彼女の身体からは、いつも甘い、柔らかい匂いがした。その香水が何という名前なのか亮には判らない。けれど昔から気に入って使い続けているその香りは、
歳のわりには子どもっぽいはずだと彼女は笑っていた。そうは思わなかった。少しゆっくりした喋り方をする彼女、時々とんでもないことを仕出かして周囲を笑
わせたり驚かせたりする彼女、驚くくらい、無知すぎた。――甘い柔らかい香りは、彼女だけのものだった。
それとは正反対の香りを、沙希は纏っている。
鼻腔を擽る匂いに、思わず眉間に皺が寄った。今日は香りが違っている気がしたからだ。
「あまりいい顔をしないわね。香水、そんなに嫌い?」
「いいえ。――嫌いではないですよ、貴方のは。ただ今日はいつものと違うなと思って……」
「敏い男は好きよ」
唇を上げて笑う沙希と他愛のない会話を交わす時間は、そう嫌いではない。毎週火曜日と木曜日の夜、亮は沙希のために時間を空けることにしている。その時
間だけ彼女に拘束されることが、交わされた契約だった。――契約と呼ぶにはあまりにもやさしい、緩やかな時間ではあるけれど。
「……北沢さんの撮影、もう終わってたんですか?」
「そうよ。北沢からは何も聞かされてないの?」
尋ねた言葉に尋ね返され、亮は小さな苦笑とともに首を振った。本当は寝耳に水に近い話だった。その反応が意外だとでもいうように目を丸めてから、沙希は長い髪を器用に括り上げる。すると綺麗なラインの首筋が露になり、不思議と凛々しさが増すような気がした。
「みなみにとっては初の海外ロケもあったからね。北沢には随分手間をかけさせたと思うけど、さすがだわ。北沢、女の子の扱いが上手よ。みなみも気が強いところがあるからどうなることかと思ったけど、上手く乗せてくれたみたい」
沙希の赤い唇が満足そうな笑みを作る。それを見て、亮は内心の驚愕を殺しながら微笑んだ。
「……北沢さんは、あなたの満足のいく仕事ができたようですね」
「そうね。八十点ってところかしら」
「高得点だ」
かなりシビアな判断を下す彼女にしては甘い点数である。それほどに祐正を気に入っているのだろう。ふいに、テーブルの上に置き去りにした携帯電話に視線
が向いた。その北沢祐正との唯一の連絡手段である携帯に気を取られていると、沙希が思いも寄らない言葉を投げかけてくる。
「北沢とは寝れた? 何回?」
「……沙希さん」
歯に衣を着せない沙希の言葉に、亮は思わず頭を押さえた。
「隠すことでもないでしょう。――北沢はね、今まで本当に詰まらない仕事しかしてきていないの。アイドルのグラビアを撮った数なんて片手で数えて余るくら
いよ。それが今回は写真集丸々一冊分でしょう? それだけの仕事を受けてくれるなんて、相当に亮を気に入ってるってことだと思ってたんだけど――それに、
亮。中学生みたいな恋愛をするのはお止めなさい」
さっきから携帯の着信ばかりを気にしている亮に、沙希は悪戯っぽく微笑みかけた。何の話だと不本意そうに深く眉を寄せてみてもこの女には通用しない。
「北沢とこのあと、待ち合わせでもしてるの?」
「……はい」
予定していた時間よりも少し遅れる、と祐正からの連絡が入ったのは、一時間ほど前だ。前もって約束をしていること自体が珍しいが、今回は一応祝い事である。
「この間――最後に会ったときに、少し元気がなかったんです。そのままあの人撮影に入ってしまったし、暫く会わないから気になってて」
「ふうん。気になって、ね。それで、まだ北沢のところに行かなくていいの?」
「優先順位から言えば貴方が上ですよ。それに仕事が終わらないから少し遅れるってさっき連絡が……」
「そう。だから携帯を気にしてたのね」
意味深に笑って見せた沙希にも返す言葉が浮かばない。この人は、いつも自分の上を行く。
「仕事って何かしらね。北沢がグラビアを撮るって話は聞いてないけど……」
「グラビアではないと思います」
今どこにいるんですか、と尋ねた亮に、祐正は暫く言葉を濁らせながらも、著名人が多く住まいを構えるある高級住宅地の地名を告げた。けったいなところに
いるものだ、と思いはしたものの、仕事の話なので深く追求はしなかったが、どことなく車中にいたような気はする。
「じゃあパパラッチでもしてるのかしら」
ぶつぶつと独り言のように呟きを続ける沙希に、亮は首を傾いだ。
「パパラッチ?」
「聞いてないの? あの子、週刊誌に売るネタも撮ってるのよ。北沢祐正名義ではないけれど。別名でね」
そう言って沙希は、指先でシャッターを押す仕草を見せた。追う、とはつまりスキャンダルのことだろう。
「あの人、そんなこともしてるんですか……?」
「宝の持ち腐れっていうのよね、そういうのを。時間ばっかりかかって大した稼ぎにはならないでしょうに。もちろん、北沢がそういう仕事をしてるって知ってる人のほうが少ないけどね」
沙希自身が北沢に興味を持っているだけあって、多大な情報が流れてくるのだろう。その情報は信頼に足るだろうかと考えかけて、苦笑する。考えるだけ無駄だ。
「沙希さん、そろそろ時間、大丈夫ですか」
「あら、そうだったわ」
口元に手を宛てる仕草を見せ、沙希は素早く身支度を整えるとバッグを掴み上げる。もう時間は深夜と言ってもいい頃であるにも関わらず、これから沙希は関係者との打ち合わせを控えていた。気楽な学生である自分とは違い、彼女は毎日大忙しだ。
「女はね。やろうと思えば感情だけでも恋ができるの。亮にはそれができないんでしょうね。だから私には、恋をしなかった」
「――沙希さん?」
マンションのエントランスまで沙希を見送っていると、別れ際に沙希が赤い唇を釣り上げながら呟いた。
「男は嫌ね。身体がないと恋もできないなんて」
「それは……」
どういう意味だと尋ねる前に、沙希が言葉を遮る。
「北沢に伝えておいて。――たまには亮を、私に返して頂戴ってね」
笑った沙希の笑顔に気を取られていると、呼びつけておいたタクシーが姿を現した。放たれた言葉の意味を咀嚼する暇もなく、沙希はタクシーに乗り込んでしまう。
彼女は不思議な女性だ。愛人関係と称されていながらも、彼女が金銭と引き換えに肉体関係を迫ってきたことは一度もない。綺麗なものを見るのが好きなの。
そう言って、亮のある一定の時間を確実に拘束しているに過ぎない。言葉通り、彼女は心だけで恋しているのかもしれないし、むしろそれすらも口実にすぎない
のかもしれない。
事務所に所属するすべてのタレントに彼女は惜しみのない親愛の情を持つ。そしてそれ以上に、ある理由から、彼女は亮に対して誠実だった。
――身体がないと、恋ができないどころではない。自分は最早、恋自体をすることができないのだ。
タクシーを見送りながら、ぼんやりと思う。彼女を美しいと思う、同時にその人格にも惹かれてはいる。けれど恐らく、誰かに焼け付くような思いを抱くことは、二度とない。自分が男である限り、もう二度と、誰にも。
性欲は、大罪だ。
今もこれからも、一番に自分が嫌悪しなければならないものだ。
タクシーを見送ったあと、引っ張り出した携帯電話を、亮は随分長い時間見つめていた。
待ち合わせた店にやって来た祐正は、少し疲れた顔をしていた。けれど疲労からの不機嫌さがあるようには見えない。むしろその反対の機嫌のよさである。沙希の言葉を信じるなら、満足のいくネタが手に入ったということなのだろう。
祐正の顔を見た瞬間、元気そうだと、亮は心から安心した。最後に会ったあの日――昔の友人であるという、宮坂正人に会ったあの日、彼はひどく沈み込んでいたから。
「悪いな、予想以上に時間かかっちまった」
いつものカウンター席に腰を降ろした祐正は、メニューも見ずにバーテンに注文を告げる。亮でさえすっかり馴染みになってしまったバ―テンダーは、人の好さそうな顔を困ったように歪ませた。
「全くもう、君はいつも閉店間際に来るんだから。たまには定時に僕を帰らせてくれないかな」
「堅いこと言わないでよ。俺と小坂さんの付き合いでしょ」
この店のオーダーストップは平日は二十三時半、閉店は0時だ。一応はまだオーダーをギリギリ受け付けてもらえる時間だとしても、祐正がやってくるのはいつもこの辺りなのだろう。毎回がこうなら、小坂が嘆息したくなる気分も判る。
「今日はちゃんと時間になったら帰るよ」
「そういえば、ここ最近君を探してる男の子が来てるよ。今日は来てないみたいだけど……」
「男?」
ふいに小坂が告げた言葉に、祐正が怪訝そうに眉を寄せた。
「北沢祐正さんはいますかって、ちょっとだけ顔を見せるんだ。今日は来てないよっていったら諦めてすぐ帰ってくれるんだけどね」
「幾つくらいの?」
「高校生くらいかな? もっと若いのかもしれないけど、童顔なだけかもしれないしね。あの年頃は年齢判断が難しいな」
小坂の口調からは危機感と言うものが全く感じられない。
「懐かしいね。そういえば何年か前にも似たようなことを言いながらここで梶原さんを待ち伏せしてた男の子がひとりいたなあ。あの子は何て名前だったかなあ」
「小坂さん……」
勘弁してくれ、と祐正が小さく呻く。どうやらそれは祐正のことを示しているようだが、あまりにも呑気な二人に、亮は口を挟まずにはいられなかった。
「……ストーカーなんじゃないんですか?」
「言ってろ、馬鹿」
自分にも覚えのある行動だからだろうか、祐正でさえ危機感を抱いていない。些かの不安に駆られたものの、自分だけが気を揉ませているのも馬鹿らしく、そのまま世間話に突入した小坂と祐正の会話を聞きながら、亮は黙り込んでいた。
「いやいやわからないよ、片山君の言う通り、祐正君のストーカーかもしれない。可愛い男の子だったよ、おめでとう」
「あのねえ。いい加減にしてよ。俺のファンだとか、そういういい方向になんで行かないわけ?」
「ファンなんているの?」
平和だ。会話だけを聞いていると、いたって平和である。心配しろというほうが無理な話なのかもしれない。
「――そういやこないだカメラマン仲間からもらった焼酎があるんだ。この後それ飲もうぜ、うちで」
小坂に向かって笑みを零していた祐正は、そのままの笑顔を向けて亮に尋ねる。こちらが戸惑ってしまうくらいに全開の笑顔だ。今日は本当に機嫌がいいらしい。
「俺は構いませんけど――北沢さん、疲れてるんじゃないんですか。こんなに遅くまで仕事で」
「明日はオフだから大丈夫。おまえのほうこそどうなってんの」
「どうって……」
「今から騒がしくなるんじゃねえの、お前。顔が売れりゃ仕事も増えるだろ」
「さあ……」
「……さあってな。自分のことだろ」
「そんなこと言われても……そうそう事が上手く行くとは思わないし、これ以上大きな仕事を受けるつもりもありませんから」
祝い事、とはつまりそれである。亮にとっては初めての大舞台になった仕事が完全に終了し、あとは世間に流出するのを待つ段階になったことを祝っての約束だった。既に祐正が撮ったポスターは、街中に張り出されている。
今日の誘いをかけてきたのは祐正で、祝ってやる、とそれだけの短い言葉で誘われたのは昨晩の話だった。まさか彼がそれほど亮の仕事を気にかけていたとは思わず、連絡が来た瞬間にはひどく驚いたことをよく覚えている。
「なんで?」
「なんでって……俺は社長から言われた仕事をやっているだけだし、モデルで食っていくつもりもないですから。こんなに大きな仕事を任されるのは、これが最
初で最後です。社長にも緘口令を引いてもらったから、万が一のことがあってもそれほど騒がしくはならないと思いますよ」
「……そんなんでよく宮坂が納得したな。お前を一番商品にしたいのは、あの人だろ」
「確かに説得はされましたけど……」
商品発表には大掛かりな会見などは行われなかったし、PR活動のどれにも亮は参加しなかった。名前はおろか、詳細なプロフィールさえ公表していない。逆に謎の部分が多いだけで話題に上る可能性もないわけではないが、その辺りは沙希の手腕を信じている。
「自分から輝こうとしないものは、どんなに手を加えたって、どんなに御膳立てされたって輝きませんよ。それはあなたが一番知ってるでしょう」
「……まあな」
祐正は詰まらなそうに相槌を打つと、運ばれてきたグラスを揺らした。
「お前の長所は顔だけだ。他にはこれと言って個性もない。やる気がねぇんなら、これ以上売れないだろう」
それは言いすぎだ、と苦笑しながらも、亮は静かに頷いた。自分は売れることを望んでいない。
「俺のやる気を引き出せないのは自分の力不足だってあの人は嘆いていましたけどね。……俺にはそんなに価値はないです」
御膳立てされすぎた今回の大舞台は、亮にとっては特例だ。自分の姿がテレビに流れると言われても、まだ現実味が沸かない。そう言った意味で、亮はひどく一般的な感覚を持っている。
「ひとつ忠告しといてやる。――お前自身が変わらなくたって、これから周囲は確実に変わる。あんまりのんびりしてると、足元掬われるぜ」
祐正は視線も寄越さず、グラスを傾けて一気にそれを飲み干す。亮が応えるよりも早く、祐正は下らないと言わんばかりの表情で小さく吐息を落とした。
「……つまんねぇ話だったな。悪い」
そう呟いたきり、祐正は空のグラスをゆらゆらと片手で揺らしている。手持ち無沙汰気味に亮は手にしていたグラスの中身を飲み干した。自分は変わらないの
に、周囲が変わる。そうだろうか、とぼんやり考える。そもそも自分を取り巻く周囲というものが、亮には今ひとつ覚束ない。ひっそりと通っている大学には友
人と呼べる人間は殆どいないし、日常は沙希の元と自分のマンションを往復しているだけだ。変化するだけのものがない。
「……場所、変えよう。小坂さんが煩いからな、ここは」
亮のグラスが空になったのを確認してから、祐正はゆっくりと腰を上げた。
祐正のアパートに帰り着くと、すぐに彼はキッチンから貰い物だという泡盛の瓶とグラスを二つ持ち出してきた。相変わらず散かっている部屋に何とか座り込
み、テーブルを囲うと、祐正は徐にテレビを点ける。丁度放送されていた深夜番組のバラエティから、作り物の笑い声が漏れた。
「何か見たい番組でもあったんですか?」
亮の問い掛けにも応えず、携帯で時間を確認した祐正はどこか満足げに笑いながら早速グラスにアルコールを注いだ。
「間に合ったな。――まあ黙って見とけって」
釈然としなかったものの、言葉に従ってテレビを見つめているうちに、画面はバラエティからCMに切り替わる。小坂の店を早々に出たのも何か考えがあってのことだろうし、何よりも初めて口をつけた種類の酒は文句なしに美味かったので、亮はそのまま口を噤んだ。
「ほら、始まった。目ん玉見開いて、よーく見とけよ」
グラスを持った手で促され、亮はテレビ画面に視線を向ける。聞き覚えのある音楽が鼓膜を震わせた。それは一時期、嫌になるくらい聞かされていたものだ。
イメージソングに迎えたのは、名のない新人アーティストだったと記憶している。新しいものには、新しいものを。そう考えたのかは知らないが、どの媒体を通
じる宣伝にも、顔となるモデルやアーティストに新人を起用していたはずだ。
音楽とともに、一瞬だけ男の顔が映し出される。ゆっくりと瞬きをする、その一瞬。直ぐに画面は手首へと向けられ、その先で輝くアクセサリーへと焦点が変わった。
「ああ、これ、他のモデルさんの手ですよ。やっぱり綺麗だな」
「うるさいな、黙って見とけ」
映し出された腕は、それだけでは男のものか女のものかは判断できない。白い肌に映えるように輝いた宝石は、硬質なシルバーに覆われている。その腕と、直前に映った顔だけでは、性別を判断することができないだろう。
――上手いな。
亮は本気で感心してしまっていた。男だとすぐさま判断したのは、それが自分自身の顔だったからだ。なのに構成自体は上手く性別をぼかされている。メイクと角度のおかげだ。だが最終的に映し出された全身のシルエットで、結局は男だとわかってしまうのが残念だ。
それ自体は、たかが数秒の短いものだった。そのうち亮が映されていた時間は、もっと短い。あくまで主役のアクセサリーを引き立てるための存在なのだから当然だ。
「お前も一番いい角度で撮られてる。綺麗だ」
綺麗だなんて言葉を、まさか祐正から聞くことになるとは思わなかった。放送が終わった後、率直にそう言った祐正の顔を、思わずまじまじと見つめてしまう。
「なんだよ?」
「いえ……。あの、これを見るために帰ってきたんですか?」
「そうだよ。お前自分の出たCMが最初に流される日程くらいチェックしとけよな。どの番組に提供されるかくらい聞けば教えてもらえるんだから」
「……そうですか」
余りにもあっさりと頷かれてしまったので、却って拍子抜けしてしまう。例えそれが真実だとしても、彼はもう少し誤魔化したりするものだと思い込んでいた。
「俺の予定じゃもう少し小坂さんとこでゆっくりできる予定だったんだけど、梃子摺ったからな、今回は。こんなことじゃ最初っから待ち合わせウチにしとくべきだった」
初オンエアを目の前にしての祝い酒が、祐正の描いていた今晩のスケジュールだったらしい。こんなことをするのは彼らしくない、と考えかけて、これが最も彼らしいのかもしれないと、反対に思った。
「梃子摺ったって――そういえば北沢さん、パパラッチもやってるんですね」
「……誰から聞いた?」
CMを見届けた祐正は満足そうに姿勢を崩し、グラスを口元に運んでいた。その動きが、亮の言葉によってピタリと止まる。
「時間がかかるくせに金にはならないから止めてほしいようでしたよ、うちの社長は。そんな時間があるなら撮ってほしい子がいるんでしょうね」
「……なんでお前んとこの社長がそんなこと知ってんだよ」
「さあ。ああ見えて情報通なんでしょうかね、俺の知らないところで」
素知らぬ振りをして、亮はグラスを呷った。曖昧に誤魔化したのは、自分の周囲の情報を嗅ぎ回っている存在がいる話は、していても聞いていても気分のいいものではないだろうと判断したからだ。
「金にならねーっつってもピンキリだよ。今追ってるヤツは……まあまあ、金にはなるかな。どうだろうなあ……」
「いつもそんなことしてるんですか?」
「まさか。たまにだよ。ネタ売ってくるヤツは別にいて、俺はそれを確かめて証拠を撮るときに動くだけ。売れるようなネタなんてそうそう沸いて出てくるもんじゃねえしな。金と時間が割りに合わないときはやんねーよ、……金がないとき以外は」
「――まさか、今、金に困って……」
金の話は深刻な問題である。思わず心配しかけたそのとき、祐正があっさりと首を振った。
「別に。今回は時間が余ってたし面白そうだったから」
「……そうですか」
亮の心配は、結局杞憂に終わった。そう言えば以前、祖父から残された金があるだのないだのという話を聞いたことがあるから、元々心配など要らないだろう。
「宮坂が知ってるってことは、俺が副業やってるって話はだいぶ広がってんのかもな」
やり難い、と苦々しく眉を顰めた祐正に、亮は笑って首を振る。
「その心配はないと思いますよ。あの人は個人的にあなたの話を知っているだけだろうし、口は堅い」
「パパラッチなのは、あの女なんじゃねえのか……」
心底嫌そうに呻いた祐正に、そうかもしれない、と笑いかけて、ふいに疑問が頭を過ぎる。
「――社長は、何故あなたにそこまで執着するんでしょうね」
考えれば、祐正に纏わる情報の殆どは沙希の口から語られている。他にもカメラマンは幾らでもいるのに、どうしてか彼女は祐正に拘り続けているのだ。
「俺の腕がいいからだろ」
それが不思議でもあり、祐正の答えが当たり前のようでもあった。
彼女は他人に根付く才能を、何よりも愛している。そうでなければ、他人を輝かせることだけが遣り甲斐のような仕事はやっていられないだろう。
「じゃああなたは、どうして社長との繋がりを求めていたんですか」
僅かな沈黙に、カランとグラスの中で氷の鳴る音が散った。
「――ボーダーを見極めたかったんだ」
「ボーダー?」
「今回の――宮坂から依頼されたグラビアの仕事には、あの写真が来なかった」
氷が随分と溶け出し、水割り状態になったロックのグラスを傾け、祐正は呟くように続ける。あの写真とはつまり、脅迫代わりに送られ続けている写真のことだろう。
「半年くらい前に、別の出版社から依頼が来たことがあるんだ。そのときは新人アイドルじゃなくて、もうかなり売れてる女の写真集だったけどな。仕事内容は今回と同じだった。――引き受けた三日後に、写真が送られてきた」
「……どうして今回は、脅迫がなかったんですか」
以前警告されたものと似たような仕事であるにも関わらず、今回だけ祐正は自由に仕事をすることが出来たのだろう。驚愕を留め、亮は声を押し殺して問いを重ねた。
「わかんねーよ。だからボーダーが欲しかったって言ってんだろ。宮坂のところから請け負った仕事には警告がない。今は、それだけで充分だ」
「それは……」
口にしかけて、結局亮は口を噤む。恐ろしい考えが浮かんでしまったからだ。
「お前んとこの社長は関係ねーよ」
亮の胸のうちを読んだかのように、祐正はグラスを揺らしながら断言する。
「……でも」
「あの女は、自分の気に入ってる人間を潰すような真似はしないだろ。宮坂に恩のある人間か、逆らえない人間かって考えるのが妥当だ」
それはまた随分範囲の広い話だと、亮は知らず眉を顰めた。沙希には敵も多いが、味方も多い。変なところで姉御肌なところがあるものだから、彼女に恩のある人間は幾らでもいるはずだ。
「俺、社長の身辺を探ってみましょうか」
「……止めとけ」
底に残った僅かな液体を飲み干し、祐正はひどく静かに笑う。
「前から宮坂の周囲が臭いって気はしてたんだ。お前んとこ絡みの仕事には、なんでか邪魔が入らねえ。今はそれだけで充分だし、まだ確信が持てる段階じゃない。それに――お前は、あっち側の人間だろ」
続けられた言葉に、ひやりと冷たいものが身体中を駆け巡った。忘れかけていた、考えないようにしていた、何かを。
「俺を……利用しないんですか」
「もう充分したろ。ボーダーを見極めるのに相応しい仕事をお前は持ってきてくれた。感謝してる」
最初からそういう形だったことを、叩き付けるように。
「……社長からあなたを繋ぎ止めておくように命令されてるんですが、俺は」
痛みの少ないやり方で、亮は言葉を選んだ。心底困り果てたように――祐正の勝手に振り回され、呆れているような声で。
「そりゃあ悪かったな」
たった今飲み干したばかりのグラスに透明の液体を注ぐと、祐正は亮に向かってボトルを差し出してくる。亮はそれに首を振った。これ以上飲む気には、どうしてもなれない。
「お前は――どうやったって俺に構いたいんだろうけど、止めとけよ」
言葉の意味を図りかねて、亮は眉間の皺を深くした。
「……どういう意味です」
「お前、俺の役に立てば少しは自分の罪悪感が拭えるとでも思ってんだろ」
思いがけず、その言葉が胸を深く抉った気がして、亮は言葉をなくした。
「俺に昔のオンナ重ねて見るのはお前の勝手だけどな」
「……そんな」
「そんなつもりがなかったって言えんの? お前は最初ッからそうだよ。大体な、合意で寝た相手に初っ端から謝る馬鹿がどこにいんだよ。お前はあのときから、昔のオンナと俺をごっちゃにしてんだ」
そんなつもりがなかったと――胸を張って、言えるだろうか。
たった今祐正の口から叩き付けられた言葉を、胸のうちで繰り返す。
「あなたと、……あいつは、違う」
「違うよ。当たり前だろ。けどお前の頭ん中じゃ、昔のオンナも不幸で俺も不幸。だからお前は俺を構いてーんだよ」
「違う」
否定する声だけは、自分でも驚くくらいに強い口調になった。
「……あいつは、不幸なんかじゃない」
まるで零れるように唇から突いて出た言葉を己の耳で聞いた瞬間、不思議なくらいに悲しくなる。――不幸なんかじゃ、ない。そう思い込んでいたいのは、
きっと自分だけだった。不幸なんかじゃない。可哀想なんかじゃない。もしも彼女が哀れだというのなら――自分が愛した意味がない。
「そんな顔するなよ」
あの甘くて柔らかな匂いのする女を、愛し続けた意味がない。震える身体を抱きしめ続けた、意味が。
呆れたように笑って、けれど瞳だけは優しい眼差しで、祐正は真っ直ぐに自分を見詰めた。そっと持ち上がった掌が、頬に触れる。
「なあ、そんな綺麗なのに、泣きそうな顔なんて、するなよ」
愛していた。本当に、愛していた。だから絶望もした。この掌で救えなかったことを、抱きしめられなかったことを、絶望した。彼女を追い詰めたものに絶望した。自分の中に確かに存在するそれに、絶望した。
「……ああ、そうだな。不幸なんかじゃない」
頬を包み込んだ掌は、無骨でいて柔らかかった。暖かかった。そうして続けられた言葉も、自然と胸に染み込んだ。
「お前にこんなに愛されて、不幸な女なんかいるわけない」
じわりと心臓に染み込んだそれは、ゆっくりと範囲を広げて涙になって溢れる。愛していた。本当に――愛していた。
「俺は、あんたと二回寝ました」
「……ああ」
「二回とも欲情した。男に……それもあんたなんかに。俺は……」
ひどい言い草だと笑う祐正の静かな相槌に助けられて、亮は喉から声を押し出した。どうしてだろう、今こんなにも泣きたい気分になるのは。長い時間凍りついていたものが一気に溶け出したように、ひどく不思議な気分だった。
「……俺は、その俺を、殺してやりたい」
堰を切ったのが、他の誰でもないこの男であることが、不思議だった。
「他の誰でもなく、あんたに欲情してしまった俺を、殺してやりたい」
瞬間、祐正の表情が不可思議に揺れた。何かを堪えるように僅か歪んで、けれどそのささやか過ぎる感情の意味を読み取ることはできない。
思い出すのは震えた背中。
わかっていた。彼が何かに深く傷ついていたことを知っていた。それなのに抱きしめることもできなかった。ただ、壊れ物のように見つめていた。
「もう止めとけよ。な」
それは、幼子に言い聞かせるかのように穏やかな声だった。
「俺に関わるなよ。おまえも、しんどいんだろう。忘れろよ。……忘れろ」
呟きに、亮の手が意志を持ったように持ち上がる。その腕は、祐正の背中を抱きしめた。縋るように抱きしめたかっただけなのかもしれないと、あとになって気付く。あのとき抱きしめられなかった身体の、代わりに。
「……同情されるのは、あんま好きじゃねーんだ」
小さく落とされた声に、胸が軋みを上げる。なのに彼の身体は、少しも自分を拒んではいなかった。だから抱きしめる腕に力を込める。それでも祐正は、まだ抗わない。身体を預けられていると、確かに思った。同じ体温を感じていると。確かに、思った。
――彼と、自然と抱き合ってしまうのは何故だろう。
このときは、そんなことばかり考えていた。