【9】


 階段をゆっくりと上がった智博は、いつものように、扉の前に佇む人影を見つけた。雪が降ってもおかしくないくらいに冷え込んだこの空気の中、何もせず、ただぼんやりと佇んでいるだけの時間は、どれほど退屈で辛いだろう。そんなことを思いながら見つめていると、その人影が僅かに動いた。
「おかえり、白井さん」
 彼が、智博の姿を認めた瞬間に唇を綻ばせて、白い吐息を吐き出す。その瞬間、当たり前の言葉を待ち侘びて焦がれていた自分を、智博は知った。
 何度も、何度も繰り返された光景と、何度も聞いた、彼の口から零れる言葉。飽くこともなく胸を疼かせるそれを、静かに受け止めた智博は、いつものように応えてみせる。
「またこんなところで……寒かっただろう。コンビニで待ってればよかったのに」
「や、白井さん今日は遅くならない気が何となくしたからさ。俺もさっき着いたばっかだからあんま待ってもないし、平気。今日は月が綺麗だなあってぼけっとしてたら、白井さんすぐ帰ってきちゃったよ」
 冷たいはずの頬に触れたくて、けれどできずに、智博は部屋の鍵を取り出した。智博が鍵を回している間、その直ぐ後ろで扉が開かれる待ち侘びながら、和真は独りごちる。
「っていうか下手にコンビニにいると、また変なことしちゃいそうなんだよねえ……」
「……ラーメンの食べ比べ?」
「まあ、そんなとこ」
 人を好きになるというのは、どういう感情だろう。どういう回路を経由して、どういう思考を通過して、どういうふうに、生まれる感情なのだろう。
 自分の帰りを待ち続ける彼の姿を視界に入れた瞬間、冷たい風が突き抜けるように、胸が苦しくなった。
 ――これで、もう。
 これでもう、最後かもしれない。
「どっちにしろ、今はラーメンを食べ比べる食欲なんかないだろう」
 ポツリと呟いた智博の言葉に、和真の気配がほんの僅かに凍り付く。振り返れば彼は、少しだけ驚いたような顔をして、智博の背中を凝視していた。
「食欲。……最近、ないんだろう」
「……そうかな? 寒いからじゃない?」
 鍵を外した扉を開き、早く入れ、と促すと、和真は素直にそれに従いつつも、首を傾げて笑って見せる。
「白井さん、カレー好き?」
「好きだけど……どうして?」
「あのさ、俺がわりと通ってるインド料理店があってね。そこのマスターと仲良くなったから、ドライカレーのレシピ教えてもらったんだよ。だから、ほらこれ」
 そう言って和真が掲げて見せたスーパーの袋には、カレーの材料が入っているらしい。香辛料の類はそのマスターに譲ってもらったのだと告げながら、和真はそのままキッチンへと向かった。
「勿論お店に出してるやつじゃないんだけど、ウチで簡単にできる本格ドライカレーみたいな感じの。試しに作ってみるから、ちょっと食ってみない?」
 辛いものは、食欲を増進させるという話をどこかで聞いた覚えがある。ならば最近食欲のない彼には丁度いいのかもしれないと、焦点が別のことを考えながら、智博は頷いた。
「辛いものが好きなのか?」
「好きっていうかねえ……そこのカレーが馬鹿みたいに美味いんだよね。一番美味いのはグリーンカレーなんだけど。今度いっしょに行こうね。あ、白井さん、辛いの平気?」
「俺は平気。甘いものよりは好きだよ」
 意気揚揚とキッチンに立ち、レシピを書いたメモを眺める和真の背中を眺めていると、「作ってる間に着替えちゃえば?」と和真が告げる。言葉に従って、智博はネクタイを引き抜いた。
「どうせならついでに風呂入ってきたら? そしたら食って寝るだけで済むでしょ」
「いいよ。せっかく作ってくれてるんだから、出来るのを待ってる」
「だからその時間が勿体ないんだって。何気ぃ遣ってんの、あんた疲れてるんだろー」
 ――今日の彼は、よく喋る。
 それが、空々しいくらいだと思えば胸が痛んで、智博はキッチンを離れ、一度寝室に篭ってスーツを脱いだ。私服の殆どは、藍子が選んでくれたものだ。元々何事にも頓着しない自分は、きっとこれから新しい服を買う毎に、いちいち難儀するのだろう。もう藍子は、わざわざ自分の服を選んだりはしない。これからはその時間を、本当に想っている人のために使えるのだから。――そんなことを考えながら私服に着替えた智博は、リビングに戻るとソファーに身を沈めた。テレビも点けず、手元に引き寄せた新聞を眺めるふりで、キッチンから聴こえてくる包丁の音に耳を澄ませる。自分の部屋で、自分以外の誰かが包丁を握っている空間が不思議でならなかった。
 つい先刻、藍子がか細く呟いた声が、まだ耳の奥に残っている。
 ――あたし、ずるしたの。お兄ちゃんを、あたしが自分で、傷付けたくなくて。
 ごめんねと、藍子はひどく小さな声で、受話器越しに詫び続けた。
 ――あたしがちゃんと自分で、お兄ちゃんに言わなきゃいけないことだったの。でも、お兄ちゃんから遠ざけられたほうが、自分は痛くないからって。楽、したかったの。
 この企みに保坂は関係していないと、藍子は言った。彼を庇っているわけではなく、すべては自分の計画で、自分だけがそれを企てたのだと。そうして最後に小さく、「保坂さんのこと、嫌いにならないで」と呟いた。
 きっかけは、知人から冗談の延長のように「別れさせ屋」の話を聞いたことだった。半信半疑でその探偵社の名前をインターネットで検索し、辿り着いた先で、藍子は震える指で依頼フォームの送信ボタンを押したらしい。
 ――それを見て、すぐ思ったの。お兄ちゃんが他の人を好きになればいいのにって。そしたらあたし、お兄ちゃんを傷付けなくても済むって……。
 全てを吐露されても、思う以上に胸は痛まなかった。ただ少しの苦さを味わいながら、詫び続ける細い声に「もういい」と首を振ってやることしかできない。
(――もしも)
 もしも、和真と出会わないままの自分なら。藍子や保坂から真実を告げられたとき、さすがに傷付いていたはずだろう。そう思うと堪えきれずに苦笑が落ちる。それでもいつかこうなることは判っていたと、藍子が思うよりは、潔く笑えてやれたはずだ。なのに、わざわざ遠回しなやり方で別れを望まれていたのかと思えば、苦々しさ以上に詫びる気持ちが強くなる。
 互いの気持ちを上手に計れないくらい、遠ざかっていたことに、どうして誰も気付かなかったのだろう。
 どうして、こんな手段を、選ばせてしまったのだろう――。
(いいんだ、もう)
 出会わされてしまったことも、出会ってしまったことも。
 全ては終わってしまったことだ。
 ――傷付かない、準備はした。
「……白井さん?」
 思う以上に考え込んでしまっていたらしい。背凭れ越しに上から顔を覗き込んできた和真に、我に返る。
「もう出来たのか?」
「もうちょっと。あとはメシが炊けたらね。……っていうか、大丈夫? 疲れてんなら、俺、帰ろうか」
 折り畳んだまま膝の上に置かれていた新聞に目を遣り、和真は首を傾げた。ぼんやりしていたことを指摘されて、そうではないと首を振る。覗き込んでくる顔の頬を、指先で擽るように撫でると、和真は「くすぐったい」と肩を竦めて笑った。――まだ。ここに、いる。
「ひとりで食えって言うのか? せっかく作ってくれたのに」
「あんたを疲れさせるよりはましだよ。ほんとにキツかったら先に寝て――」
「藍子と別れたよ」
 それ以上自分を労わる声を聞きたくなくて、遮るためにその言葉を選んだのは、無意識だった。伝えなくてはならなかった言葉、けれどできることなら、ずっと伝えたくはなかった言葉。相反するふたつの感情は、無意識には役に立たなかった。
 この言葉を口にする瞬間に、彼はどんな感情を見せるだろう。今までずっと抱えていた疑問に、答えが出る。
 歓喜、嘆き、或いは嘲笑。けれど実際の和真はどの感情も顔には浮かべず、瞬時に、表情を強張らせた。
「――何やってんの?」
 凍りついた唇は、僅かに震えながら、その言葉を吐き出す。
 少なくとも、その声から喜びは感じられない。ただひたすらな困惑だけを感じ取り、智博は内心、こんなものか、と拍子抜けした。
 けれどそれすらも演技かもしれないと、悲しい猜疑心を抱きながら、真っ直ぐに和真の顔を見つめる。
「あの女のこと大事だって……あんなに、何度も俺に言ったじゃないか。別れるって、それがどういう意味なのか……あんた、ちゃんと判って……っ」
「判ってるよ。藍子とは結婚しない。――藍子には、俺以外に好きな男がいる。ずっと前から判ってたことだ。俺も、彼女を愛していない。……恋愛という意味では、もう」
 どうかその顔が、歪みはしないように。
 どうせなら、その冷たい表情のまま、騙された馬鹿な男だと嘲って、自分の前から去って行ってほしい。
「俺はただ、彼女となら望める平凡な幸せに、縋り付いていたかっただけなんだ。……卑怯な男だろう」
 冷静に藍子との別れを反芻しても、悲しみはない。むしろ清々しい気持ちでの問い掛けに、和真は答えなかった。――ただじっと、智博の顔を見つめていた。
「あんたが彼女と別れたのは……俺のせい?」
「俺はもうずっと前から、藍子に恋をしていなかった。藍子を幸せにできるのも、俺じゃない。それにちゃんと区切りをつけただけの話だ。だからお前のせいとか、そういう話じゃないんだよ」
「俺は関係ないの?」
 智博の内心を知るはずもないのに、彼が僅かにも表情を動かすことはなかった。ただ、唇だけが、痛ましげに震えていた。
 頬を両手で支えたまま、震える唇に口付けると、和真が驚いたように目を瞠る。今この瞬間に口付けた意味を、きっと彼は悟っただろう。
 するすると床に膝を着いた和真は、ソファの背凭れ越しに、智博の首に腕を絡ませる。
「……あんたを、俺のものだって、思ってもいいの」
 縋るような抱擁の中、色のない声で、和真がぽつりと呟いた。
 感情のない声は、今まで聞いたどの声よりも、不思議と胸を痛ませる。
 ――ああ、お前は、こんな声も出すのか。
 こんなに冷たい、けれど切ない、溢れる何かを必死で殺しているかのような声を出すこともできるのか。
「もうずっと、お前のものだったよ。――和真」
 名前を呼べば、背中に感じる彼の身体が震え上がる。それが、どんな感情なのか、どんな顔をしているのかも判らない智博には、推し量る術もない。
「……お前のことが、好きだった」
 準備していた言葉を口にした瞬間、ふいに、涙が出そうになった。
 好きだった。
 本当に、好きだった。
 ――別れを恐れるくらいに、愛していた。
 なのに口にした瞬間に、別れが決まってしまう。
 だからどうか、すべてを持って行ってくれないか。
「いつ、から……?」
「最初から。――きっと、最初からだろう。お前の惹かれて、惹かれて、……仕方なかった。だから、お前をたくさん傷付けて、何もしてやれなかった俺の傍にいてくれて、……ありがとう」
 こんなにも心を揺らしてくれたお前が、優しく傷付けてくれたお前が、すべてをさらって行ってくれないか。
「――こんな俺に傍にいてくれて、ありがとう」
 時限装置のリミットを、今、刻一刻と刻んでいる。刻まれているのは時だけではなく、自分の心だろう。
 痛みを生む、愛の言葉を口にしながら、泣き出したくなった。そうして彼が背中にいるこの体勢に、感謝した。そうでなければ、抱き締めてしまう。骨が折れるくらいに抱き締めて、息ができないくらいの抱擁を、この腕は与えてしまう。
「……智博」
 セックスの最中にしか呼ばれない名前を、掠れた声で口にされたとき、性懲りもなく胸が痛んだ。これ以上痛むはずのない胸を、彼は悉く傷付けてくれる。
 ただ、その痛みさえも、いとおしかった。
「お、れをっ……一番、大事に、……して、くれる、の……?」
 ふいに、和真が泣いていることに気付いた。いつもの明朗な声ではなく、歪んで響くそれ以上に、彼が顔を押し付けていた肩に、暖かく濡れていく感触を感じたからだ。
「あの、女、よりも――おれを、一番……、して……っ」
 途切れ途切れに紡がれた言葉は、しゃくりあげるような嗚咽に掻き消される。
「――好きだよ」
 空気を震わせるこの嗚咽が、本当なら、どんなに幸福だっただろう。どんなに嬉しかっただろう。――もしかしたら、声を上げて、泣いていたかもしれない。栓のない考えばかりが、巡る。
「お前のことが、本当に――好きだった」
「……っ」
 堪えきれなくなったように、「う、う」と短い嗚咽を漏らした和真は、その合間に「好きだ」としゃくりあげた。そしてときどき、「ごめんね」と泣いた。その泣き声が「だけど、あんたのことが、好きなんだ」と続いた瞬間に、振り向いた身体は、彼を抱き締めていた。
「俺、どれだけあんたがあの女と幸せになりたかったか、あの女のこと、どれだけ大事にしてたか、知ってた、――だけど、……だけど、俺、あんたのことが、好きなんだ。……ごめん、ごめんなさ……」
 その言葉が、騙された挙句、愚かな選択をした自分への罪悪感なのか、それとも智博の望んだ「平凡な幸福」を壊した結果への詫びなのかは、判らなかった。
 ソファを挟んで抱き締めた身体が震えるから、口付ければまだ応えてくれる唇が、涙の味をしていたから。智博の脳は、濁ってしまう。――「あんたが、好きなんだ」そうしゃくりあげた声が、思考の正しい機能を歪ませる。
 嘘も、ないことにしてしまえば、きっと真実になる。
 騙され続けていれば、騙され続けているふりさえ、していれば。きっと自分にとっては、真実に、なるのだから。
 だから、この痛みも、無駄ではない。――意味のない、痛みなどでは、決して。
 思いのままに「好きだ」と口にした唇は、傍にいてほしいとは、言えなかった。最大の祈りであるそれは、あまりにも意味のない、空しい願い事だったから。
 ――この恋を、抱けたことを、幸福だと思った。
 胸が痛くなるくらい、泣き出しそうになるくらい、誰かを愛せたことを、幸福だと思った。
 だから濁り続けた頭で、「好きだ」と言った。「泣かないで」とも言ったのに、和真は込み上げる嗚咽に、肩を揺らし続けていた。



「お疲れ様です」
「お疲れ様。気を付けて」
 会釈をしてくる女性社員に、同じように頭を下げた智博は、フロアを出た。川崎は、あれから一度もこのフロアには現れない。彼女が今どうしているのか、気がかりではある。彼女が会社を辞めるのではないか、という噂が本格的に出回り始めているが、今のところ正式な報告はなかった。
 会社を出る途中で、やはり帰宅しようとしている保坂の姿を、遠くから見かけた。声をかけるべきか、かけないべきか。瞬時の躊躇いを押し殺し、口を開きかけた智博に、苦しげな顔を一瞬だけ見せたあと、彼はすぐに視線を反らしてしまう。
(――仕方ない、か)
 智博はもう、彼に何の蟠りも持ってはおらず、ただ藍子と幸せになってほしいと願うばかりだ。けれど、保坂が自分に対して罪悪感を持っているとするならば、この反応は当たり前のものなのだろう。
 だから、いつか、直接顔を見て、伝えられればいいと思う。言えなかった、おめでとうと、ありがとう。いつか彼が彼自身を許し、蟠りもなく肩を叩き合っていたあの瞬間に戻れるように。
 そうして愚かな恋をした自分に呆れ、慰めてくれる友人に、いつしか戻ってくれるように。
 藍子とは、あれから一度も顔を合わせていない。けれど完全に婚約破棄が決まった今、いずれは両親へ報告しなければならない。幼いころから藍子を見守り続け、嫁として迎えることを当たり前に思っているはずの両親は、さぞかし残念がることだろう。
 その話をしたとき、藍子は、少し悲しそうに、『おじさん、おばさん、怒るかな』と不安そうな声を出した。
 娘のように大事に思っていた女の子が本当に好きな人と結ばれるなら、怒るはずもない。ただ残念がりはするだろう、と笑った智博に、藍子は受話器越しに困惑したような声を聞かせた。
『お兄ちゃん、本当に――なにも、気にしてないんだね』
 何を、と問い質すと、「なんでもない」と藍子は小さく笑った。そして「指輪、どうしよう」と逆に尋ねてきた。随分前にやった指輪は、一応は婚約指輪のつもりだったけれど、今更返されても困るので、好きにしろ、と答えると、「じゃあ、とっとくね」と藍子は小さく笑った。
 保坂はそれで怒らないのか、と笑った智博に、藍子も同じような笑み交じりの声で、多分ね、と答えた。
 あのとき自分は、彼女が幸せになるようにと祈りながら、その指輪を贈った。幸せになってほしいと祈りながら、贈った。ただそれだけの想いが篭っているなら、二人の邪魔にはならないだろう。
『……ねえ、お兄ちゃん。あの子のこと、本当に、好きになっちゃったんだね』
 内緒ごとを話すような声で藍子が囁いた言葉には、何のことだ、と、とぼけた気がする。けれど内心では、やはり判ってしまうものかと、苦笑を噛み殺していた。
 そして、聞きたかった一言を、そっと尋ねた。
 ――その恋は、お前を幸せにしているか。
 藍子は「うん」と答え、「お兄ちゃんと、一緒だよ」と続けた。
 出会ったことだけで、幸福だと思えるのなら、なおいい。
 もしも破れたとしても、美しい恋をした事実が残るのなら、いい。
「お疲れ様です、白井さん」
 声に振り返ると、見覚えのある女性社員が会釈をくれた。ビルを出て、暫くぼんやりと街のイルミネーションに目を奪われていた智博を訝しがるように、彼女は智博の視線を追う。
「ああ、イルミネーション見てたんですね。本当に綺麗。……あ、知ってます? 受け付けのところにツリー置こうって話が出てるんですよ、このくらい大きいの」
 そう言って自分の背と同じくらいの高さに手を置き、おかしがるように付け加えた彼女の言葉に、思わず笑ってしまった。
「変なところで金を遣いたがるな、うちは」
「ほんとにそう。しかも社長の提案らしいですよ。……あ、それじゃあ、お先に失礼します」
「ああ。お疲れ様」
 腕時計を見て、慌しく去っていくところを見ると、待ち合わせの約束でもしてあるのだろう。見送るようにその背中を見つめていると、すぐに彼女は人ごみに消えた。
 もう街は、随分前からクリスマス一色だ。それでも街中が、クリスマスをあからさまなほど全面に押し出すようになったのは、ここ一週間の話だろうか。会社を出てすぐに目に付く街路樹にイルミネーションが点いたのは、昨日だった気もするし、一昨日だった気もする。それよりずっと前だっただろうか――。きっと、そうなのだろう。時間の感覚さえ擦り切れている自分を、智博は嘲った。
 綺麗に彩られ、瞬く街の照明も、ちらちらと舞い落ちる白い雪も、まるで夢のようだと思う。夢のようだ、と思うほど、遠く感じていた。
 街中が賑やかなイルミネーションに彩られ始めたころ、和真からの連絡は、完全に途切れた。街が綺麗に色付き始めた日を数えることは、和真と離れた日数を数えることに等しい。だから、智博は、考えることを放棄した。それが彼を思い出さない手段だった。
 ――雪が降る。そして街が美しく彩られていく。
 もう今は、その美しさを語る誰かが、自分にはいない。
 藍子も、保坂も、――そして彼も。
 せめて僅かにでも、寂しさや悲しさが胸を占めてしまわないように。
 ――今日、帰っても、自分を迎えてくれる声がないことに、寂しさを感じてしまわないように。
 当たり前のひとりを、当たり前に忘れてしまわないために、ひとりの時間を思い出していた。



  

20060327