ポルノスター



「――これで契約更新作業はお終いね。これからも一年間よろしく」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
 頭を下げる沙希に、亮は慌ててその動作を真似た。
 契約の更新作業を全て終え、ほっと肩の力が抜けた。沙希はすぐに表情から堅苦しさを抜いて、いつもの微笑みを見せる。
「大学のほうはどんな調子? 卒業できそう?  四年に上がったら今まで以上の仕事してもらわないとね」
「……勘弁してください」
「あら。だって時間はできるでしょう? 真面目な学生さんなら」
 正式に沙希の事務所と契約を結び、モデルの道を進んだのは、一年前のことになる。一年目を終え、二年目へと突入する更新の節目が、丁度この時期だった。学生の身分だからと一年ごとの契約にしてもらっているのは、亮の都合でもあり、また沙希の意見でもあった。
「売れそうな兆しが見えたら三十年契約でも結んでもらおうかしらね」
「それは楽しそうな話ですね……」
 仮定ばかりの話には、曖昧な返事しか返せない。一年と少し前、たったひとつのブランドのために登場した詳細不明のモデルがこの一年間で露出を始めたと話題にはなっているが、それが今後に繋がるかと聞かれれば、首を傾ぐしかないのだ。
 ともかく身体を酷使されるのは別段構わなかった。昔はとにかく、今は他の所属タレントとも同等に扱われるのが当然で、沙希に贔屓目で扱ってもらえる資格はないのだ。
「勘違いしないで、亮。あたしは貴方に贔屓で仕事を与えたことは、一度だってないわ。これからも、今もね。あたしは貴方に相応しい仕事を選んできたつもり」
「……はい」
 言い聞かせるような沙希の言葉に、亮は従順に頷いた。
 今でも不思議に思う。
 どうして彼女との関係が恋にならなかったのかを。
 ヒモだの愛人だの呼ばれていても、結局、自分も彼女も互いに恋愛感情を抱くことはなかった。感謝してもし足りない、恩と情を与えられたこの人を、どうして自分は愛さなかったのか。
「そうだ、亮。これから時間は空いてる? これから昼食に出ようと思ってるんだけど、付き合ってくれないかしら」
「まだ昼飯も食ってなかったんですか?」
「仕方ないじゃない。時間がなかったんだから」
 美しい人だと思う、強い、優しい女性だと思う。そう、それはまるで母親のように。――そこまで考えて、保護者を欲しがる歳でもないのにと心の中で苦笑した。
 今はともかく、恩を身体で返せるように努めるだけだ。
「忙しくても食事くらいは摂ってください。――是非お付き合いさせて頂きたいんですが、午後はちょっと予定があって」
「あら。残念ね。久しぶりにゆっくり話せるかとも思ったんだけど……」
 肩を竦めた沙希は、そのまま視線を卓上カレンダーに流し、何かを思いついたかのように小さく笑った。
「何時の便?」
「……あまり時間がないので、そろそろ失礼します」
 詮索されるだけならまだしも、揶揄されては堪らない。沙希の性格上、何かを告げれば倍返しの揶揄が待ち構えているのは目に見えている。早々に逃げを打った亮は、すぐさま踵を返して扉へ向かった。
「中学生みたいな恋愛は、今度こそ卒業なさい」
 沙希は掌を振って亮を見送った。


 春の足音が近付く、三月。
 桜はまだ、咲いてない。
 綺麗に澄み渡った空をちらりと見上げて、亮は歩いていた。陽はぽかぽかと降り注いで、まだ穏やかなくらいである。
 丁度半年前、夏の盛りに手紙を書いたことを思い出す。照りつける太陽に辟易しながらも、祐正の体調を伺い、気候を尋ね、雑談に交えるように、「会いたい」と書いた。
 ――もうすぐ半年経ちますが、いつごろ帰国される予定ですか。
 会いたい。とても、会いたい。
 遠慮なくそう尋ねた手紙に対する返事には、身を寄せているカメラマンの開くスクールで、何故か講師に近い仕事を宛がわれてしまい、任されている講義が片 付くまでは抜けられそうにない、という事情が記されていた。学ぶつもりでわざわざ来たのに、逆に人にものを教える立場になっている。これでは本末転倒だ。
 そして、歳若いカメラマンたちと触れ合い、年輩のカメラマンに揉まれながらの仕事は刺激的でとても楽しいと、付け加えるように簡潔な近況が添えられてあった。
 毎日がとても、楽しい。覚えることが多すぎて、毎日疲労しすぎて、時間の流れをときどき忘れてしまいそうになる。――そして、会いたいと、達筆な文字が最後に告げた。
 今、君に、とても会いたいと思う、と。
 その一文を見た亮は、それ以上、尋ねることを止めた。例えば一時的なものでも、帰国の予定はないだろうかと尋ねかけていた言葉を、長期休暇の折りにでも自分がそちらへ向かってもいいだろうかと許可を請うことも、綺麗に折り畳んで仕舞い込むことにしたのだ。
 綴る言葉を考えている時間、筆をとって便箋に向き合っている時間、彼を独占できている。楽しく、生き甲斐のある日々を送っているのなら、それでいい。
 そんな調子で、一ヶ月に一通か二通の手紙を遣り取りする生活が続いた。
 そして文通生活が一年を数え、まさかこれ以上滞在期間が延びはしないかと冷や冷やしていた亮の元に、祐正からの絵葉書が送られて来たのは、つい先日のことだ。
 ――三月十八日。午後の便で帰国します。
 それだけが記された葉書に、「必ず迎えに行きます」と返した手紙には、返事はなかった。恐らく帰国の準備に急かされて、返事を書く余裕もなかったのだろ うと理解はしている。それでも、果たして本当に迎えに行ってもいいのだろうかと悶々としつつ、空港に向かった亮は、キャリーバッグを引き摺りながら俯きが ちで歩く祐正の姿を見つけることができた。
「北沢さ……」
 呼びかけて、口を噤む。あまりにも、変わっていない。遠目に眺めても、網膜が覚えている一年前の姿そのままで、祐正はその場にいた。変わったのは少し短くなった髪の長さくらいである。
 大声で名前を呼ぶこともできなかった亮は、すぐに祐正の元へと駆け寄った。
 向かってくる長身の男の存在に気付いた祐正は、面倒臭そうな仕草で僅かばかりに視線を上げる。その視界に亮を認めると、何故か眉間に皺を寄せた。
「うわ、ほんとにきやがった」
 気の抜けるような言葉を投げつけられた亮は、思わずズルリと足を滑らせかけてしまう。――お変わりないようで。準備していた当り障りのない挨拶すら、口にすることは許されなかった。本当に、少しも、あまりにも、変わっていない。
「……行くって、ちゃんと言っておいたと思うんですが」
「だって俺おまえの冗談わかんないから」
「冗談でそんなこと言いませんよ」
 強張っていた身体から、徐々に余計な力が抜けていくのを感じる。あっけらかんとした顔をして、何の拘りもなく自分を見上げている祐正に、下手な緊張をしていた自分が馬鹿らしくなった。この人如きに何を緊張してやる道理があっただろう。
「悪かったな、葉書送ったあとくらいから色々ゴタゴタしてて。返事書く前に、俺が先に帰ってきちまった」
 それでも詫びた祐正の横顔が、僅かに、本当に申し訳なさそうな色を浮かべていたものだから、亮は思わず微笑った。そんなささやかなことを気に病んで、その上それを上手に顔に表せないのが、この人だ。
「いいですよ、判ってましたから。それに、文通の期間はもう終わったんでしょう」
 ――心と身体が離れている意味を、ずっと、知らなかった。
 メールでもなく電話でもなく、敢えて封書や葉書を連絡手段に選んでいたのは、彼と自分が同じ気持ちだったからだろうと信じている。
「さあ。このまま文通続けんのも悪かないかもよ」
「……別に構いませんけどね。会おうと思えば会えるのにわざわざ文通するのは、ただの交換日記になりそうな気が……」
「ハハハ、いいね! この時代に交換日記、超ダセェ!」
 祐正は腹を抱えて笑っているが、こちらは気が気ではない。祐正は相変わらず、本気と冗談の区別がつきにくい。冗談で言ったつもりの話でも、彼ならいずれ本当のことにしてしまいそうな気がする。
「交換日記はともかく、あんたと文通するのは楽しかったですよ」
 近況をしたためた便箋には、心だけ、閉じ込めて送った。どこにいても、心だけが今は傍にあるのだと、封を開ける度に思った。
「そう? お前もな、もーちょっと字がキレイだったら俺も苦労せずに読めたんだけど」
 一年ぶりの声にも、一年ぶりの言葉にも、何の違和感を感じることなく受け止めることができるのは、離れて、時間を経て、それでも尚色褪せることがなかったからだ。
 心と身体が離れている意味を、はじめて知った。
 心と身体が離れているからこそ、閉じ込めて、送りつけることができる。会いたい。あなたに、とても、会いたい。そういう言葉に閉じ込めて、送ることができる。
 無理矢理に送りつけた心は、同じように返って来た。
 ――会いたいと、手紙では饒舌な彼が、言う。
 君が好きだと、彼は確かに、饒舌に綴った。
「文通でも交換日記でも俺は構いませんけどね……」
「そう? じゃあお前の習字のためにもそういうことにしといて。これからどうすんの。メシ? 打ち合わせ? そういや宮坂んとこからもなんか来てたな、仕事が」
「だから今日来てるのはプライベートですって」
 ガラガラとキャリーバッグを引き摺る祐正が、片手に抱えていたバッグを亮に押し付ける。大掛かりになる荷物の類は先に送っているのか元々持って帰ってい ないのか、彼が持っている荷物はそのふたつだけだ。バッグを両手で受け取りながら、亮は敢えて、訊かれているのとは別の答えを口にした。
「とりあえず俺のところにきませんか」
「そりゃいいけど。荷物ウチに置いてからのほうがいいんじゃねーの」
 彼の元に送りつけた心が、たった今自分の下へ還ってきたことを、亮は知った。こうやって心と身体がひとつに戻る。だから、愛しいと思う。隔てた時間など、ものともせず。
「……ウチに?」
「そう、ウチに」
「アパート、引き払ったんじゃないんですか?」
「なんで?」
 予想外の言葉を叩き付けられて目を剥いた亮に、祐正はひどく不思議そうな顔をした。
「だって一年間も家賃を払い続けるのは、無駄なんじゃ……」
「だから従弟に貸してたんだよ。丁度こっちに進学してくる時期でさ。管理してもらうのも兼ねて、部屋貸してんの。俺が帰ってきたらたぶん他の部屋探すことになるだろうけど」
 暫くは従弟と同居かな――呑気そうに告げる祐正に、頭が痛くなった。
 彼は悉く、自分の予定していたことの、斜め上を行く。
「俺がアパート引き払ってると思ってたのか?」
「……はあ、まあ」
「馬鹿だねお前。そしたら俺が帰ってくるトコないじゃん」
「いや、帰ってから暫くは実家にでも身を寄せるのかと思ってて」
「今更実家かよ。俺の部屋は残ってるだろうけどさあ、めんどくせえ」
 馬鹿だと笑って罵られても、てっきりそうだと思い込んでいたのだから仕方がない。結局彼は一年もの間、帰国することがなかったのだ。あまり住居に執着が なさそうだったから、とっくの昔にアパートなど引き払っているものだと思い込んでいた。言われてみれば、祐正の言う通りである。
「……その部屋、そのまま従弟に貸し続けることってできませんか?」
「はあ? なんで?」
「いえ……その、あなたがこのまま自分のアパートに帰ってしまったら、俺が半年前から、独り暮しには広すぎる部屋を、頑張って借りていた意味がないなと……」
 思って――語尾へと進むにつれ、声が徐々に小さくなり、最終的に溜め息になってしまった。
 暫くきょとんとした顔をしていた祐正は、沈黙の間に亮の言葉を理解したのか、ふいに目を丸め、唖然と亮を見上げた。
「……どんくらいの部屋借りてんの」
 その唇が嘲笑の形にならなかったことに安堵しながらも、亮はやはり溜め息混じりに応える。
「北沢さんの部屋は、一応用意してます。そんなに、新しくてきれいなところじゃありませんけど、……あんた、自分だけのスペースがないと嫌な人でしょう。四六時中俺の顔を見るのはさすがに嫌なんじゃないかと思って」
「……考えることの順番が違うんじゃねーの?」
「何とでも言ってください……」
 恥かしい独り善がりに顔を掌で覆い、肩を落とす。馬鹿にされたって、罵られたって、開き直る他ない。
「……ああ、いや、でも、事務所の補助もあるにはあるんです、部屋を借りるときに、税金対策といって快く福利厚生を適応してもらえたので」
 あまりに恥ずかしさに、どうでもいいようなことまで口にしてしまう。祐正は、口をポカンと開けたまま、まだ言葉を失っていた。
「どうすればずっとそばにいられるかを考えたらこうなったんです。仕方ないでしょう」
 開き直りというには弱すぎた呟きに、祐正は急に歩幅を緩め、そのままぴたりと足を止めてしまう。どうしたのかと振り返った亮の耳に、ひどく小さな声が届いた。
「――宮坂は?」
「……社長が何か?」
「宮坂がいるんなら俺と同居なんかできねえだろ」
 一瞬、何の話か理解できずに黙り込んだ亮は、その言葉を頭の中でじっくりと咀嚼する。もしかして、と思いついた仮定は、ひどく馬鹿げていた。
「ああ……あの、ヒモ、辞めてるんですけど俺」
 嫉妬とか、気に病んでいるとか、遠慮しているだとか。万に一つでも、祐正が沙希の存在を気にかけているなんてことは有り得ないのではないか。そう、この傲慢で強引な男に限って、そんなささやかな感情は有り得るはずがない。
「……いつ?」
「え?」
「いつからだって訊いてんだ!」
「え、ええと、いつかな、たぶん一年くらい前からですよ。マンションも沙希さんに返しました」
「――そういう大切なことはちゃんと書いとけよボケ!」
「……すみません」
 祐正の怒声は、周囲の人々の視線を一気に集めてしまう。けれどそれにも気付けないほど、亮はただひらすらに祐正の勢いに飲まれた。
「手紙に……宮坂の名前が相変わらず出てくるから、てっきりまだ続いてるもんかと……」
「ああ、それは……正式にモデルとしての契約を結んだんです。それは手紙に書いたと思うんですけど」
「だからって愛人まで辞めてるとは思ってなかったよ」
「いや、俺もまさかそこから説明がいるとは思わなかったので」
 今はもう、仕事上の付き合い以外のものは殆どない。告げようとした亮を遮るように、祐正が消えてしまいそうなくらいに小さな呟きを落とした。
「……俺、馬鹿みてえ……」
 くしゃりと前髪をかき上げた掌は、そのまま顔を覆ってしまう。意気消沈、というよりはどこか愕然としている祐正の姿に、亮は眉を潜めた。
「――何がですか?」
「いちいち計算してたのが馬鹿みてえだって言ってんだ! 宮坂から幾らもらってたのかとか、俺は幾ら払えば宮坂からお前を買い取れるのかとか、そういうの!」
 潜めた声を一転させ、勢いよく顔を上げて自棄になったように叫んだ祐正を、思わずじっと凝視してしまう。
 充分に一呼吸置いた後、亮は遠慮なく言い退けた。
「あんた、馬鹿ですか?」
「馬鹿で悪かったな! お前が生活能力なさそうなのが悪ィんだろ、このヒモ! 甲斐性なし!」
「だからもうヒモにならないように頑張って稼いでるんでしょうが。――ああもう、あんた本当に馬鹿だ。馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、本当に馬鹿だ」
「なっ……!」
「だいたい買い取るってね、俺はモノじゃないんですから。俺にその気がなかったら、あんたにどれだけ金があったって無理な話でしょう。こんなこと小学生だって考えれば判る。これを馬鹿以外になんて呼べばいいんです……」
 絶句して黙り込んだ祐正に容赦なく畳み掛けながら、胸の奥が、甘く痛んでいるのを感じてしまう。じくじくと痛む、けれど不快ではない、甘い痛み。
「……しょうがねえだろ」
 ――馬鹿だ。
「知らなかったんだから、しょうがねえだろ……」
 この人は、本当に、馬鹿だ。
 こんなところでそんなことを言われたって、抱きしめてキスをするわけにはいかないのに。
 人目のある空港では、満足に抱きしめることもできはしない。仕方なく、代わりとでも言うように祐正の腕を取り、亮は無理矢理の力でそれを引いて足早に歩き出す。
「おい……っ」
 急かすような強引さで手を引く亮に、祐正が抗議するような声を上げる。亮は敢えてそれを跳ね除けた。
「覚悟してください。あんたに直接言ってやりたいことなら、一年分溜まってるんです」
「……んだよ」
 仮にもモデルの端くれである自分が、こんな場所でこの人を抱きしめたりキスをしたりするわけにはいかない。
 だから腕を引きながら、耳元に唇を近づけて囁く。
 一年間溜め込んだ、文字にして綴った、唇が何度も叫びたがったその言葉を。
 会いたかった、本当に、会いたかった。
 ずっと、好きだった。
 ふいに落とされた囁きに、呆気に取られたような顔をした祐正が、視界の隅に映る。居た堪れないような気分になって、亮は努めて祐正から視線を反らした。
 なお早足になるのは、羞恥心のせいなんかでは、決してない。
「……馬鹿じゃねえの」
 亮の赤い耳朶を見上げた祐正は、擽ったそうに小さく笑った。






 
20050720

お付き合い有難うございました!