「ほんとは俺も壱も、油断してたんです。まさかあいつが、あんなに藍子さんに拘ってるとは思わなくて」
「……そういえば元々藍子を知っているような口振りで話すときがあったな」
――そうだ、そういわれてみると、和真は必ず藍子のことを、「あの女」と呼んでいたし、何か知っているような口ぶりで、その名を吐き捨てたことが何度かある。和真の、朗らかな印象にはおよそふさわしくない、かげりのある声音で。
「しかもあんまりいい感情ではなかったでしょ?」
「よくわかるね」
藤倉和真の問い掛けには苦笑で答え、智博はシャンデリアに照らされている廊下をゆっくりと歩いた。
「昔、ちょっとだけ聞いたことがあるんです。親父さんが再婚したときに。相手の娘が気に食わないとかなんとかって……いっしょに暮らすわけでもないのに、なんかめちゃくちゃ苛立ってるみたいだったから。それを思うと、やっぱりあいつに今回の仕事任せたのは失敗だったかなって」
全部遅いことですけど、と藤倉和真は僅かな後悔を笑って見せた。藍子と「和真」の相性がさほどよくなかったとしても、智博にしてみれば、彼が藍子を毛嫌いする理由がさっぱり判らない。
「藍子が彼に何かしたのかな」
「さあ……わかんないですけど、なんか気に食わないことがあったのは確かだと思う」
藍子は不用意に他人を傷付けることなど決してしない。どうしてそれほど強烈に彼が藍子を嫌うのか、智博は不思議に思った。
ぽつりと落とされたような、わずかな嫌悪感。――あれはいったい、何を。
案内されたのは、最上階から一つ下の階で、見渡すかぎり病室の扉は3、4室ていどしか見当たらない。しかもセキュリティ付き――どう見ても、VIP待遇の個室だ。健康だけが取り柄で、ここ数年医者の世話になった覚えのない智博は、今どきの病院はこんなに豪勢な造りなのだろうかと感心してしまう。
智博が驚きに目を瞠っていると、ここは父の病院なんですと藤倉和真が事も無げに言った。
「あいつの場合は……怪我の原因が、アレなんで。一応警護付きの部屋に入院させようってことになって」
「川崎さんのことなら、心配ないよ。彼女はもう誰も傷付けたりはしないだろう。元々、穏やかで真面目な人だから」
続いた発言に驚いた智博が、思わず川崎を庇うような口振りで言ってしまう。彼にしてみれば、「和真」は身内の怪我だ。川崎にさしていい感情を持っているはずがない。今のは失言だったかもしれない。しかし彼はごくあっさりと「ええ、」と頷いて見せた。
「判ってます。川崎恵理子さんは、多分二度とあいつと関わろうとしないでしょう。でも、あいつが今までに相手にした仕事は、川崎さんの件だけじゃないから。他にも色々恨みも買ってるだろうし、一応――」
「……それは、俺のことかな?」
「あ、いや、白井さんだけじゃなくて、もちろん他にも色々……あああ、すみません。ぜんぜんフォローになってない」
肩を落としてしまった彼に、智博は小さな笑いを落として、通り過ぎていく病室の扉に目を向けた。ひとつのフロアに、数えるほどしか存在していない病室のどれかに、和真がいる。そう思うと、どうしようもなく気が逸った。
「――どうしますか?」
そして和真はある部屋の前で足を止め、背後の智博を振り返る。
「俺もいっしょに入りましょうか? それとも――」
「二人にしてもらっても、いいのか?」
「あなたが望むなら」
こっちのほうが立場的に弱いんですよ、と「和真」は肩を竦め、困りきった「ふり」をして、ビニール袋を差し出した。
「あいつからの頼まれものです。雑誌とお菓子。もしなんかあったら、コール鳴らしてください」
そういい残した「和真」は、ビニール袋を智博の手に握らせると、早々にその場を去って行ってしまう。
遠ざかる足音を聞きながら、智博はゆっくりとドアに手をかけた。
嘘と偽りだけで構成されていた、今までの自分の世界に、たったひとつ鮮明な色を落としたあの少年が、扉の向こうにいる。
例えば。
――愛している、という言葉が空々しく聞こえないのはどういうときだろう。
こんな自分には、言葉はあまりにも、頼りない――
「おっっせえ!」
扉を開けた瞬間、すさまじい怒声と共に、智博の視界に白くて柔らかな何かが飛び込んできた。それはそのまま顔面に衝突して、バサリと小気味のよい音と共に床へ落ちる。枕だ。
「俺そうとうヒマだったんだけど!」
すぐに、凄まじい怒声が降ってくる。彼は、来訪者の顔もまともに確認していないらしい。幼馴染の少年がやってきたということを、疑ってもいないのだ。
「壱もメールすら返してこないしほんッとお前ら兄弟揃ってヒマ潰しにもなりゃしねえ――」
ふいに、語尾が弱まる。きっと今になって、来訪者の正体に気付いたのだろう。智博は床に落ちた枕を拾い上げながら、ぽかんとした顔つきの彼を、漸く真正面から捕らえた。
――痛々しい。
僅かに眉を寄せてしまう。
白いシーツに覆われてはいるものの、彼が足を怪我して不自由な暮らしを強いられていることは、傍にある松葉杖から明らかだ。事故からは半月程度の日数が経っているが、まだよくなっていないのだろう。
それでも彼が、張りのある声で語りかけてくることに、安堵した。
「思ったより……元気そうでよかった」
「――しらい、さん?」
近づいていいものか、僅かに迷う。それでも足を踏み出した智博を、彼は止めなかった。ただじっと見つめてくる視線が、訝しげに揺れているのを感じる。
傍らのソファで足を止め、その上に枕を落とした。
「――なんで?」
ただ、呆然と。
唇から零れ落ちたのは、色のない声だった。
「……何しに、きたの。いまさら」
彼は、うな垂れるように――搾り出すように、呟いた。
そこには予想していたような激昂も、蔑みも、見当たらない。
智博は応える言葉に迷って――まだ、沈黙した。
「なんか文句があるんなら……あの女に直接言うか、ウチの社長にいってくんない?」
無理をしているのか、彼は努めて流暢に言葉を紡いだ。ただ視線は合わせようとはしない。
「事務所にいって……藤倉壱という人に会ったよ。そしたら、ここに連れてこられたんだ」
いつでもまっすぐに、自分を見た。
まっすぐに見つめて、微笑んだ。
あの少年は、今は、ここにはいない。
「だまされたって、訴える? ね、言っとくけど、裁判ってすげえ大変だよ。俺に騙されたっていう証拠集めるつもりなら、時間も、お金も、すっげえかかるよ。そんでついでに俺男だし。男相手に騙されたなんて、あんた自身が認められりゃいいけど。――そういうの全部考えてから、訴えてね」
「――藍子を、知っていたんだな。ずっと、前から」
藍子の名前を出した瞬間、彼の顔が一瞬だけ歪んだ気がした。シーツを掴んでいる指先が、白く固まっているような気がするのは、錯覚だろうか。
「……ああ。なんだ。あいつのこと、聞きにきたの」
それでも自らを納得させるように頷いた彼は、小さく笑い、ゆっくりと唇を開く。
「何年前かな……俺の親父と、あいつの母親が再婚するとき。はじめてあの女に会ったとき、娘ですって紹介されてね。引き取って育ててもいないくせに、娘が可愛いアピールかと思ったら萎えたけど。すっげー、面白くなさそうな顔して、あいつがいた」
記憶を辿ることすらつまらないと言わんばかりの表情で、彼は藍子との出会いを語る。
恐らく、その場から少し離れた場所に、智博はいた。
再婚相手とその息子との食事会の場まで藍子を送り届けたのは、他ならぬ自分だったからだ。
「はしゃいでたのは、俺の親父と、あいつの母親だけだよ。俺と藍子は、ただそこにいた。人形みたいにね。いてもいなくても、大差なかったのに、なんでか俺たちは、そこにいた」
どこかのホテルのレストランだった。行く前から憂鬱な顔をしていた藍子は、ホテルから出てきたとき、エントランスを振り返った彼女がいっそう顔を悲痛にゆがめて、呟いていたことを、思い出す。
――あの子、かわいそう。
「あんたも、かわいそうだなって……親に利用されて、こんなとこまできて、気の毒にねって俺が言ったら、あいつは不思議そうな顔をしてた。かわいそうなのは、俺だって」
――おにいちゃん。あの子ね、笑いたくないのに、笑ってたよ。欲しいものを、欲しいっていえなくて……きっと、あきらめて、笑ってるんだよ。
「俺は、泣かないのかって。悲しくないのかって。欲しいものを欲しがって、泣いたり、足掻いたりしないのかって。――笑うことだけが強さなのかって、あいつ、俺のこと見下しやがった」
――あたしはまだ、ほしいものがほしいから、おかあさんが好きだから、
――あきらめてむりに笑うことなんて、できないよ。
「……そうか」
あのあと、心配する智博に、少しだけ悲しい顔をして、藍子が話した。その子供が、彼、だったのだ。
藍子が語って聞かせた子供のイメージと、目の前の彼が、ゆっくりと重なる。
「藍子のことが、……嫌い、だったか」
「嫌いだったよ」
皮肉げに吐き捨てて、彼は前髪をかきあげながら続ける。
「ねえ白井さん、知ってた? 俺はね、あのとき、あなたを見てる。藍子の肩を大事そうに抱いて、帰ってくあんたたちを見てた。そのときにわかった」
なぜだか、見たこともない彼の幼少時代が、智博にはイメージできた。
寂しい、悲しい、いとしいと。
口に出す代わりに、あきらめて、笑っている。
智博の前に現れた彼を、そのまま幼くさせただけの、子供だ。
「あいつには、あんたがいる。あんたがいるから、あいつは泣けるんだ。甘いことばっかいって、あんたに甘やかされて、だからあいつは、手に入らないものが欲しいなんて甘いこと、俺に言えたんだ」
――あの子。涙を止めてくれる人、いなかったのかな。
幼い藍子が、小さく呟いた、それはきっと真実だったのだろう。
「……俺にはね、あんたみたいな人、傍には誰もいなかったよ。それが何だっつうの。ねえ、あの女は傲慢だよ。自分にあるものが、他人にあって当たり前だと思ってるんだ」
そしてその呟きは、幼かった彼の、素直なプライドを打ち砕くには、十分だったのだと智博は思う。
藍子の素直でにごりのない眼差しは、きっと。
何も持たない人間には、傲慢に思えたのだろう。
「それを持ってない人間を、見下してるんだ……っ」
見て見ないふりをしていた孤独を、ボロボロと露見するには、藍子の純粋な疑問は、十分だった。
食い縛るように引き結んだ唇から、初めて、感情のこもった声が漏れた。彼は今、どこか悔しげな表情を、指の隙間から覗かせている。
「和真、それは……藍子には悪意なんかないんだ、ただ……」
「違わない! だって、それじゃあ……っ」
ふいに高ぶらせた感情のまま、彼は小さく吐き捨てた。
「どうして俺には、あんたが……」
小さく消えていった語尾に、彼が何を含ませていたのか。
聞こえなかったそれを、聞きたくて、けれど、それを追求してしまえば、彼の何かが壊れてしまいそうで。
まだ言葉を選べない。
一度俯いた彼は、ゆっくりと顔を上げ、むりやりに見える仕草で口端を上げてみせた。
「今回の依頼がきたときも、ざまあみろ、って思ったよ。あいつやあんたが大事にしてきたもんなんて、大したもんじゃねえだろって。だから俺が、この手で、あんたたちを壊してやりたかった。それがあいつの望みだった。それは叶った」
自分に話せるのはここまでだと言わんばかりに口を閉じ、顔を背ける。つい先ほど、たったの一瞬、感情が高ぶっていたのが嘘のように皮肉げな口調だ。
「――ねえ、もう、終わりだよ、白井さん。もう俺をあんたたちの芝居に、付き合わせないでよ」
彼の本心を、捕らえられない。
何かが、自分と彼の間を、阻んでいるようで。
見えそうで見えない、見えていないようで、見えている、冷たいガラス一枚を隔てて、彼が寂しげな肩を揺らしている。
「お前に……聞きたいことが、あったんだ」
「何?」
彼はまだ、頑なに顔を背けたまま、――それでもなぜか、自分を追い払おうとはしない。
智博は、縋るように、信じた。
この横顔の内側に、何か別の、もっと柔らかなものが潜んでいるように。
「お前の名前と……それから、住んでいる場所と、年齢と……」
「――は!?」
素っ頓狂な声をあげたかと思えば、彼は思わずといったように、智博の顔を仰ぎ見た。ようやく、視線が合わさる。そのことに、とてつもなく、安堵した。
「……ああ、やっと、俺を見た」
「……何いってんの?」
間の抜けた声で、彼が呟く。
「それからお前の好きな食べ物と、嫌いな食べ物、好きな場所、好きな音楽、どういう場所で育ったのか、どういう家族で育ったのか、――あと何があるかな。とりあえず先に名前が知りたい。じゃないと、あっちの藤倉君と混乱する。不便で仕方がないんだが」
智博は困ったように首を傾げた。貧相な語彙では、これ以上の質問項目が思いつかない。
「あと幾つ質問をしたら、俺は本当のお前を知れたことになるんだろう?」
「……ねえ、ほんとに、どうしちゃったの」
白井さんらしくないよ、と、彼はどこか弱々しい声で呟いた。
「あんたは、俺のことなんか、知りたがらなくていいんだよ。俺のことなんか気にしないで――俺なんかに、興味持たないでいてよ。今まで、俺のことなんか何にも聞いてこなかったじゃないか」
それがあんたじゃないか、と呟く唇が、震えている。
確かに今まで智博が、彼に対してプライベートな質問を重ねることは殆どなかった。そのほうがいいのだろうと、思っていた。ただ、何も尋ねられず、何も訝しがられないことに、彼が今までどれだけ傷ついてきただろうと、ふいに思う。
ただそこにいることだけを許されている。
それが、いる意味がないのと同じ扱いだと、鈍い自分は気付くことすらしなかった。
「あんたは、そのほうが、幸せなんだろう」
「お前も、そのほうが幸せか?」
彼の言っていることに、見当はつく。
愛しぬいた女と結婚をして、迎える当たり前の幸福。当たり前の日々。それを望んでいた平凡な自分。
壊されることなど、予定にはなかった。
「……俺には何も、知られたく……ないか」
それで本当にいいのだろうかと、自分に問いかけながら。
「今までのお前の何が本当で、何が嘘だったのかなんて、本当はもう、どうでもいいんだ。俺に言ってくれていた言葉が嘘でも、いい。ただ、俺が知りたいのは――」
シーツを握り締めたままの細い指からいよいよ血の気がうせている。振り払われはしないだろうか、と恐れながら、そろそろと握り締める。
彼は、僅かに、肩を震わせただけだった。
「――俺はお前を、なんて呼べばいい?」
ゆっくりと、強張っていた彼の頬に、小さな水滴が零れ落ちる。そうして彼は、「け、い」と、嗚咽まじりに、呟いた。
「けい、か。――そうか」
あのコンビニで本物の「和真」と出会ったとき、名乗らせた名前が「慶」だった。気付いてみれば、単純なゲームだ。ひどく簡単な仕掛けだ。
「やっと、お前の名前を、呼べる、慶」
心からの安堵で智博が呟いた瞬間に、握りしめた指先が震えて、もう片方のてのひらで、慶が自分の顔を覆い隠した。その指の隙間から、押し殺しきれなかった小さな嗚咽が零れる。
――彼は、ある時期から、「和真」と呼びかけた智博に対して、誰の名前を呼ばれているかわからないような顔を、ほんの刹那するようになった。
そうしてそのあとは、決まって切なげに、笑って見せた――
「――いっこ、だけ、聞いても、……いい……?」
震える肩を抱き寄せたい衝動を殺しながら、智博は、ただその指先を握り締めた。慶の呟きに、頷く。
「――おれ、を……っ、ほんと……に、いちばんに、して、くれるの……」
――ああ、まだ。
以前と同じ問いかけを、涙交じりに聞かせた慶の声に、堪らない気持ちになる。
「おれ……おれ、あんたの生活を、壊しちゃうよ、あんたが望んでたもの、ぜんぶ……なにも、あげられな……っ」
震える指先が、肩が、何を恐れていたのか。
自分が傷つく以上に、智博自身の生活が壊れてしまうことを、恐れているのか。
「……いいんだ、そんなもの」
何度だって、言ってやる。
どうせ頼りにはならない、言葉なら。
「で、でも、俺を選んでくれるなら、おれ、あんたをぜったい、しあわせにするよ、……あんな女より、ぜったい……」
自分から握り締めていたはずの指先が、いつのまにか、縋るような彼の指に捕らわれていた。「ぜったいに、俺のほうが、あんたを、好きだ」――彼は、縋るような声を上擦らせて、泣いた。
あのときと、変わらない温度で。
「もういい、……もういいんだ。もう、ずっと前から、お前だけだ、……慶」
こんなにも一途に、変わらぬ想いをくれていた彼に、いまさら自分がどんな言葉を返してやれるというのだろう。
愛しているという言葉が、空々しく聞こえても。
「俺にはもう、お前しか……お前しか、いないんだ」
この胸を痛めつける、苦しくさせる、切なくさせる。そんな存在は、彼以外にありえない。
彼は自分の心をそれほどに掻き乱し、いつのまにか占領してしまった。その痛みが、僅かにでも、彼に伝わればいい。祈りながら、「う、う、」と子供じみた嗚咽をあげる背中を恐る恐る引き寄せると、抵抗もなく、彼の体はするりと腕の中に収まってくる。擦り寄るように額を寄せてきた胸元が、ゆっくりと、温かいもので濡れた。
愛している。唐突に、その言葉が、唇から溢れて出そうになる。叫びだしたくなる衝動を堪え、代わりにかき抱いた体は、僅かに、痩せたような気がした。
「――慶。俺を」
許してくれ。
耳元で囁いた智博に、子供のような声を上げて、慶は泣いた。
それをどこか切ない気持ちで聞きながら、けれど、それでもいいと、心から思えた。
声のない涙より、ずっといい。
たとえ胸に痛くても。
この声が、本当の彼のものであるのなら、
それで、いい。
「……慶」
彼は、以前、名前を呼び合うだけで、まるで、恋人同士のようだといった。
恋人同士のようだと、勘違いしてしまいそうになると。
「そうやってずっと、お前を……呼んでもいい?」
呟くように問い掛けると、彼の泣き声は、いっそう大きさを増す。
泣き止んでほしいような気持ちと、涙が枯れるまで泣き尽くして欲しい気持ちが交差して、智博は少しだけ、笑ってしまった。
涙を見ることが切ないのにどこか暖かい、これがきっと恋なのだと思う。
漸く手に入れた、恋なのだと、思う。
「……駄目かな」
「いい、よ、いいけど、だけど、」
――あなたをくださいと、彼は涙混じりに答えた。
その日は、晴天だった。
慶の退院日に合わせ、わざわざ有休を取った甲斐がある。しかし智博には、突き抜けるように青く広がる空を眺める余裕などなかった。
「そこ、気をつけて」
「ン、わかってるって」
覚束ない足取りで、段差をゆっくりと下る慶の足元から目が離せないからだ。 あれから一週間後、慶には漸く退院の許可が下りた。松葉杖は漸く手放せたものの、まだ僅かに痛みを堪えるように、彼は足を引きずりながら歩いている。
完治までには少なくともあと二週間ていどの時間を要するらしい。
「あんたはもー……ほんとに心配性なんだから。赤ちゃんじゃないんだからだいじょうぶだよ」
そうやって困ったような顔をして、けれど不快な色はなく、彼がのんびりと笑う。
「赤ちゃんと大差ない歩き方だろう」
「大丈夫、こけるときは、あんたも一緒だよ」
慶は智博のシャツの袖を引っ張った。気にせずに、病院の入り口すぐでタクシーを拾った智博は、運転手に手際よく荷物を預け、すぐさま車へと乗り込む。つれない、と嘆く慶の姿は、半分以上が冗談だろう。
「何か食べたいものは?」
「ホットケーキ」
それでも慶が乗り込む際には手を貸してやりながら尋ねると、思ったよりも早く答えが返ってくる。
「――ホットケーキ?」
快気祝いに、何か豪勢なものを用意してやろうと思っていた。そのリクエストにしてはまた不思議なものを、と訝しんだ智博の表情に気付いて、慶が朗らかに笑う。
「……昔ね、すげえ好きだった家政婦さんがウチにいたんだけどさ。辞めちゃったんだよね。親父が再婚するときに」
やがてゆっくりと動き出した車内に体を預け、慶が顔だけを持ち上げて視線を合わせた。
「それからずっと食ってなくて。ホットケーキ。あの人が作ったのがあんまりおいしかったから、他のなんか、食べる気になれなくて。なんでだろね、おいしかったの、すげー」
「……その家政婦が作ってたからじゃないのか?」
「うん、まあ、そういうことなんだと思うんだけど」
彼は最近、こうやって、何気ない会話の中に、自分の過去を取り入れるようになった。
どうか俺を理解して、と、押し付けがましくない、遠慮がちな想いが、頬を撫でる春風のような軽やかさで伝わってくる。
「……でも、なんでかな。白井さんが作ったやつなら、おんなじ味がする気が、するんだ」
そうして語り出す彼の過去には、いつも必ず、僅かに滲む孤独や寂寥感が存在した。
「……ホットケーキの作り方なんて、俺にはわからないよ」
「じゃあ一緒に調べようよ。今はネットとか便利なもんがあるんだからさ。レシピなんか腐るほどあるって。道具は?」
「多分……随分前に藍子が持ち込んだものがあった気がするけど」
「じゃあ大丈夫じゃん」
今でさえ、会話の中に藍子の名前を出しても、彼は思っているよりも平然とした顔で、眉を寄せもしない。
事実彼は、藍子自身を、それほど嫌悪していないのではないだろうか、とも思う。
――どうして藍子にはあなたが、
――どうして俺には誰もいないの。
彼が妬ましく、恐らく嫌悪したのは、藍子自身ではないのだろうと、智博は思う。
それはきっと――子供じみた、寂しい、嫉妬だ。
この腕は。
幼い彼の心ごと、抱きしめるに足りるだろうかと、最近よく考える。時間を越え、幼い日に泣き叫ぶことすらできなかった彼の心に、この腕は届くだろうか。――届くと、いい。
もう二度と、傷つけることがないように。
もう二度と、嘘と偽りだけの世界に、彼を生かさないように――祈った。
「あ、てゆうか今日水曜日じゃん」
唐突に慶が声を上げた。
そういえば、と気付く。
つい先日までは、藍子と過ごすことに決めていた水曜日。
会社帰りの待ち合わせ、決まったレストランでの食事、彼女の家で飲むコーヒー。
もう何年も変わらず続いていた、予定調和の日々だった。
その中に、たったひとつだけ滴り落ちた、鮮やかな不調和。
平穏な日々が壊されることを恐れながらも、彼の存在を望んだのは、間違いなく自分自身だった。
すべて、自分が望んでいた。
胸を熱く焦がす恋も。
見つめるだけで、涙が出そうなくらいの想いを抱くことも。
「ねえ、今日のご予定は?」
猫のように細めた茶色い瞳で、悪戯に彼が笑う。
「……ホットケーキ、だろ」
降参の白旗を掲げる気持ちで、智博はゆっくりと、微笑んだ。
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