夕暮れをとうに過ぎ、駅には帰宅途中の会社員が溢れ返っている。この時間帯、探偵事務所というものは開いているものだろうか。普段の生活からは現実味のない存在に対し、些かの不安を抱きながらやってきたが、窓から漏れてくる照明の光はかろうじて見える。あそこには、まだ人がいると思っても間違いないだろう。
――AFコーポレーション。
掲げられている看板を見てみれば、一見では事業内容が推し量り難い名称をしている。それは、まだ新しい感じのする清潔なビルの、二階と三階のフロアに位置していた。一階は、なにやら怪しげな装飾品や置物を売っている雑貨店らしい。店先には木彫りの蛙や牛の置物が置かれてあったが、それだけを見てもどこの国のものか全く見当がつかない。帽子を深く被った蛙と暫く見つめ合ったのち、これがどの国の出身だとしても自分には預かり知らぬことだと、智博は漸くビル脇の階段に足をかけた。
扉には、看板と同じ名前が掲げられている。保坂経由で手に入れたメモにも、同じ名前が書かれてあった。どうやらここで間違いないらしい。
退社間際、偶然顔を合わせた保坂は、急いでいる智博に向かって少しだけ複雑そうな顔をして、けれど結局、何も言わずに送り出してくれた。多分保坂が直前に引きとめたとしても、自分は真っ直ぐ、ここに向かっていただろう。
覚悟を決めて戸を開けた先には、思いがけず、普通のオフィスと大して変わりのない風景が広がっていた。事務用のデスクが幾つか並んでおり、壁には書類が収められた高い本棚がある。観賞用の植物の奥は衝立で、どうやらその向こうにはソファが並べられているようだった。
一番奥のデスクに座っていた若い男が、戸の開く音を聞き咎めてか、ゆっくりと顔を上げる。智博の姿を認めた瞬間、彼は腰を上げ、のんびりと首を傾げた。
「――おかしいな、今日は何の予約も入ってなかったはずだけど」
小さな呟きに、どうやら自分が依頼人と勘違いされたらしいと知り、智博は慌てて首を振る。
「いや、少しお伺いしたいことがあって――」
「あー、はい。とりあえず、お入りください。私、所長代理の藤倉壱と申します。失礼ですが先にお名前を伺ってもよろしいですか? あ、どうぞ、そちらのソファにおかけになってください」
少しだけ癖のついた髪を手櫛で整えながら、壱と名乗った男はのんびりと微笑んだ。所長代理とは言ったが、歳はまだかなり若い。下手をすると大学生程度にも見える。
「いえ、だから、相談でもなくて……あの、藤倉、壱さんと仰るんですか?」
「ええ」
男の流暢な口を留め、尋ねると、男は不思議そうな顔をした。なぜそんなことを確認するのかといいたげな表情だ。
「藤倉……藤倉和真を、ご存知ですか?」
「和真ですか?」
本名かどうかも判らないその名前を口にすると、男は尚も目を丸める。
「ええ、私の弟です」
「弟……」
兄がいる――というようなことは、コンビニで知人らしき少年と遭遇した際に漏らしていたことだ。ではその名前――「藤倉和真」は偽名ではなく本名だったのか、彼は自分に正体を、少なくとも名前だけでも、偽ってはいなかったのか。混乱が混乱を呼び、立ち尽くしていた智博に、壱は穏やかな声を投げた。
「和真が何をしたかは知りませんが、まあとりあえずおかけになりませんか? あ、お茶飲みます?」
「いえ、結構」
どう切り出すべきかを悩んだ挙句、智博は率直に尋ねることにする。こんなところで探りあいをしたって、埒など明かない。
「彼を探しているんですが、――彼はここのスタッフだと聞いて」
「はあ。和真ですか。いることには、いますけど」
藤倉壱、と名乗った男は、思いもがけず、智博の問い掛けをあっさりと肯定した。
「……いるんですか? 和真が、ここに」
「いますよ。お呼びしましょうか? おーい和真」
壱が振り返った方向見れば、部屋の奥に、もうひとつの扉がある。その奥に誰かがいるのか、壱の声に答えて、「なーにー」という間の抜けた声がした。
「お前にお客さんだよ。早く来なさい」
心の準備が、まだできていない。けれど扉の向こうからは、確実に足音が近付いてきている。
心臓が痛いくらいに高鳴るのを自覚しながらも、智博はその瞬間を待った。
そうして唐突に、重なり合わない符号に気付く。
――和真は今、病院にいるんじゃなかったのか?
思いついた瞬間に、扉はゆっくりと開かれた。
「君、は――」
「あ……」
扉から現れた歳若い少年は、智博の顔を認めて、呆然と口を開いた。
――あの少年だ。
もちろんそれは、智博の期待した和真の姿ではない。全くの別人である。けれど智博は、この顔を確かに見たことがあった。
「確か前に、コンビニで……」
後ろから誰かが自分をつけてきているような気配を感じていた夜。それがただの勘違いだと知った後、和真の友人である少年と出会った日のことだ。
自分は確かに、この少年を見ている。
「壱ィィィッ、お前何考えてんだよ、この馬鹿ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
暫く呆然としていた少年は、はっと我に返り、そのままツカツカと恐ろしいスピードで壱の前まで歩み寄ると、その胸倉を掴み上げた。
「いや、和真を呼べっていうからさあ――」
「そんなの俺じゃないことくらい判りきってることじゃねーか! ちょっと、おまえほんとにどうすんだよこの状況!!! 誤魔化しきかねーじゃん!!! この人、白井さんだよ、白井智博!!」
「ああ、城島さんとこの?」
「ターゲットの顔くらい覚えてろォォォォ! あああああ、また修羅場になっちゃうじゃんか……!」
怒声すらさらりとかわし、壱はにこにこと微笑んでいる。胸倉を掴み上げられているというのに、この余裕はどこから出てきているのだろうと呆気に取られながらも、智博は口を開いた。
「お取り込み中のところ、申し訳ないけど……」
なんだかどっと、疲れた気がするのは、姿を表した少年の騒々しさに気を抜かれたせいだろう。
「誤魔化しも、別にいらない。俺は、「藤倉和真」が「藤倉和真」じゃないことを知っていて、ここに来たんだから」
少年の怒声がぴたりと止まり、代わりに彼は智博の顔を凝視してくる。信じられない、といったように大きく見開かれた目に、居心地が悪くなった。まだ胸倉を掴まれたままの壱は、何故か不可思議に笑っている。
「そ……そんな」
「よく考えてみなさいよ、和真。ここにターゲットが来るってことは、あいつがヘマやって正体がバレてたってことだろう。バレたもんを今更誤魔化したってしょうがない。それで白井さん、何かウチに訴えたいことがありましたら、できれば示談でお願いしたいんですが」
「壱お前なあああああ!!」
「いや、だからこれからは誤魔化す方法よりも、事態をまる〜く収める方法を考えましょうってことでね」
掴まれた胸倉をガクガクと揺さぶられても、壱は飄々としている。
「そういうことでしょう、白井さん」
ゆっくり向けられた壱の視線は、まるで智博がそんな話を望んでいないことを見透かしているようだ。そもそも壱の態度や話は、騙されたと怒り狂っている人間を落ち着かせるものでは到底ない。
智博は、首を横に振った。
「藤倉和真……っていうのは、君の名前なのか?」
和真と呼ばれた少年は――ゆっくりと、壱の胸倉から手を離した。彼が小さく頷いたのを確認してから、智博は再び問いを重ねる。
――それは。やはり、彼の名前では、なかった。
「俺は君たちに騙されたことも、彼に騙されていたことも、訴えるつもりはないよ。ただ、俺の知っている「藤倉和真」が今どこにいるかを知りたい」
「それ、は」
どうしよう、というようにで壱を見上げた本物の藤倉和真が答えるより早く、その男が口を開く。
「申し訳ありませんが、こちらも守秘義務というものがあります。私どもにはお客様とスタッフの秘密、それからその安全を守る義務がありますので、それはご理解頂きたい」
壱は、解放されたばかりで皺くちゃになったスーツの皺を整えながら、のんびりと答える。もう彼に、先ほどのようなふざけた様子は見えない。
「事実、つい先日はスタッフが一名、負傷しております。こちらも人の恨みを買う仕事であることは承知の上ですが、だからこそ守らなければいけないものがあります」
「彼に危害を加えるつもりはない……と言っても、無理なんだろうな」
「恐れ入ります」
壱の物腰は柔らかでも、頑なな意志が瞳からは感じ取れた。負傷したスタッフというのは、恐らく和真のことだろう。だからこそ、警戒態勢になっているのも理解できる。最もで、当然のことだ。
けれど、と尚も言葉を継ぎかけた智博を遮るように、壱は再び口を開いた。
「ただ、彼の友人が見舞うのなら――問題はないでしょうが」
「それは……どういう、」
ぽつりと、独り言のように落とされた言葉に尋ね返そうとしたとき、隣で俯いていたばかりの少年が、ぱっと顔を上げた。
「素直じゃない……!」
噛み締めるような口調で呟いたあと、少年は――藤倉和真は、智博の腕を取った。
「行きましょう、白井さん」
「……え? いや、行くって、どこに」
「あなたと俺は今この瞬間からオトモダチです」
藤倉和真はそうきっぱりと言い切ると、智博の腕を取り、そのまま戸口へと向かう。
「で、俺のオトモダチのあなたが、俺のオトモダチのあいつを、俺と一緒に見舞いにいくんです。――そういうことだろ、壱!?」
「解釈はご勝手に。……ややこしいねえ、どうも」
あとは自分の預かり知らぬことだとばかりに、壱はひらひらと手を振った。
「ああ、和真。ついでだから雑誌でも買って持っていってやってくれ。ヒマだの退屈だのメールがさっきから止まらなくて、ものすごく煩い」
「判ってる!」
「ちょっ……君たち――」
話を今ひとつ理解できていないのは智博ひとりで、彼らは見送ったり見送られたりとそれぞれの役割を終え、気がつけばビルの外に引きずり出されていく。扉が閉まる瞬間に、少しばかり憂いた表情で、それでも陽気に手を振る壱の顔が、ぼんやり見えた。
「藤倉――君?」
智博の腕を掴んだまま、スタスタと歩いていく少年に向かってまだ慣れない名前を口にすると、じわじわと実感が沸きあがった。藤倉、和真。それは、「彼」の名前ではなかったのだ。
「はい、なんですか」
「俺を、……和真のところに連れていってくれるのか」
けれど今は、その名前を、彼のものとして呼ぶ他ない。
智博の違和感を感じ取ったのか、少年は、些か不快そうな顔をして、けれど素直に頷いて見せる。
「はい。あなたの知っている「藤倉和真」のところに、ご案内します」
藤倉和真。その名前は、正真正銘、この少年のものだ。
この期に及んでさえ、自分は彼の、本当の名前を呼ぶこともできない。その事実に、今更愕然とした智博の耳を、和真の静かな声が打つ。
「すみません。壱は――兄はあれで、叔父からあそこの責任者代理を任されているものだから、口が堅くて」
「それは……仕方がないことだろう。彼が言っていることも、最もだから。――ところで、よかったら腕をそろそろ離してくれないか」
見るからに年下の少年に捕まったまま、引き摺られるように歩いている格好は、どうも体裁が悪い。遠慮がちに智博が告げると、少年は今の今まで自分の手が掴んでいた腕に、はっと我に返ったように顔を赤らめ、慌てた様子で手を離した。
「うわっ、す、すみませ……!」
手を離してほしい、といった智博の気持ちを汲んだのか、すっかり恐縮してしまっている。こちらの和真は、随分と素直で初心だ。
「なんかこう、壱があんまりアレだから、頭に血が上っちゃってたんで。ほんとにすみません」
「いや、……それより、君と彼は兄弟なのか?」
頭を下げ続ける和真に、気にしていないと首を振り、続けて尋ねると、和真はほんの少しだけ嫌そうな顔をして「不本意ながら」と唇を尖らせた。
「俺、養子なんで。似てないでしょう? 血は繋がってないんです。あんなアホなのと兄弟じゃなくてよかった」
「それは……」
なんとも言えない、と微妙な顔をした智博に、和真はからりと笑った。
「アホといえば、あなたの「藤倉和真」もそうとうにアホですけどね。あいつね、とっくにウチをクビになってんですよ」
「そう……なのか?」
目を剥いた智博に、そうですよ、とあっさり頷いた少年は、そのまま続けた。
「依頼を遂行するために、守らなきゃいけないルールというものがあるんです。それを破ったり抵触するような行為をする度、ペナルティが加算されて、基本的にはその点数によって減給されるんですが――あいつの場合、減給じゃ済まないくらいにペナルティが大きくなっちゃって」
「ペナルティ?」
「まあ、普通に考えられるようなことですよ。シナリオに背かないとか、自分の正体をターゲットにはバラさないとか。――以前関わったターゲットに発見される恐れがあることは、極力しないとか。任務中に同業者を見かけても声をかけないとか」
苦々しく和真が零した言葉には、覚えがある。和真が会社の真ん前で自分を待っていたことがあった。結局そこで川崎に発見され、智博に忠告が流れてきたのである。現在のターゲットと、以前のターゲットが同じ職場にいたのだ。普通に考えれば、会社の前で智博を待つことなど、してはならない行動だろう。
そして同業者に声をかけてはならない、という話にも、もちろん覚えがある。
「……もしかしてそれは、コンビニのときの話?」
「決定的でしたね、あれが。あいつ、それまでも報告もサボるわ、白井さんの会社にまで会いにいくわで、違反行為が目立ってましたから」
「君はやっぱり、俺のことを尾行していたんだな」
あのとき、背後から感じ続けていた気配は、自分の勘違いではなかったようだ。恐らく彼は、違反行為の多かった「和真」に繋がる「白井智博」を監視していたのだろう。
「……あー、はは、は。バレてました? 俺はトリックスタッフじゃないんで、尾行下手なんです」
ほんとは事務員なんですよ、と肩を落とし、彼は情けないと笑った。
「あのときはちょっと人手不足で、俺が仕方なく。――で、あいつはクビになったわけです」
「そうなのか……」
最早智博は、相槌を返すことしかできない。和真の行動は、恐らく誰かに――例えばシナリオに沿ったものでは、到底なかった。どころか彼の言動は、上から監視下に置かれるようなものでさえあった。それが何を意味しているのか。考えただけで、思考が止まる。一気に得た情報が、許容量を越えている気がした。
「それで、君はどうして俺を「和真」のところに連れて行ってくれるんだ……?」
しかもこの少年は、散々「和真」の所業を扱き下ろした挙句、自分を彼の元に連れて行ってくれるという。勿論智博にとっては有り難いことこの上ないが、少々解せない。
「君たちの都合上、俺と彼を接触させないほうがいいんじゃないのか」
尋ねた智博に、藤倉和真は僅かに瞬きをし、少しの間を置いて口を開いた。
「依頼者の目的は達成されました。それで……「藤倉和真」の仕事は終わりですし、貴方はもう、俺たちのターゲットではない。それに……」
そうして口篭もった藤倉和真は、足早に歩きながら、思い切ったように顔を上げた。
「たぶん壱は、わざと俺を呼んだんだと思う」
「こっちです、」と大通りまで出たところで、藤倉和真はタクシーを呼び止めた。タクシーに乗り込むように促しながら、少年は尚も続ける。
「白井さん、「葛西翔子」という女性をご存知ですか?」
「葛西……葛西、翔子? いや、俺には聞き覚えがないよ」
「ご存知のはずです。葛西、っていうのは旧姓みたいだけど」
かさい、しょうこ。その名前を口の中で何度も繰り返す。葛西――その名前に覚えがないのは、確かだ。けれど、翔子という名前には、覚えがあった。
覚えているのは、ヒステリックな金切り声。よく、向かいの家から聞こえてきた――
「確か、藍子の母親が、そういう名前だった気がするけれど……」
藍子を確かに産み落とした女の名前が、翔子、といった気がする。智博がその人の顔を最後に見たのは、もう十年ほども前だ。藍子の実父との離婚後、別の男と再婚したという話だけは聞いている。その再婚相手に、何度か藍子も会わされていたはずだ。「どうして、あたしが今、要るのかなあ」――不思議そうに首を傾げた藍子を、招かれたホテルまで見送った記憶が甦る。
「そうです。城島藍子さんの実母であり、今は――あなたの知る「藤倉和真」の、義理の母親です」
「――藍子の母親が?」
動き出したタクシーの中で、少年は小さく頷く。
「だから多分、あいつは積極的にあなたに関わったんだと思う。……自分から。そういうふうにあいつが仕事を選ぶのは、初めてだったから。俺も壱も注意して見ていたんです。……そしたら、こんな……」
少年は一度言葉を止め、きゅっと唇を噛み締めた。恐らくは、和真の怪我を憂いている幼い表情に、ある記憶が甦った。
「……君が、あの「和真」と幼馴染みだっていう話は、本当なんだな」
「はい。壱も――兄もです」
コンビニで彼と出会ったあの日、彼と自分は幼馴染みなのだ、というようなことを、和真が言っていた。それぞれ名乗った名前は違っていても、かすかな真実は確かに組み込まれていたわけだ。
「あいつね、性格悪いんですよ白井さん」
「は?」
「三人の中じゃ俺が一番年下なもんだから、ちっちゃいころからわりとよくからかわれたり、いじめられたりしてきたし。この仕事も、気持ちよくない部分だっていっぱいあるけど、あいつはわりと楽しんでやってる感じで、罪悪感とか、そういうのもあんまりなかったみたいで」
ポツポツと話し始めた少年は、徐に、思いがけないことを問い掛けてきた。
「……白井さん、マジックミラーって判ります?」
「マジックミラー? ガラスの?」
明るいほうから暗いほうを覗き込めば、景色は半透明に曇り、或いはただの鏡になって、向こう側にあるものを見渡すことは出来ない。暗いほうから明るいほうを覗き込んだ場合にのみ、クリアな視界が手に入るという、あのガラスのことだろう。
「自分は、マジックミラーの暗いほう――ものがちゃんと見えるほうですね。そっちに立ってるんだって、言ったことがあるんですよ」
「和真が?」
「ええ、ただし、あなたの知る「和真」のほうですけど」
思わずその名を出して問い掛けると、少年はやはり居心地悪そうに頭を掻いた。
「ともかくあいつは、全部をきれいに見渡せる方に立ってる。相手の全部を、ちゃんと、知ってる。だけど相手は――この場合は仕事のターゲットのことですけど、相手は自分の姿を、全て掴んでいるわけじゃない。なのに自分に恋をする。正体を隠した自分に、恋をしてくれる」
――それはあまりにも、寂しい。
智博はなぜか、ぼんやりとそう思う。
冷たい、悲しい、そして、寂しい。
「あいつはね、一方通行な恋愛は、やっぱり少しだけ寂しいっていうんです。でもそういったのとおんなじ口で、それが「快感」だっていう」
「快感?」
「自分だけが相手の全てを知って、掌中に収めているのは、まるで神様にでもなったような気がするからって。――ね、性格悪いでしょ」
溜め息のように少年が吐き出した言葉に、智博はすぐには頷けなかった。確かにそれは、歪で暗い快感だ。
「あなたがこれから会おうとしているのは、そういう、性根の悪い男です」
「俺が知っている「藤倉和真」は、実際の彼とは違っているかもしれないと?」
「そういう可能性も、あるってことです。性格が悪いことだけは確かですから。いやこれはホントに」
少年が生真面目な顔で、冗談のように念押しして見せるので、智博は思わず笑ってしまった。
「……笑い事じゃないんですって」
「俺の心配をしてくれているのか?」
尋ねると、少年は黙り込んでしまった。
ひどく、微笑ましい気分になる。
「さっきも言ったと思うけど……俺は君にも、もちろん彼にも、騙されていたとは思っていないんだ。いや、実際は騙されていたんだろうけど……それに怒り狂ったりする気持ちには、なれなくて」
むしろ、どれが嘘で、どれが本当だったのかを、知りたい。
「――マジックミラーか。それを壊したら、彼は、怒るかな?」
小さく呟いた智博の声に、驚いたように少年は顔を上げた。
「白井さん、あいつに会って何するつもりなんですか?」
「そうだな、具体的なことはあまり考えていなかったんだが……」
「案外無鉄砲なとこがあるんですね」
呆れたような声に微笑んで、智博はその言葉を、口にした。
「とりあえず……彼の、本当の名前を聞こうと思う」
ぽかんと開いた口をそのままに、少年はゆっくりと表情を崩し、やがて声を殺して笑い出した。
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