そして、彼は手紙の一番最後で自分の長い不在を告げ、「いつかまた会えたら」と、どうでもいいことのように付け加えていた。
「ああ、帰国なら半年か一年か。とにかくずいぶん先の予定らしいな」
手の中でグラスを揺らしながら、事も無げに梶原は言って退けた。予想を遥かに超えた日数に、亮は驚愕する。
「一年……!?」
「なんだ、聞いてなかったのか」
口を閉じ忘れたまま絶句するしかない亮の前に、爽やかな笑い声を聞かせながら小坂がそっとグラスを置いた。梶原さんの奢り、と差し出されたグラスにも反応を返せず、亮はひたすらぎこちのない動きで穏やかなバーテンダーを見上げる。
「あの……北沢さんが帰ってくるのがそんなに先の話って……本当なんですか?」
「うん。多分、本当。またいつもの旅行かなんかかと思ってたんだ?」
「……思ってました……」
図星を刺された亮は呻くように答えながら、アルコール度の高いそれを喉奥に流し込んだ。やたらに苦い。
「僕にはちゃんと挨拶して行ったんだけどね。とりあえず渡米して、それからしばらく帰ってこれないのは決まってるからって」
「そうなんですか……?」
畳み掛ける小坂の言葉に、尚更、喉が熱く、苦くなった。
大学が長い春休みに入り、亮でさえぼんやりと進級を意識し始めたころ、北沢祐正は一応業界から引退した。ちらほら舞い込んでくる仕事も完全にシャットア
ウトした状態で、祐正が仕事で写真を撮ることは、少なくともこれから数ヶ月はありえないのだろう。しかしそれは、一時的な引退でしかない。休業である。
彼は、日本を飛び出してしまった。それを一時的な――例えば数週間、或いは一ヶ月という短期間のものであると思っていたのは、どうやら亮だけだったらしい。
「引退っていう言葉はそもそも正しくないんだ。大方どこかで話が捩れて伝わっちまったんだろうが、留学っていう言葉が一番近いのかもしれないな。こっちじゃそこそこ名が知られてても、あいつはまだ無名の新人だ。経験は足りない」
「――はあ」
唇で煙草の煙を吐き出しながら、修行が要ると呟いた梶原は、けれどどこか亮の反応を面白がっているような顔をしている。
祐正の、引退を覚悟してまで渡米した気持ちなら、まだ理解できる気がする。今までの一切をかなぐり捨て、一から学び直したいと思ったのだろう。それに期
間を定めるように進言したのは、梶原だというのも今初めて聞いた話だった。逃げるつもりでないのなら必ず帰ってこい、というのが、いかにも祐正の性質をよ
く知る人物らしい。
「……英語、話せるんですか、北沢さん」
見当違いな心配に眉を寄せた亮の言葉に、思わずと言ったように笑い出したのは小坂だ。
「あはは、面白い心配するね、片山くん。いや確かにそれが一番心配といえば心配なんだけど。祐正くんあの性格だから、きっと大丈夫だよ」
打たれ強いから、と付け加えた小坂は、カウンター越しに腹を抱えて笑っている。
「俺があいつに紹介したのは日本語も話せるカメラマンだから、その人から指導を受ける分には心配ないだろう。……日常生活は苦労するだろうがな」
亮の元に祐正からの別れの挨拶、と呼ぶには長すぎる手紙が届いたのは、つい一週間ほど前の話になる。それには亮が知らされていなかった事件の全貌と、もう彼が日本にいないことが記されていた。
長い長い、真摯な手紙だった。
その手紙の、「帰国したときに自分のことを覚えていればまた会おう」といった内容の締めの文章に驚愕し、その事実を確かめるために亮は今日ここに赴いたわけである。
偶然店を訪れていた梶原に事情を説明したのち、まるで人が違ったような丁寧な文体に驚いた、と項垂れた亮に「あいつは躾がいいから」と笑ったのも彼だ。
「親父さんが厳しい人だったからな。あいつは本来は至極丁寧で真面目な人間だ。畏まった手紙を書くことくらいできる」
「真面目っていうよりも、あまりにも丁寧というか……素直なんで面くらいましたよ、俺は」
手紙には、殆ど素としか思えない祐正の、照れも覆いも何もない率直な言葉が綴られていた。「迷惑をかけた」と謝る祐正の姿など、例え文章でも拝める日がこようとは思ってもいなかった亮は、差出人の名前を何度も確認してしまったほどである。
「……なんだか思ってたより元気そうに旅立ったみたいですから、別にいいんですけどね」
亮に残されたものはその手紙ひとつで、それ以外は何の連絡も受けていない。あの日深く抱き合ったのが嘘のように、胸にぽっかりと穴が空いてしまった気がするのは否めないけれど、それでもかまわない、と思った。
「目の前をふらふらされるよりは、目的を持って遠くにいてもらったほうがずっといい」
あの人の最後に見た、揺るぎのない少年の眼差しを思い出せば、そう思う他ないのだ。
それでもグラスの中でカラカラと鳴る氷の音がやけに切なく聞こえるのも、事実である。亮の複雑な胸中を見抜いたように、亮を横目で眺めた梶原は無言のままで小さく笑った。
「あの、それで……」
唇を湿らせて、少し緊張しながら言葉を選ぶ。
今日、この店に梶原が来ていたことは、予想外だった。平日の閉店間際ということもあってか、客は自分と梶原以外には存在しない。尋ねるなら、今しかない、と思う。
「梶原さんは、北沢さんが写真を撮らなくなった理由を……ご存知ですよね」
「――ああ」
沈黙のあとに、短い肯定が返った。
彼らは写真という共通項で、長い時間、深く結ばれている。突然仕事を放棄し出した祐正を、梶原が訝しまないはずがない。彼ならその理由を問い質すくらいのことはしているはずだろう。
「――君は思っていたよりも祐正と親密だったんだな」
梶原の目配せに、小坂が心得たように奥へと消える。
「一年……ともう半年になるか。あの日、あいつは俺のところに来た」
小坂の気配が消えた頃合を見計らって、梶原は口を開き、何か苦いものを飲み込むようにグラスを煽った。
――それは多分、夏のことだったと思うと、梶原は前置きした。
「びしょ濡れで、最初は雨宿りにきたのかと思ったんだ」
深夜、彼らしくない暗い声で叩き起こされた梶原は、涙交じりの声が懇願するまま自宅の戸を開けたという。そこで目にしたものは、崩れ落ちそうなほど傷つ
いた身体で笑う、祐正の姿だった。梶原は何も聞かず、祐正に温かな飲み物を与え、静かな眠りを与えてやったらしい。
「あいつに写真が送りつけられていたことを俺が知ったのは、つい最近だ。それまで、祐正はあのことについて何も話さなかった。――だから俺は、暴行を受けたのが終わりだと思っていたよ」
耳の奥に残る蝉の声と、噎せ返るような暑さ、そうして地面を強く叩く雨音を、今でも鮮明に思い出せると。
肝心なときに役に立たなかったと梶原は痛みのある声で呟き、溜め息に似た吐息を落とした。
「全部片付いたってあいつが俺のところに来たときに、やっと、俺は今まで起こっていたことを知ったんだ。……だからその辺のことは、俺よりも君のほうが詳しいんだろうな」
「俺は何も知らないんです。……北沢さんの手紙の中に書かれていた葛木蓮次っていう男のことも。――写真がいつ北沢さんに渡されていたのかも」
何もできなかったのは、自分のほうだ。
多分写真が祐正の元へ渡ったのは、自分と距離を置いていたあの期間なのだろう。あのころなら、自分は彼と連絡を取る気もなければ、手段もなかった。
――俺のことを心から同情してくれた君に、伝えなければならないことがあります。
全てが終結したことが詳細に綴られていた手紙のうちの、一文を思い出す。亮の知らないうちに祐正は何かしらの行動を起こし、全ての収束を図っていた。彼自身がくだらない、と評した檻から抜け出すために。
「葛木さんに関しては、俺もどこから話せばいいのか……」
「北沢さんのお祖父さんと何か確執があったらしいことは、手紙に書いてありました」
「……確執っていうのがどんなものなのかは、俺にもよく判らないんだよ。俺が北沢さんと出会ったときには、あの人はもう生き仏みたいな人だったからな」
祐正が手紙で語った事件の全容には、「葛木蓮次」というひとりの老人が深く関わっていた。
亮はその名を、確かに聞いたことがある。――宮坂正人の師事していた写真家だ。
「あの人も変わり者だったから、気の合わない人間はたくさんいただろう。色んな人間と衝突したり、迷惑なことをやらかしたんだろうっていう予想はつく。それが葛木さんだったとしても、どうしてあそこまで酷いことになるのかは……」
判らない、と苦く呟いて、梶原は手持ち無沙汰の掌に煙草の箱を転がした。
「思想の対立があったとか、金が絡んでたとか、……葛木が知り合いの政治家に圧力をかけてもらって北沢さんの仕事を干したって噂もあるな。とにかく二人に関して色んな話があるんだ。普通じゃ考えられないくらいにあの人たちはいがみ合っていた。それは、確かだ」
一度、たったの一度だけ、ひどく酔った北沢がこう言ったのを覚えている、と梶原は言った。
――もしも殺人が罪でなかったら、俺はとっくの昔に葛木を殺している。
それを聞いた瞬間、ぞっと背筋が凍りつくような気がした。
殺意さえ抱く憎悪なら、自分にも覚えがある。――それを躊躇うのは、裁かれる裁かれないという問題ではなく、人としての何かが殺意を阻むからだ。
「葛木さんは――愉快だったのかもしれないな。祐正と、自分の可愛がってる宮坂との間にも、大なり小なり確執があることを」
咎められなければ――殺していただろうか。
例えば幼い子どもに、どうして人を殺してはいけないのと、尋ねられて言葉が詰まる。犯罪だから、遺族が悲しむから、いけないことだから。そのどれもが正
解で、そのどれもが間違っているようにも思える、その迷いのある感情こそがれっきとした道徳であるはずなのに、それすら凌駕する殺意が、北沢常保にもあっ
たということだ。
「その憎しみがそのまま、北沢さんに向かったんですね……」
ひどく、やるせない気分になった。
――それなら祐正に、非はない。
「それから彼には、同性愛……というよりは少年愛か。その傾向があった。撮るものもそういうものは多かったし、そんな写真家は少なくない。ただ歳を取ってからは自分が行為を行うよりは、鑑賞するほうが多かった、――らしいっていう、あくまで噂だからな」
話の途中で、あからさまな嫌悪感に顔を顰めた亮を見て、梶原は慰めのように口元を歪め、小さく笑った。気休めには、ならない。噂が噂ではないことが証明されたようなものだ。その傾向がなければ、陥れるにしてもそんな思考には至らなかったはずだ。
「個人の嗜好について何だかんだ言うつもりもないがな。――やり方はあくどい。彼は、人の感情を利用しすぎた」
それが祐正の淡い恋心のことを示しているのか、それとも計れることのできない正人の胸のうちを示しているのか、亮には判断できなかった。
「データはどうやって北沢さんのところに?」
「ああ、それなら――おい、小坂!」
掌で転がしていた箱から漸く煙草を引き抜いて、梶原が店の奥に声を投げかける。見覚えのある赤いパッケージに、懲りもなく思い耽りかける意識を強引に引き止めながら、亮は小坂の登場を待った。
「はいはい、なんですかもう。人追っ払ったり呼んだり。こっちはこっちで忙しいんですよ」
「あいつはどこ行った」
「学君ならトイレ掃除に行ってますよ。三十分くらい前から」
「――ガキだからって甘やかすな」
「はあ、そう言われましてもオーナーを見習った結果こうなりまして。学君、呼んできましょうか?」
洗いかけの皿を持ったまま奥から現われた小坂は、梶原が頷くのを確認してから、再び姿を消した。
聞き慣れない名前の人物は、この店のバイト生だろうかと考えかけて、ふいに何かが思考の隅に引っかかるような気がした。
「――まなぶ?」
その名前を、たぶん、よく知っているような気がして。
口の中で小さく呟いたのと、「彼」が小坂に引き摺られるようにして現われたのは、殆ど同時だった。
「ちょっと梶原さん、聞いてくださいよ。三十分もトイレで何してんのかと思ったらこの子タバコ吸ってたんですよ、タバコ。生意気に」
「だってヒマだしトイレ掃除つったってやることねえし。タバコ吸うくらいしかやることないじゃないですか」
「夜更かしもサボりもいいけど喫煙まで認めちゃいないよ、僕は」
「……サボりも認めるな」
厳かに呟いた梶原に「だって、」と反論しかけた少年が、その視線をそのまま亮へと向かわせる。彼から見つめられるように、亮もまた彼を凝視した。
両耳に三つずつ開けたピアスの穴に、痛み切っている金色の髪、顔付きは生意気にも大人びていて、それに見合った体格も保持している。少年は、全体的にど
ことなく達観しているような雰囲気を持っていた。恐ろしいのは、これでも彼が未だに義務教育真っ只中の中学二年生だということだ。
「……学君?」
「あ? なに、あん――……ああ、ババアのヒモ!」
愕然と名前を呼んだ亮に、少年は一瞬訝しげに表情を険しくさせたものの、すぐに思いついたように目を丸めた。宮坂学。沙希の血の繋がらない息子、つまりは宮坂正人の実弟だ。
「つうかあんた、なんでこんなとこにいんの。ババアの相手しなくていいの?」
「それはこっちの――そんなことはいいから。沙希さんが心配してたよ。帰って顔を見せるくらいは……」
「ちゃんと電話で連絡は入れてるよ。小坂さんがうるせーから」
どういうことだと亮の視線を受け止めた小坂は、「まあ、未成年を保護する立場の人間として一応ね……」と誤魔化すように笑った。
「保護って……どういう……」
「あれ? 片山君がいるときに話したよね。なんか祐正君のストーカーしてる男の子がいるって話。それが彼。毎晩祐正君を店の前で待ってるし、なんか日に日にやつれてってるしで、見かねて保護してみたんだけど」
「してみたって――」
あまりにも軽い口振りに絶句した亮を余所に、梶原は学を顎でしゃくり、短く言った。
「こいつだよ」
「……は?」
「祐正にデータを渡したのが、これだ」
告げられた言葉を理解しきるよりも先に、学が目を剥き、動揺を隠さずに上擦った声で梶原を制止する。
「梶原さん! なんでそんなこと言うんだよ、祐正さんとこいつは関係ないだろ!」
「いいんだ。――関係あるからわざわざお前を呼んだんだ」
宥めるように「話してやれ、」と続けた梶原の声にも、学はすぐには頷かなかった。
「あんた、ババアの男だろ。なんでわざわざ祐正さんのこと知りたがるわけ?」
警戒心を剥き出しにした学の視線は厳しく、それゆえに、語られない祐正への親愛の情を感じられるような気がした。
今自分は、何の資格を持って祐正のことを知りたがるのかと、この少年に判定を下されているのだ。
「学君、……北沢さんと、知り合いだったのか?」
「知り合いつうか……。ちっちゃいときによく遊んでもらってた。昔はよくウチに遊びにきてたし。兄貴とふたりして写真撮ってるのに混ぜてもらって、俺のこといっぱい撮ってくれて……」
言葉を重ねるにつれ、学の口振りが幼く、歳相応のものへと変わっていく。そうして徐々に、俯きがちの唇からはポツリポツリと彼の心情が吐露された。
「祐正さん一人っ子だったからかもしれないけど、俺のこと弟みたいに可愛がってくれてたから。だから、ともだちとかじゃないけど、……俺、祐正さんのことすげえ好きなんだよ」
だから興味本位なんかでは口も利きたくないと、顔を上げた学の目が告げる。
「君が……祐正さんのために……」
少年の、歳にそぐわない強い意志を宿した目に、どうしてか涙が出そうになった。
「……君があの人に、手を貸してくれていたのか」
学が驚いたように目を瞠って、亮を凝視する。
このとき自分は、ひどくやさしい顔をしていたのだろうと、あとになって思った。
たったひとり、たったひとりで孤独に戦っている、自分を救えるものが自分でしかありえなかった祐正に、もしも差し出される手が他にあったなら、それはきっと、祐正を助けた。きっかけを、与えてくれていたのだろう。
「あんた……?」
いぶかしむ声で呟いたあと、何かを決意するように学は強く唇を引き結び、それからゆっくりと口を開く。
「俺が……データ見つけたのはほんとに偶然で、兄貴がすげえコソコソしてて、なんかに怯えてるみたいだったから……」
途切れ途切れながらも、学は亮のために言葉を探っているようだった。
「車のトランク、一日に何回も見てた時期があったんだ。なんか確認するみたいに、毎日毎日覗いてて。でも、ヤなもん見るみたいにすぐ閉めたりとかしてて。
だから、何が入ってるんだろうって兄貴が寝てるときに車庫に行ってみたら、……兄貴の車のトランクにUSBが入ってて、すげえ紙とか袋とかにいっぱい包ま
れて」
その中身を興味本位で覗き、正体に気付いた学は、そのままそれを持ち出して、家を飛び出した。
ただ真っ直ぐに祐正の元を目指して。
タイミングの悪いことに、そのころ祐正は自宅にいることが殆どなかった。スキャンダルを追うために帰宅しない日が続き、そのあとは亮のために時間を裂か
れていたせいだ。だから学は一縷の望みをかけて、この店を張っていたらしい。どんなに忙しくとも、定期的に顔を見せる行きつけの店があることを、昔祐正か
ら聞いたと言った。
「祐正君はいつも通り――っていっても暇なときほどじゃないけど、それでも結構ウチには来てたんだけどね。学君とはどうしてもタイミングが合わなかったんだ」
だから見かねて学に声をかけたという小坂の判断は、正しかった。
擦れ違いを続けていれば、そのうち学のほうが先に挫けてしまっていただろう。
けれど彼は、データが持ち出されたことに気付いた兄のいる家に、どうしても帰るわけにはいかなかった。
「兄貴とふたりで楽しそうにカメラいじってたりするの、ずっと見てて、俺、そういうのが好きだったんだ。楽しそうだなあって――兄貴と祐正さんのこと、遠くから見てたら、あの人手招きして呼んでくれて、モデルになれとか言って、いっぱい、……」
いっぱい。撮ってくれたから。
兄貴とおなじくらい、好きだったんだよ。
涙混じりの声を気丈に奮って、学はそう言い切った。
「やっと会えたと思ったら、祐正さん、俺のためにそんなにがんばるなって言って笑って、……ひでえことしたの兄貴なのに、俺のせいで家に帰れなくなってごめんなって……」
まだ中学生の彼が、家にも帰らず、ただひたすらに祐正を待ち続けていた時間は、実際に流れたそれよりも長かっただろう。
それを堪えてでも、彼はネガを祐正の手元へ返すことを、使命だと信じた。
亮はただそのことを、感謝した。――筋合いなどないと、判っていても。
「……ありがとう」
――ああ、あの人は、どんなに嬉しかっただろう。
ボロボロになってまで、自分のために動いてくれた少年の存在が、どんなに勇気になっただろう。
「つーか、あんたのためじゃないし」
学は唇を尖らせて、予想通り亮の言葉を一蹴した。
「コラ。年上に対する口の利き方じゃないだろう」
「えー…こんなのにもケイゴ使わなきゃだめなんですか」
「当たり前だろ、片山君、君より幾つ年上だと思ってるの」
小坂の穏やかな叱責に苦笑して、亮はそれを留めた。
「……俺が彼に嫌われるのは当たり前ですから」
母親の愛人という立場にいる亮に対して、敬意を払えというほうがおかしい。全てを放り投げていた感のある正人はともかく、思春期真っ只中の学はそう簡単にはいかないだろう。亮の苦笑に同意するかと思いきや、学は小さな声で「別に嫌いじゃねえよ」と呟いた。
「今、嫌いじゃなくなった」
「嫌いじゃなくなりました」
「……した」
訂正を入れる小坂の声を嫌そうになぞった学は、やはりどこか不満げな顔付きをしている。歳相応の表情に、思わず笑ってしまった。小坂は単に学を保護しただけではなく、適度な躾も行っているらしい。
「いつ、家に帰るの? 俺が言えたことじゃないけど、沙希さんがとても心配してるから、できるだけ早めに帰ってほしい。学校もあるだろうし」
「学校はここから通ってるよ。家にはまだ……あんま帰りたくない」
兄貴が帰ってきてるから、と小さな声で学が続ける。
正人が退院したことは、少し前に沙希から聞いていた。けれど彼が今どんな状態なのか、これからどうするかまでは知らずにいる。――彼は、これから、一体。
「兄貴は、カメラマンを辞めたよ」
ふいに過ぎった疑問を読み取るように、学が応える。
微笑みすら浮かべてた少年の声は、ひりひりと冷たく響く。軽蔑と嫌悪をない交ぜにして、それでも彼は笑っていた。
「祐正さんを裏切った、当たり前だよ。……兄貴が写真を撮り続けるなんてこと、許されない」
祐正は、縋るようにカメラを捨てなかった。
代わりにカメラを捨てたのは、宮坂正人だった。
学の目に、同情はない。
許されない、と、学が言った。
兄とおなじくらい祐正を好きだったと言った唇で、彼は兄を断罪する。
――けれど何かを痛むように、その幼い瞳だけが、熱く潤んでいた。
結局、閉店間際まで居座ってしまった亮は、そのまま流れで閉店作業までも手伝わされてしまった。手のかかることは小坂がやるし、その他の細々としたこと
は眠たそうな目を擦りながら学が担当していたので、亮がやることといえば専らモップがけ程度である。そしてただひとり梶原だけが寛いでいるかと思いきや、
なぜか彼は帳簿をつけていた。
「忘れがちなんだけどね、この店一応この人のものなんだよ。だからオーナーは梶原さん。忘れがちなんだけど」
時間があるときだけ顔を出し、繁盛しているかしていないかを確認して帰っていく気楽なオーナーは、小坂がしつこく繰り返した通り「忘れられがち」な存在なのだろう。しかし梶原はそれを微塵も気にしている様子もない。
「そろそろこの店お前にやろうか」
「嫌ですよ。俺は雇われバーテンがいいです」
などと軽口を叩き合ったあと、梶原は亮を伴って店を出た。
「それにしても学君に随分懐かれてましたね、小坂さん」
「最初の頃は警戒心が相当にあったらしいがな。メシやって寝かせてやってなんだかんだ言ってるうちに手懐けたんだろう」
それは所謂餌付けとかいう行為ではないか、と思ったものの、亮は敢えて「そうですね」と大人しい相槌を打つ。沙希が了承していることなら、学は、暫く小坂に任せておいても大丈夫なのだろう。
「今思えば、北沢さんに驚かされてばっかりですよ。最初っから最後まで、何も言わないで隠したままでいるから」
それで最後は長期間の渡米ときたものだから、驚くを通り越して笑ってしまう。
笑えば白い吐息が、夜空に散った。
「――結局俺は、何も見えてなかったんですね」
学のような少年ですら祐正を助けていたのにと思えば、やはり自分が情けなかった。声に篭った僅かな苦みを読み取ったのか、梶原が声なく笑う。
「君が見えなかったんじゃない。祐正が見せなかったんだ。あいつにしかできなかったことがあって、――君にしかできなかったこともある」
それだけの話だろう、静かに付け加えた梶原の声は、穏やかに胸に染みた。
「君が、祐正の背中を押してくれた。君がいなかったら、あいつは多分、動けないままだったんじゃないのか」
それであれと、祈っている。
祈るたびに、想っている。
「――君はこれからどうするつもりだ」
まだ夜の空気は冷たい。タクシーを待つ間、容赦なく頬を殴る風に身を竦めていると、隣で煙草を探っている梶原がふいに尋ねかけてきた。
「モデル、続けるのか」
「……続けるには、ちょっと大変な状況ですけどね」
あの事件以後、完全にフェイドアウトした自分があの舞台に立つことは、ありえるのだろうか。復帰は難しいはずだと、ぼんやりと思う。けれど、祐正もやけ
に自分の仕事を気にしていたことを思い出すと、せめてこれから報告するであろう事柄が、彼を失望させなければいい、と願う。
「せっかくコネがあるんだから、充分に使え。損はしない」
他人事に突き放すようでいて、けれど結局は優しい梶原の言葉に、亮は思わず笑った。祐正が懐くのもよく判る。彼はたぶん、基本的には甘く、やさしいのだ。
「……どうなるんでしょうね」
吐息すら凍りつく空気に、春はまだ遠い、とぼんやり思う。
――長いな。
あの人の帰りを待つには、長すぎる。
それでも太陽が焼け付く季節になら、会えるだろうか。
マフラーに鼻先を埋めながら、亮は微笑んだ。
「とりあえず、手紙の返事でも書きますよ」
綴る言葉なら、決まっていた。
白い吐息が、今にも叫び出したくなる言葉が、胸にある。
――あなたが、好きです。