないのだ。
「……それも、傍から見れば馬鹿らしいくらいの片想いだ。いや両想いか。馬鹿らしい。……が、そのことでそいつとの付き合いを止めようと思ったことは一度もないな」
 六年間想い続けるなんてことは、普通の恋愛でも中々有り得ない。呆然としていた和秋に、雄高は淡々と言葉を続ける。
「おまえも長いこと好きだったんだろう、『先生』」
「あー……うん。けど俺、自覚なかったしなあ……」
 恵史を好きなのかもしれない、そう気付いたのはスランプ真っ最中だったその頃で、長い間片想いをしていたという自覚が和秋にはない。自覚するまでは恐ら く純粋な好意だけであの人を想っていた。スランプ中に差し出してくれた手に、決定的に恋をしたのだろう。そのてのひらを、まるで縋るように想っていた。 ――好意が積もり積もって恋になるとは、多分あれのことを言うのだ。
「そいつの場合、自覚がなかった間も含めれば、十年近くになる。――自覚がなかった分、気付いたときには手に負えないってこともあるだろう。……良く我慢したじゃないか」
 大きな掌が、ぽんと頭を撫でる。まるで幼い子供をあやすかのようなその仕草に、だけど悪い気はしなかった。
「――我慢なんかできてへんよ。ほんまに我慢してたら……家、出てないやろ……」
 家を出たかった理由は、複数ある。恵史に話したように陸上から逃げたかったことも事実だ。そして旦那と死別してから十数年、漸く母親が女として掴んだ幸せの邪魔をしたくなかったこと。息子として恵史に接することが耐えられなかったこと。
 自分が家を出たことで、恵史がどれほど寂しくても苦しくても。
「どうしても言えなかったんだろう。逃げることだって立派な手段だ」
 もしもこの気持ちを明かしてしまえば、もっと苦しくなるだけじゃないか――。
「逃げ、って……あっさり言うなあ……」
「実際逃げてるだろう。悪いと言わないだけ有り難いと思え」
 そらそうやけど、と軽く笑いながら返した。ひどく安らかな気分で笑えることを、少しだけ不思議に思う。今まで誰にも話したことのない、奥深くに潜めて あった秘密をいともあっさりと打ち明けてしまったというのに、何の後ろめたさも違和感もないことが不思議だった。
「……すまん」
「何が、」
「つまらん話、聞かせてもうた」
「――気にしてない。寝ろ」
 不思議に思うのと同時に、誰かに話を聞いてもらうことがこれほどの安堵を生むということを思い出していた。梶原雄高という男は聞き上手なのかもしれない。精神安定剤、そんな言葉が浮かんでは消えた。
「――ん。ありがとお」
 蟠っていたものを全て吐き出してしまえば、残っているのはやけにすっきりとした気分だけで、やはり雄高に申し訳なく思う。彼にしてみれば面白くも何ともない話だっただろう。
「起きたら飯作ってやる」
 再び毛布に潜り込んでいると、背中に雄高の声が聞こえた。うん、と素直に頷き返しそうになった瞬間、我に返って和秋は再び身を起こす。
「前から思うてたんやけど、あんたどこで寝てるんや。俺がベッド占領してる間」
「占領してる自覚があったのか」
 リビングへと向かおうとしていた足を止め、振り返った雄高は薄く笑う。下手をしたらこのままはぐらかされそうな気がして、和秋はその厭味を無視して続けた。
「まさかソファとかで寝てるんやないやろな。そこまで世話してくれんでもええ。俺がそっちで寝る」
「床じゃないことは確かだな。病人が下手に気を回すな、良いから寝ろ」
 取りつく島もない雄高の言葉は、しかし心遣いに思えて仕方ない。そこまで甘えるわけにはいかない気がして、和秋は意地になったように首を横に振り続けた。
「全然良うない、困る。変なとこで寝て、今度はあんたが風邪引いたらどうするつもりや」
「……そりゃこっちの台詞だ。下手に風邪が悪化でもしたらそれこそどうするつもりだ、おまえ」
 咄嗟に言葉に詰まる。風邪が悪化して学校を休まずにいられない状態にでもなれば、それこそ困るのは和秋の方だ。しかし負けるかとばかりに雄高を睨め付けて、和秋は最終手段に訴えた。
「ほんなら俺もここで寝る。あんたもここで寝る。それでどぉや」
 そこまで言えば、渋々ながらでも自分の言う通り寝場所交換に応じるかと思っていた。しかし、引き下がれ引き下がれと念じながら言い放った言葉も、残念ながら雄高にあまり効果はなかった。
「良い提案だ。仕事がまだ残ってるからキリの良いところまで片付いたら寝させてもらう。先に寝とけ」
 ――逆に提案を飲まれてしまった。
 唖然としているうちに、軽く口元に笑みを浮かべて見せた雄高はさっさとリビングへと去って行く。暫くすると閉ざされた扉の向こうから、グラスを洗っているのかほんの微かな水音が聞こえた。
「……な、なんや……冗談やろ……」
 自分以外誰もいない室内で、肩を落として呟いたとしても最早それに答えを返す者はいない。どうか雄高の言葉が冗談でありますように、そう切実に祈りながら、心地好い体勢を探して和秋は毛布の中に潜り込んで目を閉じた。





「――和秋、……おい」
 呼ばれたのは多分、何度目かだろう。それでも返事を返すのが億劫で、薄らと瞼を開けた。その動作にすらひどく疲労してしまう。目を開けても、自分を呼び 続ける人物の顔は見えなかった。恐らく自分は、彼に対して背を向けているのだろう。仕方なく寝返りを打って顔を上げると、見たこともないほど真面目腐った 顔をした雄高が顔を覗き込んでくる。
「……なに」
 返す声は、雄高の耳に届いただろうか。自分で口にしたはずの言葉なのにただの呼気にしか聞こえなかった。寝惚けているのかと思った。しかし寝惚けているだけにしては思考が中々クリアにならず、喉の痛みが強くなっていることに今更ながら気付く。
「薬、効かなかったのか。――聞いてないぞ、市販の薬が効かないなんて話は」
「……ん、おかしいな、いっぺん良うなったはずなんやけど……」
 別段、薬が効き難い体質なんてことはない。さっき雄高と会話を交わしたときには随分良くなっていたような気がしたのに、それでも確実に身体のだるさは増 している。どうしてだろうと考えるのもそのうち面倒になって、和秋は魘されるように「水、」と口にしていた。
「――飲むもん、ちょうだ…」
「ちょっと待ってろ。先に熱計っておけ。水と――ガキの看病に詳しいのは……恭一か」
 最後の方でナチュラルに失礼なことをほざかれた気がするものの、いちいち噛み付くのも面倒で、寄越された体温計を受け取ると、寝転がった姿勢のまま、のろのろとそれを脇の下に挟み込む。その間に雄高はリビングへ戻って行った。
 あかん、また面倒かけてもうた、どうしよう――などとつらつらと考えながらも、体温計のことも忘れて、和秋は再び引きこまれるように深い眠りへと落ちて行った。





『――熱? おまえが?』
「違う、俺じゃない。――とにかく熱が下がらないんだ。どうしたら良いのかさっさと言え」
 鬼の霍乱かと喜ぶ友人の声を無視して、苛立ちを押さえながら雄高は矢継ぎ早に尋ねる。一度は回復に向かっていると思っていたのに、仕事を終えて寝室に 戻った雄高を迎えたのは、苦しげな和秋の寝息だった。魘されているのかと様子を見れば、薄らと額を汗ばませて息を弾ませていた。どう見ても、症状が悪化し ているとしか思えない。
 じゃあ誰が風邪を引いているんだと訝しんでいた恭一も、雄高の苛立ちに気付いてか考え込むように短い沈黙を落とす。
「薬飲ませなら、熱が下がるんじゃないのか」
『いや、そういうわけでもねえ。熱が出たばかりなら、しばらく上がりっ放しになるのは仕方ねえよ。……医者は?』
「いや、行ってない。……行った方が良いか」
『肺炎とかインフルエンザの可能性があるんならな。今からでも看て貰った方が良いんだろうけどよ。――熱が出たばっかであんま時間経ってねェんだよな。ならどうなんだか……』
 恭一の声に被さるように、何かを漁っているようなガサガサという雑音が聞こえる。どうやら医学書か何かを探しているようだ。
『夜に熱が上がるってのは子供には良くあることなんだ、だから朝になっても熱が下がらないようなら病院行っとけ。……熱が高いんだったら、風呂は控えて体 拭いてやったり、冷やしてやったり、こっちができることはそれくらいだろ、あと水分か。眠れないくらい熱が高いときは解熱剤使ってやってもいいかもしれ ねぇけど、そこまで必要か?』
  相手が幾つかはしらねえが、と恭一は呑気にいう。恭一の言う「子供の急病」は、恐らく幼児を対象としたものだろう。果たして和秋に適用して効果があるのか どうかは知れないが、熱が下がれば少しは楽になることくらい雄高にも判断出来る。そもそも恭一の言う医学書も、由成と同居を始めた頃に恭一自身が買い求め たものなのだろう。それに和秋の年齢に適した処置法を求めるのは無理がある。
『素人判断は危ねえからな、心配なら病院に行った方が良いかもしれないとも書いてんな」
 礼もそこそこに通話を切ると、雄高は再度寝室へ向かった。
 体温を測っているうちに再び眠ってしまったらしい和秋の脇下から、既に体温を測り終えた体温計を引き抜く。――三十九度ニ分。
「――上がってるじゃねえか」
 決して安らかとは言えない、どこか苦しげに眉根を寄せた和秋の寝顔を見詰めながら、雄高は重い溜息を吐き出した。