マ ジ ッ ク ミ ラ ー
その日、兄と待ち合わせたのは、グリーンカレーが馬鹿みたいに美味いと評判の、アジア系のとあるレストランだった。
馬鹿みたいに美味いんだよ、ほんと馬鹿みたいに――そう強調して評したのは、ある幼馴染の言葉で、そんな滅茶苦茶な誉め言葉があるかといぶかしみながらも結局のこのこやって来てしまったのは、美味いものに目がない人間の悪癖だ。
「あれっ、白井さん?」
「ああ――」
店に入るなり、あるテーブルで見知った背中を見つけて駆け寄ると、その男は少しばかり冷たい感じのある顔付きを柔らかくして、そっと微笑んできた。
「――藤倉、和真君」
「――ええまあそうなんですけど、その通りなんですけど」
含みのある呼び方に、和真は頭を抱えて「う、う」と低く呻く。
「ああもう、嫌だなあ。ほんとは俺の名前なのに他人のモンみたいに聞こえちゃうの。あなたも嫌でしょう」
「嫌というよりは、違和感はあるかもしれないな。――どうせ、すぐに慣れる」
「そういうもんですかねえ……」
「そういうものだろう。俺はもう、「慶」には慣れたよ」
待ち合わせかと尋ね、頷いて答えて見せると、よかったら、と白井は自分の前の席を勧めてくる。自分も待ちぼうけなのだと、彼は穏やかに笑った。
「慶と待ち合わせですか?」
「ああ。ここのグリーンカレーが馬鹿みたいに美味いって慶が言うから」
「――……そうっすか」
どうやら今晩は男四人でグリーンカレーを突付く嵌めに陥りそうだ。それはあまり美しいビジュアルではないなと思いながらも、黙って頷いておく。
「それより、スタッフの君が俺に話し掛けていいのか? 守秘義務は?」
からかう口調で落とされた言葉に額を押さえつつ、正真正銘の藤倉和真は、「いいんです」と半ば自棄になったように答えた。
この男も、案外、執念深いところがあるのかもしれない。
「いまさら守秘義務も何も、あったもんじゃないでしょう。最初っから慶の正体はあなたにはバレバレだったんだから」
「はは……そうだな」
白井はひどく穏やかに笑って、水の入ったグラスを傾けた。
「こんなこと初めてなんだよ。あれでも慶はウチのスタッフの中でも達成率が桁違いに違うし、正体バレかけたって尻捲って逃げるのは上手かったのに」
額を掌で押さえたまま、不平を呟くように、和真は唇を尖らせた。この辺りはまだ、子供らしい表現方法だ。――正真正銘、偽りのない、十八歳の少年らしい表情だと思いながら白井が見つめていることなど、和真は知る由もない。
「君の名前をそのまま拝借している辺り、考えが浅いような気もするけど……」
「今回はね、前の仕事からの時間があんまり空いてなかったんですよ。偽名を考える時間もなかったらしくて、でもさっさと決めないと学生証の偽造が間に合わなくて。慶と壱が近くにあった俺の名前見てもうこのままこれでいいか、ってなっちゃったらしいです」
「そういうところが面白いな、君のところは。案外、いいかげんなのか?」
「俺の名前をそのまま使う利点は、一応あるんですよ。あなたが慶の正体を疑って、万が一電話帳を頼りに学校に電話をかけてきたりしても、「藤倉和真」っていう人間はちゃんと籍を置いてるわけですから」
「そんなことはしないよ」
「そう! そこなんですよね! あなたみたいな人もはじめてです。普通は騙されてたって判ったら、その瞬間に慶を問い質したりウチに殴りこんでくるなりしたって当たり前でしょう」
普通なら、正体がバレかかっているかもしれないと気付いた時点で、引き際を誤らないように工作員が姿を消すのがセオリーだ。相手が自分たちの本拠地まで辿り着くような真似は、あってはならない。
事実、ある工作員がへまをやらかし、半狂乱状態のターゲットに詐欺だと喚かれて訴訟の一歩手前まで発展したこともある。なんとか当人同士の話し合いで事は済んだが、あのような修羅場は二度とご免だ。心臓に毛が生え捲っている壱や慶とは違い、たかが十八で凡人の和真には、まだまだ刺激がありすぎる。
「……そうだなあ……」
なのに怒りという言葉からもっとも遠く見えるこの男は、藤倉和真という偽名を使い続けた工作員の正体を知りながらも、その男を自分の傍に置き続けたのだ。
騙されていることを知りながらも、森川慶という真実の名を知らないままでも、ただそっと、傍にいた。
――時限装置付きの爆弾を抱くように、思い続けた。
そういう一途さを持ち合わせている男だからこそ、破天荒で滅茶苦茶な慶も彼に惹かれ、終いには恋に落ちてしまったのかもしれない。
「それでね、もうこれはついでなんですけど。あなたに関する依頼、実は二件来てたんです」
「……いいの、守秘義務は」
「だからもう今更ですって!」
面白がる声音にも唇を尖らせて、和真は半ば叫ぶような声で返す。あの慶を飼い慣らしてしまったこの男に、少なくとも、自分は好意を持っているのだ。白井と付き合うようになるまでの慶に、散々弄られからかわれ、遊ばれてきた身としては、彼が大人しくなってくれたことを心から喜んでいる。慶の関心を一身に惹き付け、そうさせたのが白井だとすれば、やはり好意を持ってしまうのだ。
「一件は、白井さんもご存知の通り、城嶋藍子さんからのご依頼です。こちらは穏便にまる〜く、向こうから別れを切り出してほしいっていうことで、目的もはっきりしてたんですけどね。もういっこの依頼がなんていうかはっきりしなくて」
「はっきりしない?」
白井は穏やかな目を柔らかく細め、和真の言葉を聞いている。何か心当たりでもあるのだろうかと思いながら、和真は口を開いた。
「とにかく、「白井智博」っていう男を誘えっていうんですよ。どんな人間でも、どんな方法でもいいから、死ぬほど夢中になれるような恋愛をさせて刺激を与えてやれって」
「……二件同時に、同じ人間相手に依頼がくるのは、珍しくないことなのか?」
「いえ、すっげえ珍しいっすよ。依頼者一人、ターゲットカップル一組っていうのが通常で――ああでも娘さんの心配をされてるご夫婦とかで依頼人が複数人ってこともありますけど、結局依頼の件数は「イチ」ですからね」
「ああ、そうなのか。……そうか、そういうケースの依頼も有るんだな」
「どんなの想像してたんですか」
「いや、こう……不倫相手とか。そういう人に喜ばれないような恋愛をしている人たちばかりがターゲットなのかなと思っていた」
運ばれてきた水で喉の渇きを潤しながら、白井は静かに相槌を打つ。自分の話をされているというのに、然程興味がなさそうだ。この関心のなさが、和真にとっては不思議でならない。
「あー、まあ、確かにそういうのが多いのも事実ですけどね」
「そう。……ああ、和真君。君の話はとても面白いけど、俺は部外者なんだから。伏せるべきところは、ちゃんと伏せておくんだよ」
ふいに思い出したように、白井が穏やかに釘を刺す。話の内容より、一応は正式スタッフに数えられる和真が、こうも簡単に社内事情を口にすることを、どこか案じているようだった。これが大人の分別というものなのだろうか。
判ってますよ、と素直に頷いてから、和真は続けた。
「話は戻りますけどね。白井さんの件は依頼者も、不透明なんです。ウチは大体、相談者の方に事務所まで出向いてもらったり、スタッフが直接出向かったりするんですけど、その方はどうにもスタッフと会いたがらなくて。依頼は電話、必要書類はファックスか郵送、料金は振り込み。徹底的に顔を合わせたがらないんですよね」
「そういう相談者だっているんじゃないのか? 例えば顔が知れてる有名人だったりとか……」
「白井さん、有名人からターゲットにされる心当たりってあります?」
「……ないよ」
白井は思わずというように吹き出し、笑い出した。くつくつと肩を震わせながら笑いを堪えている仕草を、どこか新鮮なもののように見つめ、和真は肩から力を抜く。この白井智博という、どこからどう見ても普通の会社員に、一度に二件もの依頼がきた偶然を最も不思議がっているのは、実は自分だった。
壱は――あの不遜で気侭な一応の兄は、「まあそういうこともあるさ」とのんびり笑うだけで、相手にしてくれないからだ。
「依頼人がよく判らないっていうのもあるし、だから一つ目の――城嶋さんからの依頼を本依頼ってことにして、二つ目の件は、慶には伏せてあるんです」
「へえ、そうなのか」
そこで漸く、白井は関心がそそられたとでもいうように、和真に視線を寄越してきた。慶の名前を出した途端こうなのだから、ある意味判り易いといえば判り易い。
「ええ、だって結果的には同じですし。優先順序から言えば、「別れる」っていう目的のはっきりした城嶋さんの依頼を最初に持って来るのが普通でしょ。こういう言い方は悪いかもしれないけど、二つ目のほうはおまけって感じで」
「おまけか……。君の言ったように結果としては同じだから、まあよかったんじゃないか」
「そうなんですけどねー……白井さん、気にならないんですか? 相手が誰だったのか」
白井は愉快そうに笑う。その表情には、何の翳りもない。正体不明の誰かから、ターゲットにされていたことなど気にもしていないように。
「君がそれを知ったとしても、俺に口外はできないだろう」
「まあ依頼人がそれを望めば、そうなるんですけど……」
白井を驚かせるつもりで話して聞かせたのに、こうも反応が思わしくないとは思わなかった。少しだけふて腐れたような気分を抱きながらも、和真は誤魔化すようにメニューを開く。
そのとき店の戸が開いて、やかましい声が耳に届いてきた。
「さっみー……! こんなに寒いのにお前に会うとか最悪超ついてない」
「俺だってついてないよ。せっかく和真と二人で食事ができると思ってたのになんでお前とわざわざ会うかな……泣きそう」
「泣いちゃえよ。つうかわざわざ同じテーブルで食うつもりなの? 冗談じゃない。俺だってヤだよ」
この店のカレーを「馬鹿みたいに美味い」と称した男と、その言葉に唆されてここのグリーンカレーにハマった第一号の男だ。
「あ、来ましたね二人とも」
幼馴染み同士の藤倉壱と森川慶は、店に着いた早々喧嘩をしている。昔ながらとはいえ、それぞれがそれぞれの食事を楽しみにしていたらしいので、どうやらあの調子ではテーブルを分けることになりそうだ。後から来た自分がこのテーブルから退くのが礼儀だろうと腰を浮かしかけると、それを制して白井がゆっくりと立ち上がった。
「……てっきり女性が来るものだと思っていたから、気付くのが遅れたんだ」
立ち上がる白井を視線で追いながら、唐突に落とされた言葉を、和真はゆっくりと咀嚼した。
「あとになって、意外性を狙うためにわざと男の子を寄越したのかと思ったんだが……それも違ったみたいだな。だけど、最初から女性に来られていたら、判り易すぎて、刺激にもならなかったかもしれない」
「……はあ」
何を言われたのか良く判らないまま、和真はとりあえず頷いてみせる。その様子を見て、白井は少しだけ楽しそうに、笑った。
その悪戯な表情に、なんだか彼も少しずつ慶に感染されているんじゃないかと心配しかけたのはほんの一瞬で、次の瞬間には、和真の杞憂など勢いよく吹き飛ばされてしまう。
「だから君たちには感謝している。俺に慶を出会わせてくれて、ありがとう」
「――はあ!?」
「智博、ごめん。なんか変なの着いてきちゃった」
和真が混乱している間に、やって来た壱と慶が、それぞれ白井とのんびり挨拶を交わしている。
「変なの? ああ確かになんかいるな、隣に。うるさいのが。――あ、白井さんこんばんは。慶がお世話になってます」
「いや、こちらこそ。和真君に世間話に付き合ってもらえて、楽しかったよ。じゃあ俺たちはあっちに行くから、君たちはどうぞごゆっくり」
「ええ、どうも」
白井と、今にも舌を出さんばかりに憎々しい顔をしている慶をにこにこと送り出すと、壱は先ほどまで白井が座っている席に腰を下ろした。
「――和真? どうしたの。待たせたの怒ってる?」
「お、こってない、けど……」
白井は慶を伴なうと、さっさと向こう側のテーブルに去って行ってしまった。和真はまだ、硬直したままである。
その関係を、マジックミラーだと称したのは、誰だっただろう。
暗いほうから覗き込めば透明なガラスに、明るいほうから覗き込めば己の姿しか映し出さない鏡に。或いは視界が、不透明に濁る。
自分ばかりが、いつも、澄み渡った景色を見つめているのだと。
覗き込むべき方向を、最初から、誤解していたのかもしれない。見渡せる方角にいると思い込みながら、あっさりと、間違っていたのかもしれない。
――彼は。
「――とんでもねー……!」
不思議そうな表情で覗き込んでくる兄の視線にも気づかぬまま、和真は呆然と呟き、額を押さえた。
マジックミラーの住人は――暗い部屋から何もかもを見渡して、全てを知りながらも、ただそこに佇んでいる。
いつも、板ガラスの存在を知りながらも、抱き合い続けている。自分ばかりが冷たいガラスを抱きながら、冷たい瞳を持ちながら。いつもいつも、見えすぎる、透明な視界を、見つめ続けている。
誰かがそれを、壊してくれるのを、望みながら。
マジックミラー。
――彼は最初から、そこにいた。
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