Breath



 アパートに戻った後、シャワーを浴びて服を着替えても時間が余った。かと言って夕食を作って食べるには少し時間が足りない。
 仕方なく指定された時間よりも早いことを承知で雄高のマンションに向かった。道順に自信がなかったものの知らず土地勘が出てきたのか、迷うことなくマンションへはスムーズに辿り着く。随分のんびり歩いてきたのに、やっぱり言われた時間より二十分ほど早く到着してしまった。携帯で時間を確認しながら、マンションの前にある花壇の縁に腰をかけて雄高を待つことにした。部屋の番号など覚えていないし、どうせオートロックでマンションの中にも入れない。
 待つ時間はさして苦に思わなかった。外で何時間過ごしてもそこまで辛くはない、過ごしやすい時期だ。
「……けどまだちょっと肌寒いか」
 掌で二の腕を擦る。肌は寒さに鳥肌が立っていた。昼間はあんなに暑かったのに、朝晩で気温差が激しいのもこの時期の特徴だ。早く完全な夏になればいい。ああ、それでもその前に憂鬱な梅雨がやってきてしまう――。
「――何やってるんだおまえ」
 和秋の思考は頭の上から降ってきた呆れたような冷たい声に中断された。声だけでその人が誰か区別が付く。だから和秋はそっけない声で答えた。
「中、入れへんから待ってただけや。部屋番も知らんし」
 思っていたよりも待たずに済んだことに安堵しながら、和秋は腰をあげる。携帯を見て時間を確認すると、和秋がここで雄高を待ち始めてからまだ五分程度しか経っていなかった。
「あんたこそ早いやん。用事、ほんまによかったん」
「……今日は知人の誕生日でな」
 先に歩き出した雄高の後に着いてマンションの中に入る。雄高がキーを打ち込むと、エレベーターへ続く自動ドアはあっさりと開いた。
「昔から付き合いがあるダチと、何人か集まって飲むことになってたんだ。別に俺が少しばかり早めに抜けたって構わないんじゃないのか」
 他人事のように言ってのけると、雄高はエレベーターに乗り込んで十一階のボタンを押した。あっさり告げられたその声音とは反対に、和秋は思わず絶句する。
「――誕生日って……。ほんまに抜けてきてよかったんか?」
「何かと理由をつけて騒ぎたいだけだからな、あいつらは。この歳になると祝う祝わないもないだろ、しかも大の男が」
 チン、と微かに響いた音が十一階に到着したことを知らせる。エレベータから出て自分の部屋へと向かう雄高の背中を追いつつも、和秋は釈然としなかった。――誕生日を祝おうとするくらいに親しい友人との約束を、自分なんかが邪魔して良かったのだろうか。
「俺、金返したら直ぐ帰るし。それからまた行ったらええやん」
「そんな中途半端に参加してもな。……妙に気を遣うんじゃない、気色悪い」
 扉を開け、和秋を促しながら雄高が静かに笑う。気色悪いとは何事だと眉を顰めながらも、和秋は大人しく扉をくぐった。一週間前に一度訪れたきりの室内は、記憶そのまま留まっている。男の一人暮らしにしては綺麗すぎる部屋だ。生活感がないわけではなく、物はやたらと多いのに、それが綺麗に片されている印象がある。案外綺麗好きなのかもしれない。
「コーヒーは飲めるか?」
「……ん。砂糖だけくれたらええよ」
 勧められるままソファに腰を降ろし、キッチンから聞こえる声にこくりと頷く。先程雄高に言った通り、金を返したら直ぐ様帰ろうと思っていた。にも関わらず、何故か言われた通り膝を揃えて素直にコーヒーを待ちながら、漂って来るコーヒーの香りを嗅いだ瞬間、自分は何を和んでいるんだろうと我に返る。
「やっぱコーヒー要らん」
「ブラックは飲めないか、判った判ったミルクも入れてやるから」
 全く見当違いなことを言い出した雄高に、和秋は勢い良く首を振る。子供扱いされている場合ではない。
「ちゃうて。――先に金返す言うてんねん、コーヒーなんかあとでええから」
 雄高はやれやれとでも言うように肩を竦め、きっちり自分の分だけコーヒーカップを持ってリビングに戻って来た。客を持て成すという感覚に欠けているらしい。しかし要らないと言ってしまった手前、文句も言えず、和秋はバッグから取り出した茶封筒を雄高に向かって差し出した。
「金。きっちり耳揃えて返させてもらう」
 言いながら自分でもおかしな言葉だと首を捻ったが、幸い雄高からのツッコみは入らなかった。その雄高はと言うと、茶封筒を大人しく受け取り、しかし小難しく考え込むような表情で手元のそれをじっと凝視していた。
「やけにバイト代が出るのが早かったな。日払いか」
 何を考えこんでいるのかと思えば雄高の口から出たのはそんな言葉で、身構えていた和秋は拍子抜けしながらも首を横に振る。
「――どんなバイトや。普通の居酒屋やで、そら頼めば給料早出ししてくれるかもしれんけど」
 親切で人当たりの好い店長の顔を思い浮かべながら和秋は首を傾げた。一人暮らしの和秋のことを店長はやけに気にかけてくれているらしく、何かと世話を焼いてくれている。事情があるからと説明すれば、きっと前借りくらいはさせてくれるだろう。
「月末か、月始めか」
「翌月の十日や。…それが何」
 雄高の質問はどうも要領を得ない。貸していた分の金を受け取ったのだから早いところ解放してくれたって良いだろうと、僅かな苛立ちを殺しながら雄高を睨め付けた。
「この金はどこから出て来た? 親の金か」
 痛いところを突かれて言葉に詰まる。雄高の言う通り、たった今彼に渡した金は、親の金といえば親の金だろう。両親から生活費として振り込まれている一部を拝借したものだ。来月に出る給料で穴を埋めようと考えていたにしても、親の金であることに間違いない。
「バイト代が出てからで構わんと言ったはずだが。親に借金するような情けない真似はするな」
「――関係ないやろ。金が戻って来たんやから喜んどけばええやん。確かにあんたの言う通り親の金やけど、バイト代が出たらそれで…」
「やかましい。高校生から金を搾り取るほど鬼畜じゃないんだよ俺は」
 言い訳がましく続けた言葉をやかましいの一言で一蹴されてしまった和秋はむっと黙り込んだ。しかし雄高の言葉は大人として最もだった。――店のオーナーとしては相応しくない言葉なのかもしれないが。
「バイト代で払ってもらうにしても、生活に支障が出ないようにと分割で良いと言ってやったんだ。ひとの好意を無にするな」
「――親の金は親の金やけど、それであんたに金返したって生活が苦しくなるわけやない。バイト代が出るまでちょっと食費削れば何とか…」
「それを支障というんだ。おまえは馬鹿か」
「ぐ……」
 やかましいだの馬鹿だの、辛辣なことをズバズバ言って退ける性格のようだ。どうして知り合って間もない赤の他人同然の人間にここまで言われなければならないのだと思っても、自分に負い目があることを自覚している故に言い返すことが出来ない。
「ひ、ひとが折角……。ちゃんと金返そうとしてるんやから黙って受け取ったらええやんか!」
「同じことを二回言わせるな」
 渡した茶色の封筒は、顔面に叩き付けられるようにして押し返される。これ以上何を言っても金を受け取ってくれる様子はなさそうな相手に、和秋は余計なことを言ってしまった自分を悔やんだ。ほいほい質問に素直に答えるべきではなかったのだ。
「そんなに焦らなくったって利子なんかつけないから安心しろ。――飯はもう食ったか?」
「――まだ。やけど」
 もう帰ると言いかけた和秋を遮って、それは結構だ、と何故か上機嫌に返した雄高はそのまま再びキッチンへと向かい出す。
「俺もまだ飯は食ってないんだ、飲むつもりだったからな。せっかくだから晩飯に付き合ってから帰れ。何もしないで帰るのは無駄足で悔しいだろう」
「そら無駄足は嫌やけど、でも――」
「ひとりで飯食ったって美味くない。付き合え」
 押し付ける強さで言われてしまえば、和秋はもう頷くことしか出来ない。仕方ない。借りがあるこの男に自分が逆らうことなんて出来るはずがない――そうやって思い込もうとする自分は何かを誤魔化しているように思えた。
「……何か手伝おうか」
 だけど素直に雄高の言葉に甘んじるのも何となく嫌で、自ら申し出ると和秋は雄高の後に続く。
「出来るのか、料理」
 背中で和秋をからかった雄高は、冷蔵庫の中身を物色している。舐めんな一人暮らしをとぶっきらぼうに返して、肩越しに冷蔵庫の中を覗いた。驚くことに中身が詰まっている。一人暮らしには不要なほど大きな冷蔵庫なのに、少しもスペースが余っていないというのは珍しいだろう。三分の一くらいはアルコールのようだったが。
「何が食いたい?」
「何でもええ」
「作り甲斐がねえな。――魚は平気か? 鮭」
「好き」
 当然のように続けられる会話がくすぐったい。優しい――のだろう、彼は。基本的にこの男は多分優しいのだ。手際良く料理の準備を始める背中を眺めながら、和秋は思う。多少――いや、ものすごく捻くれて判り難い遣り方ではあるが、この男は善い人間なのだろう、そんな大袈裟な表現でなくただの世話焼きの一言で済むかもしれない、つらつらとそんなことを考えていると、雄高の掌が所在なく突っ立っていた和秋をひらひらと招いた。
「そんなに手間が掛かるもんでもないんだ。少し時間はかかるが。座ってろ」
 そう言って雄高は冷蔵庫から取り出した缶ジュースを和秋に渡すと、ダイニングテーブルを示した。ここで待っておけ、という意味なのだろう。どうやら手伝う必要もないようだ。言われた通り椅子に腰を下ろして、和秋は雄高の背中を眺めながらプルを起こす。オレンジ百パーセント。完全に子供扱いされている。
「オレンジジュース、すっぱいから嫌いやねんけど。百パージュースやったらリンゴの方がまだマシ」
「我侭言うな、ジュースはそれくらいしか置いてないんだよ。――あぁ、確かコーラがあったと思うからそれも飲んで良いぞ」
「どんだけ俺を水っ腹にさせるつもりやの。…あんたコーラなんか飲むんか?」
 無類の酒好きであることは冷蔵庫に収められたアルコールの量から判る。酒好きが炭酸飲料を飲んではいけないという決まりはないが、その飲み物と雄高は全く不似合いに見えた。
「俺じゃない。ヨシ――知り合い用だ。たまに連絡なしに来やがるから、用意してやってるんだ」
 ふぅん、と曖昧に相槌を返す。飲みこんだオレンジジュースは、やはり胸に痛いくらいの酸味を覚えさせた。たまにしか来ない知り合いの為にわざわざ好きな飲み物を準備してやっている辺り、その人物との親密さが伺える。ヨシ、という名前が胸に引っ掛かって、ふと首を傾げた和秋は、思いつくまま尋ねた。――確かあの子の名前は、
「それって楠田君のことか、一年の楠田由成」
 少しだけ緊張を孕ませて、しかしそれに気付かれることはないように。
「ん? …由成を知ってるのか」
「部活が一緒や。あんた今日、学校に迎え来てたやろ。やから――」
 どうして楠田と雄高が顔見知りであることを知っているのかを尋ねられる前に、口早に和秋は続けた。部活が一緒などと言ってしまったが、まだ一度しか会ったことがなく、しかも自分が部活に入ることを決意したのは今日だということは敢えて言う必要もないだろう。
「そうか、あの近くにいたのか、――俺からは見付けられなかったんだが」
「――…わざわざ、俺のこと探したんか?」
「ついでに」
 短く答えた雄高は、手際よく夕食の準備を始めた。
「……ついでかい」
「由成は知り合いの――弟でな。今日が誕生日の知り合いっていうのが由成の兄貴なんだが、学校はあいつの家に行く途中に通り掛るから、拾ってやったんだ」
「…弟も一緒に祝ってやるんか、えらい仲のええ兄弟やな」
 楠田との関係を説明する雄高の言葉も、なぜか上の空で聞いていた。――探されていた。楠田のついでだとしても、確実に自分は気にかけられていたのだ。そのことに、和秋の胸につっかえていた魚の骨のようなものが、少しだけ丸みを帯びる。
「仲が良い――んだろうな。確かに」
 そう言って雄高は少しだけ笑うと何かに気付いたように、あ、と間の抜けた声を口にした。
「何や、何か失敗したんか」
「――飯、炊いてない」
 魚の切り身を既に小麦粉に塗し終えて、残る作業は焼くだけという時点になってから炊飯器事情に気付いたらしい。しまった、という顔で、雄高は苦々しく炊飯器を見つめている。失敗は失敗だろう。それもとびきりに間抜けな。こんな男でも間抜けな失敗をすることがあるのかと、思わず口元が緩んでしまいそうになるのを堪えながら、和秋はさっきの仕返しとばかりに冷たく言い放った。
「アホか」




 鼻腔を擽る甘い香りに、多分これはフレンチトーストだろうとぼんやり思う。思考はまだ完全に目覚めない。――フレンチトーストは焼きすぎたくらいが丁度良い、なんてつらつら考えているくらいだから、多分寝ぼけているのだろうと自分で判った。
「そろそろ起きろ、遅刻するぞ」
 ――待ってやおかん、もうちょっと寝かしといてや――
「飯食う時間がなくなっても良いのか、」
 ――飯抜くのなんかいつものことやん。それよりあんたが朝飯作ってることのがビックリや――
「…て、おかんちゃうー!」
「寝ぼけてるのかこの馬鹿」
 冷たく降って来た声はもちろんおかんにしては野太いもので、思考が一気にクリアになる。ああなんだか前にも同じようなことをした――。恐る恐る時計を見遣ると、記憶に残る最後の時間からは五時間近く経っていた。
「……俺、泊まってもうたんか?」
 勢いよく飛び起きた和秋を、雄高は冷ややかに見つめると、眠気覚まし代わりにと和秋の鼻先を指でピンと弾いた。
「しっかりな。――飯は出来てるからさっさと顔洗って来い」
 そう言い捨てると雄高はさっさとキッチンへ去って行く。その背中を見送ってから和秋は自分の置かれている状況に気付いた。昨晩遅く、ただでさえイレギュラーな部活動で疲れ果てていて、いつのまにか寝こけてしまったのは判る。判るが、酔っ払って拾われたときと同じように自分はしっかりベッドに寝かし付けられていたのだ。
 あのときは大して不思議に思わなかったが、自分のベッドを赤の他人に譲るなど、あまりにも親切すぎるのではないだろうか。
(……あのひとどこで寝たんや?)
 まさか床やソファで寝ていたのではないだろうか、そうならば申し訳なさすぎる――そんなことを考えながら、言われた通り洗面所に向かうと、真新しい歯ブラシとタオルが用意されていた。これを使え、という意味なのだろう。用意周到だ。今時女性でもここまで気が回るだろうか。
「――……」
 ベッドと言い、用意されているらしい朝食と言い、歯ブラシと言い。世話焼き体質だとしても、親切すぎる。それを訝しむ気持ちは確かにあるのに、何故だか胸の辺りが疼いた。こんな風に世話を焼いてもらうことに――慣れていない。
 朝食は想像通りフレンチトーストと、目玉焼きが用意されていた。卵ばっかりやなと笑うと、気難しそうな顔で賞味期限がな、と呟かれる。台所事情を理解して、和秋はそれ以上何も言わずテーブルに着いた。和食派なら味噌汁を作ろうかと雄高は言ったが、恐縮して即座に首を横に振った。
「――ターンオーバーや」
「片面焼きの方が好きか?」
「や、両面焼きの方が好き。自分で上手く作れへんけど」
「コツがあるんだよ」
 淡々と料理を口に運びながら雄高が返す。和秋の知る限り両面を焼いた目玉焼きを好む人は少数で、頼んでもいないのに両面焼きが出て来るのは珍しい。さらにフレンチトーストさえも、和秋の好み通り少し焼き過ぎたくらいの加減で並べられている。変なところで味覚が一緒なのだろうか。
「今何時? 家に帰ってから間に合うやろか…」
 しかしのんびり食事を摂っている場合ではないことに気付いて、和秋は慌しく料理を掻き込み始めた。雄高が以前言っていたように、あの学校は出席日数や遅刻に煩い。病気や怪我でいずれ欠席してしまう日が出るかもしれないということを考えれば、こんなことで遅刻するわけにはいかなかった。
「送ってやるよ、家と学校」
「……あんまり、世話になりすぎやろ、そんなの」
 いとも簡単に言われて、世話好きにもほどがある、となんだか複雑な気分になりながら、少しだけ心が揺らいだ。教科書類は学校に置いてあるし、制服さえあれば身一つで学校に行っても支障はないのだ。
「送ってやるから早くしろ、もう八時だぞ」
「うわ、ほんまにヤバ……っ」
 雄高が満足げに小さく笑う。その笑みに、しまったハメられたとなぜだか思った。どうして今笑ったのか――それを尋ねる前に、車の鍵を持った雄高に急かされて部屋を追い出される。
「――あんた、えらい親切やな」
「何が?」
 何でもないと首を振る。気付いているのかいないのか、いまいち判断し難い。しかしそれでも和秋は、歩いて行くとは言い出さなかった。絶対に認めたくはないが、この男と離れ難かったのは自分の方かもしれない。
 この男はあんまり優しくてあんまり心地が好かったから、多分――離れ難いのだ。
 約束通り雄高は一旦アパートまで車を走らせ、すぐに学校へと向かってくれた。校門前で降ろされるのはさすがに目立つからと、裏門から少し離れた場所で車を停めて貰うと、直ぐに車から飛び降りて門に向かう。
「ありがと」
「――持ってけ」
 和秋を呼び止めた雄高は、小さな紙袋を投げて寄越して来た。それをキャッチすると、中身を確認しようと和秋は袋の中を覗いた。見えたのは、細長い円形のシンプルな黒い箱。しかも二段重ねの――
「……何?」
「弁当」
 確認のため一応尋ねると、予想通りの言葉が返って来た。尋ねた手前、そんなものは言われなくとも見て判るとは言えず、和秋は声をなくして紙袋の中身を凝視してしまう。この男は親切だ。親切で優しいことはもう判っている。判っている、が――。
「食費削って金返してくれるんだろう。これからは昼飯代くらい節約しろよ」
 そう言って雄高は車を転がして去って行く。いつもと同じようにいとも簡単に、あっさりと。もう見慣れてしまった白い車を見送りながら、現実から立ち直れない和秋は呆然と立ち尽した。
「――やりすぎや……」
 親切にも程がある。どこの世界に、借金を返してもらうために負債者にせっせと弁当を作る男がいるだろう。いや、いるのだ。しかもさっきまでその男は自分の目の前にいた。――色々と有り得ないが、事実である。ここまで来れば、和秋は笑うしかなかった。
「弁当作るイメージなんかないんやけどなあ、あのひと――」
 金が出来なくてもそのうち弁当箱を返しに行かなければならない。あの部屋に行く理由が、今ここにはある。
 ――どうしてあのとき、満足そうに笑ったのか。
 その理由が、自分と同じであれば良いのに。
 願うように思いながら、和秋は紙袋をそっと握り締めた。