――だけど、全てを知っていたわけではありません。多分殆どの事実に気付いてはいたけれど、気付けなかったこともたくさんありました。
俺はいつか君に、犯人は宮坂社長に関わりのある人物かもしれないと言ったことがあると思います。今回の――写真集の仕事への妨害が入らなかったことが関係していましたが、あれは俺の見当違いでした。
彼は、俺を「妨害しなかった」のではなく、「妨害できなかった」のです。
宮坂社長からの依頼を受けた直後に、葛木蓮次は以前から入院していた病院で、意識不明の重体に陥りました。正人の話によると、それから小康状態と意識不
明の状態とを繰り返していたようなので、彼は周りの人間とまともな会話を出すこともできなかったのでしょう。
だから彼は、俺を「妨害できなかった」。
もうひとつ。
俺には、正人がどこまで関与しているかを、正確に判断することができませんでした。
正人が最後にあの場にいたことは確かです。一番最後に俺を抱いたのも正人です。彼は高校時代から同じ整髪料を身につけているので、視界を閉ざされていて
も、俺には正人の姿だけが見えていました。俺が彼を間違うことだけは、決してありえなかった。そのことに正人が気付いていなかったのが、彼の愚かさです。
ただその行動を葛木に示唆されたのか、そして正人が進んで写真を脅迫の道具にしていたのか、俺にはその判断が長い間下せませんでした。正人が積極的に俺の道を阻むはずがないという自信があったからです。
正人に最後に会ったのは、葛木の告別式の夜です。そのとき正人は、「すべて葛木に指示されていた」と言いました。正人は、葛木に指示されたときにだけ、俺にそれを送りつけていたそうです。もやは脅迫ですらあったと。
写真とデータをずっと葛木が所有していたということは、多分本当だと思います。葛木が入院した隙を狙って、正人がそれを葛木の家から持ち出したというのも、本当だと思っています。
君に写真が渡ったとき、一度は手に入れたはずのすべてのデータを、正人は既に失っていました。たぶん、自分が犯した罪がいつか暴露される危険への焦りもあったのだと思います。あるいはもう嫌気が差して、葛木の意識がないうちに、手放してしまいたかったのかもしれない。
……ともかく俺は、俺をレイプしたうちのひとりが正人だということに、とっくの昔に気付いていました。
だからこそ俺はずっと口を噤んでいたのかもしれないし、それを認められなくて気付いていないふりをしていただけかもしれない。
今は、よく、わかりません。
ただ以前君に話したように、俺が沈黙することが正人のためになるなら、それも構わないと思っていたことは確かです。
葛木蓮次という人間のことを、君は知らないと思います。
丁度、俺の祖父、北沢常保と同時期に活躍して、今もなお権威を持った写真家の大家であり、宮坂正人の師事する偉大な……とても偉大な、カメラマンです。
俺は祖父の影響によって他よりも容易に地位を得ましたが、代わりに、たくさんの怨恨も背負いました。そのひとつが、葛木蓮次との関係です。俺が祖父から
その名を聞くことは殆どありませんでしたが、葛木蓮次と祖父の間に確執があったことは、この業界では有名な話だそうです。
長い間祖父と憎しみあってきた葛木の憎悪は、祖父が逝去したことで一旦は拭われたようですが、あの人の名前を継ぐ俺が現われたことで、再び葛木の胸に忘れかけていたそれが甦ったのでしょう。
彼は、何がなんでも俺を潰してしまいたかったのだろうと思います。できるだけ長く尾を引くやりかたで、根こそぎ絶望するやりかたで、俺を追い込みたかった。
そうまでして俺を陥れたかった葛木の感情、憎しみと呼ぶべきそれが、俺には、よく判りません。
ただ、一時的に意識が回復した葛木に、俺が引退するかもしれない、という話を正人が告げたことがあるそうです。
そのとき、彼は、ひどく爽快に笑ったのだと、正人は言いました。
俺が写真を撮り続ける道を捨てると聞いて、葛木は、ひどく嬉しそうに、笑ったそうです。
葛木はそれからすぐに、息を引き取りました。
祖父と葛木の間に何があったかは知らないけれど、俺は、それだけで充分だと思います。死の間際に笑った老人の望みが俺の挫折だったということ。それを知っただけで、俺にはもう、充分だと思う。
祖父が葛木に何をしたのか、葛木が祖父に何をしたのか、何があったのか、俺には興味がありません。ただ祖父は素晴らしい写真家でした。葛木蓮次も素晴らしい写真家でした。俺と正人にあった蟠りに自分と祖父を重ねて、愉快に笑うような男であっても。
俺の愛する宮坂正人というカメラマンを育てた、素晴らしい写真家でした。
正人は、完全に、写真という表現方法を捨てることになると思います。もしかしたら、もう業界から引退している頃かもしれない。
俺は一年間、彼を待ちました。俺が身動きのとれない間に、あいつが評価されるというのなら、いくらでも待ってやれた。自己犠牲のような気持ちで、彼が輝く瞬間を待ち続けていました。
なのに、俺という障害が除かれているにも関わらず、あいつは結局俺の上を行けなかった。俺よりも上へ、進めなかった。
同情で俺が息を潜めていたことを知ったあいつは、もう二度とカメラを手にできないでしょう。俺の知る、誇り高い彼であれば、二度とカメラを手にしないでしょう。
どうしてあいつは俺を恐れたりしたのだろうと、今でも思います。
あのままなら、彼はきっと、いい写真が撮れたのに。
これが、君に話しておきたいことの全てです。
宮坂社長が関わっているかもしれない、などという俺の勘違いで、君には迷惑をかけました。巻き込まれなくてもいいことにまで、巻き込んでしまった。悲しまなくてもいいことにまで、悲しませてしまった。
それを、申し訳なく思います。
俺は君に、あの写真を見せるべきじゃなかった。
君は俺に関わらなくてもいい人間でした。
けれど、優しくされるのが嫌いな人間などいないということを、俺は君に教えられました。君の掌があまりにも優しかったので、自分がまるで、宝物にでも
なったような気さえしていました。だけど君の優しさは、悲しみと同じ形だということにすぐに気付いてしまったので、少し淋しくもなりました。君の悲しみが
俺に重なっていなければ、きっと君は、俺なんて気にもかけなかっただろうから。
だけど、君がひどい優しさが、俺を正気に返す。
俺に、揺さぶりをかける。
君の掌だけが、俺の背中を、押す。
君が、好きです。
君のやさしかった言葉が、君のやさしかった掌が、涙が、好きです。
君はもう、とっくに、気付いているだろうけれど。