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「――何だこれは」
「喉飴。ずいぶんひどいって聞いたから」
 からかうように笑う女性が差し出したのは、雄高にも見覚えのある柑橘系の喉飴だった。ご丁寧に未開封の袋ごとプレゼントしてくれるつもりらしい。これを全て舐め終わるころには、確実に喉は治っているだろうと思ってしまうほどの量だ。
 からかい半分、心配半分と言ったところだろうか。その心配だけを有り難く受け取ることにして、雄高は厭そうに顔を顰めながらも礼を言った。
 女はそれを見ると楽しげに笑い、唐突に口を開く。
「兄さんがあのときあんなに怒ったのは――」
 違和感を感じなかったと言えば嘘になる。自分の知る過去のその人とは、やはりどこか違っているのだ。それは相手も同様だったらしく、会って一言二言言葉を交わした瞬間に「変わった、」とおかしそうに笑われた。
「本当に、あなたのことを好きだったからね。結婚しようって決めたときもあの人が一番喜んでいたから」
「――好かれてる割には、今もちくちく苛められてるが」
 雄高は本心から言うと、手にしたカップを口元に運んだ。このカフェの珈琲は昔からの気に入りで、友人と会うときや外で担当と会うときは決まってここを訪れている。――何年か前まで、彼女と待ち合わせていたのもこのカフェだ。
「愛情表現かなあ……」
 そう言って香織はのんびりと笑った。昔から、のんびりというよりはどこか抜けている女だと思っていた。付き合いだけはひどく古い。元は中学校時代の同級生で、大学で再会したことをきっかけに所謂恋人と呼ぶ付き合いが始まったのだ。
「うん、そう。きっと。あなたのことを本当に好きだったの。あの人過保護でしょ、私に。だから私を可愛がるのと同じくらい、あなたのことを可愛がってたんじゃないかな」
 多分ね――香織はやはりおっとりと笑って見せると、細長いストローでオレンジ色の液体を掻き混ぜた。
 この場所に雄高を誘ったのは香織の方だ。人妻になる前に一度ゆっくり話しておきたいし――そう誘われて断る理由はなかった。
「だから許せなかったんだと思う。でも、違うのにね。――最初に挫けたのは私の方なのにね」
「――香織」
 一度は結婚を決めた。付き合い始めて二年ほど経った頃だろうか。一緒になろうか――そんな短い言葉で告げたプロポーズに、香織は一度は頷いた。しかしその笑みにどこか困惑した表情を浮かべていることに雄高は気付かなかったのだ。
 雄高が振られたのは、丁度その二週間後だった。――今でもきっちり覚えている辺り、案外自分は執念深いのかと密かに苦笑する。
「待てなかったのは私の方。信じられなかったのは私の方。――ごめんなさい」
 ――本当に、好き?
 そんな言葉を残して彼女は自分の前から去った。当然だと思う反面、その言葉をまるで問い掛けのようだと思った自分を覚えている。
 ――大切と愛情は違うよ、雄高。間違わないで。
「――…そこで謝られると俺もどうしたら良いのか判らなくなるな」
「ごめんなさい」
 ふっと口元を緩めて香織は笑う。――ああ随分綺麗になったと、そんな詰まらないことを思いながら、雄高は静かにカップを戻した。
「雄高と結婚したら、きっとものすごく私を大事にしてくれて、甘やかしてくれて、しあわせになれると思ったの。でも――それは違う」
「おまえと神城さんは同じことを俺に言う。――昨日も言われた。間違っていると」
 ――雄高は私を大切にしてくれたけど、愛してはくれなかった。
 そう言って泣いていた。――本当に、そうだったのだろうかと今自問しても答えは見えない。ただあの頃、この女を大切にしていたことは確かだった。だからこそ結婚を決めた。しかしそれを否定して、香織は文字通り自分の前から姿を消したのだ。
「……もう間違いに気付けた?」
「ぼんやりな」
 ――手痛い思い出のひとつだ。
「雄高は欲しがることをしないでしょう。一度も私を欲しがってくれなかった。それが厭だった。大切にするために私は必要でも、それ以外で私はあなたに必要だったかな。――ね。そう考えるとやっぱり結婚なんてできないでしょ」
 実を言うと、まだ良く判らない。愛情と大切がなぜイコールで結び付かないのかとぼんやり思う。
「雄高が大切にしてくれてるっていう点では、私も江上君も同じでしょ。だからって江上君と結婚出来る?」
「楠田」
「ああ――そうね、名前が変わったのね……」
 香織は困ったように小さく笑う。香織も知る友人の楠田恭一は、中学卒業時に姓を変えている。姓が変わる前の江上恭一しか知らない香織には馴染みがなくても仕方がないだろう。
「雄高。本当に欲しいものってないの」
 左の薬指に輝くリングが見えた。シンプルなそれが、一層彼女を美しく見せる。
「ずっと不思議だった。どうして雄高は何も欲しがらないんだろうって。でも――」
 香織はどこか切ない顔で、微笑みながら言った。
「何も欲しくないわけじゃないのね。本当はすごく寂しい人。それに、気付いてあげられなくてごめんなさい」





「やからって急に来んでもええやんか」
「急じゃないよ。ちゃんと昨日連絡入れただろう」
「昨日は急のウチや」
「じゃあいつなら良いんだ」
「1週間前ッ」
 子供染みた遣り取りを交わしながら、駅からアパートへの帰り道を歩く。隣に並んで歩く恵史が、明日行くからねと留守番電話に短いメッセージを残していたのは昨日のことだ。
 仰天して慌てて電話を掛け直したものの、既に和秋と会うことは恵史の中で決定事項だったらしく、バイトを盾に牽制しても結局恵史は来てしまった。妙なところで頑固だ。
 おかげで急にバイトの休みを取るハメになってしまい、父親が会いに来るからと告げた和秋に、人の好い店長が「ゆっくりね」と気遣ってくれたのは幸いだった。バイトの休みが取れていなければ、この人は何時間でもアパートで和秋を待っていただろう。――それだけは何となく避けたい。
「電話で済む用事やったら電話したらええやんっ」
「だってこの間ちょっとしか話せなかったから。――焼肉しよう焼肉。肉買って来たから」
 そう言って恵史はスーパーの袋を掲げて見せた。駅で和秋を待っている間に買ってきたのか、わざわざ大阪から買って来たのかは知らないが――後者は余り想像したくないが――、とことんマイペースな恵史の言葉に目眩すら覚えてしまう。
「いや肉はええねんけど。好きやねんけど」
 食い物で懐柔されてなるものかと和秋は恵史を睨み付ける。
「ほんまに何の用やねん。まさか母さんと喧嘩でもしたんやないやろな」
 恵史に顔を合わせるのか気まずくて家を出たというのに、こう頻繁に来られてしまっては家を出た意味がない。
 母と喧嘩でもして和秋の元に逃げて来たのではないかという言葉を恵史はすぐに否定するかと思ったのに、彼は困ったように頭を掻いて、
「――参ったな。なんで判るんだ」
「夫婦喧嘩でわざわざこんなとこまで来るなー!」
 図星だったらしい。しかも旦那が出て行ってしまうとは情けない。
「今日泊まってって良い?」
「厭や帰り」
 速攻で首を横に振ると、恵史はしょげたように肩を落とす。
「泊まる言うたかて、どうせ明日には帰らなあかんのやろ、あんたも学校あるんやから。そんなら今日帰って仲直りした方がええやんか」
 慌ててフォローにかかった和秋は、どうして夫婦喧嘩のとばっちりをこんな形で受けなければならないのかと内心首を傾げた。全く自分も損な役割ばかり押し付けられている。それなのに、不思議と以前のように胸の痛みはなかった。
 恵史が母のことを語る度に感じていた胸の痛み。嫉妬や失恋による靄が、今はない。
(――そっか、あの人が……)
 思った瞬間忘れかけていた胸の痛みが甦る。恵史による痛みが薄れたのは、きっとあの男のせいだ。
 あの人がこんなにも胸を痛ませるから。
 ――それは幸いなことなのだろうかと考える。
 恵史とはこれからも顔を合わせていかなければならないが、雄高とは会うこともないだろう。繋がっていた糸はあっさりと打ち切られてしまった。一方的に。
 だからきっと、幸いなのだ。恵史に会う度にこんなに胸が痛んでいては堪らない。
 雄高のせいで痛む胸も、やがてはきっと忘れていく。――もう、会うことはないのだから。
 その事実に泣きたいくらい胸を締め付けられても。
 和秋には、どうしようもない。
「そう言えば体育祭はいつ? そろそろだろう」
「――まさかあんた見に来るつもりか」
「だってお父さんですから」
 勘弁してくれ。和秋は思わず掌で顔を覆う。この歳で父兄が体育祭に来る生徒など、実際何人いるだろう。
「……あんたのとこかて体育祭そろそろやろ」
「うちはもう終わったんだよ。五月に。今年は体育館を工事するから、時期を例年より早めてね」
 小学校教諭を務めている恵史は、平日はもちろん休日さえそんなに暇ではないはずだ。幼い頃、自分が面倒を見てもらっていたように、今も陸上関係で子供たちの世話を見てやっているはずなのに、事ある毎に恵史は自分の元にやって来ようとする。
 ――母親と喧嘩したというのも、もしかしたら嘘なのかもしれない。
「――母さん、元気?」
「ん? うん。元気だよ」
 有り難い――のだろう。ここまで気にかけてもらう資格も必要もない、とんでもなく親不孝な自分に恵史は優しい。
 恵史だけでなく、電話の一本も寄越さない母親とて、和秋を心配してくれているのだろう。あの女はいつもそうだ。どこか意地っ張りで、素直に心配しているだとか、寂しいだとか、そういうことを言えない性質なのだ。
「暇あったら、遊びに来いって言うといて」
 口には出さない愛情に気付かない程、和秋は馬鹿になりたくなかった。
「うん。――伝えておく。喜ぶよ」
 父さん、と。いつかは彼のことをそう呼べるだろうか。
「恵先生も尻に引かれてたらあかんで。かっこ悪」
「……強いんだよあの人は……」
 少しずつ変わっていければ良い。この優しい人たちに何よりも自分が優しくなれるように、少しずつ変わっていければ良い。
 本当は。
 与えられたものをほんの少しでも返したかった。――誰よりも、あの人に。
 未練がましく切ない気分を引き摺りながら、恵史に話し掛けようと顔を上げた瞬間だった。
 数メートル手前の扉――喫茶店だろうか――から、今まさに出て来た男の姿が見えたのは。
 飛び抜けて高い身長は、人ごみの中でも見付け易そうで便利だと思った。それ以上に、覚えてしまっている。見付けようと思わなくても見付けてしまうほど、あの人を覚えてしまっている。
「――和秋? 大丈夫?」
 恵史からそう尋ねられて、答えを返すまでに時間が要った。
「……ごめ、……平気。早よ帰ろ。肉やろ肉」
 和秋から言葉を奪ってしまったのは、雄高が見えたせいではない。その隣に女性が佇んでいたからだ。これほど判り易い感情が他にあるだろうか。――どうしてと思うよりも先に、当然だと思ってしまった。あの優しい人に、寄り添う女性がいないわけがなく、それを哀しいと瞬時に思ってしまった感情は、もう恋以外に呼び方がない。
「顔色が悪いよ。……風邪でも引いたんじゃないのか」
「風邪はこないだ引いたって。もう治ったから大丈夫やから――」
 もう会わない。判っていたのに、この小さな街では、それでも何かの拍子に出くわしてしまうこともあるのだ。これから先、恐らく何度も。――ならば、こんなことくらいで、いちいち動揺していては先が持たない。
「とにかく早よ食って早よ帰りや」
「――やっぱ泊めてくれないの?」
「当然やボケ」
 一瞬雄高と視線がかち合って、彼がほんの少しだけ驚いたようにその目を丸めた気がするけれど――結局、自分も彼も、お互い声を掛けることをしなかった。
 女性を伴った雄高の隣を通りすぎても。
 雄高は何も言わず、自分と反対の方向へと歩き出してしまった。
 だから、視線が合ったのは気のせいだと思うことにした。





 恵史の提案通り、焼肉を存分に味わった後、和秋は薄情にも半ば恵史を追い出すようにして帰した。曲がりなりにも新婚なのだ。息子の元に延々といていいはずがない。――例え夫婦喧嘩が真実であろうとも、さっさと仲直りしてしまった方が良いに決まっているのだ。
 駅まで送ろうかと尋ねると、いい加減道は覚えたからとやんわり断られる。恵史は自分以上に方向音痴で、道を覚えない。やや不安を抱きながらも、高校生が四十路近い親父の面倒を見るのも何だかな――そう思って、恵史の背中を大人しく見送った。
「うわ、もう九時か――」
 それでも予想以上に時間は経っていた。せっかくバイト休みを取ったのだから、買い物にでも行こうと思っていたのに、こんな時間になってしまっては面倒臭さが勝る。仕方なく部屋の掃除でもしようかと、押し入れの隅に仕舞った掃除機を取り出しかけたときだった。
「――何や、こんな時間に」
 来客のチャイムが鳴り響いて、和秋は眉を顰める。このアパートを訪れる人物はそれこそ恵史くらいで、ひどく限られているのだ。新聞勧誘か何かだろうと決め付けて、和秋は努めて不機嫌な顔を作ると扉を開けた。
「はい?」
「――扉は相手を確認してから開けろ、無用心だな」
 おまえが言うかおまえがとツッコみたいのを堪えて――いや、正直に言えばそんな余裕すらなかったかもしれない――和秋は、扉の前に佇む人物を凝視した。新聞勧誘なんかより百倍は性質が悪い。自分をどうしようもなく動揺させる、この男は。
「ほんまにな。確認したらよかった。――そしたら絶対開けへんかったのに」
 せめて動揺を悟られないようにと、和秋は男を睨み付ける。雄高は――悔しいくらいにいつも通りの顔で、そこに佇んでいた。
「……何の用や」
 そっちから勝手に切り捨てたくせに、どうしてこんな普通の顔をしてこの男はここに来たのだろう。そう思うとどうしようもなく胸が疼いた。雄高がいつも通りでいればいるほど、自分がおかしくなっていく。
「――もう帰ったのか?」
 あの夜を何度も思い出したのは自分だけだと――思い知る。
 特別だったのは、自分だけだったと。
「何が」
「今日昼間に一緒にいたのが「先生」だろう。もう帰ったのか」
 やっぱり、気付いていた。あのとき擦れ違った自分に、雄高は気付いていて――敢えて声を掛けてこなかったのだ。
 その理由は、隣にいたあの女性だろうかと思うと、胸の隅が焼けるように痛んだ。
「――あんたには関係ないやろ」
 油断すれば歪んでしまいそうな顔を必死に無表情に保ちながら、やっとの思いで和秋は吐き捨てた。そう広くはないこの部屋で、恵史が帰ったことなど開けた扉の隙間から覗けば容易に判ることだ。答える必要はなかった。
「……元気そうじゃないか」
 睨み付ける和秋の視線など物ともせず、雄高はそっと――呟いた。
「……何が」
「おまえが泣いているんじゃないかと――思って」
 呟いた雄高の声に、どこか安堵の響きが含まれているように聞こえたのは、和秋の錯覚だろうか。
「あの男が「先生」なら、あのときみたいにまた泣いているんじゃないかと思ってきてみたんだが、……大丈夫みたいだな」
「――…なんで?」
 この男と会ってからというもの、こればかりだ。――どうして、と。思わず本気で首を傾げたくなるようなことばかりされている。
「あんた、……わざわざそんなことのために……」
 雄高は何も答えずにただ小さく笑うと、宥めるような仕草で和秋の髪をくしゃりと撫でた。頭のてっぺんを掌で丸ごと包むような、乱暴な遣り方で。――だけど優しい。
「……も、会わへんって言うたやんか……」
「――そんなこといつ言った」
「金、要らへんて……それ、もう来るなってことやろって訊いたら、あんた何も言わへんかったやんか……」
 雄高は僅かに眉間に皺を寄せると、どこか困ったような表情を見せた。その表情がどんな意味を持っているのか、和秋は知らない。
 雄高は何も教えてくれない。
「なんで来たりすんねや……俺んことなんかどうでもええくせに、来るな!」
 誰も彼も謎かけばかり置いていって答えを教えてはくれないから、和秋は手探りで探している。正しい答えを、探している。
「――何をどうしたらそういう結論になるんだ」
 尋ねる雄高の声さえ苛立たしくて、和秋はほとんど叫ぶような声で返す。
「神城さんや! あのひと、実験って言うてはった。あんたが俺に優しくするんは実験やって、やからあんたに深入りするなって――」
 例えば雄高の中でほんの少しでも自分が特別なら何も気にならなかった。
 神城の言葉の真意、身体を重ねた意味、あの女の存在。それぞれに答えを求めたりなんかしなかった。
「……あんたは他人に優しくするだけして、あとのことは何にも考えてへん。俺が――あんたのこと……」
 好きになったりでもしたら、どう責任を取るつもりだと――そう続くはずだった言葉は喉に絡まって出て来なかった。それはもう、もしもで語れることではない。
「――子供をあやす方法を知らないんだ、俺は」
 そう溜息混じりに呟かれるまで、目尻に涙が滲んでいたことに気が付かなかった。
「なっ…にが子供や……ッ」
 慌てて顔を俯かせ、まさかこのまま泣き出してしまわないようにと、手の甲で涙を拭おうとする。その動きを遮るかのように、暖かな腕の中にいきなり抱き締められて、和秋は身体を強張らせた。
「……だから文句は言うなよ」
 あの雨の日と同じように、いつの間にか雄高の広い胸に顔を埋めてしまっていた和秋は、息を詰めた。唐突に抱き締められたのも、自分が泣き出しそうなこの状況も、あの日とまるで同じだ。だけど違っている。雄高の指が躊躇うように、そっと和秋の髪を撫でる。その指の動きが、違っている。
 抱き締める腕の強さが違っている。
「――俺は、間違っているんだそうだ。神城さんに言わせるとな」
 耳元で囁くように掠れた声が呟く。その度に吐息を身近に感じて、和秋は思わず抵抗することを忘れた。
「俺は誰にも優しくしているつもりはない。ただ気が向いたら自分勝手に世話してるだけだ。それで――そうだな、自分のことを好きになってもらえるのは確かに嬉しいが」
「――そんなの、おかしいやろ……」
 呟くように返す。まだ和秋は迷っている。――この背中を抱き返しても良いのか、迷っている
「そんなんであんたを好きになっても、あんたからは好きになってもらえへん……」
 無償の好意はただ辛いだけだと初めて知った。もしも雄高に自分に対して好意があって――それ故に自分の世話を焼いてくれるのであれば、少しも辛くはなかった。
 だけど彼はあまりにも求めないと、あのとき神城は言ったのだ。
 人に求められることを求めるあまり、誰のことも求めないと――雄高の間違いは、そこにある。
「あんた、判ってたはずや。あんな風にされたら、俺は絶対あんたに縋ってまう。あんたのこと好きになってまうのに、なんで優しくしたりしたんや……」
 誰にでも振り撒かれる優しさの、そのほんの一部を施してもらったって、それはただ切ないだけなのに。
 それをこの人は理解していない。
「そんなこと判るか。俺は万能じゃないし人の心も読めない」
 ――一番に、なりたかった。
 この人の一番になりたかった。誰でもじゃなく、少しでも特別に。欲を言えば一番大事にされたかった。恋以外の何者でもない感情が、そう願う。
「おまえのことが全部判るなら、……迷ったりしなかった」
 迷うと言ったその言葉が随分似つかわしくない気がして、和秋が僅かに身じろぐと、雄高の腕の力がそれを上回って逆に息が苦しくなるだけだった。
「――迷う、って」
「電話を」
 そろそろ本気で息が苦しくなってきたのに、雄高は少しの隙間も許さない。――ふと気付く。これはあのときと全く逆の状況ではないか。
 まるで雄高が抱き締めて来る力は、誰かの温もりを欲しがっているようで、それはあの日の和秋の心境そのままだった。
「掛けようと思って、その度に――躊躇ったりはしない」
 縋るくらいに力強い腕は、雄高には矢張り似合わない。
 もしかしたらほんの僅かでも求められているんじゃないか――そう思うことが和秋の勇気になり、そっと口を開いた。
「……あの女の人は?」
「神城さんの妹」
「――は?」
 どうしてそこで神城の名前が出て来るのだと、咄嗟に奇妙な声を上げてしまった和秋に、雄高は低く笑った。いやそれよりも、神城の妹がなぜ雄高と一緒にいたのだと、疑問符ばかりで頭がいっぱいになる。
「神城さんの妹で、俺の元婚約者だ。もう何年も前に振られたけどな」
「……な、」
 驚きに言葉をなくした。全く人間関係と言うものはどこでどう繋がっているのか判らない。
 この場合、どんな言葉を掛ければ良いのか皆目見当もつかない和秋は、黙り込む他ない。神城の妹が元婚約者だという事実だけでも随分頭は混乱気味で、その上雄高は振られたらしい。現在は何の関係もない女性だという意味なのだろうか、それでも元鞘だって有り得るんじゃないか。そう考えると胃の辺りがむかついてくる。
「神城さんはえらく妹を可愛がってる人でな。あいつに振られたとき、神城さんから殴られて――言われたんだよ。俺が間違ってるからこういう結果になったと」
 まず人を殴る神城と言うのが想像出来ない和秋は、驚きを内心に留めて雄高の言葉を待つ。こうなると殆ど雄高の独り言に近かった。
「誰かに愛されたい場合は、まず自分から愛さなきゃならない。――それは当然のことなんだが」
「……婚約してんのに。好きやなかったんか、そのひとのこと」
「好きだったよ」
「ほんならなんで――」
「情と愛は違うっていうことなんだろうな。――好きだったことは確かだが、愛してなかった」
 ――かもしれない、と。雄高にしては曖昧な響きで、彼は付け加えた。
「未だにその辺のことは良く判らない。……これでいて愛だの恋だの語る柄じゃないんだ、俺は」
 どこか憮然としたような雄高の言葉に、和秋は思わず小さく噴き出す。雄高は漸く腕の力を緩めると、「ただ、」と言葉を続けた。
「――香織に対する気持ちとおまえに対する気持ちを比べたときに、種類が違うことは何となく判った」
 ほんの少しだけ距離を作ると、雄高は和秋の顔を覗き込む。こんなに間近で顔を見たのは、どれほど振りだっただろう。
「……要らないなら、帰るが」
「――種類って……」
 ――ムードも何もあったもんじゃない。あんまりの言葉に逆に気が抜ける。種類で分けられるだけの感情にどれほどの価値があるだろう。……それでも。
「……それ、口説いてるんか」
「一応」
 ずっと迷っていた。雄高の背中を、自分の腕で抱き返すことを。
 許せる気がした。

 

 



 あまり多くのことを語りたがらない人だとは思っていた。自分のその予想は正しいのだろうと思う。雄高は極端なほど、自分の感情の多くを語りたがらない。
「――喋りすぎた」
 長い時間外で佇んでいた後、はっと我に返って部屋の中に彼を招き入れたときに、雄高がどこか苦々しく零した言葉がそれだった。
「……あんたは無駄なことしか喋らんからな」
「そうじゃない。……最近喉の調子が良くないんだ」
 雄高の部屋に置かれているものに比べれば粗末なソファに座ると、喉をそっと擦りながら雄高が呟く。
「――喉?」
 ――まさか、と思う。
 そういえば前に電話をしたとき――もう金を返さないで良いと冷たくされたときだ――、雄高の声が微かに掠れていた気がする。自分の風邪を移してしまったんじゃないか。そう思いながら訊き返すと、雄高は無表情で首を横に振る。
「いや、そうじゃない」
「何が「そうじゃない」や」
 判り易い反応だ。判り難いと思っていたのは最初だけで、もしかしたらこの人は、慣れればひどく判り易い反応を返すのかもしれない。
「あの日の朝、おらへんかったのも――俺に来てほしくなかったのも、風邪移ったん知られたくなかったからか」
「――……」
 それはあまりにも自分にとって都合の良すぎる理由だった。まさかそんなことあるはずがないと思いながらも尋ねると、返って来たのは長い沈黙だった。
 判り易い。判り易すぎる。
「……あんた、やっぱ間違ってる」
 そんな曖昧な言葉だけを与えられた自分が、どれほど傷付いたか――この男は考えもしないのだ。
「器用やと思ってたけど、不器用なだけやんけ。――どっちがガキや」
 和秋は、躊躇いながら雄高の隣に腰を降ろした。手を伸ばして、さっきまで雄高自身が触れていたその喉をそっと撫でる。喉仏の下から顎までを指先で辿っても、雄高は文句を言わずされるがままになっている。
「……一回風邪を引くと、喉風邪が長引く性質なんだ。気にするな」
「……気にするわ。させろ」
 不器用なひとだと思う。
 そして、ただこのひとは寂しかっただけなんじゃないかと、唐突に思った。
 そういえば神城もそんなことを言っていたように思う。――寂しがり屋。あれは、どういう意味だろうとぼんやり思った。ほら、誰も答えをくれない――。
「……神城さんがな。あんたに幸せになってもらいたいんやって」
 唐突に落とした和秋の言葉に、雄高はほんの僅かに目を丸めるとふっと小さく笑った。――どこか苦く。
「――後が怖いな」
「俺は、」
 雄高の言葉を遮って、和秋は続けた。
「俺は実験でも何でもかまへんし、あんたが俺の世話を焼きたいんやったら好きなだけ焼いたらええ。――けど」
 和秋は考えている。神城は自分に何を伝えたかったのか。この人を幸せにするには、どうしたら良いだろうと――考えている。
「一回でええから言って。――俺は、あんたの一番か」
 もしもその言葉を一度でも貰えたら。
 何にでも耐えられる気がした。
「――口説いてるのか?」
「――…一応」
 茶化す言葉に、和秋はそっと雄高を睨み付ける。
「――おまえに、見せたいものがある」
「……何?」
 緩く首を傾げて尋ねる和秋に、雄高はそっと手を伸ばす。
「多分――良いものだ。せっかく探してやったんだから要らないなんて言うなよ」
「やから何やの」
 伸ばされた手は、和秋の後頭部に辿り着くと、そのまま引き寄せるように和秋の身体を抱き込んだ。
 まだ、問いかけに答えは与えられていない。
 所謂これは身体で誤魔化されているとか言うんじゃないだろうかと思うのに、腕の暖かさに抗いようがない。
 頭のてっぺんから、雄高の小さな声が降ってくる。
「――明日を、楽しみに。」
 また謎かけばかりだ――そう思うと頭を抱えたくなる。けれど、今はただその声が心地好くて。
 和秋は小さく頷くと、そっと目を閉じた。





「北沢という名前を聞いた覚えがあるか」
「――キタザワ?」
 尋ねられたのは、二人して小さなベッドで身体を縮めて眠った翌日、――離れ難いなんてことは間違っても和秋は思ったりはしなかったが、――学校まで送るという申し出を素直に受けて、雄高の車に乗り込んだときだった。
「……キタザワ、キタザワ……」
 言われた名前を口の中で反復しても、すぐには思い出せない。判らないと素直に首を振ると、雄高はそうだろうな、と納得したように頷いた。
「あのひとが撮ったのはだいぶ前だろうし――変なおっさんだから記憶に残っていても不思議じゃないかと思って訊いてみただけなんだが」
「何の話やねん。――灰、落ちるって」
 雄高が指先に挟んでいる煙草から長く伸びた灰が落ちそうになっているのを見咎めると、雄高は面倒臭そうに添え付けの灰皿に灰を落とす。
「おまえの部屋に灰皿が置いてないのは不便だったな」
「せやかて俺吸わへんもん。あんた禁煙したらどうや。せめて俺の前だけでも」
 雄高はのんびりとハンドルを切りながら、僅かに厭そうに顔を顰めた。どうしても煙草を手放すつもりはないらしい。愛煙家とはそう言ったものなのだろうかと、和秋は内心首を捻る。和秋からしてみれば、煙草なんてものはただ煙たいだけのものだ。
「煙草の話はどうでも良い。――その北沢さんは俺の知り合いのカメラマンなんだ」
 言いながら、信号停止の間を使って、雄高は片手でボックスを探る。暫くして雄高の手が見つけ出したのは、数枚の写真だった。
「――やる」
「やから何やねん」
 首を傾げつつも手渡された写真を裏返し、それに写る被写体を確認した瞬間、和秋は息を詰めた。
 写真に写っていたのは、過去の和秋自身だった。覚えている。これは中学二年の夏だ。まだ走ることが純粋に楽しかった頃の。
「――これ……」
 同時に、キタザワという名に関する記憶が甦る。正直に言えば、北沢という名を覚えていたわけでも知っていたわけでもない。ただ、この写真を撮った人物には覚えがあった。
「北沢ってあのおっさんのことか。――妙に人懐っこい……」
 悪く言えば図々しい、だけど和秋はその人のことを嫌いではなかった。実際に顔を合わせたのは、一度だけだろうと思う。北沢はそのとき、走り終えて帰宅準備をしている和秋に突然声を掛けてきたのだ。
 写真を何枚か撮らせてもらったが、良かっただろうかと。そういうことは本来、事前に了承を撮るべきなのではないかと思ったものの、そのときのおっさんがまさかプロのカメラマンだとは思わなかった和秋は、別にかまへんけど、と適当に頷いたのだ。
 北沢は大袈裟なくらいに和秋の走りを褒めて、本当は選手を撮りに来たんじゃなかったんだが、つい撮ってしまったと、そう言っていた。
「多分そのおっさんが北沢さんだ。北沢常保。有名な人なんだ、変なおっさんだけどな。俺の――師匠らしい」
「……らしいって何や」
「それはまた今度な」
 また今度?と眉を顰めたのは一瞬で、学校が近付いていることに気付いた和秋は、以前と同じように裏門の近くで降ろしてくれるように頼む。
 それにしても何故、こんな写真を雄高が持っているのだろうと、その疑問だけは拭えなかった。
「……北沢さんの写真の一部を俺は譲り受けている。おまえがこの間、陸上の話をしていたときにそれのことを思い出したんだ。……多分、おまえの写真はまだ何枚かあるはずだが、俺が譲り受けているのはそれだけだ」
 和秋の疑問を悟ったのか、車を静かに停車させながら雄高が呟く。
「岸田和秋と言う名前に聞き覚えがあった。まさかそれがおまえのことだとは思わなくてな。――それはおまえのものだ。おまえが持っていた方が、あの人も喜ぶ」
 そんなことを言われても、写真の中の自分を改めて見るなんてことは、ただ恥かしいだけだった。――そう、恥かしいくらいに生き生きとしている。走っているときの自分は、こんな顔をしていたのかと、感心してしまうくらいに。
「――俺が持ってても構わないが」
「いや貰っとくし。ありがとお」
 雄高の呟きには即首を横に振る。この男に自分の写真を持たれているなんて、それこそ恥かしすぎる。
「……それにしても、えらい偶然やな」
 心からの驚愕と感心を込めて、和秋は呟いた。この写真は、何年も雄高の手元にあったということなのだろう。まさかこの写真に写る自分と、後々出会うことになるとは雄高も思いもしなかっただろうし――和秋だって、思いもしなかった。
 あのとき撮られた写真を所有する人物に、まさか恋をしてしまうなんてことを、どうして想像出来ただろう。
「おまえが好きそうな言葉を言ってやろうか」
 車から降りようとした和秋を、雄高はそんな言葉で引き止める。何?と訊き返した和秋の手に握られた写真を、雄高は指先で弾いた。
「――運命。」
「――――死ねッ」
 顔を真っ赤にして車から勢い良く飛び降りた和秋の背に、雄高の笑い声が被さる。――馬鹿じゃないか。この人は本当はとんでもなく馬鹿なんじゃないか。そうやってどれだけ扱き下ろそうとしても、今の言葉は冗談だと思おうとしても、一度赤くなってしまった頬は中々元に戻ってくれそうもない。
「そう言えば渡し忘れたものがまだひとつあるな。アパートの前に置いておく」
 ドアを閉めようとした直前、雄高がふと思い出したように言った。
「それも良いモン?」
「……多分な」
 尋ねた和秋に、雄高は小さく微笑って見せると、そのまま車を転がして自分のマンションへと帰って行った。小さくなっていく車を見送りながら、和秋は手元に握っていた写真を、少しだけ覗き見る。
 ――運命だの、愛だの恋だの語る柄じゃないのはお互い様で。
 だけど雄高のさっきの言葉に、例えばほんの一パーセントでも本気が含まれているんだとしたら。
(――俺は、あんたの一番か)
 そう尋ねた和秋への答えになっているような気がした。
「――似合わへんな」
 きっと自分も彼も、運命も愛も恋も一生語れはしない。
 それでもどうか離れることがなければ良いと思いながら、小さな「運命」を握り締めて和秋は校舎へと向かって駆けた。




 ――アパートの自室の前に、それはそれは立派なさとうきびを見付けた和秋が、頭を抱えながら雄高に抗議の電話を入れたのは、それから数時間後の話。