ポルノスター




 祐正と共にホテルに戻った亮を見ても、沙希はほんの僅かに眉間を顰めただけだった。片眉だけを僅かに跳ねさせ、「お帰りなさい」と呟いたきり、彼女は何 も言わず、ソファに腰を下ろしたままの姿勢で腕を組んでいる。物憂げな表情黙り込んでしまった女に向かって、亮は深々と頭を下げた。
「……ご心配をおかけしました」
「いいの。判ってるから」
 再び沙希に無断で外出してしまったことを詫びても、彼女はゆっくりと首を横に振った。そして彼女は、何ともいえない表情で深い溜め息を吐き出す。その視線は、緩慢な動きで祐正に向けられた。
「ありがとう、と言っておくべきかしら」
 穏やかな言葉とは裏腹に、睨みつけるような視線で言い放った沙希に、祐正は何故か堪え切れないような顔で笑い出す。弾けるような笑い声に驚いたのは亮ひとりで、沙希はどこか憂鬱そうな表情でそれを眺めていた。
「いつから知ってたんすか」
「ついさっきよ。本当に……ついさっき。もっと早く判っていれば、亮を止めて私が出向いていたわ」
「そうしてくれると有難かったよ。それなら俺も無駄に出歩かなくて済んだ」
 沙希は本日何度目かになる溜め息を再び吐き出すと、どこか諦めきったように睨みつける視線の力を僅かに緩める。
「正人を経由して、私にあれを渡させたのも貴方かしら?」
「――何の話?」
「発売前に記事を私のところへ流したのは、警告のつもりだったのかしらって訊いてるのよ」
 祐正は、まだ笑っている。どこか掴み所のない飄々としたそれに、沙希は額を押さえた。
「……よく考えたら、正人を通じて私に情報を流すなんてこと、貴方くらいしかしそうにないものね」
「他にツテが見つからなかったんでね」
「……北沢さんが正人さんに、あの記事を?」
 交わされる会話を聞き入れ、明らかになる真実に目を剥いた亮に、祐正は「いいや、」と首を振った。
「正人とは会ってないよ。俺が頼んだのは、正人の知り合いの知り合い――あれ? 知り合いの知り合いの知り合いだったかな」
「そうやって人を介して正人に記事を渡させたのね。正人は貴方の名前なんて一度も出さなかったもの」
 週刊誌やその手の報道に深く関わることのある祐正であれば、事前に記事の内容を知っていても不思議ではないのだろう。祐正は亮に関する情報が垂れ流しに されていることを事前に知り、それを沙希に警告しようとしたのか。改めて知らされた事実に、亮は目を瞠った。今や祐正が情報を流した人物ではないことは明 らかである。なのに、そんなに前から――関わっていたのか。
「親切ね。どうして自分の名前を最初から出さなかったの? そしたら――」
 途切れた言葉の続きを、亮は知っていた。少なくとも、警告を発したのが彼だと知っていれば。――彼を疑うことはなかったのに。
「俺でも誰でも、好きに疑えばいいじゃねーか。疑ったまま、本当のことを知らないでぜんぶ片がついたら、それが本当になるんだから」
「――まさか、わざと」
 問い掛けた亮の言葉にも、祐正は小さく笑っただけで否定も肯定もしなかった。
 ――一番傷付かないやりかたで、終われるなら。
 どんなによかっただろうと祈る胸のうちが、それを肯定する。そうしてきっとそれが事実に違いないと気付いたとき、唇からは驚愕を混ぜた溜め息が零れおちていた。
「……あんたは馬鹿ですか」
「よく言われるよ。聞き飽きるくらいにな」
 自分が疑われるなら、それでもいい。この男は笑いながら、そんなことを言って退けて見せるのだ。亮が祐正を疑ったまま、知られずすべてに終止符が打たれることが可能なら――由梨の裏切りはなかったことになる。
 彼女の思い出は永遠にきれいなままでいる。
「ネタを垂れ流したのが、こいつの女だってことも聞きかじってたんだ。どうせなら、こいつに知られる前に片付けてやりたかったんだけどな。それはあんたもだろ?」
「――そうね。私では力不足だったようだけど」
「俺はたまたま、それを知れる位置にいたってだけだ。――こいつと昔の女が一緒にいるとこを撮って来いって言われてたんだから」
「どうして撮らなかったの?」
「幾ら話題になってるとはいえ、出たばっかのモデルの昔話なんて金になんねえよ」
 矢継ぎ早に重ねられる問いかけにも、祐正は何でもないことのように飄々と答えて見せる。軽口を装う声は、もう、聞き流すことなどできない。
「……由梨とも会ったことが?」
 金になる、ならない以前の問題ではなく、彼は自分の意志でその仕事を蹴ったのだ。蹴飛ばした上に遥か彼方まで豪快に投げ飛ばしてしまった。何のために――目的など、今更確かめるまでもない。
「会わされたんだよ。どういうシナリオがあるのかは知らねーけど、お前と一緒に写ってるとこ撮るために打ち合わせで」
 そんなことまで、と絶句したのは亮ひとりで、沙希は当然のような顔をして祐正の話を聞いていた。報道は時として作為的に作られるものだと、彼女が一番よく理解しているのだろう。
 ともかく、事前に由梨と引き合わされた祐正は、しかしその場で今日のように彼女を念入りに口止めしたらしい。
「相当に気合入れて釘差しといたつもりなんだけどな。――涙浮かべて、判ったもう止めるって言ってたくせに、懲りてねえもんだから……」
 語尾を途切れさせて、祐正は困ったように笑った。眉を下げて作った笑みは、どこか痛ましく歪んでいる。半ば力で捻じ伏せるような脅迫じみた行動は、彼にとっても本意ではなかったのだろう。
「よく待ち合わた店まで知ってましたね」
「だって尾行してたもん。気付かなかったのか? 後ろに張り付いてるタクシーがいたのと、お前らのすぐあとに俺が店に入ったの」
 亮は、驚愕を通り越して、呆れ果てた。驚いているのは沙希も同様らしく、目を瞠って祐正の顔をまじまじと見詰めている。多分、彼女も同じ感想を抱いているのだろう。
「よくもまあそんなヒマが――」
 ――あるのだ。
 噂を信じるとすれば、彼は既に廃業宣言をしているのだから、尾行する時間も亮の行動を見張る時間も、充分にあったのだ。
「どうしてそこまでしてくれたの――って、私が訊くのも野暮よね」
「沙希さん?」
「北沢君、時間があるならルームサービスでもレストランで食事でも、好きにしておいきなさい。こんなの、お礼にもならないけど」
 立ち上がりながら、やや疲れたように沙希が付け加えた言葉に、祐正は遠慮もなく笑って頷いた。
「サンキュ。有り難くそうさせてもらうよ。ここ最近ロクなもん食ってねーんだ」
「ロクな飯も食ってないって……あんた何やってたんですか」
「色々忙しかったんだって、これでも」
「忙しくたって飯くらいちゃんと食べてください」
 目の前で交される遣り取りに溜め息をひとつ落とした沙希は、二人に向かってひらひらと手を振った。
「私はもう帰るわ。元々私は亮の居場所を確認しに来ただけだし、他の処理を北沢君がやってくれたなら、私にやれることもないんだから。――病院にも行かなくちゃいけないし」
「病院? まさか沙希さん、どこか身体の具合が……」
 悪いことは立て続けに起こる。そう呟いた沙希の声に、思わず背筋が冷たくなる。しかしその心配は杞憂だと、彼女は首を振った。
「私じゃないわ。正人が腕を骨折して入院してるのよ。――不良息子のほうは相変わらず家に寄り付かないし」
 肩を竦める沙希の横顔に疲労が見えて、亮は思わず眉を顰めた。不良息子と称したのは、正人の弟――沙希の次男のことである。まだ中学生でありながら外泊 が多いことは以前から聞いていたし、それが沙希の頭痛の種であることも知っている。相も変わらない次男の様子はともかく、気がかりなのは正人の怪我だ。
「正人さん、どうしたんですか? 俺も見舞いに……」
「いいのいいの、大したことないんだから。きれいに真っ二つに折れてくれたおかげで、治りは早いはずって言われてるんだし。あの子が怪我をしたのも自業自得らしいから。――なんでも足を踏み外して階段から落ちたっていうのよ、馬鹿よね」
 そう沙希が続けたときに、丁度亮の背中に位置していた祐正の気配が、微妙に変化したのを感じ取る。けれど亮がそれを確かめようと振り返ったとき、彼は微塵も表情を崩してはいなかった。ふいに凍りつくように背筋を滑った冷たい空気など、なかったことのように。
「おばさん。正人にお大事にって、伝えといて」
 そして、親友を労わる顔で、告げた。
「――カメラマンが商売道具壊してちゃ話になんねーだろって」
「……ええ、伝えておくわ。ありがとう」
 そしてまた沙希も、息子の友人に対する柔らかな顔で微笑みを返すと、それきり振り返らずに部屋を去っていった。
「……階段から足滑らせた、か。誰も信じちゃくれねーだろうな、そんな言い訳」
 そうして沙希の気配が完全に消え失せたあと、独り言のように呟いた祐正の声を、亮は聞いた。
「正人さんが怪我をしてたこと、知ってたんですか?」
「ん? まあな」
 短く答えた祐正は、先ほどまで沙希が腰掛けていたソファへ腰を降ろすと、深々と背凭れに身を預ける。そして一つ、大きな欠伸をした。
「少し眠りますか? あんたのことだから寝不足続きなんでしょう」
「ハハッ、よく判ったな。いいよ、まだ。どうせロクに眠れねーから」
 睡眠を求める代わりに取り出した煙草を口に咥え、火を点けないまま唇で弄ぶ仕草は、時間を持て余しているようにも、疲労を癒そうと身体を休めているようにも見える。
「――寝不足になってまで、俺のことを心配する必要なんてなかったんだ」
 近くでその顔を見つめれば、浮かび上がった隈でも見つけられそうな気がする。由梨との待ち合わせのためにホテルを出た自分を、彼が追うことができたのも、ただの偶然ではありえない。
「お前のためだけじゃねえよ。勘違いすんな」
 きっとすぐ近くで亮の行動を見つめることのできる場所に、彼はいたのだろう。――亮がそのことに気付くよりも、ずっと前から。
「なんか別のこと考えてねえと、頭がおかしくなりそうだったんだ。丁度よかった。……ひとりのときに、別のこと考えてられるのは」
 いつから見守られていたのだろう。尋ねることは、何故かできなかった。尋ねてもきっと、彼はいつもの遣り方で、はぐらかしてしまうから。亮は元より、自ら気付いて拾い上げていくことしか許されてはいない。
「……自分のことを考えるよりも先に、他の誰かのこと考えられるのって、ずいぶん楽なんだな。はじめて判ったよ」
 咥えていた煙草にやっと火を灯し、一息に深く息を吸い込んだ祐正は、独り言のように呟いた。
「お前が傷付くとこ見たくねーなって思えてたから、俺はまだまともでいられたんだろうな」
 立ち上がる紫煙に紛れ、まるで愛でも囁くように、呟いた。
「――何かあったんですか」
 そっと尋ねかけた亮に、祐正は答えあぐねているような短い沈黙の間に、小さな頷きを落とした。
「写真がさ、全部手に入ったんだ」
 祐正が選んだ言葉は酷く短く、端的なものだった。故に亮の思考をほんの一瞬停止させ、鸚鵡返しにその言葉を繰り返す反応しか生ませない。
「……写真?」
「そう。そんで、今を逃したら二度と機会がないだろうと思って。一気に片つけてやろうと思ってさ……」
 細い指先から煙草の灰が落ちる。その震えに合わせて、祐正の声がいつもの張りもなく、緩く響いた。
「もしかしたらパソコンにデータ移されてる可能性だってある。だから、念入りに、根本からそいつをぶっ壊してやんなきゃいけなかったんだ。だから、ずっと、ためらってた」
 たったの一度だけ確認して、それからすぐに封印するように仕舞っていた封筒が、今自分の元にはある。それを彼には見せなければならない。
 あれは自分の手元にあっていいものではない。彼の元へ、導かれるべきものだ。
 重たい腰を上げ、封筒ごと写真を仕舞い直していた鞄を手繰り寄せると、覆い隠すように一番下へ敷かれていたそれを手に取る。
「北沢さん、……これを」
「……何?」
 それでも僅かな躊躇いと共に探り出した封筒は、質量以上の重みを掌に伝えた。
「ああ、お前のとこにも、来てたのか――」
 ふいに眉を寄せて笑った祐正は、それでもしっかりとした手付きでそれを受け取った。宛名の筆跡は厭になるくらい見慣れているものだろう。中身は確認しなくとも、判るはずだ。
「――もう、重たくなっちまったんだな」
 ひどく小さな声で落とされた呟きを訝しむよりも先に、祐正が問いを重ねる。
「写真、何枚入ってた?」
「十二枚です。……すみません」
「なんでお前が謝んの。馬鹿じゃねーの」
 持ち主であるべき祐正よりも先に中身を確認していたことを思わず詫びても、彼はただ笑った。
「計算は合うな。これで全部だ」
 口の端に薄く笑みを掃いたまま、彼は手にした写真を灰皿の上に掲げ上げると、右手に持ったライターでその角に火を灯す。
「北沢さん……!? 何をっ……」
 チリチリと、聞こえるか聞こえないかの淡い音を立て、すぐに炎は燃え盛っていく。酸素を取り込んだ炎はいっそう強さを増し、祐正の細い指を焼き尽くす前にガラス製の器へと落下する。
「いいんだ。もう片付いたから」
 制止しかけた亮の声を気にも留めず、祐正は封筒から写真を抜き取ると、それを次々に灰へ変えた。微かな音を立てて燃え上がる赤い炎が、残酷な現実を容赦なく消し去っていく。それを望んでいたのは自分も同じはずなのに、どうしてか胸が苦しくなった。
「片付いたって……」
「全部だ。――もう全部、終わったから。いいんだ」
 彼の過去が灰塵になる。燃えて、写されていた過去は消え去って、残りはただの、ゴミに成り下がる。
「……終わった?」
「終わったよ。ほんとに下らねえ話だったな。……判ってたけど、んなこと。とっくの昔に」
 もしかしたら重要な証拠になるかもしれない写真を、こうも簡単に燃やし尽くしてしまうのは、映し出されたものを目にしたくないだけかもしれない。嫌悪 と、悲しみと、憎悪と、けれどほのかなオレンジ色に照らし出された横顔には、それだけではない感情が浮かび上がっていた。
「復讐も……多分、終わった」
 ふいに祐正の口から突いて出た物騒な単語に、思わず言葉を失う。その反応に小さく笑いながら、祐正はまだ燃え続けている写真を、そっと灰皿の上に落とした。
「復讐くらい許されるだろ?」
 何も、言えなかった。
 下手な口出しなどできるはずがない。――復讐という物騒な言葉を口にするには、余りにもその眼差しが悲しすぎたから。
「何つーかさあ……人を殺せる言葉っていうのがあるのを、俺は、ずっと前から知ってたはずなんだ。それさえ言えたら、もしかしたらもっと早く終わってたのかもしれない。一年間も我慢しなくて済んだんだよな、俺も」
 祐正の指は躊躇いのない機械的な動きで、次々と写真に火を灯していく。
 その悲しい横顔は、どこか穏やかにも見えた。
「こんなことしなくても、俺なんか簡単に殺せたのになあ……」
 祐正の指が、最後の一枚を封筒から抜き出す。
 目を背けるように裏返しに焼いていたそれを、彼は最後の一枚だけ、見届けた。
 打ち出された過去の彼は、眼を閉じて眠りに就いているように見える。ただひたすらに打ちひしがれて、現実を拒絶するために目を閉じているようにも。
 ――言葉で、人を殺せる。
 その意味を、亮はゆっくりと理解した。
「何を……したんですか」
 殺意でも悪意でもなく、人を、内側から殺すことができる言葉を、祐正は所有していたのだろう。
 肉体的な死ではなく、精神的な何かを殺すことができる言葉を、特定の誰かにだけ通用するそれを、その掌に所有していた。
「――あいつは二度と、カメラを持てないよ。俺が全部、ぶっ壊してやったから」
 そうしてそれを、容赦なく叩きつけた。長い時間、彼の内側で躊躇いながらも燻っていた、それを。
 祐正は悲しい眼差しのまま、最後の残酷な現実に火を点けた。
 祐正に、この眼をさせることのできる人間を、亮はたったのひとりだけ、知っている。
 揺るがない瞳に、たったのひとりだけ、揺さぶりをかけることのできる人間を。
 たったのひとり、この目を悲しくさせる人間の名前を――知っている。
「……誰を」
 指先から、流れるように灰が落ちる。
 燃え滓から僅かに上がった煙は、すぐに空気に霧散した。
「あんたをレイプして、あんたが復讐したのは……誰だったんですか」
 これで最早、彼の過去は、最初からなかったことになる。口さえ噤んでいれば誰も知れない、恐れることのない、過去へと。
 けれど、残した。
「……しょうがなかったんだ」
 灰へ成り下がった、原型を留めないそれの上に、ぽたぽたと零れ落ちる雫を。
「俺が復讐できる人間はもうあいつしか残ってねーんだ。だから、しょうがないだろ」
 彼の両目から溢れる涙を、涙の溢れる傷跡を、確かに残した。
「見てろよ、あいつ、もうすぐ俺のためにカメラを捨てるはずだ。そういうふうにしてやったから、あいつはもう二度と写真なんか撮れねーよ。ざまあみろ……」
 溢れる雫を拭いもせずに、祐正は口の端で笑う。笑いながら、悲しい声で泣いた。――ばかだ。あいつは、ばかだ。
 悲しい声で、泣いた。
「……俺なんか、もっと簡単なやり方で、壊れてたのに」
 必要なのは、たったの一言。たったの一度だけでいい、憎んでいると、真正面から吐き捨ててくれてさえいれば。
 ――それだけで、俺は、簡単に死ねたのに。
「そうしないから……あいつは、そうやって、俺を傷つけようとはしなかったから、期待してたんだ。――また……」
 戻れるかもしれないと。
 涙交じりの声が独り言のように呟いて、鼓膜を震わせる。声は抑揚がない分、胸に痛く響いた。
 次々に吐露された言葉の意味を理解するより先に、もう充分だ、と思う。尋ねることはまだ沢山残っている。もらっていない回答も山ほど残っている。
 けれど、もう充分だ。
 彼はもう充分に、想った。
 充分に縛られた。充分に苦しかった。
 ――だからもう、いい。
 言いかけて、噛み締めた唇の代わりに、亮は自分の両腕で背中からその身体を抱いた。
 零れる涙が、テーブルに落ちて小さな水溜りを作っていることも、その頬を容赦なく濡らしていることにも、とっくの昔に気付いている。けれど亮は、それを拭おうとは思わなかった。
「……それだけですか」
 まだ足りない。
 嘆くには、流す涙が、まだ、足りない。
「あんたが吐き出したいことは――それで、全部ですか」
 自らが振り切った現実を完全に嚥下し切るには、まだ。
 嘆きが足りない。
「――葛木……っ」
 酷く苦しげな声で、呻くように震える唇が吐き出した呟きを、亮は確かに聞いた。
「てめえは、何様のつもりなんだッ……」
 ひくつく喉から剥ぎ落とされた、血の滲むような声を。
 硬く握り締めたまま、震える拳を。
 行き場のない、憤りを。
 たったそれだけが、祐正の憎しみだった。
 たったのそれだけに発露されたものが、祐正の憎しみのすべてだった。
「何様のつもりで、俺を、正人をっ、――畜生、……ちくしょうッ!」
 最早それ以外の言葉を知らないように、祐正はただ、叫びながら涙を流し続けた。獣じみた嗚咽が食い縛った奥歯から聞こえたかと思うと、抱き留める腕に祐 正の掌が重なって、痛いくらいの力で掴まれる。激昂に生じた痛みであって、震える両足が支えを求める力でもあった。そうしなければ立っていることすらまま ならないことを知って、何も言わず、剥き出しの嗚咽に耳を澄ませる。
 涙なら、今はまだ見なくてもいい。正しい声にならない咽びを聴きながら、痛みのように思う。もうそこにはいない誰かを追い縋るようにしか吐き出せなかっ た悲しみなら、充分に知った。憎悪と呼ぶには大人しい罵声を、自分が代わりに耳を澄ませることで、彼がどれだけ救われるというのだろう。叫びを聞き入れる ことに、どれほどの意味があるというのだろう。――だから今は、後ろから抱きしめることしか、できない。
「正人……正人、まさ……」
 嗚咽に、歯を食い縛る痛ましい音が混ざる。
 背中から抱きしめ続けた身体は、そのうちすべてを諦めたかのように、力なく床に崩れ落ちた。




 
20050718