【10】
 

 暖房のスイッチを入れると同時に点けたテレビからは、今日の最低気温が、今冬の最低記録となったと告げる女性アナウンサーの声が流れていた。
 ニュースは、昨日も同じことを言っていた。冬はまだ長く、あとどれくらい気温が下がっていくのだろうと考えれば、元々寒さが得意ではない智博は苦笑するしかない。
 寒い夜がいけないと思うのは、部屋の中に、彼の匂いを探してしまうそうになるからだ。彼の匂いと痕跡を、敏感に、探してしまいそうになる。
 唯一の痕跡とも呼べる使いかけのスパイスの瓶は、キッチンに並べられたままだ。果たしてそれを使うことがあるのだろうかと思いながらも、まだ捨てられずにいる。これを並べながら「またね、」と笑った彼は、もういない。
 ――もう、いない。
 大丈夫だ。胸のうちで呟いた言葉を聞く人間もない。だからこそ、思い起こせば胸を暖めて、それから少しばかり引き絞って去っていく思い出に、存分に浸れることができる。
 堂々巡りの思考が空っぽになる前に、智博は努めてテレビ画面に目を凝らした。背広をハンガーにかけながら、明日の予想気温と天気を、無理矢理頭に叩き込んだ。――明日の降水確率は四十パーセント。傘は持っていたほうが無難な数字だ。もしかしたら、雪になるかもしれない。
 無理矢理取り繕った思考も、結局は、空っぽだった。
 そのとき、ただ静かなばかりだった室内に、テーブルに置いたままだった携帯電話が、高らかなメロディと震動で着信を告げる。突然舞い落ちた騒々しさにぎくりとしたのは一瞬で、智博は慌てて携帯電話を掴み取った。
「――はい」
 慌てていたせいで、相手も確認せずに電話を取ってしまう。こんな時間に電話をかけてくるのは、誰だろう。藍子か、そうでなければ、保坂か。もうありはしない二人の名前を思い浮かびかけた智博は、その瞬間耳を打った声に、硬直した。
『……白井さん?』
 鼓膜を震わせたその声に、息が詰まるような気がした。受話器越しで僅かに違っていてもも、その声を自分が聞き間違えるはずがない。
「……和真……?」
『うん、そう。……あ、そっか、今外からだから表示出ないのか。白井さん、今、家にいんの?』
「ああ……」
『声聞くのも一週間ぶりくらいだよね。元気だった?』
「お前こそ……」
『俺? 俺は普通に元気だよ。心配してくれてたの?』
 ありがとう、と軽い口調で、和真が笑う。あまりにも変わりのない――あまりにも、いつも通りの声が、からりと通り過ぎていく。
『ごめんね、暫く連絡できなくて。連絡できなかった理由も、あとでゆっくり話すから、もうちょっと待っててほしいんだ。今日もあんまり、時間なくて。今はまだ、話せないことが多くてさ――』
 よくよく注意して聞いてみれば、声に、騒がしい雑音が混ざる。外から、ということは、携帯電話ではなく、公衆電話からかけてきているのだろうか。
『ね、白井さん? 聞いてる?』
「あ、……ああ、ちゃんと、聞いてるよ……聞いてるけど」
『……怒ってるの?』
 沈黙を恐れたように、伺うような声で和真が尋ねた。智博は強張る唇を、ゆっくりと開く。
「……怒ってなんか、ないよ」
『それなら、いいんだけど。……今まで連絡できなかったの、ほんとにごめん。でも俺、ずっと会いたかったよ。毎日白井さんが何してんのかなとか、俺のこと怒ってないかなとかずっと考えてた』
 ほんとうだよ。
 擽るような淡い声で、受話器越しの和真がはにかんで呟いた。
 真っ直ぐに、好きだと告げたときと、同じ温度で。
 ――もう、いい。
 もう充分だと、わけもなく、思った。
「……和真」
『ん? 何?』
「もう……電話なんてしてこなくても、いい。ここに来なくても……いいから」
『え……何? なんで……』
 不意を突かれたような声で問い掛ける声も、ぼんやりと、水の中の音のように遠く聴こえる。
「もういいんだ、和真。――お前が何を考えているのかは判らないけど、俺に気を遣っているなら、もういいんだ。覚悟なら……俺は、ずっと前からしてる」
『……何言ってんの? ごめん、ほんとに意味が、わかんないんだけど。何の話?』
 戸惑うように揺れた声には、ただひたすらな困惑しか含まれていないように聴こえる。それすらも演技だろうかと考えかけて、智博は胸のうちでかぶりを振った。もう少しだって、彼のために、痛みたくはない。そんな余地など、寄越してやるつもりはない。
 ただ想った事実を胸に抱き、思い出の中に甘く浸っていたいだけだ。
「藍子とは別れた。俺はちゃんと、お前の思惑通りにしてやっただろう?」
『な――に、言って……』
「お前の目的は、全部、果たされたはずだ。俺にこれ以上、何をさせたいんだ」
 困惑したように和真が小さく上げた声さえ遮って、声を振り絞る。
 もう二度と、胸を、痛ませたくなんかない。なのに声を押し出せば、知らず胸が痛んだ。懲りもなく、まだこの胸は想うのか。想い続けるのか。それを知ると、笑い出したいような気持ちになる。
「お前は、これ以上俺に、何をしろって言うんだ……俺に、何ができる?」
 それでももしも、まだこの腕や身体が彼の望みに値できるなら、恐らく請われるままに動かしているだろう。それで傍にいてくれるなら。決して言えるはずのない言葉だけが、胸の中を渦巻く。何だってしてやる。何だってできる。――だからもう、構わないでくれないか。
『――ねえ、白井さん』
 僅かばかりの同情心なら、欠片も残さないでいてくれないか。
 傍にいてほしい、同じくらいの強さで、祈り続ける。
 そんな胸のうちを知ってか知らずか、和真は乾いた声で、ぽつりとその名前を呼んだ。
『知ってたの――』
 何の感情も見えない、不透明な声に、何故か不安を掻き立てられる。溜め息を混ぜるかのように、吐息だけで落とされた、弱い声だった。
『あんた、知ってたんだね、俺のこと。……俺がなんであんたに近付いたかも?』
「……ああ」
『全部……全部知ってて、それでも傍にいさせてくれたんだ……?』
 壊れそうな声で、和真は呆然としているように、呟いた。
 どうして、と智博は思う。
 どうして彼が、こんな声を出すのだろう。
 ただひたすらに痛いばかりの声を、彼が、どうして。
 沈黙を肯定と受け取ったのか、和真は「そう、」と小さな声で頷いた。吐息だけを震わせるその声に、なぜか胸が痛む。
『じゃあ、あんた、俺のことなんか、ほんとに……どうでもよかったんだね』
 気のせいだと撥ね退けたいのに、零れ落ちるような弱い声が、彼を手酷く傷付けてしまったような錯覚に陥らせる。そんなはずはないのに、自分の放った言葉が、彼の深い部分を抉った気がして。
「和真……?」
『どうでもよかったから、傍に、いさせてくれたんだろ……』
 戸惑う智博の呼び掛けを遮り、急激に感情を昂ぶらせたように震えた声は、叫ぶかのように一息に畳み掛けた。
『結局あんたは、俺も、藍子も、どうだってよかったんだ! 傍にいるなら――あんたの望みを叶えてくれるなら、俺じゃなくたって! ……あの女じゃなくたって……っ!』
「待ってくれ、かず――っ」
 ガチャリ、と激しい音を立てて、通話が途切れる。あちら側から一方的に会話を遮断されたことに気付いたのは、無機質な電子音が鼓膜を打ってからだった。
「和真……っ」
 呼びかけても、最早応えるものはない。空しい電子音を鳴らし続ける携帯電話を握り締めたまま、どうして、と思った。どうして。どうして、今日、電話をかけてきたりなんか、するんだ。どうしてあんな傷付いた声で、責めたりなんかするんだ。
 どうでもよかったのは、お前のほうじゃないのか。
 この関係で、この結末で傷付くのは彼ではありえない。自分だけが傷付くことが、救いでさえあると思った。自分しか傷付かないのなら、思う存分に想っていられるのだと。
 ――俺のことなんか、ほんとに……どうでもよかったんだ。
 なのに、あの震えた声が、耳の奥から離れなかった。
 それから、どのくらい呆然としていたのかは判らない。ギリギリと握り締めた拳の爪が、掌の肉に食い込みかけたころ、来客を知らせるチャイムが鳴り響いて、智博は漸く我に返った。強張った掌を解くと内側に、醜く食い込んだ爪の痕がある。なのに不思議と痛みは感じなかった。
 中々その場を動けずに、ソファに座り込んだままでいると、すぐに再びチャイムが鳴り響く。来客は、随分とせっかちのようだ。
 重たくなった腰を上げ、智博は玄関に向かう。来客が誰なのか、そして何の用事なのか、考えもしないままに扉を開けた。頭の動きが鈍いのが、自分でもよく判る。扉を開け、智博が顔を上げるよりも先に、「なんだその顔は、」と嫌そうな声で、来客がボソリと呟いた。
「――ほ、さか……?」
「おう。ちょっと邪魔するぞ」
 その声に、智博は目を瞠る。昔馴染みの友人は、厳しく、そして困ったような顔をして、扉の前に佇んでいた。


 勝手知ったる他人の家とばかりに上がってきた保坂は、断りも入れず、ソファに腰を下ろした。あっさりとした態度に戸惑いながらも家に上げた彼は、手土産だと言って白いビニール袋を掲げて見せる。その中からは、たこ焼きのソースの匂いが漂っている。
「メシはもう食ったのか」
「いや、食事はまだだけど。……たこ焼きか」
「メシがまだなら丁度いいだろ。こんだけじゃ腹は膨れねえだろうけど、食えよ」
 少し前、保坂が美味いと絶賛していた屋台のものだろう。突然に押し付けられた袋にはさすがに面食らいつつ、それでもありがとう、と智博は笑った。
「なんかあったのか」
「え?」
「さっき、すげえ顔してたぞ」
「そうかな、」と敢えて苦笑して見せながらも、まだ混乱が強い今、自分の表情を読み取ってくれる誰かがいてくれることを、有り難く思った。
 何の用かは知らないが、突然訪れてきた保坂と向き合っている時間だけは、先ほどの切なさは忘れられるだろう。浮かべた苦笑の不自然さに気付いているはずの保坂は、それ以上追及してこようとはせず、ただ黙って袋の中を漁っていた。
「……保坂、俺に何か用事でも……?」
 沈黙に耐え切れなくなったのは、智博が先だった。そっと口を開き、話を促すと、保坂は視線を上げないまま、ぽつりと告げた。
「川崎さんが、正式に辞表を提出してな。受理されたそうだ」
「――そうか」
 今更ながらに川崎が負った傷の深さを目の当たりにして、感慨深く頷いた智博に、保坂はどこか訝しげな視線を向ける。何かを不思議がっているような表情を一瞬見せたのち、保坂は再び口を開いた。
「これは又聞きだから、詳しいことはよくわからんが。……彼女、ちょっと前に他人に怪我を負わせたらしくてな。どう見ても彼女に落ち度がある。それにだいぶ精神的にも参っちまってるらしいから、やっぱり彼女には休養が必要なんだろ」
「……怪我? 事故か何かか?」
「事故だって、被害者側が主張してるんだよ。――ほんとにおかしな話だが。ほら、食え」
 そういって保坂は上蓋を開けたパックを差し出してきたが、話の重さに口をつける気にもなれず、智博はそっと眉を潜めた。
「被害者側っていうのが、怪我をした人間のほうだろう。それで……加害者が、川崎さんなのか?」
「彼女な、……駅のホームの階段で、男を突き落としたらしい」
 保坂が続けた言葉に、智博は僅かに身を強張らせる。まさかとは思うが、彼女は不倫相手だった男を、悪意を持って階段から突き落としたのではないだろうかと思ったからだ。智博の表情から内心を読んだのか、「怪我したのは部長じゃねえぞ」と保坂は首を振った。確かに、川崎が社内の人間を傷付けていたのなら、大きな騒ぎになっていてもおかしくはなかっただろう。
「人が少ない時間帯だったらしいが、目撃者が何人かいて、川崎さんが男を突き飛ばしたところをちゃんと見てる。それでも突き飛ばされた側は……ああ、相手は幸い命に別状はなくてな、高さもそれほどなかったおかげだけど、転がり方がおかしかったのか骨折したらしい。そいつは、自分が足を滑らせたと主張してるんだと」
 おかしな話だろう――そう保坂は締め括ったが、智博の頭からは疑問符が幾つも消えない。
「どういうことだ……?」
「俺にもよくわかんねえよ。ただ相手は、突き飛ばされたように見えただけだろうって言ってるって話だ。自分が足を滑らせたのが先で、それに気付いた川崎さんが手を差し伸べてくれたのが周りからはそう見えたんだろうって――」
 ふいに、ある男の顔が、浮かんでは消えた。それと同時に、気味の悪い胸騒ぎがざわざわと肌を粟立たせる。まさか。そう思うのに、続けられた保坂の言葉は、智博に確信を抱かせた。
「――相手は、若い男だったそうだ」
「和真……なの、か」
「知らねえよ」
 言いながら、保坂は真っ直ぐに智博を見つめている。その目を見て、彼も自分と同じ予想を胸に抱いていることを、智博は悟った。だから、今日、ここに来たのか。わざわざ知らせてきてくれたのか――。
「それでこの間、川崎さんにも会ってきた。彼女、かなり消沈してたよ。相手にも悪いことをしたって、……そいつの顔を見た瞬間に、身体が勝手に動いたって。自分の幸せを壊した上に、お前の幸せまで壊すつもりなのかと思ったら――どうしても、許せなくなったらしい」
 保坂はそこで、泣きかけの子どものような顔で笑って見せた。
「……お前の幸せを壊したのは俺なのにな」
 どうして誰も彼も、他人を傷付ける行為で平気に自傷を図るのだろう。保坂がその言葉を口にするのは、自傷行為に他ならないのに、あえて彼はその言葉を選んでみせるのだ。――そうして、川崎も。
 他人を傷付ける行為で、結局自分が傷付いている。
「お前はまだ、そんなことを言ってるのか。……婚約破棄は、俺と藍子が決めたことだ。お前が気に病む必要は、何もない」
 まだ何かいいたげな保坂の唇を、もういい、というように首を振って遮った智博に、結局彼は口を噤む。
 ――病院。
 ふいに、ついさっき聞いたばかりの、受話器越しの声が思い出された。
「保坂、相手が入院してる病院はわからないか?」
 ――雑音のまざる、公衆電話からの声。あれはもしかしたら、病院の公衆電話を使っての電話だったのかもしれない。
 徐に尋ねた智博に、保坂は目を剥いた。
「まさか、会いに行くつもりか?」
「会いにいけば、少なくとも怪我をしているのが和真なのかそうじゃないのかは判る」
「もしもそいつだったら、お前、どうするんだ」
「……判らない」
 重ねられた問い掛けには、ただ首を振るしかない。実際自分がそこに出向いて、何をするというのか。何をしたいというのか。今の自分に問い掛けても、答えは出ない。
「……実はさっき、和真から電話があったんだ。丁度、お前が来る前に」
 ただ会いたいと思った。
 あの声で、最後の最後に自分を責めたあの男に、もう一度。
「もう二度と俺の前に現れるなと言ったら、あの子は傷付いた声をしていた。だから、それが……気になって」
「……そんなもん、演技かもしれねえだろ」
「判ってる。それでもいいんだ。それで、いい。そのほうがいいのかもしれない」
 自分が何を望んでいるのか、判らなくなる。
 ただ痛切に思った。
 彼を傷付けたくない。
 ついさっき自分から断ち切った線を、もう一度繋いでくれる何かが見えるのなら、それに縋ることもする。
「会いに行けば、きっと……どこからが嘘で、どこまでが本当だったのか、教えてくれるだろう。俺はそれだけでも、いい」
 最後まで思わせぶりだった言葉の全てが、嘘だったと言い切られてもいい。そうまでして自分のことを信じていたのかと嘲られても。
 嘘なら嘘で、彼を傷付けていなかったことに、自分は安堵するだろう。
 けれどもしも。彼の言葉の全てが、本当だったら――。
 万に一つの可能性を、取り縋るように想っている。
「……俺はおかしいか、保坂」
 ひどく不思議そうな、それでいて訝しがっているような、複雑な顔をしていた保坂に問い掛けると、彼は「いや、」と呟いて、かぶりを振った。
「藍子ちゃんの言った通りだったな」
「藍子が何か言ったのか?」
「お前の心はとっくに自分から離れて、「あの子」に向かってるんだろうってな。正直俺は、お前が男なんかに走ったのは、気の迷いだと思ってたんだ。俺がお前から藍子ちゃんを盗ったせいで、自棄でも起こしてんのかと……」
 まさか、と智博は苦笑する。自分の気持ちの変化には、誰も影響していない。そこには保坂の恋心も藍子の選択も関係なく、全ては自分の判断で、自分だけの感情だ。
「ただな、俺はやっぱり……そういう、別れさせ屋だの何だの、いまいち信用ならない仕事にしてる人間は、お前に不似合いだと思ってる。偏見かもしれねえし、お前にとっちゃ余計なことかもしれねえけど、これだけは心配させといてくれ」
 神妙な顔付きで保坂が続けた言葉に、思わず笑ってしまった。
 この期に及んでも彼は、自分の心配をしてくれているらしい。――これほどに、どうしようもなかった自分の。
「……笑うなよ」
「すまない、いや、あまりにも……お前らしかったから」
 久しぶりの和やかな空気に、ふっと肩から力が抜けた気がした。強張りのない微笑みで、ありがとうと告げると、保坂は居心地の悪そうな顔をして、肩を竦める。そして彼は、ふいにポケットに手を突っ込んで、一枚の紙切れをテーブルの上に広げて見せた。
「病院の場所は、俺にもわかんねえんだ。その代わり、それを藍子ちゃんから預かった。藍子ちゃんが依頼した別れさせ屋の事務所の住所だよ」
「藍子が……?」
「俺の用事はこれだけだ。そんじゃあな」
 言うなり保坂は腰を上げ、来たときと同様、あっさりと引き返していく。「おい、」と慌てて引き止めた智博にも、彼は振り返らず、「俺はほんとは嫌なんだけどな」と苦い声を出した。
「だけど、もしもお前があいつに会いたそうな素振りを見せたら、それを渡してやれって……行けってことじゃねえぞ」
 あくまで自分は反対だという姿勢を貫きつつ、追いかけて行った智博を、保坂は玄関で肩越しに僅か視線を寄越した。
「どうしても会いたいなら、お前が後悔のないようにその手助けはしてやるって意味なんだろうよ。あとで痛い目見ても知らねえぞ」
 辛辣な言葉だと思いながら、けれど正しい保坂の言葉を、智博は頷き、しっかりと受け止めた。
「……会いに行くよ。ありがとう。藍子にも、伝えておいてくれ」
 答えは、自分で思う以上の強い声になった。
 保坂は少しだけ驚いた顔をして、それから苦虫を噛み殺したような顔になったかと思えば「好きにしろ」と吐き捨てる。しかしその声の響きにすら、憂いが滲んでいる気がして、怒る気にもなれない。
 去っていこうとするその背中に、ふいにあることを思い出して、智博は問い掛けてみる。
「俺が昔、藍子に贈った指輪があるだろう」
「……ああ」
「藍子は捨てないと言っていたが、もしも不愉快ならお前が捨ててくれ。どうせ、安物だ。お前になら捨てられても構わない」
 保坂は一瞬だけ言葉に詰まったような顔をして、けれど、少しの無理をして笑った。
「あの子が捨てられないものを、俺が捨てられるわけねえだろ」
「……そうか」
 かすかに震える保坂の声を、小さな微笑みで智博は受け取った。
 彼の答えを、本当は知っていたのかもしれない。
 それでもあえて問うたのは、他愛のない言葉遊びのようなものなのだろう。少しずつでいい。完全でなくてもいい。それでも元の形へと、ゆっくりと戻っていけるように。互いの心の在り処を確認するための、言葉遊びだ。
「おやすみ」
「ああ。……おやすみ」
 それから言葉もなく、智博はゆっくりと閉じていく扉を見送る。
 次に会うときは、自分も彼も、いつもの顔に戻っているだろう。気の置けない友人同士に戻っているはずだと、智博は確信した。
 けれど確実に、違っているものがある。
 それを、悲しむ理由はなかった。
 向き合う方向が違っただけ。向き合う方向が、重さが、熱量が、思いが、それぞれ違っただけ。
 ――明日の降水確率は四十パーセント。冷え込みは相変わらず。雨が降れば、雪になるかもしれない――
 保坂を見送る今でさえ、この頭は、まだ見えない明日の話を考えている。
 閉ざされていく重たい扉の音に、自分の中でひとつの時間が区切りをつけ、静かに終焉を迎えたのを、智博はぼんやりと感じていた。



  

20060411