ポルノスター



 俺のことを心から同情してくれた君に、伝えなければならないことがあります。
 俺はあの頃から、何もかも、知っていました。
 知っていて知らないふりをしていたのは、忘れたような気でいたのは、自分のための言い訳と逃げ道、それから少しの痛みだったのだと思います。
 俺はあのとき、彼に恋をしていました。
 あのあとも、恋をし続けていたのだと思います。
 そう信じることで、少し、自分の何かが、きれいになるように思っていたから。


 * * * * * * *


 セカンドレイプという言葉がある。
 聞き慣れなかったそれを亮が知ったのは、最近のことに数えられた。両親にも友人にも打ち明けることができず、自分にだけ救いを求めてきた由梨は、当時の 状況を思い出してはよく泣いた。自分はどうすることもできなくて、ただどうしようもない憤りを胸に押し留めた。「あのね、」泣き笑いの顔で、彼女が言って いたことを思い出す。「判ってて着いてきたんだろうって言うの。こうなるの判ってたんだろって。あとで誰に訴えたって、みんな和姦って言うに決まってるっ て、」――ほんとにそうなのかなあ。あたしが悪いのかなあ。泣き笑いの顔で、そう言った。その涙が、既にセカンドレイプだと、亮は思う。涙が流されること 自体、そういう思い出に恐怖が刻まれていること自体が、二度目のレイプなのだと。だから自分だけは、彼女の涙を生む対象であってはならないと、信じた。
『もしも彼女が金銭的なものを要求するのであれば、こちらで用意できるわ。望まれるなら、の話ではあるのだけれど……』
 さっきは言い忘れたんだけどね――その前置きから始まった沙希からの電話は、由梨への処遇に関する相談だった。本当に言い忘れたわけではなく、祐正の存 在に気兼ねして言い出せなかっただけだということにも気付いていたけれど、亮は何も言わずに沙希の言葉を聞いた。
 どうするの、と最終決定を委ねられたときも、短い一言しか零れ落ちなかった。
「……沙希さんにお任せします」
 口止め料と言った形でなら、或いは彼女も金銭を受け取るかもしれない。慰謝料という形でなら――どうするだろう。考えてもきりがない。最早彼女は、自分の知る彼女ではなくなってしまったのだから。
「貴方のしたいように、なさってください」
『そう。――ありがとう、亮』
 沙希から電話は、必要な用件を終えると直ぐに切れてしまう。彼女の口調は未だ亮の神経を気遣うそれだったけれど、不思議と心が波立つことはない。
 受話器を静かに置いた亮は、そのまま寝室へと向かう。ひとりの男の名前を呼び続けた身体は、今はベッドで横たわっている。泣きつかれてそのうち眠ってし まう辺り、子供のようだ。とはいえ彼を眠りに導いたのは他でもない自分なので、文句のひとつも言えはしない。
 崩れ落ちた身体を抱き止めて、あやすように背中を抱いているうちに、いつの間にか掌はそっとその滑らかなラインを撫でていた。「ガキ扱いかよ、」と涙交 じりに笑っていた祐正は、そのうち何もかもに疲れたような顔をして、そっと瞼を落とした。眠りたいと、小さな声が呟いたから、ここぞとばかりに眠るように 促したのは亮だ。
 自分の腕の中で眠りこけてしまった祐正をベッドまで運ぶのは骨が折れたが、仕方がない。穏やかな寝顔を見れただけ、報われる。
 そんな思考を持った自分に、亮は小さく苦笑した。
 ベッドの端に腰をかけ、飽くことなくその寝顔を見つめている自分に呆れてしまう。こんなに穏やかな気持ちで彼の寝顔を見つめる日が来るなんて、想像もしていなかった。
 自分の嗚咽をただひとり聞いた男が、今は泣き付かれて眠っている。
 ――自分のことを考えるよりも先に、他の誰かのこと考えられるのって、ずいぶん楽なんだな。
 彼の言った言葉が、そのまま今の自分に当て嵌まるような気がした。由梨のことを、考えなければならない。彼女が捨てたものを、自分の置いてきたものを、考えて、嘆かなければならない。
 けれど今は、自分のことよりも由梨のことよりも、彼のことを考えたかった。彼を想っていたかった。そうすることで、まだ自分が、まともに機能するような気がした。
 疲労が色濃く残る寝顔を見つめながら、自分なりに聞いた話を整理しようとしても、結局重要な部分が紐解かれていないのだから仕方がない。祐正がどうにか して写真を手に入れたこと、恐らくそれをきっかけに犯人との交渉を持ったこと、――そしてそれが、あの男であることだけが、確かな事実だ。
 葛木、と、呪詛のように呼んだ。その名を持つ人間がどう関わっていたかを知る術は、今はない。
 ただ、どれだけ辛かっただろうと、計り知れないことをきりもなく思う。
 そして祐正が自ら進んで解き放たれようとはしなかった理由を、確かに垣間見たのだろう。自分を戒めるものを、彼は、解き放たなかった。それを望んではいなかった。
 そんなに好きだったのか。きりもなく、口には出せない問い掛けが巡る。自分が犠牲になってもいいと思えるくらい、踏み躙られても構わないと思うくらい、――彼を。
 呟いた問い掛けに答えるのは、穏やかな寝息だけだ。
 ――とにかく食事の用意をしよう。疲れている体なら、外出は控えたほうがいい。ルームサービスを頼んで、暫くしたら一度彼を起こしてシャワーを貸して、そのあとまた眠ればいい。
 思考を切り替えかけたその瞬間、見つめていた瞼が細かく震えて、彼の覚醒が近付いていることを教える。まだ眠っていればいいのに、と思っているうちに、祐正はゆっくりと眼を開き、視線をさまよわせながらも小さな瞬きを繰り返した。
「……まだ寝ててもいいですよ。あなたに予定がなければ」
 覚束ない視線で亮を見上げた祐正は、投げかけられた言葉を咀嚼するような間の後、ゆっくりと首を振る。
「……俺、どれくらい寝てた?」
「一時間か二時間くらいです。睡眠不足の解消にはまだ足りないでしょう。もう少し寝ててください、食事は用意しておきますから」
「いい。……腹減ってねえから」
「最近ロクなものを食べてないって言ってたじゃないですか、今更何遠慮してんです。何が食べたいですか? 何なら俺が買ってきても……」
 途中で言葉を途切れさせたのは、見上げる祐正の目がどこか潤んでいるように見えたからだ。
 何かを伝えたがっているように、じっと見つめてくる濡れた目に、思わず声を奪われてしまった。
「あの……」
 何か言葉を選ぶよりも先に、視線は反らされてしまう。打って変わって伏せられた瞼に拍子抜けしつつ、食事の準備を始めようと腰を上げかけた亮の手首に、何かが引っかかるような感覚がした。
 祐正の指先が、引き止めるとは呼べない弱さで、亮の手首をそっと掴んでいた。
「……片山」
 躊躇いがちに自分の名前が彼の唇に紡がれる。ただそれだけのことで、やけに胸が震えたのは、そうやって祐正に名前を呼ばれることすら数えるほどしかなかったからだろう。
「どうしたんですか、北沢さん」
 応えると、祐正は何かをむずがるような仕草で首を振った。躊躇って、もう一度名前を呼ぶ。
「……祐正、さん?」
 はじめてのあの朝、零れるように落ちて呼んだ、名前を。
 祐正はゆっくりと視線を上げると、泣きたいような笑いたいような、ひどく曖昧な、不思議な表情で何かを堪えるように唇を引き結んでいた。
 もっと近くで確かめるために、顔を近付けベッドについた両腕に体重をかけると、スプリングが微かに軋む。
 間近で見れば、なお胸が痛くなった。
「祐正さん……」
 もうその名前を呼ぶことしかできない唇に、祐正は瞼を落とす。震える白い瞼は、どうしてか、ひどく儚く見えた。揺れる瞼に口付けようか、それとも。迷って、結局唇に触れる。乾燥した空気にピリピリと荒れた、けれど柔らかく暖かい唇に、口付けた。
「……りょう、」
 稚拙な唇が、震える吐息で呼ぶ。
 何者でもない、と思った。
 抱きしめたがる両腕は、恋以外の、何者でもない。
「行くな……」
 手首を掴んだままの指先が、震えながらも少しずつ力を強めていることに気付く。――そしてもう一度、行くな、と声が懇願した。
「ここにいますよ。……赤ん坊ですか、あんたは。ほら、手を離してください」
 からかう言葉にも、祐正は抗議しなかった。
 ただ、もう嫌だ、と掠れる声が、呟いた。
「このままじゃ、抱きしめられない」
 ひとりが嫌だと、声が呟いた。
 ――ああ、まだ。
 まだ、戻っていないのだと思うと、胸の奥から何かが溢れ出てくるような気がした。
 まだ彼は、「いつも」に戻れていない。いつもの、腹が立つくらいに余裕ぶって、高慢で、鼻持ちならない、そういうものを掻き集めて作り上げた北沢祐正に戻れていない。
 宥めるようにキスをして、抱きしめて、それだけで足りない熱情は、たった一つの道標になる。
「……ん」
 キスの合間に柔らかい声が落ちる。こんな無防備な声を、今まで聞いたことがなかった。
 彼の一番に柔らかい部分に、たった今自分は触れているのだと思う。無防備なのは、覆い隠すものがないくらい、殻を作り上げられないくらいに疲労して、擦 り切れて、ボロボロになった証なのだろう。今この掌で掴んだ一番柔らかい場所は、こんなに痛んで、こんなにもボロボロなのに、この人は自分のために動いて くれた。――そしてやっと、自分のために、疲労した。
 聞きたいことが、たくさんある。
 祐正からもらった言葉は真実のうちのほんの一欠片で、どの謎をも暴いてはくれていない。
 精神をやつれさせていても尚、自分のために身体を酷使させたのは、苦しみを忘れるための手段に過ぎなかったのだろう。気を紛らわせるために、別のことを考えて、行動していなければやり切れなかったのかもしれない。
 それで、いい。それがこの人の、強さだ。それがこの人を、芯から輝かせる強さだ。
 あなたは、馬鹿だ。馬鹿で、馬鹿で、どうしようもないくらい、愚かだ。
 言いかけて、結局止める。口にしなかった言葉の代わりに、ボロボロになった内側と、それとは反対に柔らかな頬を撫でて、伏せられた瞼を見つめた。
「祐正さん」
「……なに」
 彼は、漸く悲しむ時間を手に入れた。
 張りつめていたものを、やっと、緩めた。
「俺がそばにいる」
 ふいに、祐正の唇が嘲笑の形に歪むのを見て、亮は隙を与えずに言葉を付け加える。それがどうしたと、嘲られたって、今は上手な言葉など、選んではいられない。
「あんたの泣き顔も泣き声も、俺が全部見て、俺が全部聞く」
 その唇が、誤魔化す笑みを形作る前に。
 覆い隠して誤魔化す時間なら、とうに終わりを迎えている。
 亮の悲しみは、目の前の祐正の手によって拭われた、ならば次は、彼の番だ。彼が彼のために嘆く番だ。――彼が己のために、嘆く番だ。
「だからあんたの声は、無駄じゃない」
 抱きしめてほしいなら抱きしめる、聞いてほしいなら耳を澄ませる、目を反らしてほしいなら目を瞑る。そういう遣り方しか選べない自分を、彼が望むなら。
 同情ならいらないと、笑われても、跳ね除けられてもいい。
 真正面から見つめて囁いた言葉にも、彼は表情を崩さなかった。真っ直ぐに、ひたすらに真っ直ぐな眼差しで亮を見上げている。
「お前なんかに何ができるっつーの……」
 ただ何かを躊躇い、何かを探るかのように、独り言のように呟く。
「俺は、何もできない。あんたみたいに、強くはないから」
 挑むような強い瞳で見上げてくるくせに、その奥に潜められた光がはかなく揺らいだかと思うと、降伏するように瞼を落としてしまう。
「……だけどあんたが一番辛いときに、そばにいたかった」
 ――緩めて。
 そっと緩めて。気付かれないくらいに密やかでいい、けれど今は、それを緩めて。
 そうして、一番にやわらかな場所に触れさせて。
 きっと大事にするからと、祈るように、思った。
「……なあ」
 祐正の目は、もう自分を見ない。けれど声だけは真っ直ぐに、縋るような響きを持って自分へと放たれた。
 緩めて。
 張りつめたものを、少しだけ、緩めて。
「わけわかんねえくらい、……やさしくして」
 ――そうしてそのまま、戻らないでいて。
 彼が望んだものは余りに儚く、余りに小さく、余りに卑小で、余りに遠かった。
 彼の腕が躊躇いながらもゆっくりと首筋に回り、それがやはり、縋りつく力に他ならないことに気付いたとき、――見つめるだけで涙が出る恋を、はじめて知った。
「……亮」
 そうやって、震える声が慣れない名前を呼ぶ度に、溢れるものは何だったのだろう。
 思うよりも華奢な身体を掻き抱きながら、まだ眠ってもいないのに、目覚めた後のことを考えた。
 今この唇は吐息を吐き出すことに忙しく、まともな言葉など吐けはしないから、目覚めたその後に、話をしよう。きっとこの人はまた他人の顔で痛みを隠して、ベッドに腰掛けながら煙草をふかしたりするはずだから。
 それを暴くための言葉を用意しよう。
 今この瞬間だけ、心と身体が、ひとつになる。だから今、言葉は、要らない。
 ――善いヤツだったんだ。本当に。
 眠りに落ちる直前に、泣きかけの声が、小さく呟いた。
 そういう恋の正体なら、自分でも、知っている。今もなお想い続けるものなら、この胸にだって疼いている。
 ただ、淋しい、悲しいと、身体中で泣いていた、彼が。



 シャワーから戻ると、予想通り祐正は亮に背を向けた格好でシーツに身を包み、ベッドに横たわっていた。一見すると動かない背中は寝入っているようにも見える。けれど彼がとっくに覚醒していることには、ベッドを抜け出したときに気付いていた。
 濡れた髪をタオルで拭いながら、床に散乱する衣服を拾い上げる。そのひとつに、煙草の箱で膨らんだポケットを見つけると、亮はそれを抜き出した。
 見慣れた赤いパッケージは、出会ったころから変わらず祐正が吸い続けているものだ。かなりのヘビースモーカーというほどではなくとも、食後に一服を欲し がる程度には依存しているらしい。眠ったふりをし続ける頬に箱の角を押し当てると、祐正の肩が僅かに跳ねた。
「どうぞ。――吸わないんですか」
「……どーも」
 起き抜け一番に煙草を求めることなんて、今までの付き合いで判り切っている。差し出した箱を受け取ると、祐正はひどく大儀そうな動きで身体を起こした。目が覚めてからだいぶ時間が経っているはずだが、その目はまだ夢うつつといった状態らしい。
「俺の話をしてもいいですか?」
「……何?」
 視線だけを上げた祐正の訝しげな眼差しに許されて、亮はゆっくりと口を開く。
「高校時代に、彼女はイベント関係のバイトをしていて。まだ小さな派遣会社で、社長も気さくな人だったからよく一緒に食事に行ったとか、世話になったとかって話をよく聞かされていました」
 訝しげな眼差しがいっそうその深みを帯び、暫くの間のあとに眉間に皺が刻まれる。ややあって漸く煙草を咥えた祐正は、ひどく詰まらなそうな口振りで呟いた。
「……おまえの女の話かよ」
「はい。……その延長で、鞄やら服やらを買い与えられたことがあって。当然由梨は遠慮したんですが、現品支給のボーナスだと言われて、渋々受け取ったそうです。それで次の瞬間には、もうホテルに連れ込まれていた」
 ここまで話せば、オチに予想がついたのだろう。立ち上る紫煙に目を眇めながら、祐正は僅かに唇を歪めた。
「それで見返りに犯されたって話か。……馬鹿だな」
「騙されやすい女なんです。疑えなかった。――だけど俺は由梨のそんなところが、一番、好きでした」
 たぶん、彼女は、愚かだった。
「やっぱり由梨は、馬鹿なんでしょうね」
「馬鹿だよ。――だけど、悪くない」
 唇から煙をゆっくりと吐き出しながら、言い聞かせるように祐正が断言した。
「……被害者に非があるなんてことはありえねえ」
 愚かで、馬鹿で、疑うことをしらない、世間知らずな女だった。
 それでもあえて世界の全てを疑えとは、口が裂けてもいえなかった。そのままであってほしいと祈るように思っていたなんてことは、誰にも告白できはしないけれど。
「どっちにしろお前が甘やかしすぎてたんだろ」
「そうかもしれませんね。……それから、これが、沙希さんが俺に親切な理由です」
「は?」
 意味がわからない、という顔をして、祐正はぽかんと口を開けた。煙草の先の灰がそろそろいい長さになりかけていることに気付いて、亮はその手元に添え付けの灰皿を置く。
「沙希さんの旦那さん――といっても冷戦状態ですが、宮坂栄治氏は、十年ほど前に立ち上げた小規模の派遣会社を経営されています」
 まだピンと来ないのか、不思議そうに緩く眉を寄せていた祐正は、しかし直ぐに弾かれたように顔を上げ、亮を凝視した。
「……イベント関係って」
「主な派遣業はイベントコンパニオン、ウェイトレス、ウェイターです。パーラー事業にも手を出していますけど、そちらは余り上手くいってないようですね」
 灰を落とし忘れたまま、フィルターギリギリまで火種が近付いていることに気付いて、亮は祐正の指から煙草を奪ってしまう。祐正は抗わず、されるがまま煙草を手放した。
「……そのこと、宮坂は」
「知ってますよ。出会ってすぐに話しました。――例えば俺が沙希さんを宮坂栄治から奪っても、何の復讐にもならないことに気付いたから」
 沙希と出会ったのは、偶然だった。出会った女が、自分のもっとも忌むべき男の妻だと知ったとき、亮は確かに復讐を願っていた。あの男の家庭などボロボロに壊れて、崩れてしまえばいい。けれどそれは、何の復讐にもならないことに直ぐに気付いてしまう。
「俺と出会ったとき、あの夫婦はとっくの昔に冷め切っていました。……一瞬でもそれが復讐になるかもしれないなんて思うほうがおかしかったんでしょうけどね」
 大事でないものを壊したって、何の価値もない。
「逆に、沙希さんに妙な罪悪感を植え付けただけでした。――だからあの人は、俺に親切なんです」
 ――たぶん、由梨にも。
 言えない言葉を、亮は胸に仕舞った。
 恐らく自分の意志とは関係なく、沙希は由梨に金銭を渡すだろう。それを拒絶するも受け取るも、由梨の勝手だ。――受け取って欲しいと願っているのか、拒絶してほしいと祈っているのか、自分でもよくわからない。けれどそれは、亮の贖罪ではなく、沙希の贖いだ。
「……とんだ親子だな」
 亮の指先が煙草の火を揉み消すのを見届けながら、祐正は独り言のように呟いた。親が親なら子も子だと、苦い、切ない顔で、思いを胸に飲み込んでいる。
「あんたの言った通りだ。被害者が悪いなんてことはありえない」
 灰皿の底で火種を揉み消した亮の手は、そのまま新しい煙草を引き出した。断りも得ずにそれを咥えかけたとき、祐正の手がそれを奪い去ってしまう。「勝手に吸うなよ、」と苦々しい顔をしながらも、本気の怒りは見つけられなかった。
「祐正さん、――あなたは、悪くない」
 ならば咥えかけた煙草を奪ったのは何故だろう、考えかけて、すぐに気付く。彼の唇が求めていたものは、ニコチンでもタールでもない。たった今フィルターに塞がれかけていた、この唇だ。
「……そういうこと言うの、止めろよ」
 どちらともなく重なり合った唇が微かな摩擦を繰り返す合間に、祐正が囁きで応える。拒絶というには、あまりにも弱々しい声音で。
「癖になったら……どうすんだ」
「優しくされるのは――嫌いですか」
 続けた問いかけには、沈黙してしまう。狡い唇を塞ぎながら、癖になってしまえばいい、と思う。
 甘やかされて許されて、宥められて癒されて、そういうものを、手放せなくなればいい。――そうしてそれが、自分であれば。
「……だいたい、何か勘違いしているようだから言っておきますが、俺はあんたに同情したことなんて一度もない。あんたは根本的なところから間違ってるんです。自分が同情されていい人間だとでも思ってるんですか」
 許されない。
 彼のすべては、同情に値しない。
「同情で、俺はあんたなんか抱いたりしない」
 少なくとも、この身体なら、同情では動かない。
 足りなかった言葉を全て紡ぎ終わったあと、祐正はやはり笑っていた。
 ただ少し眉を下げて、年甲斐もなくはにかんで、そして戸惑っているかのように、幼い顔で、笑っていた。
 この人の、柔らかい内側は、愛を囁いても壊れないだろうか。
 ――今なら。
 壊れずに、抱きしめられるだろうか。



 沙希からの許可が下り、亮はすぐに纏めていた荷物を手にしてホテルを出た。
 外に出ると、丁度、ちらつき始めている雪が目に入ってくる。曇り空の合間からは僅かな光が差して、神々しい、だなんて柄にもないことを思っていると、祐正が「写真撮りてーな」と子供のような口振りで言うものだから、思わず笑ってしまった。
「あんた、いつもそういうことばかり考えてるんですか」
「そういうもんだろ。つうかねそういうのを忘れたらやってけねーのよ」
 自分と彼の声が響く冷え切った空気にも、不思議とそれほど寒さは感じず、目の前で散る白い息を作り物のように思った。
 少ない荷物を一旦下ろし、道端でタクシーを待っていると、隣で佇んでいた祐正がゆっくりと口を開く。
「……明日からどうすんの」
「どうするって……とりあえずマンションに帰って荷物を片付けて」
「そうじゃなくて。モデルのほう。続けんの?」
「……さあ。これから試験が始まりますから。暫くは普通の大学生ですよ」
 けれどそれが終われば、すぐに春休みがやってくる。そう告げようとした亮を遮って、祐正が白い息を吐き出しながら笑った。
「そっか。――じゃあ、次に会うのは、暫く後だな。俺もまた、ちょっと日本出る予定だから」
「インドですか?」
「ばーか、違うよ。インドも機会がありゃ行くけどな。それよりも優先するモンがあんの」
 次があるのなら。それだけで、性懲りもなく胸が跳ねる。性懲りもなく、暖かくなる。
 試験中であれ、亮自身は何の不都合もなく、祐正の都合さえつけばいつだって駆けつけられる、そばにいれる。けれどそれを口にすることはさすがに憚られて黙り込んでいると、タクシーの到着を待たずに「じゃあ俺そろそろ行くわ」と祐正が口を開いた。
「乗っていかないんですか?」
「梶原さんのとこに寄るから。あの人にも色々報告しねーと。ずっと心配かけてたから」
「梶原さん?」
「そう。あの人とか……他の人もだけど。写真で食ってこうって決めたときに、やっぱ梶原さんとか、あの人経由で知り合った編集の人とかが一番手ェ貸してく れたんだよな。仕事回してくれたり。それを俺の事情で勝手に仕事蹴ったりしてて、どんどん信用なくなって。迷惑かけて、……そういうのが一番痛ェんだよ な。自由に仕事できないことなんかよりも、ずっと。だから今は、そういう人たちに頭下げて回るのが先だろ?」
「……そうですね」
 珍しい饒舌を聞きながら、らしくない、と思い、反面それがひどく彼らしいとも思えた。今まで見てきた祐正は、恐らく彼自身が懸命に作り上げたもので、自 分は見事にそれに踊らされていたのだろう。だからこんなふうに、人間関係をいとおしんだり、大事にしたがる姿を見せられて、僅かに面食らってしまうのだ。
 あとどれくらいあるだろうと、数える。
 知らない姿が、知らない顔が、知らない声が、言葉が。
「ま、お前も適当にがんばんな。あんま根詰めすぎんなよ、お前みたいのが追い詰められると一番怖いからさあ」
「……他人のことを心配する前にご自分の心配をどうぞ」
 適度に距離のある言葉の応酬は、もう心を暖めるだけだった。
「じゃあ、またな」と笑った祐正はそれきり背を向け、歩き出していく。遠ざかっていく背中を見つめているうちに、最も簡単な、最も重要な一言を告げ忘れていることに気付いたけれど、構わない、と思った。
 言葉は無力だと思い知っている。けれど伝えたがっている言葉がこの胸にある限り、それはいつだって口にできる。急ぐ必要など、何もない。
 人混みに紛れていく背中を見送っていると、ふいに祐正は足を止め、肩越しに、視線だけで振り返る。行き交う人々の肩や背中に阻まれながらも、声を上げずに彼が何かを呟いたのが見えた。
 ――聞こえない。
 口の端がゆっくりと上がって、それは、笑みの形になる。
 偽りのない少年の顔で、彼が微笑った。
「……祐正さん?」
 声にもせず、
 あの人は、多分、さようならと言った。


 * * * * * * 


 君のひどい優しさが、俺を正気に返す。
 俺に、揺さぶりをかける。
 君の掌だけが、俺の背中を、押す。
 君が、好きです。
 君のやさしかった言葉が、君のやさしかった掌が、涙が、好きです。