Sotto Voce



――頭が痛い。
 今までにない頭痛に、和秋は目を閉じたまま眉間に皺を刻んだ。そういえば心なしか胸がムカムカしている。これは吐き気だろうとも思うが、かと言ってトイレに駆け込むほどの酷さではなかった。
 だから和秋は、敢えて目を閉じ続けていた。いつかはこの頭痛も止むだろうか。それよりも、あと少しだけ。あと少しだけ、睡眠が欲しかった。
 ――足りないのはね、
 彼はそう言っただろうか。いつの日か、走ることに疲れてしまった自分に。
 ――今、おまえに足りないのは、少しの休息と睡眠と……
 そう言って、やさしく抱き締めてくれた。今まで良くがんばったね、と。その言葉だけでどれほど救われたか。どれほど、嬉しかったか。果たしてあのひとは、知っているだろうか。
 ――あんなに。
「……起きてるんなら、いい加減目を覚ましたらどうだ」
 愛しい影を思って固く目を閉じていた和秋に、冷たい声が投げられかけた。聞きなれない声だ。
「もう昼間の一時だぞ。……良いのか、高校生」
 続けられた言葉にも、声と顔が一致する人物は記憶の中に見当たらない。仕方なく、和秋は重たい瞼を上げた。
「――……!」
 目を開けた瞬間、転寝にとぼけていた頭は一気に覚醒する。急速に動き出した脳みそは、まず自分がいる場所を認識しようとした。見渡した室内は、和秋がこれから独り暮らしを始めるために借りた築古年のアパートとは比べようもないくらいにきれいで、そしてもちろん和秋が知らない部屋だ。
「な……どこやここ…っ」
 いきなり起き上がった反動で、ぐらりと視界が歪む。完全に二日酔いだ。
「……イ、ったー……」
「いきなり起き上がるからだ、酔っ払い」
 ズキズキ疼く頭を掌で抱えると、小馬鹿にしたような声が降ってくる。薄く目を開き、片目で見上げると、和秋の知らない男がコップを片手に立っていた。
「そんなん言われんでも判ってる。……あんた誰や」
 和秋の問いかけにも男は軽く肩を竦めただけで、コップを差し出して来た。水が注がれたそれは、恐らく飲め、ということなのだろう。咽喉が乾いていたのは確かだった。和秋はそれには抗わず、軽く頭を下げてコップを受け取る。
「高校生があんな飲み方をするもんじゃない。──というか、そもそも未成年が飲むな。あんな遅い時間に、あんなところをうろつくな。未成年に飲ませた店も罰を受けるんだ。二度と行くなよ」
 続けて男は、錠剤が入った小瓶を差し出してきた。それには要らないと首を振ると、強制するつもりはないのか男はすぐに小瓶を薬箱に直す。
「――いつもこんなことしてるわけやない。昨日だけや」
 男の口調から推測すると、昨日どこかで酔い潰れていたところを彼に介抱してもらったのだろう。どこの誰ともしれない少年を自宅まで運んでくれるなんて、なんて世話好きな男だ。しかし外見からはそこまで世話好きに見えない男は、和秋よりも随分年上に見える。それ故の説教だろうかと和秋は顔を顰めた。
「なんや判らんうちに世話になったみたいやけど。……おおきに。今度からは気ィ付ける」
 素直に礼を言った和秋に、男は目を眇めると静かに笑った。声も漏らさずに眼だけでそっと微笑むような、やさしい笑い方だった。
「学校は良いのか。今から登校するつもりなら送ってやっても良いぞ、どうせ近所だ」
「――なんであんた、俺の学校知ってんねん」
 男の自宅がどの辺に位置するのかは判らないが、まるで自分の学校を知っているような口ぶりに、和秋は怪訝な表情になる。制服を着ていたわけでもあるまいし、判るはずがないのだ。酔っ払ったついでに零してしまったのだろうか。
「矢野和秋。高校二年。七月七日生まれ。……良いな、覚え易い誕生日で。親に感謝しろ。自宅は――大阪か、だろうなその喋り方じゃ」
 そう言って男は真新しい和秋の学生証を掲げて見せた。
「俺の学生証…ッ、なんでおまえが持ってんねや、返せ!」
「律儀だな。学生証を持ち歩く高校生は中々いないぞ、今時」
「やかましいわー!」
 昨日はたまたまだ。本当にたまたまだった。出来上がったばかりの学生証を、これから通う予定の男子高校の事務室に取りに行った。その帰りだったのだ。
 和秋の叫びも意に介さず、男はぺらぺらと付属の手帳を捲ると感慨深げに呟く。
「懐かしいな」
「は?」
「俺はここの卒業生なんだ。……それは良いとして。素性も判らないようなヤツを部屋に上げるわけがないだろう。これは保険として預かってただけだ」
 説明されて、なるほどと一応納得するものの、男は一向に学生証を返してくれる気配がない。
「出席日数には煩い学校だったと思うんだが。平日に生徒がふらついてるのを見ると、最近はそうでもないのか?」
 男は和秋を一瞥して、からかうように言った。ぐっと言葉に詰まりながら、それでも和秋は白状する。
「――今日は、まだええねん。色々準備があるやろうからって、明日から登校するようにしてくれて。……俺、転入生やから…」
 和秋の言葉に驚いたのか、男はカレンダーをちらりと見ると感嘆するような溜息を吐いた。
「……こんな時期に転入か。大変だな」
 新学期が始まって、一ヶ月が経っている。こんな半端な時期に編入するのは確かに珍しいのだろう。
「……あんたには関係ないやろ。早くそれ返してくれ」
「おまえ、昨晩どこで酔い潰れていたか覚えてるか?」
 男の唐突な言葉に和秋は黙り込んだ。覚えていることは覚えている。一見、会員制のバーかと思えるくらいに高級感のあるバーだった。その店に入る前からだいぶ酔いは回っていたため、勢いで扉を開けた。中に入ってみれば意外とカジュアルな雰囲気で、安心したことを覚えている。
「――覚えてる、けど?」
 カウンター席に座った和秋は、気の好さそうなバーテンダーの青年と一言二言交わした。それ以前の店で幾らかの酒を既に飲んでいた和秋に、そのバーテンダーは少し気遣わしげな声をかけてくれたことは覚えている。その後の記憶が途切れているから、そこで酔い潰れてしまったことは確かだろう。
「どれだけ飲んだか覚えてるか?」
「――……」
 その問いに頷くことは出来なかった。記憶が途切れた後ももし飲み続けていたとしたら――そしてその可能性はなくはない――、恐らく、相当な量のアルコールを口にしている。
「というわけで」
 男は、一枚の紙を取り出すとそれを和秋に差し出した。なんだか嫌な予感がする
「――これ、何……」
 恐る恐る受け取った紙は、何かの領収書と思われた。
「高校生相手に請求するのは心苦しいんだが、おまえが飲んだ酒の量に変わりはないからな」
「……ぼったくりや……」
 やはり、少し高級志向のバーだったらしい。眼が飛び出そうなほどの値段ではないにしても、想像以上の出費だった。呆然と呟いた和秋に、男が心外そうに片眉を跳ね上げる。
「ツケにしてやっただけ有り難いと思え」
 どう考えてもこの額は、現在の和秋の財布からは出てきそうにない。アパートに置いてある金を掻き集めても足りるかどうか。正直、通帳には手を出したくはなかった。
 そこまで考え、はたと気付いて顔を上げる。
「……なんで、あんたに払わなあかんの。俺の代わりに払ってくれたんか?」
「まさか。そんな親切なことするわけないだろ」
 じゃあどうして、と更に怪訝の色を濃くした和秋に、男はさらりと答える。
「あれは、俺がやっている店だ」
 男の言葉に、たっぷり十秒ほど和秋は固まった。
「――嘘やろ?」
「オーナーと言っても、実際は小坂が――バーテンをやってくれている男だが、あいつに店を任せてる。名前だけのオーナーではあるんだが、さすがに目の前で飲み逃げされるのを黙っているわけにはいかないからな」
 続けて説明する男は、どう見ても二十代の前半か、中頃だろう。この若さで店ひとつ持てるものなのだろうか。
「……騙してるわけや、ないんやな…?」
「――あのな。騙す必要がどこにあるんだ」
 例えば、慣れない土地に来た自分から金を巻き上げようとしているのではないかと和秋は疑ったが、男の様子からすると、どうやら騙しているわけではないらしい。
「疑ってるならもう一度あの店に行って、バーテンに訊いてみればいい。…酔い潰れたおまえをオーナーが連れて帰ったと教えてくれるだろうから」
 笑いを含んだ言葉に、和秋は降参する。
「判った、あんたがほんまのこと言うてるんは判った。ツケにしてくれてそれもありがとう。…けど、今すぐは返せへん。手持ちがないし、……どうせこっちでバイト探すつもりやったから、バイト代出るまで待ってくれへんかな」
 言いながら、自分でも何て勝手な懇願なのだろうと思う。それでも頭を下げる他ない和秋に、男は頷く。
「なんなら分割でも構わない。……ちゃんと全額払ってもらえるんならな」
 和秋が拍子抜けしてしまうほど、あっさりと和秋の懇願を了承した男は、ただし、と続ける。
「これは担保代わりに預かっておこう」
 ひらひらと学生証を振って見せると、男はそれをポケットに仕舞った。
「困る…!」
 男の言うことはもっともだが、学生証は唯一の身分証明になるのだから、なければ色々と不都合が出て来る。和秋は焦った。普段はそう困らないが、特に今日は学生証が必要なのだ。
「今日、制服取りに行かなあかんねん。俺が頼んだ店、学生証見せな制服渡してくれへんらしいから…」
 和秋の必死の訴えに、男は真剣な顔付きで黙り込む。返してくれる気になったのだろうかと期待したのも束の間で、男はまたしても唐突なことを言い出す。
「顔洗って来い。出かけるぞ」
「どこに」
「制服を取りに。学生証がないともらえないんだろう」
 どうやら彼は、学生証を返すのではなく、学生証を預かる自分が和秋に着いて行くという結論に落ち着いたらしい。
 既に身支度は終えている男が車のキーを手にするのを見るなり、どっと疲れが出て来た。この男のペースに合わせるのは結構苦労がいるらしい。
「――……あんた、なんやねん…」
 見知らぬ人間を介抱したり、学校まで送ると言い出したり、あまつさえ制服の受け取りにまで着いて来ようとしたり。なんとか気力を振り絞って尋ねると、彼は少しだけ考える素振りを見せて、短く答えた。
「暇人」

 

 

 暇人と名乗った男は、道案内出来るはずもない和秋を助手席に乗せて、まっすぐに制服を注文していた店へと向かった。OBである彼には、どの店に制服を注文をしたのかも見当がついているらしい。こういうとき、地元の人間が傍にいるのは心強かった。なんだか変な縁の知り合いになってしまったが。
「あら、梶原さんのところの――」
 店のおばさんが愛想良く男に微笑みかけるのを見て、和秋は男の名前を知る。取り敢えず、梶原何とかというらしい。おばさんがにこにこしているところを見ると、どうやら怪しい人物ではなかったようだ。
「この子は?」
 制服を受け取る際、和秋を見ながら尋ねられると、梶原何とかは「親戚の子」と答えていた。関係を説明するのが面倒だからと言って、それはないんじゃないのかと思ったが、口には出さなかった。
「ええっと、暇人さん」
 名前を知ることが出来たとは言え、直接告げられたわけではないので、和秋は男をそう呼んで引き止める。男は嫌そうな顔をして、
「――カジワラ、ユタカ」
 と漸く名乗った。
「雄雌の雄に、高い低いの高い」
「や、漢字はどうでもええねんけどな。――俺、そろそろ帰らな。部屋の片付けも済んでへんから。それで、」
 ここは一体どの辺で、自分のアパートはどっちの方向なのだろうと尋ねようとする和秋を遮って、雄高は車に乗り込む。
「……あの」
「先に飯だな。その後送ってやるよ」
「……は?」
 要らないと首を振るより早く、飯と聞くなり空腹感を訴えた腹を押さえ込む。今までさほど空腹を感じていなかったのに、約二十四時間何も口にしていなければ、さすがに腹が減るらしい。
 腹を押さえ込んだままどうしようかと考えあぐねている和秋を見て、雄高はキーを回す。
「――早く乗れ。置いてくぞ」
 促されて、車にエンジンがかかる前に和秋は慌てて助手席に身体を滑り込ませた。

 

 和秋が連れて行かれたのは、割合小さなラーメン屋だった。小洒落た店でも好みそうなものなのに、どうやら雄高はここの顔なじみらしい。やはり良く判らない男だと、向かい合った顔をまじまじと眺めてしまう。
「なんだ」
 麺を啜りながら顔も上げずに雄高が口を開く。さっきから雄高を凝視していた、和秋の不躾な視線に気付いていたようだ。
「……あんた、仕事は?」
「オーナー」
「……オーナーが昼間から悠長に高校生とラーメン食っててええんか」
「他の店がどうかは知らないが、いいんじゃないのか」
 返る雄高の言葉は淡々としている。
「どうせ昼間に店は開けない」
「そっか……そやな。そしたら夜になったら店に行ったりするんやな」
「しない」
 短く答えながらも器用に口と手を同時に動かし、雄高は早くも器の中身を空にしつつある。和秋は慌てて、器の中に残る麺を啜ることに専念し始めた。
「店は小坂に任せてあると言っただろう。俺はたまにしか顔を出さない。それに……夜は何かとやることがあるしな」
「……暇人やのに?」
「暇人でも暇人なりにやることはあるんだよ」
 そう嘯くように言った雄高は、どことなく隠居じみているというか、浮世離れしている感がある。まだまだ若いにしては覇気がないのか、それが生れついての性格なのか判断が難しかった。
「ほんなら昼間は何してるん」
 まさか毎日酔っ払いを介抱して翌日連れ回しているわけでもないだろう。尋ねてしまったのは、この掴みにくい男が日頃どんな生活を送っているのか気になったからだ。
「出かけたり家にいたり出かけたり」
「……どっちやねん」
「どっちもだ。……さっさと食い終われ、早く帰って部屋を片付けたいんだろう」
 雄高はすっかり器の中を平らげて、一服のつもりかポケットから煙草を取り出している。早くアパートに帰りたいのはこっちだって山々なのに、と和秋は眉を顰めた。
「……あんたが食うの早すぎなんや」
 悔し紛れにそう返しても、雄高は楽しげに笑うだけで、それ以上言葉を口にするのも癪な和秋は、大人しく器に残ったスープをそっと飲み下した。

 

 

 

 車の中でアパートの所在を聞かれ、和秋は覚え立ての住所をたどたどしく答える。番地までは正確に答えられなかったものの、雄高は考える素振りも見せずあの辺かと見当をつけて車を走らせた。
「アパートが近付いたら案内しろよ」
 そんなことを言われてもと和秋は必死にアパートへの標になりそうなものを思い浮かべる。暫くうんうん唸っていると、古びた小さな薬屋がアパートの直ぐ近くにあったことを思い出した。
「――薬屋があんねん。近くに。ちっこい個人経営っぽいヤツが」
「……あの辺なら、伊東屋、か?」
「あ、なんかそんな名前の」
「――じゃあ逆方向だな」
 そう言って雄高はハンドルを切り返す。意外と安全運転を心掛けているらしく、彼の運転は穏やかで、乗り物酔いをする性質の和秋でも快適に過ごすことが出来た。急ブレーキを踏むこともなく、そして車体の揺れも少ない。乗り物酔いさえしなければ、車の微かな振動は心地好かった。
 車はラーメン屋から少しだけ雄高のマンションの方向へと引き返すと、入り組んだ狭い道へと進む。この辺まで来ると、朧気ながら見覚えのある景色になった。
「すぐ着くぞ、三分くらいで」
「……そんなに近いんか、歩いて帰れたやん」
 雄高の言葉通り、程なくして車は和秋のアパートに着いた。滞在三日目になるというのに、イレギュラーな外泊のせいで、このアパートでは一晩しか過ごしていない。そのせいか、自分の家に帰って来たという気はしなかった。
 車を降りて、礼を言うべきかどうか迷ってから、和秋は小さく頭を下げて見せた。顔を上げなくても、その仕草を見た雄高が笑ったのが気配で伝わる。
 じゃあまた、なんて言うのはどうもおかしいし、さようならなんて言葉はもっと似つかわしくない。どうやってこの男を見送るべきか、と考えているうちに、雄高は「じゃあな」と車の中から短い言葉を投げ掛けると、和秋の返事のも待たず車を転がして去って行ってしまった。
 あまりにもあっさりとした別れに、ぽかんと車を見送る自分の顔は、さぞかし滑稽だっただろう。
「……ほんまに何者や、あのひと……」
 風のように去っていく、とはまさにあれのことだろうと思いながら、和秋は力なくアパートの階段に足をかける。カン、カンと自分の足が小気味良い音を立てるのを聞いていると、思い出したように頭痛が酷くなっているのを感じた。
 この薄汚れたアパートの一室で、自分はこれから先ひとりで生活していく。それはどれほど長い時間だろう。この生活にやがて終わりは来るだろうか。
 部屋の扉を開けると、当然のように室内はシンと静まり返っていた。まだ開けていないダンボールが幾つか重なって狭い部屋を占拠している。
「――早いとこ片付けよ」
 のろのろと足を動かしてダンボールへと近付く。ぺたりと床に座り込んでガムテープを剥がそうとする指は、どうしてか上手く動かない。何度もダンボールを引っ掻くうちに、作業に飽きてしまった。
「そういえばバイトも探さなあかんかぁ……」
 呟きは、室内にエコーすることもなく静寂にそっと掻き消される。近くにコンビニがあったはずだ、明日にでも求人雑誌を買って来よう――そうやって必死に考えを巡らせようとするのに、頭痛が邪魔をする。
 考えなければならないことは、たくさんある。雄高に返さなければいけない金、明日から始まる学校生活、今日の晩飯、ああ、制服をビニールから出しておかないと明日慌てるはめになる――。
 ――どれほど長い時間過ごせば。やがて、この生活に終わりは来てくれるだろうか。
 それはホームシックとは違う感傷だった。望んで家を出た自分に、そんな感傷に浸る資格はないと和秋は思う。それでも。
(――ここにはあのひとが、いないから)
 ぽっかりと胸に空いてしまった空洞の虚しさは、隠しようもない事実だった。
 頭痛はまだ止まない。痛み止めの薬など、もちろんこの部屋にあるはずもなく、疼く痛みを持て余すように、積み上げたダンボールに頭を預けて、そっと眼を閉じた。
 どれほどそうしていただろう。いつのまにかうたたねしていた和秋は、突然軽やかなメロディを奏で始めた携帯電話に我に返る。
 慌てて手を伸ばして携帯を引き寄せ、相手を確認する。液晶には知らない携帯番号がディスプレイされていたが、取り敢えず通話ボタンを押してみた。
「――はい?」
『――そういえば言い忘れたが』
「――……」
 間違い電話か、それとも携帯を替えた知り合いかと恐る恐る携帯を耳に宛てる、挨拶もなく用件に突入した無礼な声は、ついさっきまで和秋が聞いていたのと同じ――雄高の声だった。
「……なんで…」
 あんたが自分の番号を知っているんだ。尋ねかけて、止めた。どうせ勝手に携帯を弄られていたのか、それとも酔った自分が教えたかのどちらかだろう。
『今月末までは大概家にいる。金が出来たらいつでも持って来ていいから』
「――そんなすぐに金が出来たらな。あんたが不在やったときは、どうしたらええの」
 何の用かと思えば金の話かと、和秋はずるずると床に寝転がった。なんだか力が抜けてしまう。こっちに来てから掛かってきた初めての電話だと言うのに、これではあまりにも温かみがない。
『俺がいるときにもう一回来い。電話でもしてくれば、家にいるようにはしておくが』
「……なんでや。店のひとに預けたらあかんの。なんで俺がわざわざ二回も足運んで――」
『ちゃんと持って来たらご褒美に飯食いに連れてってやるよ。素直にうんと言っとけ』
 からかわれているのかと思った。もしくは、子供扱いされているのかと。しかし不思議と腹は立たず、むしろその声音が心地好い気すらして、少しの沈黙の後、和秋はすんなりと頷いてしまっていた。
「――うん」
 自分でも不思議になるくらい、言葉は自然と唇から零れた。
『良い子だ』
 耳障りの良い声が耳を撫でる。落ち着いて聞いてみれば、雄高の声はひどく容易く耳に馴染んだ。
「…何が良い子や。今日のラーメン屋みたいに安上がりで済まさんといてや。ご褒美言うくらいやったら、もっとちゃんとしたとこで飯食わせろ」
 頷いてしまったのは、多分少しばかり心細くなっているからだ。まったく、らしくもない。頷いてしまった気恥ずかしさを誤魔化すように、和秋は矢継ぎ早に言葉を続けた。
『ラーメンは気に入らなかったか』
「――美味かったけどな。ご褒美にしては手軽やろ」
 電話の向こうで、雄高が笑う。穏やかに、小さく。――どうしてこの男は、こんなに静かに笑うことが出来るんだろう。和秋はその声を聞きながらぼんやりと考える。自分には一生真似出来ない笑い方だ。
『――あまり頑張りすぎるなよ、高校生』
 声は、静かに告げると通話を終えた。去って行ったときと同じように、和秋の言葉も聞かずにあっさりと会話は終ってしまう。
「………高校生高校生、ってなぁ…」
 携帯から通話が途切れたことを知らせる電子音が流れ始めて、和秋も通話を切った。
「人の名前、覚えろっちゅーねん」
 手元の携帯を見つめていると、どうしてか口元に笑みが浮かぶのが判った。
「――頑張りすぎるなよ、かぁ……」
 見知らぬ土地で最初に出来た知り合いの名前を、のんびり指を動かしてメモリに登録する。何しろ金を返してしまうまで、この奇妙な関係は切れないのだ。いつかはこの番号を使う日も来るだろう。
 指を動かす度に、ピッ、ピッと軽やかな音が携帯から流れる。登録を終え、着信履歴を開くと追加し終えたばかりの名前が液晶に映し出された。
「……そやな。適当に、頑張ろ」
 いつからか、頭痛は綺麗になくなっている。代わりに晴れやかな気分で、和秋は笑うことが出来た。
 梶原雄高。
 独りきりのこの部屋で、最初に携帯を鳴らしたこの男の名前に、救れた気がしていた。