ポルノスター




 とにかく最近、亮はよく知りもしない人間から声をかけられることが多くなった。教室で何度か見かけた気がするだけの学生にも気軽に肩を叩かれ、その上写真までも頼まれる。少なくともこれは、異常事態だ。――自分にとっては。
「……落ち着かないな」
 ぼそりと零された友人の声に、亮は少しだけ苦笑した。食堂で食事を摂っているだけなのに、周囲から突き刺さるような視線を向けられているのである。
 ざわざわとざわつく声に仕方なく振り返れば、キャアと小さな声が散って一斉に視線が疎らになる。誰が見ていたのか、誰が声を上げたのかも判断がつかず、結局亮は黙々と食事に戻ることしかできなかった。
「そりゃ俺もびっくりしたけどさ。テレビ見てたらいきなり片山の顔がアップで出てくるんだもん。そういうこともしてんなら事前に教えとけよ」
「ごめん。まさかこんなに騒がれるとは思ってなかったんだよ」
「騒がれるに決まってんだろ。あのアルカディアの顔なんだから。雑誌とか読まないの? 今アルカディアの謎のモデルつって特集組まれてんだぞ」
「……知ってるけど」
 今はまさに新ブランド「アルカディア」のアピール期間真っ最中で、駅にも街にも自分の姿が映ったポスターが貼られている。沙希の緘口令が引かれているせ いで、友人の言う通り、「詳細不明の謎のモデル」として巷を騒がせているらしいということも知識としては知っているし、そろそろ実感しつつあった。これだ け周囲が騒いでいれば、実感しないほうがおかしい。
「詳細不明っていうのも、なんかの策略とかなわけ?」
「策略って……違うよ。単にそうしてもらってるだけ」
「まあ常識があるやつだったら、週刊誌にネタ売ったりはしないだろうけどさあ。売るっつっても、片山の名前とか大学とかしか知らないんだし。住所なんか知ってるヤツいねーだろ」
「売られて困るものなんてないよ、俺には」
 亮がモデル業をやっていることも、今までは極親しい友人にしか知られていなかったことだ。その仕事がカタログや広告に小さく載るような、人目に止まり難いものだったことが関係して、これまでは生活に支障を来たすような事態にならなかった。
 けれど今では街を歩けば必ず視線は突き刺さりどこからかアルカディアの名前が囁かれてくるし、大学生活に至ってはこの有様だ。これでは沙希ひとりが大満足である。
 周囲が騒がしくなるとはこういう意味だろうかと、亮はおぼろげに考えていた。これは祐正の言葉だ。――もう自分には関わるなといった、あの声が甦る。同情なら構うなと言った、あの声が。
(電話は……)
 この状況を伝えれば、祐正は笑うだろう。――ほら俺の言った通りだ。そう言って容赦なく笑ったあと、労わりの言葉くらいならかけてくれるだろうか。
(――出て、もらえないだろうな)
 同時に、考える。
 同情で、あの人のことを思い出すだけで胸が痛くなったりするだろうか。
 それはまるで、恋のように。


 街中を歩くと、自分の姿をどうしようもなく視界に入れてしまう。大々的に張り巡らされたポスターを、必ず一枚は見つけてしまうのだ。祐正の手で撮られた 自分の姿を、見つめてしまう。これは本当に自分の姿だろうかと、亮自身が疑ってしまうほどの出来栄えで、いつもの野暮ったい自分からは到底想像できない。 彼が彩った。彼が構成した、自分自身を見つめてしまう。
 その度に彼の声を思い出すのだから、これでは本当に恋のようだと落ち込んだ。別に祐正のことを、忘れられないほど想っているわけではない、と亮はしんじ ていた。全く彼のことを思い出さない日もある。それでも時折は思い出す。思い出しては、胸が痛んだ。どうしてそれを、もっと強く否定しなかったのだろう。
 ――同情されるのは、あんま好きじゃねーんだ。
 そう呟いた彼は、どんなに寂しかっただろう、と。
「……引退?」
 そんな日々が続く中、少しの苦笑と共に沙希が吐き出した言葉は、亮に十分な衝撃を与えた。彼女自身も、どこか憂鬱そうにデスクの上で頬杖をついている。
「北沢祐正が引退って……まさか」
 そんなことはあるはずがないと、笑い飛ばすことができなかった。
 ――心当たりなら、ある。
「噂よ。ただの噂。でもかなり信憑性のある噂ではあるかもしれないわね。出所が出所だから」
「……出所っていうのは?」
「北沢が高校を卒業してすぐに所属した事務所の社長よ。結局北沢は半年も経たないうちに辞めてフリーになったんだけどね、交流はまだあるみたいだから。北沢本人から聞いた話なのかもしれないわ」
「……それで」
 最後に会ったあの日、祐正が囁いた言葉が脳裏に蘇る。
 疲れた。もう、疲れたと、あの人は言った。穏やかな声で、呟くように言った。――それはこのことを示唆していたのだろうか。
「貴方はどうするんですか」
「どうするもこうするもないわよ。引退するっていうのを引き止める権利も義務もないから。惜しいとは思うけど、それが本人の意思だっていうなら仕方ないわ」
「そう……ですか」
 あっさりと引いた沙希の言葉にも、亮はただ頷くしかない。当たり前だ。沙希は祐正の腕を買ってはいたけれど、結局は依頼人とそれを受ける側でしかない。沙希の言葉通り、無理矢理彼に仕事を続けさせることなどできるはずがないのだ。
「だからもうあなたも北沢と無理に付き合う必要はないわ。――ああ、個人的に友人として付き合うっていうならそれはもちろん止めないけど」
 思いの他、動揺している亮の様子を気にしたのか、沙希がやさしい口調で付け加える。
「いえ、あの……」
 そうではないと言いかけて、結局口篭もった。この消化不良の心地の悪さは一体なんだろう。あの人が、カメラを持つことを完全に放棄する。それにこんなにショックを受けている自分は、一体何なんだろう。
 彼は自分の――自分は彼の、何なんだろう。
 ふいにノックの音が社長室に響いて、沙希は話を中断すると顔を上げた。
「はい?」
「母さん、ちょっと邪魔するよ。忙しかったか? ――と、君は確か……」
 沙希の返答を受けてノブを回したのは、その息子の正人だった。何か個人的な用事でもあったのだろう。
「祐正と一緒にいた……」
 彼の視線が自分へと向けられるのに対し、亮は僅かに頭を下げた。
「片山です」
「ああ、そう、片山君。君、今大変なことになってるだろう? この調子なら俺と仕事をする機会が出てくるかな」
 からかう口調の正人に、厭味はない。亮は微笑みを返した。
「機会があれば、よろしくお願いします」
「そういえばあいつは元気? どうせ相変わらずだろうけど」
 何の拘りも見せず笑った正人の声に、返答に迷う。たった今その人の話をしていたところだ。どう答えるべきか逡巡しているうちに、沙希が溜め息交じりで答えた。
「元気なのかしらね。元気ならいいけど」
「……どういうこと?」
 沙希の意味深な言葉に、正人は訝しげに眉を潜めた。
「正人、聞いてないの? 北沢、引退するつもりなのよ」
「……祐正が?」
 正人は、眉間の皺をすっと深める。まさか、と信じられない驚愕が面に表れた。
「どうして?」
「私に聞かないで頂戴。あなたから訊けば北沢も理由を教えてくれるかもしれないけどね。訊いたときは私にも教えて」
「冗談言ってる場合じゃないだろ」
「そうね。冗談ならよかったわ」
 惜しいから、と沙希は溜め息混じりに呟く。才能を愛する彼女にとっては、紛うことない才能を有している祐正のリタイアが残念でならないのだろう。
「それで正人、今日はどうしたの?」
「あ、……ああ、そうだ。母さんにこれを渡そうと思って」
 水を向けられた正人は、我に返ったように手にしていた封筒を差し出した。その指先が、僅かに震えている。ショックを受けているのは彼も同じらしい。
 不思議だと思う。正人は恐らく、祐正を嫌っている。けれど、憎んではいない。それどころか祐正がカメラを捨てると知って、こんなにも衝撃を受けているのだ。
 ――どうしてだろう。
 あの人は、こんなにも他人を揺るがす力を持っていることを、自分で気付いていないのだろうか。
「明日発売される週刊誌の記事なんだけど……母さんの事務所の子が載ってるらしい。知り合いが流してくれたんだ」
 俺はまだ見てないんだけど、と付け足しながら正人はそれを沙希へと手渡した。
「拙い話? そんなのあったかしら」
 のんびりと首を傾げながら、沙希は受け取った封筒の中身を取り出す。雑誌のコピーかと思われる紙が、数枚その手に引き出された。
 読み進めていくうちに、その表情が徐々に強張る。
「……やられたわ」
 顔面を蒼白にして沙希が呟く。どうしたんですか、と尋ねる前に、沙希は口元をきゅっと引き締めた。
「沙希さん?」
 沙希は憂鬱そうに額を押さえながらもテーブルに置かれた受話器を上げ、どこかの番号をプッシュする。常にない焦りようだ。彼女がこれほど急いている様子を、亮は今まで見たことがない。最後の数字を押しかけて、沙希は思い止まるように受話器を置いた。
「そうね。あなたには話しておかないと……。ごめんなさい、正人、少し席を外していてくれる?」
「別に構わないけど……」
 いつになく緊迫した表情に、圧されるように正人は頷いた。自分の息子でさえも遠ざけなければならないほどの、極秘情報なのだろうか。それを、自分に話しておかなければならないというのは、一体どういうことだろう。
 正人が部屋を出たのを見送ると、沙希は視線を険しくして亮を見つめた。
「亮、出席日数は大丈夫?」
「――それは構いませんけど」
 この人に出席日数の心配などされると、母親から説教されているような気分になる。ここまで考えられていた亮は、まだ呑気だったのだろう。
「……あなたの、ことよ」
「――俺の?」
「ここに書かれているのは貴方の名前、出生、学歴、それだけならまだしも……あなたの、過去」
 心臓が、嫌な跳ね方をした。
 売られて困るものなど、自分には何一つ存在しない。
 ――それが、自分だけの記憶なら。
「幸い、 彼女 ( 、、 ) の名前は仮名になってるわ。だけど高校時代のあなたと一緒の写真が載せられている。知る人が見れば、判ってしまうかもしれない。これの出所は……」
 沙希の声が、どこか遠くでリフレインした。けれど亮の唇は、冷静な言葉を吐き出す。――それは、無理だ。
「……特定は、無理です」
 高校時代の写真なら、どこからでも手に入るだろう。彼女と写真を撮った記憶は少ないけれど、何かの学校行事の際に他人に撮られたものが殆どだった。自分 たち以外にも他人が多く映っている。しかもそれらは廊下に張り出されて、誰にでも購入ができた。つまり、誰が持っているかは、亮の記憶だけでは特定できな い。
「高校時代の俺の写真なら……多分、たくさん持っている人がいる」
 自慢でも誇張でもなく、亮は正直な意見として告げた。自分と面識もない女子が、自分の写真を好んで買っているという話を写真部の友人を通じて聞いたことがある。これからも売上に協力してくれと、笑いながら肩を叩かれたのを苦笑交じりに返していた。
 もうあの穏やかな日々は、遠いのに。
「謎めいたモデルの秘められた暗い過去、ね」
 当たり前のように続いていた幸福で穏やかな日々に、それは突然訪れた。理不尽な暴力に見舞われ、突然姿を消した恋人。その事実に絶望し、女社長のヒモにまで陥るまでの堕落。悲劇的に、かつ俗的にそれらは描かれているのだろう。
 吐き気がした。
「俺なんかの……」
 過去を暴いて、何が楽しいのだろう。ぼんやりと、思った。自分だけの傷ではない。自分の、傷ではない。そんなものを暴いて――何が、楽しいのだろう。
 指先が、凍りついたように、動かない。
「自覚しなさい、亮。あなたは今、間違いなく話題の渦中にいるの。あれほど話題性の高かった商品の、一番最初の顔になったモデルなのよ。下手に口を噤んでいたせいで、あなたに関する情報なら喉から手が出るほど欲しがっている奴らがいるの」
 彼女はその記事を、見るだろうか。――見るだろう。テレビに流れる自分の顔を見て、何を思うだろう。面白おかしく取り上げられた記事を見て、何を思うだ ろう。怯えていないか。震えていないか。過去になっていたなら、それでいい。もしもそれが、心無い記事によって呼び覚まされていたなら――
「亮! しっかりしなさい!」
 叱咤に近い声に、はっと我に返る。指先の震えが、まだ止まらない。
「大丈夫。大丈夫よ。これに中傷の要素はないわ。どちらかといえば、同情的な視点で書かれている記事だから。貴方にとってのダメージは少ない」
「そんなもの……」
 そんなものは関係がない、叫び出そうとした亮の視界に、真摯な沙希の眼差しが映る。彼女は――
「落ち着きなさい。――落ち着きましょう。彼女が精神的ダメージを受けていることは私にだって判る。あなたもね。……だから、落ち着きましょう。これ以上、情報が流出する前に、手を打たなきゃ」
 彼女の真摯な眼差しの中に、微かな痛みを見つけた。彼女は確かに、痛んでいる。彼女の心は痛んでいるのだ。同じ女性として彼女に対する憐憫がそうさせたのか、亮への気遣いがそうさせたのかは判らない。けれど確かに、痛んでいる。
「あなたと彼女の話を知っているのは誰?」
 ゆっくりと、言い聞かせる声音で沙希が尋ねる。この女になら、とっくの昔に告白してしまっていた。女ひとり救えない自分には生きる価値はないと自棄になっていた時代のことだ。まだ彼女に対する愛情が、胸を苛んでいたころ。
「あなたと……」
 三年前、沙希はだらしなくある店で酔い潰れていた亮を拾い上げた。それがこの生活の始まりだ。それまでは行く当てもなく街を彷徨い、好んで女も騙してい た。綺麗な言葉で、綺麗な顔で。あの子が綺麗だ、好きだといってくれた顔と体を使い捨てるように性欲を蔑んだ。蔑みながらまた利用して、引き換えに金銭を 得る自分に時折嘔吐もした。あの酷い生活を送っていたころの自分を、まともな道に引きずり戻したのは沙希だ。
 ――綺麗な顔ね。そう言って、微笑んでくれたこの女以外に、自分の過去を話したことなどない。――自分を今でも苛む、捨て切れない、捨てられるはずのない記憶のことを。
「そう。私と、他には……?」
「祐正……」
 震えた背中。歪まない表情。けれど声だけが、確かに震えた。握り締めた指先が、確かに感情の在り処を教えたー―あのとき。
 この腕で守りたいと、確かに思っていた。
 この腕で守れるものが、まだ、あるなら。それはきっと……。
「――…北沢、祐正」
 涙が溢れる。
 ――このとき壊れたのは、ちいさな恋だと教えるように。




 
20050426