「しつこい。なんべん言われたかて、あかんもんはあかんの」
「そこんとこを何とか。考え直してくれ」
頭を下げられたって譲れないのに。
さっきからぺこぺこと頭を下げ続ける同級生――清田という生徒を、困り顔で和秋は眺めた。清田は和秋が転入したクラスで、席が前後だったこともあり何となく言葉を交わすことが多いクラスメイトだった。
清田は夏からテニス部の部長を任されることになっているらしく、部員の獲得にいたく熱心だった。
「そら俺かて、出来れば力になってやりたいけどな。だめなもんはだめや」
「名前貸してくれるだけで良いんだ。他に入りたい部もねえんだろ」
もう何度繰り返したか判らない遣り取りを、飽きずに清田は持ち掛ける。その度に和秋が返す言葉はノーだと言うのに、見かけによらず懲りない男だ。
「そらそうやけど……」
かなり派手に色を抜いた清田の髪が、頭を下げるとてっぺんが黒くなり始めているのが判る。和秋はそのつむじを指差して、
「あ、つむじ。黒なってるで、早いとこ染め直しや、かっこ悪」
告げると、低い声で清田が唸った。
「――矢野」
「すまん冗談や流してくれ」
清田は長髪ピアス金髪の三拍子が揃って、見た目は軽そうでいい加減な人間に見えると言うのに、意外と今時珍しいくらいに義理人情に厚い硬派な男で、少しだけしつこい。
「何回も言うたけどな。バイトで忙しいんや、俺は。部活なんかやってられへんし、時間も空かん。テニスかてしたことあらへんの。そんな部員おったって意味ないやろ」
「もちろん活動に参加してくれれば嬉しいけどな。今は廃部にならないようにするのが先決なんだよ。夏に三年が引退した後、今の人数じゃ来年には廃部になっちまう」
清田は頭を抱えると、哀れっぽさを滲ませて呟く。さてどうやって彼を振り切れば良いだろうと、溜息を殺しながら和秋は帰り支度を始めた。
「矢野、今日バイトは?」
「休み」
「なら見学だけでも来てくれよ。おまえ以外にも幽霊部員はいるから、全体的にそんなに練習はハードにしてねえはずなんだ。入るか入らないかは見学してから決めるってことで」
頭を下げ続ける清田の、黒いつむじを暫く眺めていた和秋は、結局根負けした。今日は特に予定もないし、それに清田には慣れない学校生活で世話になっている。部活動を見学するくらい、何の手間になるというのだ。
「――見学だけやで」
小さく呟くように返した和秋の言葉に、清田は眼を輝かせる。テニス部に入るとは限らない、と釘を差しても、清田は構わないと笑った。一縷の望みでも、ないよりはあった方が良いんだ、と。
この学校に転入して、一週間が経とうとしていた。良く話をするクラスメイトの名前も覚え、教科担任の名前と顔も一致するようになってくる。順調にバイトも決まり、和秋はそれほどの不満もなく生活を送っていた。
ただひとつのことを除いては。
不満というほどの不満ではない。ひどく些細な、言ってみれば咽喉に魚の骨が刺さったかのような違和感に和秋は苛まれ続けていた。
「――矢野? どうした」
着替えて来る、そう告げて部活棟に消えて行った清田を待つ間、和秋はコートの近くのベンチでぼんやりと手元の携帯を眺めていた。清田の声に、和秋は漸く液晶画面から視線を外した。携帯に気を取られすぎていたらしい。清田が戻って来たのにも気づかないくらいに。
「誰かから電話待ってんのか?」
慌てて顔を上げた和秋に、清田はごくあっさりと疑問を投げかける。
「……ん。違う」
問いにはゆっくりと首を振って、和秋は携帯をポケットに仕舞った。――誰よりも、あの男からの電話を待っている自分なんて、和秋自身が認めたくはなかったし、またそんなことがあるはずもないのだ。
「俺、ラケット持ってへんけど」
「もしやりたくなったら俺の貸してやるよ。とりあえず、最初は練習見ててくれ。…ってもまだ部員集まっちゃいねえけどな」
物憂げに溜息を吐いた清田は、ガランとしたコートを見回した。言葉通り、テニス部コートには清田と和秋以外誰もいない。
「――テニス部が廃部になったらな。テニスコート潰して、サッカー部の第ニ練習場にするんだとよ」
「そ、それは……」
サッカー部は部員も多く、最近めきめきと力を付け始めてきた部で、学校の期待もそれなりに大きいらしい。サッカー部よりも前からあったテニス部が今は何とかコートを死守出来ているが、隙あらばすぐにでもサッカー部に場所を奪われてしまうのだと清田は切なく言った。
「……ご愁傷様、やね……」
何と言っても部外者である和秋に言える言葉は、これくらいしかない。
「――サッカー部が悪いってわけじゃねえんだけどな。こればっかりはどうにも…」
頭を掻きながら清田は言う。サッカー部は割合最近に設立された部で、故に現在与えられている練習場は猫の額ほどしかない。新たに練習場が欲しいという気持ちは清田にも痛いほど判る。
みんなそれなりに大変なんやなあ、とあくまでも気楽に清田を見守る和秋は、ふと背後から聞こえる慌しい足音に後ろを振り返った。同様に清田も視線を上げ、さっと手を上げる。
「お、来たな」
「すみません先輩、掃除が長引きましたーっ!」
「とか言ってサボってたんじゃねえだろうな」
からかうように言った清田に、やって来た生徒は、そんなあ嘘じゃないっすよぉ、と情けない声を出す。騒がしいというよりは、調子が良さそうな愛嬌のある顔をしている。清田を先輩と呼んでいるところを見ると、恐らく一年生なのだろう。
「俺が掃除当番で、敦には付き合ってもらってたんです。すみません、清田さん」
その隣にいた、決して小柄ではない清田も見上げてしまうくらいに長身の生徒が、申し訳なさそうに頭を下げて言った。生真面目な一年生の態度に、清田は笑いながら首を振る。
「冗談だよ。どうせまだ俺たちしか来てないしな。今日は楠田も出てくれるのか?」
「はい。今日はバイトがないから」
長身の一年生は、控えめに頷くと声を潜めて、
「すみません。たまにしか出れなくて……」
やはり申し訳なさそうに言った。
「気にするな。名前貸してもらってるってだけで有り難いのに、バイトがない日は顔出してくれてるんだから。そりゃおまえが毎日練習すれば、すぐに上手くなる思うから勿体ないとは思ってるけどなぁ…」
残念そうにひとり頷く清田は、思い出したかのように和秋に向き直り、騒がしい方の一年生に指を差した。
「矢野、こっちが部員の工藤に、こっちが楠田だ。毎日練習に来てるのは、俺と工藤くらいだな。…楠田はおまえと同じ幽霊部員だ。幽霊部員と言っても、楠田はバイトのない日は顔を出してくれてる」
「……おい。やから俺は入るかどうかまだ判らんって言うてるやんか」
「工藤、テニス部に入ってくれる予定の矢野和秋だ」
当然のように部員扱いされてしまった和秋が低く呻くのも気に留めず、清田は和やかなムードで相互の紹介を終えた。
「今まで部活入ってなかったんですか?」
罪のない笑顔で、工藤と紹介された男が首を傾げる。いやだから元から入るつもりなんかないのだと告げる前に、清田のこれまた罪のない笑顔が和秋を遮った。
「矢野は転入生でな。つい一週間前に入って来たばっかなんだ。――そういや矢野、前いた学校で部活はしてなかったのか?」
「――陸上」
「なんだ、じゃあ基礎体力は充分ですね!」
むっつりと答えた和秋に、工藤は晴れやかな笑顔を見せた。
「……陸上も、幽霊部員みたいなもんやったで。気が向いたときに走ってただけや」
そうですか、と残念そうな顔で工藤が言った。後輩に対して態度が些か冷たかったかもしれない、と和秋が反省しかけると、しかし工藤はすぐに爽やかな笑顔を見せた。
「じゃあ、これから体力作っていきましょうね!」
「――。……そうやね」
テニス部に入ればな。――声には出さず、和秋はとりあえず工藤の言葉に頷いてみせた。工藤の隣で、楠田と呼ばれた長身の一年生が、ひどく申し訳なさそうな顔をして二人の遣り取りを見守っている。
「――敦。練習」
工藤の扱い方に戸惑っている和秋を見兼ねてか、楠田は遠慮がちに、しかし強めに切り出すと工藤の腕を掴む。
「あ、そうだな。せっかくおまえが来てるんだから、時間無駄にできないよな。――じゃあ先輩、俺たち先に始めときますね」
そのままコートに向かい始めた二人を、清田が呼び止めた。
「待て、工藤。今日は後から桜木先輩と加賀が来るから、おまえはどっちかと組め。残った方と俺が組む。――矢野、楠田なら初心者だし、おまえも気負いなく打ち合えると思うけど。どうする?」
「初心者と初心者が打ち合って楽しいんか?」
「ルールなんか気にしないで、遊び感覚でやってくれりゃいいさ。楠田は初心者って言っても、おまえよりは大分うまいからリードしてくれるだろ」
「………」
微妙に貶されたような気がせんでもないが、敢えて和秋は黙っておく。仕方がない。テニスに関しては初心者であることは確かなのだ。
「楠田、いいか? 俺と工藤、ちょっと調整したいことがあるからさ」
「俺は良いですよ。――矢野さん、俺が相手で良いですか?」
清田の提案を快く了承した楠田は、続いて和秋に向かって尋ねる。選択権などあるはずもなく、和秋は随分背の高い後輩を見上げながら、「お手柔らかに」と述べることしか出来なかった。
「――やってみると、楽しかっただろ?」
「……楽しかったって言うか」
ムカつく。と小声で和秋は続ける。楽しかったのは楽しかった。身体を動かすことは元来嫌いではないし、久々に走り回って疲労は大きかったが、気分は爽快だ。しかしムカつく。
「ラリーがぜんぜん続かへん……!」
「矢野って意外とノーコンなんだな……」
校門までの少しの距離を歩きながら、清田はしみじみと呟いた。日が長くなったとは言え、この時間帯になるとさすがに周囲も暗くなっている。そのせいで自分をノーコントロール扱いしたクラスメイトを横目で睨んでも、一向に効果はなかった。
「なによりも、後輩にあっさりフォローされてた自分がいちばんムカつくわ……」
「しょーがねえだろ、おまえ初心者なんだし。それで笑うようなヤツじゃないさ、楠田は」
「そんなん、判っとる」
腹立たしかったのも半分、しかし残り半分でまあ楽しかったかなと思えるのは、楠田のおかげだろうと和秋は思う。和秋がへんてこな場所にボールを打ち返しても、または手からラケットを滑り落としても、楠田は「俺もよくやります」と言って優しく笑うだけだった。あまりにも妙な場所にボールを返してしまうので、それをいちいち拾いにいく楠田に、終いには恐縮してしまうくらいで。
「入る気になったか?」
「――まさか」
そう言って、清田の問いに首を振りかけたそのときだった。和秋は校門の前に停められている、一台の車に気付いた。
それこそまさかと思う。しかしあの白い車体には、確かに見覚えがあった。暗闇の中でもぼんやりと浮いてみえる、あの白い車は。
運転席のドアが開き、中から人影が這い出て来る。人影は誰かを探すように、視線を巡らせているようだった。日が沈んでしまったせいで背格好くらいしか見えないのに、なぜか心臓が早鐘を打つ。
一週間前に一度逢ったきりのあの男が、自分を探しているんじゃないかと――そんな気がして。
「矢野?」
訝しげに清田が首を傾げる。それに生返事を返しながらも、和秋の視線は車から動かなかった。
「――清田さん、矢野さん、お疲れ様でした」
「おう楠田。オツカレ、またな」
そのすぐ横を、制服に着替え直した楠田が駆け足で走り去っていく。急いでいるようなのに、律儀に挨拶をしてくれた楠田に返事を返すことすら、和秋は忘れている。
走り去ったかに見えた楠田は、校門前で足を止めると車の傍で佇んでいる男に何事か話しかけた。
その様子に何よりも驚いたのは和秋だった。まさかあの人影は、自分が予想していたあのひととは別人なのだろうか――。
「……んなに急がなくてもよかったのに」
「でもだいぶ待たせてたみたいだから……、……さんは?」
「家。俺もこれから向かうところだ。……先におまえを拾っていこうと思ってな」
しかし、遠くから切れ切れに聞こえてくる声は、間違えようもなく――梶原雄高のものだった。
やっぱり、雄高だった――。予想が確実なものになると、突然呼吸が苦しくなった気がする。
会話を交わしているうちに、二人はそれぞれ運転席と助手席に乗り込む。暫くして、エンジン音を響かせながら車は校門から去って行った。
「楠田はお迎えか、羨ましい」
部活で疲労困憊している清田は、呑気に楠田を羨ましがっている。
「――迎え、良う来るんか?」
「さあな、俺は今初めて見た。あいつも中々部活に出られないし、いつもは工藤と帰ってるみたいだからな。たぶん今日は用事があったんじゃねえの」
「ふーん……」
努めて冷静に、和秋は頷く。咽喉に刺さったままの魚の骨程度だった違和感は、今や胸中に広がっていた。
「――清田」
「ん?」
「俺、テニス部入ったってもええよ」
この胸中に広がっていく違和感が、不快なのかすら区別がつかない。その正体が何なのか見当さえ付かなかったが、ただひとつ確かなことがあった。この違和感は、あの男によって齎されているのだ。
「――どうしたよ、突然?」
清田が驚いたように眼を向いて、自分を凝視しているのが判った。
「入らん方がええ?」
「いや、んなことねえけど、全然嬉しいけど。今まで全然乗り気じゃなかっただろ、いきなりどうしたんだよ」
「別に――」
和秋はさっきの光景を思い出して、きつく目を閉じた。
「バイト優先させるから幽霊部員になってまうけどな。それでもええんやろ?」
誰かを探していた視線は、自分に向けられていたものではなかった。雄高は自分がこの学校に在学していることを知っているのに、いとも簡単に無視されてしまった。
あの偶然の繋がりを特別だと思いたかったのは、――思い込みたかったのは。
「たまに練習出てくれりゃ、嬉しいことは嬉しいけどな。……おい矢野、おまえ大丈夫か」
「……何が」
電話を寄越して、「あまり頑張りすぎるな」と告げた。いい加減に響いたそれは、しかし和秋にとって間違いなく励ましの言葉だった。
自分がわからなくなるくらいに頑張る必要はないと。――それは昔、和秋が大切な人からもらった、大切な大切な言葉に良く似ていて。
この一週間。何度その言葉を思い出しただろう。
「――なんか、泣きそうな顔してるぞ」
言い難そうに清田が口にした言葉に、和秋は唇を歪ませて笑う。
「――……そうかな」
早く金など返してしまおう。そうすれば、金輪際あんな変な男と関わることもない。こんな――来るはずもない電話を期待する自分など、あまりに惨めで滑稽だ。
「……清田ぁ」
「……何だよ」
「金貸して。テニス部入ったるから」
笑いながら言った和秋に清田は一瞬目を剥き、見る間に顔色を変えると和秋を怒鳴りつけた。
「………バカかおまえはっ」
清田に怒鳴りつけられて、和秋は声を立てて笑う。こういう小さな遣り取りは、嫌いじゃない。できたばかりの友人と過ごす時間は楽しいのに――小骨がどうしてか大きく感じるのは何故だろうと、和秋は冷静な頭の隅で考えた。
「ほんならな。また明日」
まだ憤慨している清田に笑いながら手を振って、和秋は校門を出る。
歩調をわざと緩めて、暗い夜道をひどくのんびりと歩いているうちに決心は固まった。
制服のポケットに仕舞っていた携帯電話を取り出すと、忘れようのないあの男の番号を呼び出した。あの男は助手席に楠田を乗せて、まだ運転をしているだろうか。
聞き慣れたコール音が耳を打つ。一回、二回。どうかこのまま繋がらないで欲しい、繋がる前に切ってしまいたい。そうやって逃げようとする自分を叱りつけて、和秋は歩きながらコール音が止むのを待った。
三回、四回。
運転中なのだから、出れなくても仕方ないと和秋は思う。それでも電話を掛けてしまったのは。
『――何だ』
一刻も早く、この男との妙な関係を切りたいのだと――五回目のコールが途切れた、そのときまで和秋は信じていた。
「……俺や。酔っ払いの高校生の矢野和秋」
しかし相変わらず静かに響く、低い声を聞いた瞬間、胸に広がっていた違和感は何故か甘い痛みを伴って疼いた。もしかして自分はこの声が聞きたいがために、電話をかけたんじゃないかと疑ってしまうくらいに。
『判ってる。それでどうした? 今運転中なんだ、何ならあとで掛け直すが』
「……ええよ。長くなる話でもあらへんから」
運転中なんてことは知っている。声には出さず、和秋は呟いた。彼らはまだ目的地に辿り着いてはいないらしい。緊張に震えそうになる声を悟られないように深呼吸をして、和秋は話を切り出した。
「金、返しに行きたいんやけど。今日行ってもええか」
告げた声は、どうか普通に響いていますように。祈りながら和秋は返事を待った。悟られてはいけない。雄高の視線が自分を探さなかったことを、一瞬でも悔しいなんて思ってしまったこと。その悔しさで、自棄になったように電話を掛けてしまったなんてことを。
迷っているような沈黙が流れた。それも当然だ。雄高は今日、何かしら用事があるからこそ楠田と共にいるのだろうし、迎えにも来たのだろう。先約があることに間違いはなく、彼が自分を優先する確率は酷く低い。
「……何や用事あるんか。そしたらまた今度にするけど」
それでも彼は言ったのだ。電話をすれば、家にいるようにしておくと。必ず逢えるようにしておくと。
『……いや。ちょっと待ってくれ』
そう言うと、雄高は小声で誰かと――恐らく楠田とだろう――話し出した。受話器を手か何かで塞いでいるのだろう、話の内容はうまく聞き取れない。
『道は判るか?』
そう長くは待たされず、ぼそぼそと続けられていた向こう側の会話が終わると、雄高は尋ねてくる。反射的に和秋は頷いていた。
「判る。……多分」
『迎えに行った方が良いんじゃないのか』
「いらん、ちゃんと行ける」
平静を装って答えながら、雄高の言葉の意味を図りかねて和秋は戸惑った。
『……一時間くらいで帰れるようにしておく。一時間後に来てくれ』
「――……用事、あったんと違う?」
戸惑ったまま、ちいさな声で和秋は訊いた。
『大した用事じゃない。――じゃあな。道に迷ったら連絡しろ』
そして通話は途切れる。いとも簡単に、あっさりと。
何の用事かは知らない。もしかしたら雄高の言うように、元からそんなに大した用事ではなかったかもしれない。それでも。――突然に電話をした自分の要求を、彼はあっさりと受け入れた。自分のために帰ると言った。
その言葉の意味は。
「……探しもせんかったくせに」
知らず和秋は呟いていた。
あのとき探しもしなかったくせに、まるで和秋が特別なのだと言うように、先約よりも優先なんかしないでほしい。今日は無理だと断ってくれれば――期待せずに済んだのに。
これじゃまるで、自分があの男の特別になりたいとでも思っているようで。
よっぽど金を返してもらいたかったのか、それとも性格なのかは判らないが、彼の言葉は胸を痛くさせた。
「……おかしいやろ」
呟きは切なく消える。
あと一時間。一時間経てば、あの男に会える。
最後にしよう。たかが一度世話になったきりの男に、ここまで振り回されるのは、これで最後にしよう。
携帯を握り締めたまま、和秋は薄汚れたアパートに向かって、何かを振り切るように力の限り駆け出した。