獣のようだと思う。それは勿論誉めた言葉ではない。揶揄であり、嘲笑であり、それと同時に未知のものに対する敬服の念でもあった。様々な感情が重なり合った結果、亮の胸にはその言葉が自然沸き上がってくる。獣のようだ。あの人は、まるで獣なのだ。
目の前でめまぐるしく動いている人々の中心に、彼がいる。声を張り上げて、言葉ひとつで何人もの人間を動かす。ふいに厳しい視線が向けられて、睨みつけるように亮を見据えた。
「おまえいつまでぼけっとしてんだ、さっさと来い! モデルいねーとなんも始まんねーだろうがッ」
初めて聞いた人間なら、この怒号に身を竦めてしまうだろう。けれど亮は理解している。目の奥の光が違う。声の張りが違う。
「つーか照明強すぎ。もっと落とせ!」
これが北沢祐正の本気なのだ。真摯になったときにこそ、彼の言葉には厳しさが含まれる。彼は本来、無闇に人を傷つけることを好んでいないことを亮は理解していた。彼の仕事時間は、他のカメラマンに比べて一様に短い。それは撮影に取り掛かるずっと前から、彼の頭の中に完成した映像が叩き込まれているせいだ。だからこそ厳しくもなる。そしてその映像を完璧に表現できる技術を持ち合わせているからこそ、彼の遣り方は通用する。
「ラストだ」
「判ってますよ」
擦れ違い際に囁かれる。ラストの一枚。これで撮影を終えると宣言した祐正の言葉に、自分は何としても応えなければならないのだろう。
指示された位置に佇み、亮は真っ直ぐに祐正を見据えた。ファインダーを通し亮を見つめる眼は、厳しさを含んでいるのにどこか優しく穏やかだ。亮はそれを肌で感じている。今まで見たこともない、アンバランスな獣。油断すれば食いつかれそうなほどに凶暴な遣り方なのに、祐正は慈しむ眼差しを惜しみなく向けてくる。被写体としての亮を、今この瞬間だけ、彼は他の何よりも愛しているのだ。
――判らない人だ。
ふいに、笑みが漏れる。
その瞬間フラッシュが瞬いて、亮の視界を白く奪い去った。
一度は終えたはずの広告用ポスターの撮影を、再び同じスタッフが顔を突き合わせ、撮り直しているのには訳がある。
「信じらんねー…こんな土壇場になって市場拡大だぁ? こっちの都合も考えろっつーの!」
全ては今、隣でくだを巻いている祐正の言葉が理由であり、事実である。
「アジアもヨーロッパも関係ねえっての。一回オッケー出したんだからアレで行ってりゃいいもんを……」
「しょうがないじゃないですか。クライアントの言うことは聞かないと、あなたいい加減仕事干されますよ」
「上等じゃねーか。やれるもんならやってみろ」
祐正はグラスを傾けながら拗ねたようにそっぽを向いた。一度は終わったはずのモデルとしての仕事を、再びやり直すはめに陥ったのはつまりはそういうことである。
「対象が日本からアジアに変わったってだけでポスター撮り直す理由がどこにあんの」
祐正の行きつけというバーの片隅で、亮は彼の愚痴染みた話に耳を傾けていた。さっきから祐正の主張はその一点張りである。
「そりゃあ色々あるでしょう。地域ごとのカラーに合わせた写真が必要だっていう上の話も、俺には何の不思議もなく受け入れられますが」
「おまえの頭が呑気に出来てるからじゃん。デザイナーはてんてこ舞いだぜ、今ごろ」
日本に限定してアピールするつもりだった商品の出来栄えが余りにもよく、これならば世界を相手にしても遜色はない、と判断したのは、亮がお目にかかったこともない、上の上のほうでお仕事をしている人種である。それは別段珍しい話ではない。上の上の上でどんな会議が行われようとも、それは祐正にも亮にも関係のない話だ。まずは手始めにアジア進出を試みたというのも、まあまあ理解できる話ではある。
「――確かに、急に決まった感はありますね」
だが、終わったものとばかり思っていた仕事を、再び蒸し返されたときほど、苛付き、追い込まれるものはない。祐正の愚痴は、この辺りの心理が働いているのだ。
「しかもあとどんだけかかるって言ってた?」
「見込みは一週間でしたか。モデルが増えましたからね。俺以外のモデルのスケジュールを考えれば、まあ妥当なんじゃないんでしょうか」
地域の拡大により、祐正の仕事が増えたことは言うまでもない。いつでも身体の空いている亮はともかく、二人ほど追加されることになったモデルは中々の売れっ子で、さすがに一日で片付けられる仕事ではなくなってしまっていた。
「そういやおまえ、日本用のCMにも起用されたんだってな。おめでとう、これから忙しくなんのな」
「それはどうも。――あなたもですよ」
カメラマンは、撮影当日スタジオにいてただ写真を撮ればいい、という存在ではない。撮影までにデザイナーやスタイリストと綿密な打ち合わせを経ていなければならないのだ。その仕事量を考えれば、祐正の零す愚痴など可愛いものに思える。
「おかげで今月末からの予定が狂っちまった」
「何か予定が?」
「うん、インド行こうかと思ってて」
「――インド、ですか」
それはまた遠いところまで、と言うべきか、そもそも何故そんなところへ行く用事があるのか尋ねるべきか、迷っているうちに祐正が楽しげな声音で理由を教えた。
「じーさんが世界中放浪してたときに世話になったって人がいてさ、マンドゥっていう小さい町なんだけど。面白い写真撮れそうだから、半月くらいお邪魔しようかと思って。半月もあれば他の町回れるかもしれないし」
仕事の話ではないことは明らかだ。しかしそれを、所詮は道楽だと聞き流すには、余りにも祐正の目つきが違っている。
「インド唯一バオバブの木があるところで、夕日と朝焼けが絶品なんだって。俺はじーさんの写真でしか見たことないけど、今から撮れるのすッげー楽しみでさ……、でっかいバオバブの木がそびえ立ってて、その後ろにオレンジと青が混ざった空があるんだぜ。すげー綺麗だと思わねー?」
余りに屈託なく笑い、まるで同意が返ることを疑わない表情で祐正は首を傾けた。真っ直ぐな視線に貫かれ、亮は一瞬言葉を失う。迷って、口を開いた。
「行くのは構いませんが、ちゃんと仕事は片付けてから行ってください。俺が言えた義理じゃありませんが、あなたには何人もの人間が期待している。それを中途半端に投げ出すことは止めてくださいね」
目を閉じれば、先ほど祐正が歌うように口にした光景が瞼の裏に浮かんでくる。見たこともない、大きなバオバブの木のシルエット。それを影として映し出しているのは、燃えるオレンジと深すぎる群青のグラデーション……
美しい、と言う代わりに突いて出た小言染みたそれに、祐正は冷めた表情を見せた。
「うっせーなあ、だから予定がズレたって言ってんだろ。行くのは日本の仕事きっちり片付けてからだよ」
言われずとも判っているとばかりに、祐正は手を振ってグラスを呷った。詰まらなそうな表情だ。けれど何が言えただろう。祐正が美しいと言うその光景を、同じように美しいだろうと感じたことに、何の意味があるだろう。
「あなたには前科があるようなので。俺は他のスタッフの気持ちを代弁したまでですよ」
言い聞かせるように、しかし淡々と告げると、祐正は言葉に詰まったような顔をして黙り込む。グラスを傾けてちびちびと酒を呷る祐正を横目に眺めながら、亮は心中で喝采を上げた。彼相手に口で勝てることなど早々ない。
「祐正君、また友達相手に絡んでるの? いい加減やめないと友達いなくなるよー」
そのとき、穏やかな声が二人の間に割り込んだ。バーテンダーである。丁度祐正の目の前で氷を崩していたバーテンダーは、人の好さそうな笑顔を浮かべ、まるで我侭な弟でも眺めているかのような眼差しで祐正を見つめている。
「だってさあ小坂さん、こいつがあんま俺のこと信頼してねーから……」
「またそうやって全部人のせいにする……。この間撮影に遅れたのも梶原さんのせいにしたんだって?」
「あれは本当にあの人が悪ィの! 運ぶ荷物が多いからって俺無理矢理手伝わされたんですよ、いきなり朝叩き起こされてそんまま空港まで連れてかれて。帰りはお疲れって放り捨てられるわ、やっとのことでタクシー拾ってスタジオ行ったら渋滞に巻き込まれるわでこっちは被害者だって……」
「そうだったんですか?」
亮は驚いて祐正を見返す。梶原という人間と祐正がどういう関係にあるのかは知らないが、彼のスタジオ入りが遅れたのもそれなりの事情があるらしい。祐正は決まり悪そうに舌を打ち、「そうなの!」とやけくそ気味に吐き捨てた。
「そうでもしないと祐正君と会う機会がないから、梶原さんもそういう意地悪するんじゃないのかなー。たまたま日本にいる時期が被ってたわけだし。最近祐正君がずっと忙しくてさびしいんじゃないの、あの人」
「知らないよ。どうでもいいことであのひと人遣い荒くなからヤなんだって。事前に言ってくれりゃ見送りでも何でもすんのに、いきなり拉致られてさあ……半年振りに顔合わせたってのにそりゃないっしょ?」
「その……梶原さんっていうのは……?」
梶原某とやらの話題で盛り上がっているところ申し訳なかったが、その人となりを知らない亮は着いていきようがない。話に割り込む格好で声をかけると、祐正は特に不快な様子もなくあっさりと答えた。
「ええとね、俺の師匠みたいな人。カメラの。もうどうでもいいけど、分野違っちゃったし。でも俺に基本的なこと教えてくれたのは全部あのひとだから、やっぱり師匠ってことになんのかな。すっげー厳しいひとで、長い時間付き合ってったら肩が凝るよ。あの人のこと師匠なんて呼ぶのはな――」
なんか気持ち悪ィ、と朗らかに笑って、祐正はグラスを空にした。なるほど、その師匠とやらの命令であれば容易に断ることはできなかったのだろう。あの日スタジオ入りが遅れた事情を知り、亮はほんの少しだけ祐正に同情を覚えた。
「分野が違うって、その人はスタジオの仕事はしてないんですか?」
「してないんじゃないの? 昔は知らないけど、今は世界中飛び回ってんよ。そんであちこちで撮った写真を出版社に売りつけたり、たまに纏めて写真集にしてる。梶原雄高って知らねえ? ちょっと前話題になったんだけど」
「――俺そういうのに疎いんで……」
亮は首を捻りながら正直に答えた。恥ずかしながらその手の話には恐ろしく疎いのだ。何しろ彼の「北沢祐正」の名すら聞き覚えがなかったのである。
「まあ、カメラマンっていうのは地味な仕事だからな。被写体のほうが注目されて、カメラマンの名前なんて誰も覚えてないのがフツウだし。あの人は風景専門なんだよ。だから今の俺とは畑が違うの」
そうですか、と曖昧な返事を返して、亮は沈黙する。判ったような判らないような、微妙な感覚だ。仕事柄、亮はモデルやアイドル、俳優を中心としたグラビアを撮るカメラマンしか知らない。風景写真を専門にすると言ったカメラマンがいてもおかしくはないが、その仕事がどんなものなのかは想像がつかなかった。
「――そんで、おまえんとこの社長はまだ何も言ってこねーの?」
ふいに話を向けられ、その言葉を完全に理解するまで時間がかかった。
「……はあ、まあ」
「なんだよそれ、煮えきらねーな」
「そういえばこの間、北沢祐正とはどんな付き合いなのかと訊かれまして。たまに飲みに行きますよ、と答えたら、「それはいいことね」と笑ってましたが」
「――おまえんとこの社長はあれか、ちょっとおとぼけさんか」
「かもしれませんね」
軽い苦笑交じりに亮は答える。そう答える他ないのだ。
事実、判らない部分の多い女である。女ひとりで芸能プロダクションを立ち上げ、それをここ数年でめきめきと成長させている敏腕の女社長らしく、機敏で仕事に対しては厳しい一面はあるものの、どこかおっとりとしている面も否めない。良くある、生き急いでいるような部分が彼女にはないのだ。
「――急いだら仕損じると思っているのかもしれません」
「何だそれ。俺はおまえと茶飲み友達になりたかったわけじゃねーんだぞ」
祐正は殊更に苦々しい顔で吐き捨てる。言われずとも、こちらも最初からそのつもりだ。祐正の思惑に何かしらの形で利用されようとしていることに、亮はとっくの昔に気付いていた。
「俺から社長に話をしましょうか。北沢祐正がウチからの仕事を欲しがってるって」
「――馬鹿じゃねーの。余計なことすんなよ、絶対。おまえは黙って社長と俺の間うろうろしてりゃいいの」
厳しい声音で言い捨てた祐正に、亮は表向き大人しく頷いて見せた。自分に課せられた仕事は、祐正が事務所の依頼を快く受け入れてくれるようになること。それ以外のことは、如何なる事情があろうと知ったことではない。――だから、こうしてあからさまな拒絶の仕方で「踏み込むな」と命令されても、痛む胸など持ち合わせてはいないはずだった。
「……けど、こうもアプローチがないとすると、別の方法で行くべきか……」
独り言のようにブツブツと呟く祐正の目に、既に自分は映っていない。それを痛いくらいに理解している亮は、精々祐正の考え事に水を差さないよう、黙り込んでグラスを傾けること以外選べないのだった。
その日、珍しく一コマから真面目に講義に顔を出していた亮を、緊急だと呼び立てたのは、他の誰でもない女主人、すなわち事務所の社長である宮坂沙希だった。
「ごめんなさいね、あなたには直接は関係のないことかもしれないけれど、伝えておいたほうがいいと思って」
どこか憂鬱そうに頭を押え、事務所内社長室で亮を迎えた宮坂社長は、やはり物憂げに口を開いた。
「北沢祐正が仕事を蹴ったわ。完全に、今度の仕事から手を引くって。代理のカメラマンを推薦して、彼は降板したの」
「……どういうことです?」
確かに宮坂が伝えた状況は、亮にはどうでもいいことである。カメラマンが仕事を蹴り、代わりに迎えられるカメラマンが誰であっても、亮の興味は通常そそられない。――問題は、それが北沢祐正である、という点だ。
「自分には手に余る仕事だっていって、完全放棄よ。打ち合わせにも顔を出さない、代わりにやってきたのは彼が推薦したっていうカメラマンがひとり。現場は混乱してるし、プロデューサーも苦い顔。……唯一の救いは、あなたの国内宣伝用の分だけは完全に撮り終ってるってことね。あなたを撮った写真をプロモーションに使うことは、彼も了承してるわ。つまり国内分の撮影だけを終えて、彼はこの仕事から手を引いたの」
「どうして、そんなに急に……」
信じられない。その言葉だけが頭の中を駆け巡り、自然と声が掠れたのが判った。
「こっちが訊きたいわよ。――ネームバリューを上げるには最適の仕事だったはずなのよ。彼にとっても悪い仕事じゃなかったはずだわ……」
この数日間、自分が見てきたものは一体何だったのだと、亮は自問したかった。あの眼差しは偽者だったのか。仕事に対する情熱だけは本物に思えたのに。彼は戦っているのだ。彼にとってスタジオは戦場。しかし共に戦い、駆ける仲間が何人もいたはずだ。彼はそれを知っていた。知っていると思っていた。だからこその厳しさと、やさしさなのだと信じていたかった。
それを、いとも簡単に放棄するのか。――できる、人間だったのか。
「北沢祐正の名前が世界に広まる、いい機会だったはずなのよ。やっと。――馬鹿な子……本当に、馬鹿な子ね」
宮坂は額に手を宛てたまま、重く呟いた。
彼女と亮の胸には、今同じ感情が存在しているのかもしれない。――失望、という名の。
亮は初めて見る風景の中、今まで一度も通ったことのない道を足早に歩んでいた。つい先日、祐正に誘われて行ったバーへ訪れ、祐正と顔馴染らしい小坂というバーテンダーに祐正の自宅の所在を尋ねたのだ。
何ともいえない、不愉快な何かが胸の底に渦巻いている。そう、不快なのだ。あっさりと仕事を放棄したいい加減な態度にも憤りを覚えるし、彼は何よりも約束をしたはずだ。「仕事はきっちり片付ける」そう、胸を張って言ったはずなのに。
小坂から聞き出した祐正の自宅は、おおよそ高名なカメラマンの住まいとは思えないような、至って普通の外観をした古い五階建てアパートだった。あの傲慢な男なら、新築のマンションにでも住まいを構えていてもおかしくないと思っていた亮は、知らず気を抜かれる。
紙切れにかかれている部屋番号を確認して、エレベーターに乗り込む。三階で止まったエレベーターから降りると、フロアに四つ設けられた部屋のうちの、一番奥にある部屋の前に立ち、亮はインターフォンを押した。
暫くの沈黙が落ちる。一秒が一分に感じられる錯覚の後、ゆっくりと戸が開いた。
「――インドに行ったんじゃなかったんですね」
扉から覗いたのは、もちろん北沢祐正その人だった。壁に肩を預けた形で戸を開くその姿は、何もかもを億劫がっているようにも見える。
「……なんの用?」
「どうして仕事、蹴ったんですか」
亮の皮肉も意に介さず、祐正は面倒くさそうに問い掛けてくる。間髪入れずに尋ね返した亮に、祐正は目を伏せてふっと笑った。
「あんた、怒ってんの?」
「当然でしょう。あんなに中途半端な形で仕事を放り出すなんて、立派な社会人のすることだとは思えませんが」
「あいにく、立派に育たなかったもんでね」
目を伏せたまま、祐正はくぐもった声で笑った。自分よりは僅かに低い位置にある肩が揺れる。
「――北沢さん?」
どうしてそんな気がしたのかは判らない。気が付いたときには、自然とその言葉が零れ落ちた。
「……何か、あったんですか」
肩が震えて、さらりと髪が揺れる。何故か彼が泣いているような気がした。しかしそんなことがあるはずもなく、祐正はまたおかしそうに肩を震わせると、扉を大きく開け放つ。上げられた顔は、涙に濡れてはいなかった。
「上がれよ。文句は中で聞いてやる。せっかく来たんだから茶でも飲んでけば」
言い残すと、もう彼は亮を振り返りもせず、部屋の中へ戻って行く。仕方なく後を追い、何故か灯りの点いていないリビングへと足を踏み入れた瞬間、亮は絶句した。ぱっと見では判らなくとも、暗闇に目が慣れていくうちに、部屋がひどい散かりようであることが知れた。カメラマンとして、床のあちこちに必要と思われる機材が散らばっているのは仕方のないことだとしても、あまりの散乱ぶりだ。
「――そんなジロジロ見ないでよ。男の独り暮しなんてこんなもんだろ」
とはいえ、量としてはそれほど多くはない。纏めればそれなりに見れるようになるはずだ。恐らく、引っ張り出したものを順に片付けていくことをしない性質なのだろう。
茶でも、と言った割に、祐正はキッチンとリビングを仕切るささやかなカウンターに腰を下ろしたまま、そこから動く気配を見せない。足元のフローリングには雑誌や機材や洋服が散らばっている。その近くに座り込むスペースがないことを見て取ると、祐正からは少し離れた場所に落ち着くことに決め、床に散らばる数々を踏み付けないよう注意して歩く。
「いいもん見せてやるよ」
唐突に背中へかけられた笑み混じりの声に、亮は足を止めて振り返った。まだ手を伸ばせば届く距離にいる亮に向かって、祐正は手を伸ばす。その先に、質素な封筒が握られていた。
「何ですか?」
「いいから見てみろ」
確認するまでもなく、宛先には祐正の名が書かれている。ただ、暗闇の中に浮かぶ筆跡には多少の違和感を抱いた。まるで定規で線を引いたように、角張った文字である。悪筆と言い捨てるにはあまりに癖がありすぎる。
「――俺の、切り札だ」
疑問が疑問として形になる前に、亮の指は封筒の中に収められている何かを引き出していた。大きさと感触からして、それが一枚の写真であることが判る。
厭な予感がした。
「カメラマンはあんま腕のいいヤツじゃねーな。せっかくの男前が台無し。そう思わねー? 俺もっとマシな顔してるよな」
笑って言い捨てる祐正の声にも返す言葉が浮かばない。手にした写真を視界に認めた瞬間の衝撃は、それほどに亮の声を奪う威力があった。
「ひでー顔してるだろ」
「――これは……」
これは、何だ。思考が拒否しても現実が裏切る。指が震え、声が震えた。どうしてこんなものを――見せ付ける。
「勘だかまぐれだか知らないが、この間おまえが訊いてきたことを赤丸つけて返してやろうって言ってんだよ。おまえの言う通りだ」
何の写真だと、尋ねずとも、答えられずとも判る。正解を否応なく眼前に曝け出されていた。固く閉じられた瞼は、意識を失っている証か。それとも、止まっている時間の中で、必死に現実を拒んでいるのか。何にしろその正解だけは見えない。写真の中に切り取られた、過酷な時間を過ごす祐正の姿には。
「一年前にレイプされた。誰だか知らねーが、悪趣味なやつもいるもんだ。ご丁寧に写真まで撮りやがった」
写真から無理に視線を引き剥がし、亮は真っ直ぐに祐正を見つめた。視線を外しても尚、脳裏に焼き付いて離れない。腹部に飛び散った白い液体、咬み傷か引っ掻き傷か、もしくは打ち傷か、判断できない赤みが不自然に肌に散っている。祐正の身体を戒める腕の持ち主の顔は写されていない。何よりもあからさまに映し出された恥部は、撮影者の意図を感じさせた。
「それが六枚目だ。俺が覚えてるだけで十三枚は撮られてる。たぶん、もっとあるんだろう。どっちにしろネガが戻ってこないんじゃ意味がねえ……」
祐正は乾いた声で笑い、立てた膝に額を押し付ける。子供がして見せるような仕草だと、意味もなく思った。
「一枚ずつ、送り付けてきやがる。写真だけで、他には一言もありゃしねー。やり方がいやらしいだろ」
昨日、郵便受けに投函されていたものだと祐正は言った。その言葉で、亮は全てを悟る。
これは、北沢祐正という名の才能を囲う檻だ。
「……脅迫の言葉は?」
「なんにもないよ。ほんとにそれだけだ。それを見た俺がどう動こうと俺の勝手な判断で、仕事がなくなろうと俺が好きで自滅してくってだけの話」
脅迫の言葉が添えられていないのなら、送付者の意図は本来掴めないはずである。しかし現に、祐正はこれまでに幾つもの仕事を蹴っている。それ故に気まぐれで我侭なカメラマンというレッテルを与えられてしまい、彼自身の意思などお構いなしに、不名誉な状況へと追い込まれていったのだ。――それは明らかだった。北沢祐正の才能が世界へと向かうことを許さないという、明らかな脅迫なのだ。
「これまでに何度もあったことなんですか」
今自分が手にしているものは、六枚目の写真だという。なら少なくとも、彼が無言の脅迫によって仕事を放棄した回数が五回はあるのだと見てもいいのだろう。祐正は沈黙で、それを肯定した。
「俺の世界は、そんなもんに縛られる」
膝頭に額を押し付けた格好で、俯いて、祐正が呟く。大きな仕事に取り掛かろうとした途端、引き戻される過去に、誰が一番苦しんでいるだろう。誰が足掻いているだろう。傷ついているだろう。
「――とんだポルノスターだろ」
なのに、祐正は笑っていた。嘲るような声で、何もかもを笑った。
「あなたは……そういう言い方しかできないんですか」
何を笑いたいのだろうと考える。こんなものに縛られて動くことのできない自分自身か、それとも自分をこの状況へ陥らせた正体の見えない相手か、過去の可哀想な自分か。
そのどれもが正解で、間違いだ。
「そういう皮肉っぽい言い方じゃなくて……何か他に、言うことはできないんですか」
散乱する床を気にも留めず、亮は祐正へ歩み寄る。一歩、一歩近付くごとに、心臓が跳ねた。
「……何言えって言うの」
俯いたまま言葉を返す祐正の頬へ触れる距離まできて、亮は彼の顔を持ち上げた。暗闇でも見つけられる顔を間近で見据え、心臓の痛みを堪えながら口を開く。
「辛いとか、悲しいとか、助けてくれとか、――そういう言葉を、あなたは選べないんですか」
――痛い。
胸が張り裂けそうに痛い、この痛みは、どこから来る。
「……誰が助けてくれるの」
暗闇の中で、祐正の表情は歪まなかった。震えた声だけが感情の在り処を教える。彼の頬へ宛てた手に祐正の掌が重なり、まるで縋るように握り締められた瞬間、胸から歯止めのない何かが溢れ出そうになった。
「……おれを、誰が助けてくれるってんだよ……」
握り締めた指先から伝わる熱に、亮は思い知った。彼の絶望、彼の嘆き、憤り、声にならない叫び。
そのうちの一つを消し去ることもできず、ましてや救えもしない無力な腕は、無意識にその打ちひしがれた身体を抱き締めていた。
彼は戦っている。
限られた世界の中で、檻の中で、獣は傷つきながら戦っている。
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