【8】




 彼と自分とが、互いの感触を覚えているように。
 掌が素肌を辿る毎、びくりと跳ね上がる脚を押さえつけ、既に勃ち上がって濡れる性器に口付けると、啜り泣くような喘ぎが聞こえた。その合間、苦しそうに 吐息を吐き出していた唇が「なんで、」と訴える。その目が本当に不思議そうに自分の顔を見つめていたから、智博は何故か笑ってしまいたくなった。
「……何が?」
「なんで今日はこんなふうに触るの……」
「どんなふうに? ……こう?」
「っう……ア、ぁ、やめ……」
 とろとろと零れる蜜を舌で拭うと、和真は綺麗な背筋を反らし、爪先でシーツに皺を作った。耐えるようにぎゅっと固く瞼を閉じている姿が愛らしくて、まだ見つめていたいと思う。それからもっと別の顔を、引き出してみたい。
「な……なんで、今までこんなの、しなかったのに……」
「――嫌? さっき、嬉しいって言っただろう」
 唾液と先走りを飲み下す動きで喉の奥を収縮させながら、躊躇いもなくそれを深く咥え込むと、息絶え絶えの呟きが頭上から落ちる。
「も、やだ……」
 いやだ、離して、と幾ら彼がかぶりを振っても、そろそろと髪に触れてくる指先は、拒んでいるようには思えない。はじめて唇で施した愛撫に、混乱と戸惑いとで和真が幼く震えているうちにと、限界の近付いていた性器を吸い上げる。
 どんなときでも、和真は一方的な愛撫を嫌がった。同じものを、同じだけ。或いはそれ以上を返そうとするかのように、和真のセックスは殆ど献身的で、智博 も好きなようにやらせてきた。けれど口を使っての愛撫は智博には考えらず、「俺はしても、いいけど」と和真が軽く笑うのを、冗談半分に聞き流してさえい た。
 それを今、自ら望んで施しているのは、自分の手の中で欲情して乱れていく和真を、じっくり見つめてみたかったからだろう。そうして和真は、それを嬉しい と言って身体中を震わせる。こんなふうに触れられたら、あんたに求められているようで嬉しいと、色付いた唇で小さく笑うのだ。
「い、やだ、……智博っ」
 口腔を窄めたその瞬間、言いようのない感触と青臭い匂いが口中に広がった。眉を寄せたのは一瞬で、考えるよりも先に口の中に溜まったそれを飲み下してしまう。噎せ返るようなそれを最後まで飲み込むのは、思った以上に苦労した。
「え、……まさか」
 嚥下する喉の動きを見て、和真が目を瞠る。呆然とするかのように暫く目を見開いていた彼は、ふいに目の奥を震わせて、じわりと目元を赤くした。
「な……に、やってんの、あんた……!」
 さっきまで大人しく転がって、ひたすらに身体を震わせてばかりいた和真は猛烈な勢いで起き上がり、自分の手の甲で智博の口元を拭った。口の周りを幾ら拭 われても、当然、飲んでしまったものはどうにもならない。けれど和真があまりにも必死の形相でその仕草を続けるものだから、智博は苦笑でそれを許した。
 真っ赤になった耳朶がいじらしくて、思わずそれを食むと、動揺したのか、和真の肩が面白いくらいに揺れる。
「和真、触って」
 耳朶を唇に挟んだまま囁くと、和真はいつもの動きで智博の前を寛げ、指先と掌で熱を帯びたそれを握り込んだ。照れ隠しにか、和真は戯れるように笑っている。
「……俺の手、冷たくない?」
「大丈夫だから……ほらこっち、集中しろ」
 一度射精して、今は勢いを失っているそれに手を伸ばし、数度軽く扱いてやると、和真はまたふるりと肩を震わせる。智博の胸に身体を預け、縋るように背中に片腕を回しながら、彼は弾む吐息を惜しみなく空に散らした。
「ん、ァ、……ね、挿れ、ないの?」
「今日は……」
 しない、と返すよりも先に、和真の小さな唇が、智博の言葉を奪う。身体を繋げるセックスをしないのなら、せめて唇で、とでもいうような濃厚な口付けに、眩暈がした。眩暈を感じるほどの感覚が、口付けだけで得られるなんて知らなかった。
 彼の身体を、女性代わりにするような抱き方は二度としないと決めたのは、負担の大きい和真への気遣いでもあり、せめてもの詫びのつもりだ。
 触れられれば感じる。それだけで、充分だと思う。望まないセックスなら、せめて快感だけを与えていたい。
 だから、もう二度と、抱いたりはしない。
「智博、ともひ……も、出る……っ」
 淫らな水音が大きく響くにつれ、和真の声が色付いていく。そして彼が極まるときには、決まって「智博、智博」と、自分の名前を何度も呼んだ。
 ――セックスのときに名前呼んでると、勘違いしそうになるよね。
 俺たち、恋人同士みたいだったよ。
 あのとき和真がいった言葉は、本当にその通りだと思う。この期に及んでも、自惚れてしまいたくなるくらいに和真の声は甘く、切なく自分を呼んだ。
「……和真」
 それに応える自分の声もまた、同じ響きをしていたのだろう。
 囁いた瞬間、和真は熱に浮かされたような目を一瞬揺らし、結局そっと、瞼を落とした。



 智博がシャワーを終えたとき、腹の上に白濁した液体をこびり付かせたまま、和真はベッドに横たわっていた。べとついた身体では気持ちもよくないだろうに、眠るような体勢で瞼を落としているところを見ると、眠気が勝ってしまったのかもしれない。
「和真、シャワーは?」
「……朝、貸して」
 返る声はもう眠たげで、幼い響きのそれに笑みながら、智博は和真の身体にそっとシーツをかけた。その隙間に自分の身体を潜り込ませると、和真が僅かに身 じろぎをして空間を作る。もう眠たいのだろうと思いながらも、閉ざされた瞼を見つめながら、智博は口を開いた。
「今日、例の後輩と話をしてきた」
「……ン?」
 重たい瞼をゆっくりと上げて、和真は緩慢に首を傾げた。考え込むのような沈黙のあと、「ああ、」と思い出したように声を上げる。
「……あんたを狙ってる女?」
「違うよ。お前が心配してるようなことは何もなかった」
「じゃあ、何の話だったの」
 もしも、ここで川崎の名前を口に出したら。彼は一体どんな反応を返すだろう。もしかしたらどんなささやかな反応も、見せないかもしれない。川崎の名前を出す程度なら、きっと彼は動じないだろう。
 完璧な微笑みで、全てを流してしまうのだろう。
「仕事の話だったよ」
 だから智博は、嘘を吐かれることを恐れて、嘘を吐く。いまさらだと思っても、あからさまに偽りを作る彼など、見たくはなかった。
「ふうん? それって二人っきりじゃないとできねー話?」
「色々と込み入ったことがあるから。結局話せば長くなったし、ゆっくり時間を取りたかったんだろう」
「ああ……だから今日、帰ってくるの、遅かったんだ……」
 納得したように頷いた和真は、いよいよ睡魔が強烈になってきたのか、重たそうに瞬きを繰り返す。そのまま眠りに落ちていくかと思われた一瞬、和真はぱっと目を開き、何を思ったのか睨むように上目遣いに見つめてきた。
「白井さん。酒、呑んでないよね?」
「呑んでないよ。匂いはしなかっただろう? 明日も仕事なんだから、俺も彼女も無理はできないよ」
「なら、いいけどさあ……」
 うつ伏せに体勢を入れ替えた和真は、首裏に回した掌でわしわしと頭を掻き、ついでのように欠伸を噛み殺す。
「あんたね……自分じゃ気付いてないかもしれないけど、アルコールが入ると顔の筋肉が緩むみたいなんだよ……」
「……筋肉? にやけるっていうことか?」
「そう。っていうか、にやけるってのはまたちょっと違うけど。そんな白井さん俺やだし。……酒入ってるときは眉間の皺もないし、表情が柔らかくなんの。よ く笑うし。ある意味笑い上戸なのかもね。白井さんが会社の人によく呑まされるのって、そういうとこ面白がられてるのもあるんじゃない?」
「いや、まさかそんな理由はないだろう。……というか、そもそも自分じゃ何がどうなってるのか、よく判らない」
「そりゃあんたは呑んだら記憶まで吹っ飛んじゃう人だからねえ……」
 流暢な口調ではあるものの、どこかぼんやりとそれが響くのは、気だるいというより、やはり眠いのだろう。喋ることを止めて、もう眠ればいいのにと思うのに、和真は続けた。
「だから、気をつけたほうがいいよって言ってんの。……その顔でにこにこ微笑まれたら、誰だってほいほい着いていきたくなっちゃうだろ」
 ぼやくような声で付け加えられた言葉に驚いて、思わず「は?」と素っ頓狂な声を上げてしまった。下手な冗談かと思っていると、和真はどこか複雑そうな顔で、けれど真面目に「いやほんとにね」と念を押すように囁いた。
「寄っていった人みんなあんたにほいほい着いていって、ころっと落ちちゃうよ」
「そんな、人を蚊取り線香みたいに……」
「あんたの無意識に落とされた人がここにいるんですけど」
 最後のそれは、冗談交じりの笑い声で告げられる。楽しげに、からからと響く声に安堵して、智博は和真のつむじに手を置いた。もう寝ろと告げた智博の声に微笑んで、和真は漸く瞼を落とす。この様子なら、穏やかな寝息が聞こえてくるのも、時間の問題だろう。
 彼の寝息や寝顔なら、婚約者のものよりも、ずっと身体に馴染んでしまった。ごくたまに震える睫毛の動きさえも観察できる距離で、彼の顔を見慣れてしまう。その顔を見つめていれば、自分もいつか、穏やかな眠りに誘い込まれそうな気がした。
 なのに期待に反して、少しも睡魔は降りてこない。身体は疲れ切っているはずなのに、妙に気持ちが昂ぶって、眠れないのだ。
 それも当たり前かもしれない。今日は一度に、たくさんの感情が揺さぶられた。自分には持ち得ないと思っていた切なさや痛み、いとおしさを、一度に手にした。一度に自覚した。
 そう思うと、彼と出会うまでの人生がいかに平凡で、いかに静謐だったかを知れる気がする。穏やかという名の、安寧という名の平凡な日常。
 ――その日常に、強烈な波が立つことがあればいいと、思っていた。
 穏やかな幸福を望む反面、この食傷気味の平凡に、何かがざっくりとメスを入れてくれることがあればいい。
 たったの一度でも。
 自分の境目を忘れるほどに焦がれ、激しく心が痛むくらいの想いを、この胸に抱けたら。ぼんやりと、そんな望みを持っていた自分を、思い出す。
 智博にとって、そんなドラスティックな変化を求めることは、水面に映る月ほどに遠いものだった。――和真に会うまでは。
 だから、今を望んでいる。
 穏やかなだけではなく、時には息が詰まりそうなほどの苦しみを、切なさを、愛しさを与えてくれる彼が、自分の傍にいることを。
 元より誠実に気持ちを返せなかった自分が、彼に愛されたいとは、もはや思わない。ただ、そこにいてくれたら、いい。
 ただ、そこにいて。
 ――俺の感覚のすべてを、どうか。
「……白井さん、」
 ふいに呼びかけられた小さな声にはっとして、和真の顔を見る。一瞬、寝言で名前を呼ばれたのかと思った。それが勘違いだと判ったのは、彼が自分の視線を避けるように、僅かに顔を俯かせていたからだ。
「あんた、俺に、壊してほしいの……?」
 和真は、眠ってなどいなかった。
 涙の滲む瞼を頑なに閉じ、喉を鳴らして零れ落ちそうになる嗚咽を殺していた。





 川崎の姿が見えなくなったことと、和真が消沈している様子が度々見られるようになったのは、ほとんど同時期だった。
 和真は最近、以前に比べれば口数も少なく、部屋にいてもぼんやりとしていることが多い。あまりにも元気がないので、体調でも悪いのかと心配したとき、そ の日だけは一日中、以前のままの饒舌に戻り、快活な笑顔を見せていた。けれどそれが無理をしているときのものだと判ったから、もう智博は迂闊に心配する言 葉もかけてはやれない。
 ソファに座り込んで背中を丸めている姿など、置いてけぼりにされた子どものようだ。そういうときは大抵ぼんやりしているので、「和真」と名前を呼んで声をかけると、誰のことを呼んでいるのか判らないような顔をして、一瞬だけ切なく唇を歪める。
 ――ああ、ごめん、ぼーっとしてた。何? 白井さん。
 そして直ぐに我に返り、無理をして笑うのだ。
 そういう遣り取りを幾度か繰り返すうち、もう限界かもしれないと、智博は思うようになっていた。
 彼に、疲れが出てきているのだ。
 幾ら待てど、智博が藍子に別れを切り出す気配はなく、かといって自分を突き放す様子も見せない。いつ終えるかも知れない仕事に痺れを切らし、一体いつ自分は智博から解放されるのかと、和真はそろそろ疲れ始めているのだろう。
 どうやら時限装置には、そろそろリミットが迫っているらしい。
 日に日に消沈していく和真を見てもなお、もう少し、あと少しだけと未練がましく縋りついている自分に、智博が歯噛みしていたころ、川崎の姿が社内から消えた。
 彼女が体調を崩したらしい、という話は、それとなく社内には伝わっている。けれど同じ部署にいる智博でさえ、彼女の詳細は知らされていなかった。個人的に相談など受けてはいないかと思っていた保坂も同じようだ。
「一日二日じゃ出てこれないってことは、相当酷いんだろうな」
「さあなあ……。ここ何日かは有給扱いになってるけど、実際どうなるか俺にはわかんねーよ。もしかしたら彼女、このまま辞めることになるかもな」
 勢いよくカツ丼をかき込み、口の端についた米粒を指先で摘みながら、保坂は溜め息交じりに肩を落とした。
「彼女、また辞めたいって言っていたのか?」
「……っていうか、相当しんどかったんだろうと思うよ。今まで保ってたことのほうが奇跡なんじゃねえの」
「ああ、……そうかもしれないな」
 祝福されるはずのない恋をして、それだけでも辛かっただろうに、次に救いを求めた相手の愛は、偽りだった。それで心が挫けないかと言われれば、智博だって首を横に振るだろう。
 或いは、決定打を与えたのは、自分だったのかもしれない。彼女が血を吐くようにして与えてくれた忠告に、結局智博は耳を塞いでしまった。それが智博の勝手な判断だとしても、川崎は己の非力を悔いたのかもしれない。
「まあ、有給で取れるだけ休んで、復帰してくれるんならいいけど……。どうもな、実家が……アレの上にアレがあってから、帰ってくるように言ってるんだと」
「アレ? ――ああ」
 周囲を気にしてか、保坂は声を潜めた。それに相槌を返す智博の声も、自然と低まる。
「それは……心配するのも当然だろうな、ご両親は」
「川崎さんがまた、いいとこのお嬢さんだからな。最悪、実家に戻って、落ち着くまで養生するのも悪くないと思うけど、俺は」
「そうだな……」
 保坂に相槌を返しながら、飲み込んだ食後のコーヒーは、どこか苦い。
「そんで、こっからはお前の話だ、智博」
 器を綺麗に空にして、保坂は腕時計を覗き見た。釣られて智博も時計を一瞥する。昼休みの終了まで、残すところ十分と言ったところだ。
「まだ行かなくていいのか」
「すぐ終わる。つうか、すぐ終わらせちゃいけない問題だけどな。単刀直入に言うぞ。――お前、「藤倉和真」とかいう男とは、今すぐ手ェ切れ」
 保坂の言葉に、缶を持つ手が一瞬止まる。どうして保坂が、その名前を。――尋ねかけて、すぐに気づいた。
「……川崎さんから聞いたのか」
「彼女、心配してたぞ。自分じゃ力不足だから、説得してくれって。――俺は、お前が男なんかと付き合ってる時点で卒倒もんだと思ったけどな。それ以前の問題だ」
 保坂は険しい顔をして、睨め付けるように真っ直ぐに視線を向けてくる。
 川崎の気を病ませていたことを申し訳なく思う反面、もう、いいじゃないか、という気もする。誰が何を言おうと、どうなろうと。――彼が傍にいるなら、それで、いいじゃないか。
「――男の上に、詐欺師だと? ふざけんなよ。判っててまだ付き合いを続けるって、意味判ってんのか!? お前、藍子ちゃんのことどうするつもりだよ!」
 しかも、川崎が相談を持ちかけた相手が、よりにもよって、保坂だ。ある意味では適役なのだろう。少なくとも、他人から見た自分たちは、そういう位置にいるのだ。
「そいつは、藍子ちゃんとお前を別れさせるために近付いたんだろうが! それをほったらかしにしとくなんて、お前一体何考えて――」
 ――どうして、保坂だったのか。
 酷い皮肉だと思いながら、智博は少しだけ苦労をして、微笑んだ。
「藍子のことは、あまり心配していない。……あいつには、お前がいるじゃないか」
 智博が無理をして微笑みを浮かべた瞬間、言葉をなくしたのは、保坂のほうだった。
「なっ……」
「そうだろう。藍子には、お前がついてる。あいつだってもう子どもじゃない。俺みたいな保護者がいなくても、俺が見ていなくても……恋をして、俺以外の人間と幸せになれる」
 たった今、自分が口にした言葉が、一体何の堰を切ったのか。充分にその重要さを噛み締めて、智博はゆっくりと続けた。
 呆然と唇を震わせた保坂は、喘ぐようにして声を喉から押し出す。
「お前、知ってたのか……」
「……ああ」
「……いつからだ」
「ずっと前からだと思う」
 無理をして、保坂の唇から零れた声は、苦渋に満ちている。
 この声を、聞きたくはなかった。そして、知りたくはなかった。
 だから、見えるものを、見えないものにしてきたのに。
「お前の気持ちだけなら、お前と藍子が付き合う前から……ずっと」
 時折感じる違和感すら、ないことにして、この関係を維持し続けたかった。
 全ては自分の、平凡で平穏な生活のために。
 親友と婚約者、そのふたつを同時に失うことを、恐れていた。
「俺はずっとお前たちのことを知っていたのに、知らないふりをしていた。そのせいで、お前も藍子も、ずっと苦しかったと思う。――本当に、すまなかった」
「そん……な、止めろよ、智博、」
 智博が現実に蓋をして、心地の好い安寧に浸っていた間、彼らはどれほど苦しかっただろう。その苦しみは、自分だから推し量ることができる。
「……俺ひとりの勝手な感情で、お前と藍子を同じ場所に縛り続けたんだ」
「違う、……違う。おまえが謝ったりなんか、するな……」
 彼と、彼女と、長い時間を過ごしてきた自分だからこそ、判る。
 誰も、誰かを傷付けたいなんて思わなかった。
「最初にお前を裏切ったのは、俺なんだぞ……」
 掌を顔に押し当て、保坂は呻くように小さな叫びを殺した。昼休み終了が近付くにつれ、周囲の人間の動きが慌しくなる。そのうちの何人かは、深刻そうに向き合う自分たちに、訝しげな視線を向けていた。
「ごめん、智博。ごめん――ごめん……」
「保坂、俺は、お前に裏切られたなんて思ったことはないんだ」
 ただ、狡かった。向き合うべき三人が違う方向を向き続けて、勝手な自分の幸福と、勝手な他人の幸福を定義した。
「……だけどもう、俺以外の人間でも、藍子を幸せにできることに気付いたから」
 それぞれが、互いが傷付かないように線を引いて、それを誰かが越えることを、恐れた。だから、そこにはいない誰かの手を借りて、各々が勝手に引いた境界線を、壊して欲しかった。
 ――きっと、そういうことなのだろう。
 和真に出会ったことで、自分の暖かな感情の矛先を見つけたことで、智博は彼らを許す準備など、とっくの昔にできている。
 今この瞬間に、微笑むことも、できるのに。
 保坂は俯き、顔を覆ったままの掌で、自分の視界を遮り続けていた。



 帰路の途中、智博の携帯が密やかに震動音を立てた。表示されたのは、馴染みのある名前だ。取り出した携帯の通話ボタンを押した瞬間、彼女は開口一番にその名を、口にした。
『――お兄ちゃん?』
 最上級の親しみと愛情を込めた呼び名が、やはり一番しっくりくる。自分と彼女との間にある情を的確に表現する名は、最初からこれしかなかったのかもしれない。
 智博ももう、その呼び方を咎めることはしなかった。
「藍子? どうした」
 今この瞬間でさえ、昔のような気持ちで呼びかけることができる。愛しい。誇らしい。そして幸福を祈り続ける。その笑顔に一片の曇りもないように、慈しみ続ける。例えそ先の道が、自分と繋がらないものでも。
『保坂さんがね、さっき電話、くれて』
「ああ。話、聞いたのか」
『うん……』
「そうか。……じゃあもう、何も言わなくても、判るな」
『……うん』
 短い言葉しか返さない藍子の声が、僅かに掠れていることが、かろうじて判る。
「泣いたのか」
『……少しだけ』
「仕方ないな。……お前は、いつまで経っても泣き虫で」
『だって、お兄ちゃんが甘やかすから』
「……そうかもしれない」
 彼らは、言えない苦しみを背負った。真実を口にすることで、大事なものを傷付けて壊してしまう恐怖を背負い続けていた。
 ずるしてごめんねと、藍子が子どものような言葉を、掠れ切った声で呟いたものだから、つい笑ってしまう。
「ああ、だけど俺も狡かった。……悪かったな、藍子」
 とっくに、藍子に向けるものは、恋人に対する愛情でも、婚約者に誓う永遠でもなくなっていたのに、縋っていた。きっと自分が一番に狡い。
『ねえ、お兄ちゃん……ひとつ、聞かせて』
 電灯の少ない道でも、いつもよりも視界が明るいことに気付いて、智博は空を見上げる。今日が満月だったことに、そのときはじめて気付いた。冬の冷たい空気の中だからか、光がよく澄んでいる。
『あたしだって――気付いてたの?』
 美しい月の光を見つめながら、智博は、そっと笑った。





  

20060313