ポルノスター



 ホテルに帰ったころには、既に日が落ちていた。――星が見たいと、唐突に思った。痛いくらいに澄んだ冬の空気なら、きっときれいなものが見れる。疲れて いるからだろうと思うと、少し笑いたいような気持ちになる。擦り切れた心には、きれいなものが、一番いい。だからそれは、夜空でなくて構わない。うつくし い景色なら、なんでもいい。例えばあのとき、彼が語ったような、美しいグラデーションの空のように綺麗なものが見れるなら。
 ぼんやりと考え込みながら部屋の前まで戻ると、扉の前に見知った人物が佇んでいた。
「出かけてたのか? 連絡がつかないってお袋が心配してたよ」
「……正人さん」
 愛嬌のある顔を少しだけ歪めたのは、宮坂正人だった。
「すみません、……ちょっと、野暮用で」
 彼がここを訪れるのは、これが初めてではない。沙希からの言付けや預かりものを受けては、何かにつけて亮の世話を焼いてくれている。ロックを解除しながら扉を開けた亮に、正人は何ともいえない複雑そうな表情を見せ、けれど結局は笑った。
「君はいい意味でも悪い意味でも状況を理解してないな。今君がひとり歩きするっていうのが、どういうことか判ってる? 性質が悪い報道だっているんだ。もうちょっと自重してもらわないと……」
「――はい」
 正人の穏やかな叱責は、最もな事実だ。これでは沙希が亮の身を案じてホテルに隔離させた意味がない。大人しく叱責を受け止めて、詫びた。
「正人さんにも社長にも心配をかけてしまってすみません。無断で外出することは、もう二度とないと思います」
「いや、俺はいいんだよ。けど、お袋はやっぱり心配するから」
 状況を、理解していないわけではなかった。けれど何よりも、祐正に確認を取ることが先決だと――望んでいた否定の言葉を聞くことが重要だと、思っていた。
 もう、どうでもいい。
「これがお袋からの預かりもの。ここに置いとくよ。何か不便があったらいつでも言ってくれって……片山君?」
 疲労感に苛まれ、ぼんやりとした返事しか返せない亮を訝しんだのか、正人の眉間に皺が寄る。
「大丈夫? ……まさか外に出てる間に何かあったのか?」
「いえ」
 亮は慌てて首を振った。今はこんなふうに気遣われることすら申し訳ない。祐正がネタを流したというのなら、これは自分で撒いた種だ。
「北沢さんに、会ってきたんです」
 ふいに思いついて、その名前を口に乗せる。正人は少し驚いたような顔をして、緩く首を傾げた。
「祐正に?」
「はい」
「なんでまた……わざわざ」
「判りません。……どうして会いに行ったのかも、もう今は良く判らないけれど」
 肯定した亮を見つめる眼差しに、訝しさが混じる。この騒動の一因には、恐らく祐正の姿があるはずだということを沙希から聞いているのだろう。確かめたかった。ただ、それだけだ。
「俺はね、……祐正が君のネタを流したっていうのは、本当はあまり信じられないんだ」
 重たい溜め息と同時に吐き出された正人の言葉は、亮の予想を裏切った。思わず立ち止まり、その顔を凝視してしまう。
「ただ状況的に考えて、お袋と祐正しか知らない話が流れたっていうんならあいつが怪しいのは確かだし。疑う余地もないってところなのかな」
「正人さんは……信じているんですか」
「何を」
 問い掛けた亮に、正人は薄く笑い、ゆっくりと首を振った。
「信じてる信じてないの話じゃないよ。あいつの性格的に考え難いってだけの話だ」
 あの人を嫌っているのでは――ないのか。
 何故北沢祐正を弁護するようなことを言い出したりするのか。
 迷いかけた唇を噤んで黙り込んだ亮を見て、正人は笑った。
「なんか誤解がありそうだな。俺は別に祐正のことが嫌いなわけじゃないんだよ。俺との話、なんかあいつから聞いた?」
「はい。……多少は」
「そう。じゃあ説明は省くけどな。俺はあいつのことが嫌いじゃない。だけど傍にいたら、たぶん嫌いになってたんだろうな。ただそれだけのことで、あいつは今も昔もいい友達だよ」
 矛盾しているようで、矛盾のない言葉を噛み締めて、咀嚼する。いい友達、その言葉を、祐正から聞いた。まるで恋焦がれるように呟いた声を、確かに聞いた。
 ――あの人は。
 多分、あなたに好意がある。まだ、想っている。そう告げかけた唇を、引き締めた。
 この期に及んで、何を語ることがあるだろう。
「祐正の思惑はともかく、君は大変だったな」
 黙り込んだ亮に彼は同情したような眼差しを向け、それでも労わるように穏やかに笑った。
「今は他に取り立てて騒げるようなニュースがないからね。時期が悪かったとしか言いようがない。何か他に新しいネタが転がれば、そのうち騒ぎも止むだろう」
「……そうですね」
 饒舌な正人に頷きながら、亮は漸くソファに腰を降ろした。スプリングの効いた柔らかな感触に、僅かに気が和らぐ。
「まだ名もない、少し話題になってるだけのモデルの噂なんてすぐに流れる。それまでの辛抱だよ。まあ退屈だろうけどね」
 相槌を要さない正人の声を聞きながら、そっと目を伏せる。話相手といえばホテルの従業員か沙希程度しか存在しない自分には、正人の来訪が有難いような気もした。――きっと今、ひとりでいたら、発狂する。
 ゆっくりと、剥がれ落ちるように疲労している。考えることに、想像することに、疲れている。誰が誰を好いていようが、憎んでいようが、それは自分の問題ではないと、思いたかった。
「――っと。そんなに悠長に話している時間はないんだった。それじゃあ、邪魔したな」
 いつもなら時間の許す限り雑談をしていく正人が、亮に荷物を渡した瞬間に踵を返して出て行こうとする。
「何か用事でも?」
「用事っていうか――俺が世話になっている人が少しヤバい状態でね。本当は四六時中着いてやりたいんだけど、そういうわけにもいかないから。空いた時間はいつも病院にいることにしてるんだ」
「ヤバいって……大丈夫なんですか、それ。こんなとこにいて」
 つまり、正人の知り合いの誰かが何かしらの事情で危篤状態に陥っているということだ。突然告げられた緊迫の事態に、亮は思わず腰を上げる。
「そんな大変なときに、すみません」
「いやいや、俺がずっと病室にいたってよくなるわけじゃないし。もういい歳だから、周りはみんな覚悟してたんだ」
 入院生活も長かったしね、と、正人は眉を寄せて笑った。どこか翳りの見える表情に、一層申し訳なくなる。
「さみしい人だったから、せめて俺くらいは看取ってやりたくて」
 とは言え自分の見知らぬ人間の話に下手な同情などできるはずもなく、空々しい言葉も口に出せないまま、亮は「そうですか」とだけ呟いた。
「ああ、そういえばこれ……」
 幾分急いた様子で扉へ向かいかけた正人は、何かを思い出したように立ち止まり、尻ポケットに突っ込んでいた封筒を取り出した。
「君に渡していいものかどうか迷ったんだけど、これ」
「……何ですか?」
「さあ……? ホテルの真ん前で、片山亮に渡してほしいって知らないヤツに頼まれたんだ。君がここにいるっていうことを知ってる人間だから君と親しいのかとも思ったんだけど、それにしちゃ風体が怪しかったからなあ……」
 だから迷ったんだ、と付け足しながら、正人はその茶封筒を差し出してくる。表には住所のない宛名が書かれていた。――片山亮様。確かに自分の名前が記されている。
 その文字を確認した瞬間、心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。
「……それ、どんな人でしたか?」
「どんなって……帽子を目深に被ってたから顔はよくわからなかったよ。身長は……結構高かったかな。君か、俺くらいの。心当たりない?」
 亮は首を振った。沙希以外の人間から何かを受け取る予定はないし、正人の言うような人物像に心当たりもない。
 けれど、この字になら見覚えがある。
「どうする? もしかしたら妙な中傷とか……それだけならまだマシだけど、有害物でも入ってたら洒落になんないし。捨てとこうか」
「いえ……大丈夫だと思います。こんなに薄いんだから、確実に硫酸は入ってないでしょう」
「そうか? わかんないよ、今世の中怖いから」
 亮の冗談に答えて笑いながら、正人は扉に向かって行った。
「なんかあったらすぐお袋に連絡入れな。俺もできるかぎり協力するから」
 そう言い残し、今度こそ正人は去っていく。
 扉の閉まる音を聞き届けてからから、亮は改めて手にした封筒に視線を落とした。
 確かにそこには自分の名前が書かれている。見覚えのある、特徴的な筆跡だ。悪筆と言い捨てるには酷すぎる、定規で線を引いたかのように、不自然に角張った文字。
 明らかに、地の筆跡を消し去るために作られた文字だ。
(――……まさか)
 祐正の部屋で見た封筒に書かれたものと、同じ筆跡。
 一度だけ固く目を瞑り、振り切るように封を開く。最初に、真っ白な便箋が姿を現した。心なしか震える指でそれを封筒から引き出すと、質素な便箋にはあの特徴的な文字で簡潔な言葉が記されている。
 ――片山亮様
 その便箋に包まれるようにして現われた数枚の写真。
 疑う余地すらなかった。
 ――君は、北沢祐正に復讐する権利がある。
 そこにあるものは、ただの悪意だ。
 予想通り、写真を引き出した亮の網膜に焼きついたのは、無残に蹂躙される祐正の姿態だった。確実に震え出した指で、写真を捲る。一枚、二枚、三枚……目 を背けたいのに背けられない。意識を反らせるように事務的に写真の数を数えると、全部で十二枚の写真が封に収められていた。
 たった今目にした言葉を緩い速度で咀嚼する。――復讐? 俺は、あの人を、憎んでいるのか。――本当に、そうだろうか。あの瞬間、腹の中が沸騰したように湧き上がった感情は、本当にそう名付けられるものだろうか。
 嘔吐感を堪えて、口を押さえる。意識を背けていても、視覚へと映りこんでいた光景は、祐正が語らなかった部分までを鮮明に伝えた。ただのレイプではない。複数の人間に代わる代わる暴行される姿が、そこには写し出されていた。
「――そう、か……」
 当たり前に考えれば、すぐにでも判るはずだった。写真を撮る人間と祐正の身体を拘束する人間がいたなら、その場には複数の人間がいた。――考えれば、すぐに察せられるようなことだった。
 瞼をどれほど強く閉じても、焼け付いた残像は剥がれない。本当は、今すぐにこの写真を破り捨てて焼却したかった。この世から抹殺してしまいたかった。それができなかったのは、祐正が写っているという、ただそれだけの理由からだ。
 どんなにひどい姿でも、どんなにひどい過去でも、そこに写し出されているのがあの人なら、この指はそれを切り裂けやしない。――彼そのものを、無残に葬り去るのと同じ行為のような気がして。
 この写真を消去する資格があるのは、彼だけだ。
 ――何を。
 何を、させたいんだ。
 正体不明の誰かに向かって、胸のうちで叫ぶ。
 俺に、何を、させたいんだ。
 無意識に握り締めた拳は、硬質なテーブルを殴ることしかできない。
 無情に差し出された現実を、ただ呆然と見つめていた。



 噂も七十五日とはいうが、実際それほど長くに渡って囁かれ続ける風評などは存在しない。自分に纏わる噂が下火になるにつれ、連絡を入れてくる沙希の声が柔らかになっていくのを亮は感じていた。
『もうそろそろマンションに戻ってもいい頃だと思うわ。準備してて頂戴』
 トップニュースはとっくの昔に切り替わり、宣伝用CMは未だに流されて続けているものの、至って穏やかな生活が続いている。ホテル住まいもそろそろ打ち切りだと聞かされて、亮は知らず安堵の溜め息を落としていた。
 このホテルに隔離されてから、既に二週間が経っている。この軟禁状態は、精神的にもよろしくない。
『結局、ネタを売ったのが誰だったのかは判らず終いだったわ。よっぽど口が堅いのね』
 それが当たり前だとでもいうように、憂鬱そうに沙希が呟いた。
「……ご迷惑をおかけしました」
『やだ、そんなこと言わないで。私にできることなんて、彼女に被害がいかないように祈ることだけなんだから』
 朗らかに笑う声の中に、真摯さを混ぜた沙希との通話を終え、亮は言われた通り身支度を始めた。さすがに今日、とは言えなくとも、明日辺りには自宅に帰れるのかもしれない。
 とは言えそう多くのものを持ち込める余裕があったわけではなく、準備はものの二十分ほどで終わってしまう。
 バッグの中の衣類の下に、敷かれるように仕舞った茶色い封筒が目についた。
 誰にも話せない。まさかそれを沙希に相談できるはずがなく、あの写真を封筒ごと持参したバッグの中に押し込んだそのときから、二度と触れていない。
 視線を反らせるように亮はテレビを点け、思考を切り替えた。
(……そろそろ学校に行かないとな)
 敢えて生温い檻に囚われている。女社長に囲われていることを時折笑われながら、揶揄されながら、見下されながら、それでも穏やかに生きていた日常に、――或いはそれよりも、以前に。
「……正人さん?」
 纏まらない思考を持て余しながら見つめたテレビ画面に、ふいに思わぬ顔を見つける。午後のワイドショーでは、昨晩行われたというある人物の告別式の様子が流されていた。その画面の端に、喪服を来た宮坂正人の姿がちらりと見えたのである。
(――葛木……蓮次?)
 知らない人間だ。けれど追悼の言葉をマイクに向かって告げている人間は、どれも見たことのある顔で、その人がかなりの著名人だったことが伺える。
 ――彼は、目まぐるしく変化した昭和を、鋭い眼光で見つめ続けた。優れた写真家が、また一人――
 そうコメントしたのは、映像系の評論家か何かだったと思う。よくワイドショーで見かける顔だ。名前と顔だけは知っている男の言葉を、亮は反芻した。
「写真家……」
 つい先日、正人が口にしていたのは、多分この人のことなのだろう。――世話になっている、と言っていた。正人はこの葛木という男を師事していたのか。病 院に通い詰めていたということは、プライベートでもかなり親しかったのだろう。丁度、祐正と梶原という男のように。
 とは言え葛木のほうが、梶原よりもかなり歳は上だ。正人との関係も、歳だけを見れば祖父と孫と言った感がある。指導する側とされる側、以上の何かが、きっとあったのだろう。
 葛木の愛弟子として忙しく動き回る正人の姿が一瞬アップで映されたあと、画面は数多くの人が参列する式場へと移った。
 その画面の中に、また思いも寄らない人影を見つけた気がした。
「……北沢さん?」
 それはほんの一瞬だった。目を疑ってしまうほどの短い時間、すぐに視点を変えた画面の端に、やはり喪服に身を包んでいる祐正の姿が見えたのだ。――正人の、隣に。
 不思議ではない。――不思議なことは、何もないはずだろうと、驚愕する胸のうちとは反対に考える。被写体に違いはあれど、一応は写真家という職業の中に 収まっている祐正が、かなりの権威者であったらしい葛木の葬儀に参列していることも、別段訝しがることではない。
 ただ、ほんの一瞬映し出されたその姿が網膜に焼け付いた。
 少し痩せたような気がしたけれど、気のせいだろうか。見慣れない格好のせいで、そう思っただけかもしれない。
 痩せたなら、食事を抜いているせいだろう。元々不規則な生活を続けざるをえない仕事の上に、彼はよく食事を抜く。食欲よりも睡眠欲が勝ってしまう性質らしい。カメラマンを辞めるなら、少しは改善されるだろうか。
 取り留めのない考えが、無意識に巡った。ほんの一秒にも満たない映像に、こうもあっさりと意識を奪われることが滑稽でもある。
(……馬鹿、みたいだ……)
 惰性のように続く思考に再び引き戻されかけたとき、ふいに添え付けの電話がけたたましく鳴り響いた。一瞬にして我に返り、慌てて受話器を上げる。
「……はい?」
『片山様にお電話が入っておりますが、お繋ぎしますか?』
 フロントからだ。元々連絡を取る人間が限られている上に、直接携帯を鳴らそうとしない相手に、心当たりはなかった。
「宮坂社長ですか?」
『いえ。成井様と仰られる女性の方です』
「……成井?」
 思わず聞き返してしまったのは、思いもがけない名前を聞いたからだ。
「その人は……成井と名乗ったんですか?」
『はい。成井由梨様です。お繋ぎしますか?』
 無意識に震える指で、しっかりと受話器を握り直す。
 祐正の映像も刹那にして脳裏から消え去るほど、この胸は何に騒いでいるのか。
 喜びか、悲しみか、驚愕か。そのどれに、この胸は騒いでいるのか。
 短い深呼吸をした後に、亮は呟いた。
「……繋いで、ください」


 タクシーを拾い、十分ほどかけて向かった先に、女はいた。
 指定されたのは、高校時代によく訪れていた店と、よく似た感じの喫茶店だった。
 自分の姿がどれほど周囲の目を引き付けているのかは知らない。ただ平日の午後で、元々客が少ない上に昼食の時間帯をとっくに終えた今なら、客の数もそう多くはないように見えた。自分を除いては、二人連れの女性客がカウンターに座っているのみだ。
 店内には物静かなジャズが響いている。そう、丁度、こんな店だった。高校生が通うにしては、少し落ち着きすぎた店内で、静かな空気に潜むようにして小さ な声で会話をした。囁きあう言葉は、どれも擽ったくて、けれど暖かい。――一瞬にして、記憶が過去へと遡っていく。眩暈がした。
 彼女は、いつも、一番奥の――ひっそりとした席に座っている。
 扉の開く音を聞きつけて、その背中が肩越しにゆっくりと振り返る。髪が伸びた。また痩せた。けれど、きちんと、微笑むようになった。そのことに、亮は知らずに安堵する。その瞬間に身体中から力が抜けて、泣きたいような気分になった。
 亮を真っ直ぐに見詰めたまま、由梨はふわりと微笑んだ。
「……亮」
 ――彼女からは、いつも、甘い、やわらかい香りがした。


 久しぶり、なんてありきたりな言葉を、彼女に向かって口にする日が来るなんて、思いもしなかった。こうやって向かい合って話をすることすら、ないものだと信じていた。
「さいしょにテレビで亮を見たときね、すごいびっくりした。かっこよすぎて、あたしの知ってる人じゃないみたいだったから」
 はにかむようにして告げた由梨の赤い、幼い頬に、自然な笑みが零れる。まるで時間が逆行したようだ。
「俺は何も変わってないよ」
「うそ。ぜんぜん違う人みたい。今しゃべっててもそう思うもん」
 二人連れの女性客が出たあとに、もう一組客が入ってきたような気もしたけれど、その存在は意識の外へと追い遣られている。
 視線はずっと、この女ばかりを見つめていた。
 何も言わず、忽然と姿を消した、気が狂うくらいに好きだった女の顔を。
「本当に……元気そうでよかった」
 けれど核心には触れない。――触れられないでいた亮の臆病を、由梨は暴くように視線を上げた。
「……怒らないの?」
「俺が、何を怒るの?」
「亮、いつもそんなのばっかり」
 拗ねたような唇で、上目遣いに由梨が呟いた。
「いつも、あたしに喋らせてばっかり。そういうの、ずるいよ。あたしが謝るの待ってるだけなの? ……なんで怒らないの?」
 ああ、いつも、こんな押し問答を幾つも繰り返した。こういう性格なのだと言っても聞いてはくれなくて、彼女は自分を、自分は彼女を、困らせる。何事においても積極性がないのはどうしてと問われても、判らない。あまりの懐かしさに眩暈がした。
「……由梨は俺に怒られたかったの?」
「わからないよ……」
 わからない、わからないよ。
 それも彼女の口癖で、だからいっそう困惑していた。尋ねるのに、質問で返す自分は確かにずるい。けれどそれをはぐらかす彼女だって、ずるい。
「謝るなら……俺のほうが先だと、思ったから」
 一番口にはしたくなかった言葉を、けれど言わなくてはならない言葉を、胸の奥底から押し出す。
 傷付いてはいないか。傷付けてはいないか。傷口を、また潮風にでも晒されてはいないか。――自分のせいで。
 由梨は何も応えず、ただ黙り込んだ。
 運ばれてきた珈琲に落ちた沈黙を先に破ったのは、彼女だった。
「あたしね、今、すごく好きな人がいるの」
「……好きな人?」
「うん。あたし、あのあとお母さんの実家のほうに帰ってたの。今はそっちの大学に通ってる。……これは知ってた?」
「いや、俺は何も……。だって俺に知られたくなかったから、黙っていなくなったんだろう?」
 言ってから、しまった、と思う。これでは女々しい恨み言でも吐き出しているようだ。
「わからない。でもあたし、亮のそばにはいたくなかった。亮がやさしすぎて、あたしのこと壊れ物みたいにするから。あれじゃ、あたしどんどん可哀想になってくよ」
 泣きそうに顔を歪めて、それでも結局、由梨は微笑んだ。その微笑みも、他人のような顔をしていると思う。無理をして、微笑んでいると判るから。
「だから亮、もうあたしで苦しまなくていいよ。あたしは今すごく好きな人がいて、その人がそばにいてくれて、ちゃんと幸せでいるから。だからあたしで、もう苦しまないで」
 そして無理をして微笑んでいるのは、多分自分も同じだった。
「……苦しいのは、俺じゃなかっただろう?」
「亮はいつも、そういうこというから。あたしが苦しいって決め付ける。一緒に苦しくなってほしかったわけじゃないのに、亮、あたしより苦しい顔するから。一緒になんか、いられない……」
 ほら、と見せつけるように、由梨が首を傾いで笑う。
 ひりひりと、心臓が痛くなった。
 それは決して同情ではなかった。けれど一緒になって苦しむことが、彼女をいっそう傷付けていたことには、気付けなかった。ならばそれは、確実に愚かさだと名付けてもいい。
「あの、……あの、ね」
 躊躇うように口篭もり、由梨はゆっくりと口を開く。
「あたしの好きな人ね、ほんとに、すごく、いい人なの。あたしのこと守ってくれるっていって、いつも傍にいてくれて、……あ、顔はぜんぜんかっこよくないんだけど、でもすごく優しい人で」
「……そう」
 ひりひり腫れる心臓を抱きしめながら、それでも安堵して微笑んだ。焼け付くような嫉妬は、胸のどこにも存在しない。抱きしめられないのであれば、せめて幸せであれと願った。――だからこの腕が抱きしめられずとも、構わない。
「でもね、その人ね、お金、ないの」
 だから、その言葉には、心臓に細い針が突き刺さったような気がした。
 カップを口元に運びかけていた手が止まる。
「借金とかもいっぱいあって、……すごくお金がなくて、いつも困ってるの。あたしもたくさんバイトしてお金貸してるんだけど、借金ぜんぜん減らなくて。それで……それで、ね」
 きっと彼女を凝視するこの両目は、悲しい眼差しをしていた。
「……由梨?」
「それでねっ、亮が、テレビに出てたから! それで正体不明とか、謎のモデルとか言われて、あの人に亮のこと知ってるって言ったら、次の日にもう週刊誌の人が来てて……」
 亮が何か言葉を紡ぐよりも早く、遮るように、由梨が一息に捲くし立てる。
「お金、くれるって。付き合いだしてから、別れるまでのこと、ぜんぶ。教えたら、お金くれたから、だから、あたし」
「……由梨、だったのか?」
 尋ねるまでもない、けれど乾いた唇を湿らせるように紡いだ声は、虚しいジャズに掻き消される。テーブルにカップを戻す指は、かたかたと震えていた。
「でも、亮のこと悪く書いたりしないって約束してくれたんだよ。あたしの名前も、顔も出さないって。写真もちゃんとわかんないようにするって……」
「判る……だろ」
 判る、はずだ。
 例えば自分と彼女のことを知る高校時代の同級生や知人たちには、判ってしまう。それすらも惜しまなかったのか。それすらも――
「俺のことなんか、どうだっていいんだ。あれは……君の……」
「あたしのことなら、いいよね。ね、何話しても――いいよ、ね」
 構わないと、一蹴してしまえるようなことだったのか。
 何も変わらないと信じた、由梨の瞳の奥に、決定的な違いを見つけてしまう。
 どこか虚ろでいて、けれど奇妙な圧迫感のある必死さのようなものが目には潜んでいる。昔の彼女になら、こんな切羽詰った表情はしなかった。
 由梨は頬を震わせ、卑屈に微笑んだ。
「亮、有名だもんね。今……お金、いっぱいあるんでしょ? だから……」
 小さな声で、急くように話を続ける女を、亮は真っ直ぐに見つめた。声は、出ない。――由梨。そうやって、名前を呼ぼうと思うのに、声は喉の裏に張り付いたまま、苦さを増すばかりだった。
「だから、ね、亮、……あたしを」
 声を出せないのは――耳を、塞げないのはなぜだろう。
 残酷な現実を見せつける、この目を、閉じれないのは。
「……助けて」
 頭の片隅で、何かがぱちんと音を立てて弾けた。
 ――涙が今、流れれば。
 少しは楽になれたのに。
 なのにまだ悲しく微笑み続けるのは、単なる筋肉の運動でしかない。
 他人に成り下がった女の前で流せる涙など、多分この目には存在しなかった。
 喉に張り付く苦いものが涙に成り果てる前に、音を立てて弾けたものが涙になって溢れる前に、何か、言葉を。
 堪えきれずに由梨から視線を反らし、俯いた瞬間に、彼女が小さな悲鳴を上げた。
「やだ……な、何っ……!?」
 押し殺した悲鳴に視線を上げると、目の前の由梨は頭から水を被ったように前髪から雫を滴らせている。よく見れば、ベージュのカーディガンにも水の染みが広がっていた。
「由梨……?」
 目を離した隙に、一体何が起こったというのか。状況に追いつけない亮が腰を浮かしかけたその瞬間、聞き慣れた声が耳を打つ。
「こいつに近付くなつったろ。どんだけ馬鹿でもそれくらいのことは覚えてると思ったのに、見当違いだったかな」
「なっ……」
 声に視線を遣り、見覚えのある顔を視界に入れた瞬間、亮は息を飲んだ。
「北沢さん……!?」
 亮の顔を一瞥したきり、何の反応も返さずに祐正は真っ直ぐ由梨に向かって歩いていく。その片手には空になったグラスが握られていた。
「や……やだっ……」
 自分を通り越し、そのグラスに注がれていた水は由梨の顔を直面したのだろう。水の滴る髪を振り乱しながら、怯えたように由梨が立ち上がった。
「来ないでっ……亮!」
 助けて、と視線で縋られても、亮は動けない。目に映る光景が、俄かには受け入れられなかった。自分の心をあれほど揺さぶった祐正と由梨、その二人が自分の目の前に、同時に存在している。
「あんた、言ったよな。自分がどんだけ迷惑かけてるか判ってるって。これ以上迷惑かけねーって。これで最後にするってよ。――金タカるのは迷惑のうちに入んねーと思ったの?」
「そん……そんなの、知らな……」
「……ふざけんなよ」
 頭を振る由梨の呟きは、祐正の低い声に一蹴された。
「自分のやったことが、どんだけこいつ傷付けたのか、わかんねーのか!」
「北沢さん!」
 グラスが床に強かに叩きつけられ、弾けて割れる硬質な音がする。由梨が短く叫んだのと同時に祐正が腕を高く振り上げるのを見て、漸く身体が動いた。
「……駄目です、北沢さん」
 由梨の頬でも打つつもりでいたのか、掲げられた祐正の右手を掴み上げ、動きを制した亮はひどく静かに呟いた。ギリギリとその手首を拘束する腕の力は強く、祐正の眉を深く寄らせる。それでも離すわけにはいかなかった。
「女性にそんなことをしたら、駄目だ。……あなたが、悪者になる」
 目の前で由梨が泣いているのに。祐正が目元を赤く染めて憤っているのに、心がひどく静かだった。
 遠ざかっていくのを感じる。
 怯えて目のふちに涙を溜める女が、自分の心から遠ざかっていく。
 ――たくさんの想いが、いちどに遠ざかっていくのを、確かに感じた。
 小さな舌打ちと共に、祐正の力がふっと緩む。それを確認してから手首を掴んだ指から力を抜くと、振り払うようにして祐正の手が擦り抜けていった。
「……クソ。痛ェんだよ、馬鹿力が」
「すみません」
 赤くなった手首を擦りながら忌々しげに吐き捨てる祐正に、微笑むことすらできるのが不思議だと思う。
「……由梨」
 身を小さくして、まだ怯えきっている由梨に漸く視線を向ける。震えて、「亮、」と小さな声で呼ばれると、胸は痛い。
 けれどもう、遠ざかってしまった。
「ごめんね。俺、自分で自由になる金はあまりないんだ。君の力になってあげたいけど……」
 守ってあげたかった。
 ――本当に、守ってあげたかった。
 もうこの身体ひとつでは、何もしてやれない。
「亮……」
「俺には何もしてあげられることがない。――本当に、ごめん」
 この言葉を吐き出すことは、まるで血を吐くようだと思う。自分に何の力も残っていないことを自分自身で吐露する行為は、まるで血を吐くようだった。
 君にはもう、何も。
 残酷な言葉を、突きつけた。
「それじゃあ、……元気で」
 微笑むことができるのが、不思議だと。
 踵を返し、二度と振り返らないことを決めながらにその場から離れると、由梨が小さく名前を呼んだ。追いすがるような声に、心は確かに揺らいだけれど、――振り返ることは、しなかった。
 背中を追ってきているはずの祐正は、何も言わなかった。



「自由になる金がないなんて、よく言ったもんだよな」
 どこか冗談を混ぜて、祐正が呟いた。車の震動に身を任せながらも、亮は小さく苦笑する。
「本当なんです。沙希さ……社長からは、最低限の手当てしかもらっていませんから」
「最低限の手当てがマンションと生活費か? えらく贅沢な「最低限」だな」
 鼻で笑われても、厭な気分にはならない。むしろどこか暖かい気分で、亮は祐正の声を聞いていた。沈黙に、見慣れた風景が流れる。祐正は行き先に、亮の宿泊するホテルを指定していた。
「――お前が大事にしてやる価値なんかねえよ、あんなの」
 短い沈黙の間に祐正がそんなことを言ったりするから、無理をして笑う代わりに、少しだけ視界が滲むような気がした。
「……あんなの呼ばわりしないでください、人の女を」
「昔の女、だろ。……お前ができないからやってやってんだ」
 車内の震動は、心地良く涙腺を揺さぶる。自分で流しておきながら、酷く静かな涙だと思った。指で拭えば、すぐになかったことになる。けれど、確実にこの目から流れ落ちた、かなしみの欠片だった。
 欠片を見せられるのは、この男だけなのだろう。
 自分にとって彼はそういうものなのだと、ふいに気付く。
「……お前みたいのが甘やかすから、ああいうのは調子に乗るんだよ。守られて、いいこいいこされてるうちに、自分じゃ何にも考えられなくなってんだ」
 非難するようでいて、声に棘はない。ただ自分の目で見た真実を、客観的に分析しているだけなのだろう。
 祐正は、同情しない。一緒になって苦しんだりもしない。
 けれど、支えた。――彼は確実に、あのときの自分を、守った。
 何を悲しんでいるのかもよく判らないのに、それだけは理解することができた。
「それで次は守られなくなるのが怖くて、形振り構わない状態になってやがる。あれ以上甘やかすなよ」
「……無理ですよ」
 守りたかった。本当に守りたかった、大事にしたかった。その記憶がある限り、誰が何を言っても、想いは残る。後悔が、残る。
「あのままじゃあの女は、マトモになんないよ」
 ――どうして。
 自分の元から去ったあと、幸福にはならなかったのか。なったからこそ、縋っているのか。なら、最初から、去らなくてもよかった。自分なら、あんなふうに、させなかった。
 想いが残る。
 それを、悲しみと呼ぶのだろう。
「……それよりあんた、思ったより激しい人ですね」
 憤りの余り女に手を上げようとした祐正の姿を思い出しながら呟くと、彼は詰まらなそうに鼻を鳴らした。
「それしか言うことねえの? つまんねー人間だねお前」
「はは……」
 普段通りの祐正の声に、乾いた笑いしか漏れなかった。
 どうして、あんなところにいたのか。
 どうして、あんなふうに憤ったりしたのか。
 そういえば、由梨と面識があるようなことを言っていたのはどうしてだろう――
 巡る数々の疑問を、今は問い質すことも、確認することも、できない。
 祐正の左手が、頼りなく落ちていた亮の右手に触れた。上から重なるように触れたそれは、すぐに、力強く握り締められる。守るように、何かを伝えるように握られたてのひらを、握り返すこともできないで。
 ――残された左手で顔を覆い、亮はただ、嗚咽した。





 
20050628