身体と心が別れている意味を、知らなかった。
――綺麗な顔。ねえ。私の物になってみる? 綺麗なものを、近くで見るのが好きなの。
三年前、皮肉な気持ちで申し出を受けたときの自分を思い出すと、今は苦い思いしか浮かんで来ない。何もかもを知った顔で、結局何もわからず終いだった自分の幼さだけを思い出してしまうからだ。
彼女に――宮坂沙希に、自分の持つ一定の時間を預けることと引き換えに、生活の糧を得たことは、己に対する皮肉でしかありえない。いつしかこの身体が浅
ましく動く日が来ることも容易く予想できた。なのに彼女は亮の予想に反して、肉体関係を迫ってきたことは一度もなかった。
それがとても不思議だったのだろうと、今なら思う。
――綺麗なものを、近くで見るのが好きなの。
最初に告げられた言葉通り、彼女はまるで自分を装飾品か置物かのように扱った。ともすれば、自分の手で亮をモデルとして売り出したい気持ちはあったのだろう。けれど、何かを強制されたことは、一度もなかった。
――女が嫌い? いいえ、違うわね。亮、あなた、男が嫌いなの。だから自分のことが、嫌いなのね。
彼女はそう言って、亮と一定の距離を置き、更にはほったらかしにしていた大学にさえ通わせ始めた。彼女が自分に求めているものは、未だに良く判らない。
彼女の行動の全ては、「綺麗なものを見るのが好き」。考えても考えても、答えはそれだけのことに帰結された。不思議な女だった。
(女が、嫌い?)
時間を持て余していると、そういう記憶がきりもなく巡る。全く悪循環だと、亮は数えることを忘れた何度目かの溜め息を口にした。
(――本当に、厭なのは……)
浅ましい、自分だ。
あの一件の騒動から遠ざかるために移り住んだホテルの一室は、どう考えても一人で生活するには過ぎる空間だった。ここからは電話一本で欲しいものが手に
入る。食事も、退屈を紛らわすための雑誌も新聞も、果てには衣類さえも。週刊誌が売り出されるよりも早く、亮は沙希の手によってここに隔離された。
『何か不便はない?』
「いえ、別に……。そりゃ少しは退屈ですけどね。仕方がないんでしょう」
電話越しに答えながら、胸の中で仕方のないことだと、たった今口に出したものと同じ言葉を呟く。――それもこれも、仕方のないことだ。
「あなたは? 平気ですか」
『何人か、カメラマンが張り付いてる程度よ』
これを機に誰かの顔でも売れないかしら。
ぼやくように呟いた沙希の冗談に感謝して、亮は乾いた笑い声を漏らす。
『退屈は我慢して。――何か詳しいことが判ったらすぐに連絡するわ』
「……ありがとうございます」
沙希の言葉も、最早聞き飽きた感がある。繰り返される言葉は、つまりこの数日間で沙希が何の情報も得れていないことの証だった。
これではまるで軟禁状態だと考えかけて、恐らくその通りなのだろうと思い直す。今や自分と外を繋ぐものは添え付けの電話だけで、点けっぱなしにしていた
大型テレビが先ほどから騒がしくスキャンダルを騒ぎ立てているのに、それも一向に脳に伝わっては来ない。右から左へ流れるニュースを聞きながら、それでも
どこか他人事のような気がしていた。
沙希との事務的な会話を終えると、亮は傍らに置いた雑誌のページを目的もなく捲った。活字も頭に入ってこない。けれどカラーページに大きく陣取っている男は、見間違うはずもなく自分の顔だった。今は、自分の名前が、他人のものであるように聞こえる。
きっと今なら、ひどく上手に笑えるのだろう。何もかもが麻痺して、過ぎていく時間がただ退屈だと思える今なら、きっと。
徐に立ち上がった亮は、フロントへ繋がる受話器を上げた。
確かめなければならないことが、ある。
たったひとつ、それだけを自ら認めてやらなければ、憎むこともできやしない。
「――すみません。タクシーを一台、呼んでもらえますか」
確信に近い予想を抱いた胸は、もう、壊れっぱなしなのだから。
覚悟を決めて訪れたはずなのに、持ち上げた腕は目の前のチャイムを鳴らすことさえ躊躇った。さっきから数えて十回近く、亮はこの動作を繰り返している。
この扉の向こうに、あの男がいないのなら、それでも構わない。けれどもしも彼が中にいた場合、自分は何を投げかければいいだろう、何を尋ねればいいだろう。
三分ほど前から扉の前に佇んでいる亮は、同じ逡巡ばかりを繰り返している。何かを決意してここを訪れたはずなのに、決意した端からそれが脆くも崩れていくような気がしていた。
度胸がない、と自分を嘲って、踵を返しかけた亮の目前で、勢いよく扉が開く。
突然の出来事に思わず身を引いた亮の視界には、見知らぬ男の顔が映った。
「――あ、」
ここは祐正の部屋ではなかったかと一瞬焦り、咄嗟に部屋番号を確認した。この部屋は、確かに祐正の部屋だ。けれど何度見返しても、祐正の部屋から出てきたのは見覚えのない男だった。掃除でもしていたのか、片手には膨らんだゴミ袋を掲げている。
「……何か?」
扉の衝突を避けるように身を引いた亮を見つけると、男は怪訝そうに眉を寄せ、真っ直ぐに見つめたまま緩く首を傾げる。
「……君は?」
「あ、あの、北沢さんは……」
「――ああ、どこかで見たことがあると思ったら」
尋ねた亮の言葉を無視した男は、一人得心がいったような顔をして小さく呟いた。
「そういえば祐正が撮ったって話だったな」
生意気な、と感情の篭らない声で呟いて、男は手にしていたゴミ袋を玄関に置く。
「名前は片山亮――だったか。本名か」
「……はあ、まあ」
「そうか。そりゃあ気の毒だったな」
あまり気の毒がっていない口振りで男が呟く。気を抜かれっぱなしの亮は、ただこくこくと頷くことしかできなかった。
どうして自分の名前と顔を知っているのだろう、と考えかけたのは、愚問だった。見知らぬ相手だったとしても、あれだけ騒がれていれば自分の顔が知られているのは当然だ。
「あいつは――今はいない。入って待つか?」
問い掛けというよりは強制に近く亮を頷かせると、男は部屋の中に亮を招いた。男の歳は、自分よりも大分上だ。見たところ、三十代の中ごろと言ったところ
だろう。その背中を追うように部屋に入りながら、祐正の友人だろうかと考えかけて、すぐに否定した。友人と呼ぶには年が離れすぎているし、どう考えてもこ
の男があの祐正と馬が合うとは思えない。
「――あの、」
おずおずと問いかけたその瞬間、部屋の光景を目の当たりにした亮は一瞬言葉をなくして絶句した。あの素晴らしく散かっていた一室が、まるで場所を違えた
ように片付いていたからだ。散乱具合は元より、家具の位置も微妙に変わっている。こんなにこの部屋は広かっただろうか。内心に過ぎった思いを見透かすよう
に、溜め息混じりの声が呟いた。
「ちゃんと片付ければ広くなるんだ。あいつは中々物を捨てたがらないのが悪い癖だな」
亮を取り残してキッチンへと消えていった彼は、勝手に冷蔵庫を開けたり湯を沸かしたりしている。さきほど見た姿とこの状況から考えて、彼がこの部屋の大
掃除を行ったことは間違いない。間違いはないだろうが、一体彼は何者なのだろうと亮はひとり眉を寄せた。祐正の不在にも関わらず、自由に出入りしていると
ころを見ると、相当に親しい仲なのだろう。合鍵を所有しているのかもしれない。それほどに、祐正と親密な人間がいることがどこか不思議だった。――それ
は、何故か胸に小さな痛みを生んだ。
心のどこかで、あの人はひとりだと思っていたのかもしれない。ひとりで戦っているのだと、思い込んでいたのかもしれない。
「君はあいつと親しいのか?」
男は、亮の問いたかった疑問をそのまま向けてきた。何を答えればいいのか迷いかけて、結局曖昧な微笑みしか浮かべられない。
「たまに呑んだりするだけです。あの……貴方は?」
「腐れ縁」
「腐れ縁?」
短い言葉で答えた男は、コーヒーの注がれたマグカップを亮に向かって差し出し、
「腐れ縁以外の何者でもない」と小さく笑った。
「北沢さんは、今日は仕事ですか?」
「たぶん違うだろう。――やっと真面目に仕事をやり始めたかと思えばいきなり引退だの何だの言い出しやがったんだから。大方遊び回ってるんじゃないのか」
「引退って……本当の話だったんですか。どうしていきなり……」
「理由ならこっちが訊きたいくらいだ」
僅かに苦い表情で答えながら、男は立ったままカップに口をつける。そうして徐に亮の顔をじっと見つめると、口を開いた。
「……君は、あいつが最近どんな仕事をしているか知っているか?」
「は?」
「ああ、いや、知らないなら別に構わない。俺は最近、ゆっくりあいつと会っていないんだ。お互いにいつもばたばたしてるから話す機会がなくてな。――元気でやってるんなら、それでいい」
口振りからして、そう頻繁に会うような関係ではないらしい。もしかしたら彼が今日ここを訪れるのも、久方ぶりなのかもしれない。それなのに、何故か部屋の掃除なんかをしている辺りがどうにも尋常ではない。
おかしさに思わず笑ってしまった。そっと噴き出した亮に気付いて、男の眉間に訝しげな皺が寄る。
「……何か?」
「いえ、別に。その、……北沢さんの心配をする人がちゃんといるんだと思って。安心したら、変におかしくなったんですよ」
心のどこかで思い込んでいた、彼の孤独は、或いは思い違いだったのかもしれない。それは少しの痛みを生みはしたけれど、亮は確かに安堵していた。――確かに安心したのだと、口にしてから気がついた。
「――……君は、」
何かを考え込む様子で暫く黙り込んでいた男が、ふいに口を開きかけたそのとき、玄関で扉の開く音がした。そこから近付く足音に、祐正が帰宅したのか、と思いつくよりも早く、何かが床にぼとりと落ちる大きな音が鼓膜を打つ。
「――うわあああマジありえねえ!」
やはり扉を開けたのは、祐正だった。
一目見て変化の判る己の部屋を、驚愕に満ちた眼差しで凝視した後、彼は頭を抱えた。その足元には、見慣れた鞄が転がっている。祐正が仕事の際にいつも機材を詰め込んでいる革製の鞄だ。先ほど音を立てて落下したのは、恐らくこれだろう。
「梶原さん、なんであんたいつもこんなことするんですか!」
梶原、と呼んだ男に向かって、祐正はその胸倉を掴み上げるかのような勢いで吠え立てた。どこかで聞いたことのあるような名で呼ばれた当の本人は、飄々と祐正の絶叫を受け流している。
「ああ、悪い。あまりの散かり具合に気分が悪くなったもんでな。つい」
「いや、ついって!」
「文句あるのか」
「あるに決まってんだろ! つい、で人んちの掃除までやんのかあんたは、つい、で!」
喚き疲れたのか、祐正はそれきり頭を抱えたままその場にしゃがみ込んでしまった。
「見るからにゴミ以外は捨ててないからな」
「俺にとってはゴミじゃないかもしれないだろ、保証がどこにあんの。ああもう、マジわけわかんね……」
とは言え溜め息交じりに呟く祐正も心底激怒しているわけではないようで、梶原と呼ばれた男も反省している様子が微塵もない。傍観している亮は、ただ呆気に取られて二人の様子を眺めるのみだ。
「――あのねえ、何時間かかったんすか、こんだけ片付けんのに……」
「二時間もあれば片付くだろ。要らないものを捨てて掃除機をかけるだけなんだ。……ああ、あとで乾拭きもやっとけよ。フローリングは埃が溜まり易い」
「……判ったよ、判りました」
頷いた祐正の表情には、どちらかといえば困惑の色が濃く漂っている。素直に納得したと言うよりは、諦めている、と言った表現のほうが正しいのかもしれない。
「ああもう……これ嫌がらせの域だよ梶原さん……あんた俺のことどれだけ好きなの? 俺あんたの何なの?」
がっくりと項垂れた祐正は、見事に変化を遂げた己の部屋に意識を奪われ続けている。完全にビフォーアフターの世界の住民と化した祐正を横目に眺めつつ、梶原は至って冷静に告げた。
「お前の父親から面倒見てやってくれって頭を下げられてるからな。あまりにも不衛生な生活を送らせてたら申し訳がない。……ところで祐正、俺はともかく客を放っておいていいのか?」
「――は? 何?」
梶原に促され、漸く衝撃から立ち直った祐正が緩い動きで顔を上げる。そのまま流された視線は、自然に亮を捕らえたあと、驚愕を見せて凍りついた。
「……お久しぶりです」
今の今まで自分の存在に気付かれていなかったことは、その反応を見れば明らかだ。ともかくその事実を僅かな苦笑に押し留めて、亮は改めて祐正を見つめる。
「……わざわざ、何?」
驚愕に凍りついた眼差しは直ぐに氷解して、いつもの人を食ったような目付きに戻ってしまう。あまりにもささやかすぎて気付かない、けれど今はもう、知っている。表情の移り変わりを、知ることができる。
「お前、今、外出歩ける状態じゃねーだろ」
「あなたに聞きたいことがあって」
梶原に向けていた自然な表情が凍りつき、それは直ぐに見慣れた眼差しへと変化した。一瞬の移り変わりにささやかな齟齬感さえ感じる。
どれだけ覆い隠されてきたのだろう。感情の移り変わりを、彼はどれだけ。
その顔から視線を背けるように、亮は目を伏せた。
何が作りもので、何が作りものではなかっただろう。
自分は彼の、何を知ったつもりでいたのだろう。
「おい祐正、俺は帰るぞ」
「うそ、もう? アンタほんとに何しに来たんすか。部屋の掃除?」
徐に口を開いた梶原に、祐正が驚いたような声を上げた。
こんなふうに何の警戒感もなく、ただひたすらに素の表情を、知らないままで。
――何を知ったつもりでいたのだろう。
「来客なら仕方ないだろ。また来る」
「ちょっと待ってよ梶原さん」
いつまでこっちにいるの、と祐正の声が続き、玄関へと向かった梶原の背を追ってばたばたと走る足音が聞こえる。梶原――そうか、とその正体に行き当たっ
て、亮はひどく納得した。その名に聞き覚えがあったのも当然だ。彼は恐らく、北沢祐正に写真の手解きをした男なのだ。小坂と祐正がその名を口にしていると
ころに、自分は何度も居合わせた。親しかったのも、当たり前だ。
ぼそぼそと小声で会話をする声が続いた後、扉の閉まる音と同時に祐正が戻ってくる。その表情は、もう硬い。硬いと判るのに、自分が一番に見慣れている彼の表情だった。
二度と、目を背けられない。
「お邪魔してしまったみたいで、すみません」
「別に。そんな大層な人じゃないよ」
――何を、信じて。
「……梶原さんって、確かあなたのカメラの師匠でしたね」
「師匠っていうか何ていうか。色々教わってるのは確かだけど。つうかさ……お前、わざわざそんな世間話しに来たの?」
どこか苛立っているような表情で、祐正は頭を掻く。
「どうせホテルかなんかに雲隠れでもしてんだろ? とっとと帰れよ。じゃねえとまた妙なトコ撮られんぞ」
数える。
例えば梶原に――馴染みの店のバーテンダーに向けるような少年じみた笑みが、自分へと向けられたことは、あっただろうか。
あったとしたら、それは何度だろう。
なかったとしたら、自分に向けられていた表情と、どれほど違うものだっただろう。
何が作りもので、何が作りものではなかったのか。
何を拠り所に、信じられていただろう。
彼と自分を繋ぐものに、何か特別なものがあることを、信じていられただろう。
「北沢さん……」
用意していた言葉を、胸から押し出す。そうでなければいい。あるはずがない。何度も否定して、彼自身から否定されることを焦がれた、たったひとつの問い掛けを。
胸がどれほど痛んでも。
それを訊かずにはいられない。
「俺の記事は高く売れましたか」
ゆっくりと顔を上げた祐正と視線が合う。
祐正は身じろぐことすらしなかった。
答えない彼は、真っ直ぐに亮の視線を受け止めて、真っ直ぐな眼差しで見つめ返してくる。逆に、問い掛けを返すように。――おまえはそう思うのかと、試すように。
「答えて、北沢さん」
祈るように呟いた声は、ちいさく空気を震わせた。祈ることと乞うことは似ているようだと、亮はこのとき初めて気付く。
「答えてください。――彼女のことを記事にしたのは……あなたですか」
否定されることを乞うことように、祈るように、亮はそれを口にした。
祐正の強い視線がやっと伏せられる。何かを思案するようにも見えて、何かを耐えているようにも見えた。
絡まった視線が解れた一瞬、すぐに、祐正は視線を上げる。
「だから言ったんだ」
ゆっくりと紡がれる声に、亮は目を瞠る。
「お前自身が変わらなくたって周囲は幾らでも変わる。お前は覚悟が足りなかった」
否定でもない、肯定でもない、けれどそれが問い掛けに頷いているようにも思えた。――この自分を、せせら笑うようにも。
何を信じていられただろう。
「――あんたがっ……あんたが変わったとでも言いたいのか!」
考えるよりも早く身体が動いた。力任せに胸倉を掴み上げた腕は、身体中に飛び散った憤りに震える。
「あんたは何を考えてるんだ! どうして……っ」
どうして、どうして、どうして。同じ言葉が脳裏を駆け巡る。苦しい。悲しい。悔しい。――なのに、うまく言葉が、出ない。
「どうしてあんたが、あんなことをできたんだ……っ」
それでも押し出した声は、血を吐くよりも苦しくなる。
きっと、自分の傷を抉る行為に等しかったはずだ。だからこそ、彼だけは、してはならなかった。それをしては、ならなかった。
そう、信じていたはずだった。
「俺に……彼女に何の恨みがあって、あんなこと……っ」
――人は、変わるから。
掴み上げる腕に抗いもせず、祐正は同じ言葉をもう一度繰り返し、ちいさく笑った。
「恨み? ……そんなもんなくたって、もっと簡単なもので変われるだろ。そんなこともわからないで――いたのか」
沸き起こった一瞬の憤りを自分の感情として認識する前に、拳がその頬を強かに殴りつけていた。鈍い音を立てて祐正の頬を打ち付けた力が、怒りから生まれ
たものだと気付いたのは、切れた口の端から滴る血を見つけてからだ。――変わるとすれば、それはきっとひどく下らない、勘定事だろう。そんなものに自分は
嘲られ、踏み躙られる。
こうもあっさりと、悲しくなる。
鈍い感触の残る指先を握り締めたまま、肩で息をする。こんなに熱い怒りが自分に湧き起こることすら、不思議でならない。
あのときから、死んだように生きてきた。絶望しきって、悲しみに暮れ切って疲れた心は、もう焼け付くような何かを抱くことはないと、そう思っていたのに。
まだ欠片でも信じているのかと、自分を嘲笑いたかった。このてのひらに触れた欠片の真実が残っているのか。まだ、欠片の真実を、疑いもせず抱いているのか。
一番触れられたくなかった傷跡を容赦なく潮風に晒されても、尚。
想っているのか。
身じろぎもせず、祐正は顔を伏せていた。前髪からほんの僅かに瞳が覗く。何の感情も映さない、読み取れない、その瞳が亮の厳しい視線を避けるように俯いて、ゆっくりと瞬いている。
泣いているのかもしれないと唐突に思った。
「そんなことが……」
彼の涙は、涙として表れることはない。だから感情の篭らない瞳は、もしかしたら泣いているのかもしれないと、唐突に。
「あんたはそんなことが、言い訳になると思ってるのか……」
なのに求める答えはなく、祐正はただ俯いたまま、一切の言葉を発さない。
痛いくらいの沈黙だけが自分と彼とを包み込む。
――これが、答えか。
擦り切れるほどに焦がれ求めて、ようやく得た答えが、これなのか。
心はまだ、麻痺していない。
泣いているのは、彼ではなく、自分のほうだと気付いたのは、それからずっと後になってからのことだった。