「今日はバイトは?」
「ない。ないけど部活、出られへんで。買い物行かへんと。」
清田はわざとらしく舌打ちを打つ。聞こえてるで、と睨み付けると、やはりわざとらしく頭を掻きながら、勿体ねえなと清田が呟いた。
「おまえさ、真面目に部活やってみれば? 足すげえ速いじゃんか、勿体ないって。ノーコンだけど」
「やかましい」
「ノーコンは練習すりゃどうにかなるだろ。元からそんなに足が速いって言うのは才能じゃねえか。勿体ない」
嘘を吐いている。
以前、彼らに前の学校で所属していた部活――陸上を適当にやっていたと言ったのは、真っ赤な嘘だ。走ることだけが楽しかった時期があった。ただそれだけしか見つけられなくて、それだけしかできることがなくて、そして――挫折した。
「――才能なんかやあらへん。たまたまや」
呟くように告げた和秋を無視して、清田は勿体無い勿体無いと文句を言い続けている。
「おまえは足速いから後衛向きだろ、そしたらどうしてもノーコンじゃ無理があるからそこを努力でカバーしてだな。前衛は――」
「――ええ加減にしとけ。むり。ぜったいむり」
もう走れないと自棄になって、思い詰めて、どうしようもなく苦しい時期があった。
それでも、時折思い出す。
――頑張りすぎちゃ駄目なんだ。もう頑張らなくて良いんだよ。
そう告げた、やさしいやさしい――声を。
「――ええなあ、沖縄」
「沖縄行きてえの? 今の沖縄なんて暑いだけだって」
教室の窓から見える青空を眺めながらうっとりと呟いた和秋を、清田が怪訝な眼で見遣る。尋ねられた言葉には首を振って、和秋はのろのろと机上に散らかした教科書やノートを片付け始めた。
「や、そういうのとはまたちゃうくて。そもそも沖縄行ったことあらへんし」
「行ったことないのか?」
「おまえはあるんかい」
「七年ほど前に、一回だけ」
七年も前の、しかも一度しか行ったことがない沖縄の情報など聞いていても余り当てにはならない。七年前と現在の沖縄に気温差があるとは思わないが、清田自身の記憶自体は大分改竄されているだろう。
「なんで突然沖縄なんだよ」
「――知り合いが行ってるんや、沖縄」
「へえ」
そりゃまた物好きな、と清田は感心したように呟いた。真夏でもない今、微妙にシーズンが外れているように思えるのは和秋も同感で、仕事だと説明されていなければ同じセリフを言っていただろう。
「土産よろしくな」
「何でや。俺が行ってるわけやないのに」
「どうせ土産買って来てもらうように頼んでるんだろ? お裾分け」
確かにそんな約束はした。しかし頼んだ、というのは僅かに語弊がある。頼んだわけではない。一週間と少し前、ふらりと彼は自分のアパートに訪れて問うたのだ。――これから沖縄に行ってくるが土産は何が良いか、と。
以前たまたま仕事の打ち合わせに居合せた和秋が、仕事の取材イコール沖縄だと結び付けて考えることが出来たのは暫く経ってからで、尋ねられたそのときは何を言ってるんだこの男はと半ば混乱気味に「さ、さとうきび?」と訳の判らない答えを返してしまっていた。
しかし彼は和秋の答えを訝しむこともなく、判ったと肯くとそのまま去って行った。――やっぱりあの男の考えは良く判らない。土産を清田に分けてやるのは一向に構わないが、もしもあの人が本当にさとうきびを買って来たら、さとうきびをどうやって分け与えたものか。――否、そもそもさとうきびはどうやって食せば良いのだろうか。そこまで真剣に考えてしまってから、和秋ははっと我に返る。
「……あほや…」
貴重な脳みそを無駄な思考に使ってしまった。ただでさえ暑さが増しているこの季節、極端に暑さに弱い和秋は、何をするのも何を考えるのも面倒臭い状態なのだ。考えてみれば、暑がりの自分が沖縄に行った雄高を羨ましがっている場合ではなかった。
「――なあ、こっちって暑いん?」
「夏? …さあ、普通じゃねェの。おまえの住んでるとこなら、ちょっと行けば海あるだろ。泳ぎ行けば?」
「――いやや面倒臭い……」
和秋が住んでいるアパートには冷房がない。まだ先のことだからと扇風機すら用意していなかった。それを清田に告げると、ひどく気の毒そうな表情で彼は言った。
「――さすがに冷房はないと辛いかもしれねえなあ……」
呟きに、考えなくてもそれくらい判ると和秋は頷く。かと言って、当面冷房を工面出来るような金はない。まずは借金だ。
「……やろね」
これから降り掛かる猛暑を想像するだけで身体が干上がりそうだ。――沖縄なんて羨ましがったりしている場合ではないのだ。
それでも和秋は遠い空に思いを馳せて――なぜか少しだけ切ない気持ちで、青い空に視線を遣った。
バイトのない日でも忙しい。こういうときにこそ日用品を買い溜めしておかなければならないし、和秋が通っているのは曲りなりにも進学校で、バイトをしていない生徒に比べるとどうしても学力に差がついてしまうのだ。要領は良い方だと思っていても、少しでも時間がある日に集中して復習でもしなければ、やがて成績表が両親の元に送られたとき、彼らが卒倒してしまう。それだけは避けたい和秋は、学校帰りの買い物を済ませると真っ直ぐアパートへと向かった。
ガサガサと擦れて音を立てるビニール袋からは買った野菜やトイレットペーパーがはみ出ている。勿論ビニール袋一枚で足りるはずもなく、両手はしっかりと塞がっていた。随分所帯染みてきたなあ――そう苦笑しかけたのは一瞬で、すぐに以前の生活とそう変わっていないことを思い出す。そう、以前の生活とて自分で買い物に出かけ飯を作り、掃除洗濯とやってきていた。しかし違うのは、今ほど金銭面を気にしていなかったことだろう。何しろ、家賃は両親が負担してくれているとはいえ、その他一切の生活費は自分で面倒見るというのが家を出る条件だったのだ。
仕方ないことだと思う。明らかに自分の我侭だ。それよりも今はまず、両手が塞がったこの状態でどうやってアパートの扉を開くかが問題だった。
「――普通に、一回下に置いたらええやんな」
手にした袋を一旦コンクリートに置いて、ポケットを探りかけようとしたその時、
「鍵はポケット?」
横から沸いて来た手が、ひょいと和秋の制服のポケットをまさぐった。
「う、わ……っ」
「あ、あった。今開けるからちょっと待って」
声の主は、和秋が袋をコンクリートに落ち着かせる前に鍵を探り出すと、そのままいとも簡単に扉を開いた。動揺する和秋を余所に、その人は開いた扉からひょいと室内を覗き込む。
「綺麗に片付いてるな。さすが和秋」
「そらおおきに、――て、」
驚きに、みっともなく口をぱくぱくと喘がせてしまう。彼は一体どこから沸いてきたのか。いやそれよりも、どうして彼は気配もなく自分の背後に立つことが出来るのか、いやそうではなくて――
「な、……なんでこんなとこおるんや、せんせ……」
声は掠れた。その人はほんの少しだけ悲しそうな顔をして――ごめん、急に来て、と決まり悪そうに頭を掻く。
「今、時間ある?」
遠慮がちにそう尋ねられたとき、和秋は咄嗟に首を横に振っていた。ここまでくれば、すでに条件反射に近い。頭で考えるよりも先に身体が動いてしまうのだ。
どうしても、厭だった。この人と二人で話をするのは、どうしても。
「あかん。これから人と会う約束あんねや。――何か急ぎの用事なん?」
「急ぎの用事ってわけでもないんだけど……そう。じゃあ少しだけで良いから。少しだけ、上がらせてもらっても良い?」
そうやって穏やかに首を傾げられては、もう厭と言えなかった。結局自分はこの人に弱いのだ――それを自覚してしまった自分を疎んじながらも、和秋は渋々頷いた。
汚い部屋やけど、と断りを入れてから招き入れると、彼は少しだけ笑って首を振った。実際、綺麗好きというほどではないにしても、案外几帳面なところがある和秋は部屋を散らかすことはない。それを知っているこの人は、ちゃんと片付いているじゃないかと言うと自分でスペースを見付けてそこに座り込んだ。
客を持て成すために、無意識にコーヒーを用意しようとして躊躇う。すぐに帰ってほしいと思うのは本音なのだから、わざわざコーヒーを出す必要もないと思い直して、和秋は彼に続いてフローリングに座り込んだ。
「急にどうしたんや、連絡も入れへんで来るなんか先生らしくないやん。――おかんに何かあったってわけでもないんやろ」
見れば、額に薄らと汗が滲んでいた。もしかして和秋が気付かなかっただけで、彼は随分長いことアパートの前で和秋を待っていたのかもしれない。それならば、初夏の暑さは厳しかっただろう。
先生と言う呼び方は、最早正しくはない。彼が自分の担任として世話を焼いてくれていたのは小学校中学年の頃だから、もう随分前のことだ。それなのに、癖は抜けずに和秋は先生と呼び続けている。もうひとつ、相応しい呼称が増えた今でも、その名で彼を呼ぶことは恐らく一生ない。
「ああ、元気だよ彼女は。和秋がいなくなって少し寂しそうだけど、元気にしてる。――たまには連絡を入れたら良いのに」
「寂しいも寂しくないもあらへんわ。俺があっちにおったときかて、顔見らへん日のが多かったんやし。――先生、こんなとこおってええんか、新婚さんやのに」
目の前で困った表情のまま笑みを浮かべ続けているこの人との関係は、ほんの数ヵ月前から元担任と元教え子ではなく、父親とその息子になってしまった。あろうことか、彼は自分の母親と結婚したのだ。
だから本当は、まだこの名前に慣れていない。――矢野という、この人の姓に。
「新婚って言ったってね。ほら。弓子さん忙しい人だから」
「――結婚したのに、まだ落ち着いてへんのかあの人は」
「うん、だって仕事が生き甲斐だからね」
和秋の実父は、和秋が生まれて間もなく亡くなった。それからずっと女手ひとつで和秋を育て上げた母親には、感謝はしている。和秋を育てるために母親が仕事に精を出したのも頷ける話で、夜自分で食事を作り、それをひとりで食していた幼い日々を恨んでいるわけではない。――ただ、
「――専業主婦になったらええのに。教師って給料ええんやろ」
どうして彼と結婚したのだろうと、少しだけ――ほんの少しだけ、母親を妬んでしまった自分を、和秋は覚えている。
「まさか。和秋に仕送りもしなきゃいけないしね。俺ひとりの給料じゃとても持たない」
そう言って、矢野恵史は笑った。
(――先生)
(――恵先生、)
そう呼んで彼を慕った。時には、家庭訪問だと笑いながら夜中に和秋の家に訪れて、食事を作ってくれたこともあるこの人を、心から慕っていた。
どうしてこんなにも無条件にこの人はやさしいのだろう、そうやって訝しみながらも、和秋は彼が差し伸べてくれる手が、唯、嬉しかった。和秋が恵史のクラスから外れても、小学校を卒業しても、中学校を卒業しても、事ある毎に彼を頼っていた。幼い頃から陸上を続けていた和秋を、やはり学生時代陸上部に所属していたと言う恵史が世話してくれていた所為もあるのだろう。
「――和秋、」
静かな声で恵史が呼ぶ。慌てて顔を上げると、恵史は酷く真摯な眼差しで和秋を見つめていた。
「俺は本当に弓子さんと結婚してよかったのか?」
「――なんで?」
唇が引き攣りそうになるのを懸命に堪えて和秋は笑う。――このひとは、どうして今更そんなことを尋ねるのだろう。
「和秋が家を出たがったのは――俺が、原因なんだろう」
――和秋、俺はおまえの父親になっても良いかな、
――弓子さんとおまえの家族に、なっても良いかな――
数ヵ月前に恵史から告げられたそのときまで、自分の母と恵史が結婚を前提とした付き合いをしていることを、和秋は知らなかった。知る由もなかった。
「……何言うてんの、」
知りたくもなかった。
――ええよ。俺恵先生のこと好きやし。世話ばっかかけるおかんやけど、よろしくな――
胸が詰まりそうになるのを押し殺して笑っていた。あのときの自分の笑みは、ひどく歪んではいなかっただろうかと今でも思う。
若くして自分を産んだ母と、彼との歳の差はそう広くはない。恵史には、和秋よりも母の方がずっと歳が近いのだ。何度か三人で食事をした記憶はあるものの、いつから二人が親密になったのかは知らないし、知ろうともしないが、恵史にとって母親が恋愛対象になり得ることを和秋は失念していた。
「新婚さんの邪魔なんかしたないしな。別に恵先生を嫌ってるわけでも、結婚反対してるわけでもあらへん。あのとき、ちゃんと言ったやんか」
「和秋――、でも、」
「家を出たい理由、ちゃんと言ったやろ? ――…今だけでええから、陸上から逃げたいんや。頼む、邪魔せんといてくれ。本当に――あんたたちのことが、厭なわけやない」
繰り返し同じ言葉を告げても、きっと恵史は信用しないだろう。意固地になって和秋が住み慣れた家を出たがった理由を、己の所為だと決め付ける。和秋と母の二人で培った家庭を土足で踏み躙った自分の所為だと、彼はそう信じているのだ。――だけど、それでも良いと思う。本当の理由を知られるよりは。
「あんたも知ってるやろう。――足、まだ、動かへんねや。名前が変わったのは、逆によかったと思うてる。こっちは俺のことなんか誰も知らへんからな。……ちゃんと、走れるようになったら帰るから」
長い間、このひとを密かに想っていた自分なんかを知られるより、
母に嫉妬した汚い自分なんかを知られるよりは――ずっと良い。
「――約束してくれ、和秋」
恵史の声はいつだって自分にやさしかった。時折叱り付けてくれる声すらもやさしくてやさしくて――それは、和秋が知らない父親の面影を無意識に恵史に求めているんじゃないかと思ったこともある。だけど、それだけでこんなに胸は痛くならない。
――今おまえに足りないのは、少しの休息と睡眠と……、
――休んで良いんだよ、和秋。頑張りすぎちゃ駄目なんだ。頑張らなくたって良いんだよ。
突然走ることが出来なくなった自分をそうやって宥めてくれたあの人の声を思い出すだけで、こんなに胸は痛くならない。
「俺はおまえと暮らすことを楽しみにしてたんだ。――和秋の父親に、なりたかったんだ」
――ほら、この人はやさしい。誰よりもやさしい。
「――判ってる。ありがとお、先生……」
――ほしかったのは。そんな情では、なかったけれど……。
泣きたい気持ちを押し殺して、和秋は笑った。
――先生。先生が俺にやさしくしてくれたのは、何でやろな。
――あの人と結婚したかったから、俺にやさしくしてくれたんかなあ。
どうかその笑みが歪んでいないようにと祈りながら。
トラウマなんて呼び方は、どうも恰好をつけているようにしか思えない。だから和秋は、それをトラウマと呼ぶことを嫌った。恵史とのことがあるから、誰かに少しでもやさしくされれば、つい裏があるんじゃないかと疑ってしまうのは、トラウマなんかじゃない。所詮自分は臆病なだけなのだ。
だから雄高にやさしくされても、それを素直に受け取ることができなかった。何が裏があるんじゃないか、最後に何か仕出かされるんじゃないか――そうやって、怯えている。雄高から見れば、自分は素直じゃない厭な子供なのだろう。楠田と比べると何て捻くれた生き物だろうと思う。雄高に与えられたことに対して、自分は「ありがとう」と何度告げれただろう。きちんと礼を言えたのは、十分の一程も満たしていないように思える。
やさしさを与えられているのか、恵んでもらっているのか。その違いを和秋は知らない。
急かすように恵史を帰す際、人と会う約束があると言ってしまった手前、和秋もアパートを出なければならなかった。一刻も早く帰ってほしいと思うのに、それでも駅まで送ると咄嗟に言ってしまったのが、未練がある証拠に思えて情けなくなる。
「――雨が降りそうだから、気をつけて。早く帰りなさい」
駅まで見送ると、改札口で手を振りながら恵史はそう告げた。父親としての言葉に、やはり胸は痛んだ。もう恵史に対する恋愛感情は残っていないとは思う。諦めが良いことが自分の長所なのだ。それでもこの人は特別だと和秋は痛感した。
手に入らなくても良い。近くにいなくても良い。遠くから宝物のように想っていたかった。――その宝物を手にしたのがたまたま自分の母親だった。なんて皮肉な話だろう。想う人が、他の誰かと――自分の母親と寄り添っている幸せな光景を目の前で見せつけられて、穏やかでいられるほど和秋は大人ではなかった。
「――先生も。気を付けて」
そう言って見送った。――お父さん。そう呼ばれることを恵史が望んでいても、今はまだ呼べない。
小さくなる背中を見送って駅を出ると、既に雨は細く降り始めていた。鼻先に当たる雨が少しだけ痛い。空を見上げても、元よりネオンとスモッグでくすんで見える空は曇っているのか晴れているのか判断出来ない。酷くなるかなあ――ぼんやりと思いながら、和秋は鈍い足を動かした。
足はどうしてもアパートへ向かわない。もしかしたらこういう気分を「ひとりにはなりたくない」と呼ぶのかもしれないと、和秋はひとり小さく笑った。可笑しいな、唐突に思う。ひとりの夜など珍しくもないのに、少し感傷に浸っているだけでひとりになりたくないと思うなんて、自分らしくもない。
ひとりにはなりたくなくても。誰かに傍にいてほしくても。
向かう場所などどこにもない。
段々と強くなる雨に、痛むはずのない足が僅かに熱を帯びた気がして、和秋は知らず眉を寄せた。
誰がこの痛みを知ってくれるだろう。誰がこの痛みを判ってくれるだろう――。
和秋の足は自然とある道を歩いていた。見覚えのある道筋と建物、この角を曲がれば――あのひとのマンションが。
辿り着いた雄高のマンションを見上げて、その部屋を探す。多分あの窓が雄高の部屋だろうと見当を付けても、当然その部屋に灯りは点いていない。彼はまだ沖縄の空の下なのだ。――いつになれば帰って来るのか、そう考えると、どうしようもなく切なくなった。詳しいスケジュールを聞かされていたわけでもない、いつ帰るかも知れない男を、どうして自分は待っているのだろう、と。
(――だって)
(――行く場所が――ない)
視界が滲むのは涙の所為じゃない。長い前髪から滴る雫の所為だと決め付けて、軒下に逃げ込みもせず、細い雨を受けながら和秋はただ雄高の部屋の窓を睨み続けた。
(――ここしか、)
誰かに言ってほしかった。
がんばらなくても良いよ、と。あのやさしい響きを持って、囁いてほしかった。
(――雨、強くなるかな)
びしょ濡れになるのも構わず、和秋は随分長い間そこに佇んでいた。六月上旬、そろそろ梅雨に入ってもおかしくない時期だ。もしかしたら既に梅雨入り宣言は出されているのかもしれない。憂鬱な季節だ――どこか虚ろに思いながら、和秋は眼を伏せた。眼にポツリと落ちた雫が痛い。
その瞬間、ポケットに入れっぱなしにしていた携帯が着信を告げる微かな振動に揺れながら軽快に鳴り響いた。今の気分にはとても似つかわしくない音に苦笑しながら、和秋は鈍い仕草で携帯を引き抜くとボタンを押す。
『――今どこにいる?』
和秋が応えるよりも早く、電話を掛けてきた人物はいきなりそう切り出した。
「……なんで?」
なんで。その言葉で頭がいっぱいになる。言いようのない感覚が胸いっぱいに広がって、どっと溢れ出しそうだった。
こんな不躾な会話を始める人物など、ひとりしかいない。わざわざ着信を確かめなくても、それが誰なのか判ってしまった。
――なんで、このひとは、
『沖縄土産。今おまえ家にいないだろう。せっかく持って行ってやったのに、無駄足食らった』
溢れる場所のない感覚は、打ち寄せては返る波のようにひどく暖かく胸を占めていく。そのうち暖かなそれが涙になって溢れ出しそうで、和秋は歯を食い縛って平静を装った。
「――…いま、ちょっと出掛けてるから……」
『バイトか? 何時頃帰るんだ、』
「ちゃう。バイトやなくて……ええよ、俺があんたのとこ行くわ。疲れてるんやろ、早よウチに帰ってきたらええやん……」
『――和秋?』
その声に、初めて名前を呼ばれたことに気付くまで少し時間が掛かった。高校生とか酔っ払いとか、オイだとかオマエだとか、いつもそう言った言葉で彼は自分を呼んでいたから、思わず呆然と言葉をなくしてしまう。たった今呼ばれた名前に込められた響きが信じられなくて。
『和秋――どうした、』
止めてほしい。そんな風に柔らかい声で名前を呼ぶのは。
そんな風に大切そうに名前を呼ぶのは――止めて、ほしい。
『……泣いてるのか』
違うと否定しようとした瞬間、通話は一方的に断ち切られる。雄高が唐突に会話を終えるのはいつものことだとは言え、このタイミングで切られたことに呆気に取られながらも、ゆっくりと携帯を耳から離した。そのとき静かなエンジン音が響いて、一台の車がやや乱暴な運転で駐車場の隅に駐車したのを視界の隅に捕らえる。眩しいライトに眼が眩みながらも確かに見えた、見慣れたあの白い車が。
車から降りてくるその人を遠目に確認した瞬間、無性に泣きたい気分に駆られる。雄高は傘も差さずに駆けてくる。もう随分雨は強くなっているのに、そんなことをしたら――
「――…風邪引くで」
おかえりともいえず、和秋は少しだけ笑ってそう告げた。もう視界が滲むのを、雨の所為だと誤魔化すことが出来なかった。
戸惑うように雄高が息を飲んだのが判った。想像以上に濡れ鼠になっていた和秋に驚いているのだろう。それもそうだ。三十分以上もここに立ち尽していれば、もう乾かしようもないくらいに濡れてしまっている。
「――馬鹿が」
噛み締めるように雄高が呟いたかと思うと、気付いたときには大きな腕に抱き締められていた。――なんで、と思う。なのに抗う気は起こらなかった。
「……風邪――引いたら、」
「面倒は見てやる」
声を潜めて囁いた和秋の声に、被さるように雄高が言った。それがおかしくて、笑いたかったのに声は何故か喉に絡まって出て来てくれない。
ただ、雨に打たれ続けた身体を守るように抱き締めてくれる腕が嬉しかった。
「――梶原さん、」
どうして抱き締めてくれるのだろう。そう考えることを、和秋は放棄した。思考は熱に浮かされたようにはっきりしない。何を考えるのも億劫だった。だから、呟くように口にする。声を出そうとすれば喉が痛むのを不思議に思いながら、言いたくて堪らなかった一言を呟いた。
「……お帰り」
声が掠れてしまった――そう思った瞬間、視界が霞んで意識が遠のく。
雨に打たれてでも待ち続けるのは、どうかこの人だけが良い――そんなことを、ぼんやりと思った。