「――詐欺師?」
たった今、言われたばかりの言葉を口の中で呟いてみると、それはひどくぼやけた、リアリティのない響きになった。
「はい。……突然こんなこといって、ごめんなさい」
「……彼が?」
申し訳なさそうに顔を歪めた川崎の表情も、どこか現実味がない。詐欺師。もう一度、胸の中でその言葉を呟いてみる。わんわんと鳴り響いていた警報のような耳鳴りが、すっと、鮮やかに遠ざかった。――詐欺師。
それがあの一途な眼差しの正体だと、川崎は言った。
自分でも不思議なくらいの冷静さで、智博はその言葉を受け入れた。何故、という疑問符が浮かぶよりも先に、それはひどく自然に、胸の中に染み込んでくる。
「信じてもらえないかもしれませんけど、でも、あのときの彼は、本当に……確かにっ……」
「いや、違うんだ。……少し、待ってくれ」
悲痛な声で言い募った川崎を制し、また自らの混乱をも落ち着けようと、智博は一呼吸を置いて口元を手で覆った。ともかく、川崎が自分に嘘を聞かせる理由は、見つからない。
「――俺は男で、彼も男だ。例えば本当に彼が、俺と彼女を別れさせるためだとしても、どうして彼が俺の前に現れたのか……」
「あの、白井さん……失礼かもしれませんけど、……男性相手に恋をすることは――」
「残念ながら、今まで一度もないよ。だから、君の話を疑っているわけじゃないけど、……違和感を感じはするかな」
和真に出会うまで、そういう嗜好を持った覚えなど一度もない。だがしかし川崎のいうように確かに彼は自分に過剰なほどの好意を示し、尚且つその出会い方が唐突であることを考えれば、彼女の言い分も納得できるものだ。
けれどそれが、どうして、彼だったのか。――よりにもよって、彼だったのだ。
「でも私、見間違いなんて、しません。白井さんと一緒にいたときの彼は、あのころとは雰囲気が少し違っていたけど、一度は本気で好きになった人だから。絶対に、間違ったりなんて、しない」
薄らと目元を赤くして、川崎が血を吐くように呟いた。
「どうして彼が、同性の白井さんの前に現れたのかは判らないけど……。だけど彼との出会い方に、少しでも心当たりがあるなら、間違いなく彼は白井さんと彼女を別れさせるために現れたんです」
信じてくれと、滲むような真摯さが胸を打った。彼女はどれほどの痛みを堪え、自分にこの事実を告げたかったのだろう。彼女が自分の傷を抉り出してまで、この話を聞かせてくれたのは、智博に同じ過ちを繰り返させないためだ。
「彼、写真を撮ることをすごく嫌がってて。だから、この一枚しかないんですけど……」
自分のことを心配する友人を安心させるため、一緒に写っている写真がどうしてもほしいと無理に頼んだのだと、バッグから一枚の写真を取り出しながら川崎は言った。
手渡された写真には、どこか――川崎の部屋なのかもしれない。可愛らしく、女の子らしい雰囲気の部屋の中で、寄り添って座る二人の男女の姿が写されていた。
「――彼、ですよね?」
その写真を見た一瞬は、目を疑った。彼女は何を言っているのだろうと、笑いたくもなった。それくらい、自分の知る藤倉和真と掛け離れた青年が、そこにはいたのだ。
「……ああ、そうだね」
けれど目を離せずにじっくりと凝視すれば、すぐに知れる。
そこにいるのは間違いなく、藤倉和真その人だった。気を抜けば見間違えてしまう。自分の知る少年ではないと否定してしまいたくなる藤倉和真が、そこにいた。
今よりも少し、髪が短い。
派手に色を抜くこともなく、大人しめの自然なブラウンに染めた髪も、彼の顔立ちを随分上品そうに見せている。着ている服も、雰囲気が全く違う。どちらかといえばルーズで、色味の強いカジュアルな服を好んでいる和真とは違い、写真の中の彼が着ているシックで落ち着いた色合いの服は、今時の若者といった感はなく、むしろ育ちのいい良家の息子のような趣がある。
「……和真だ」
そして、細い女の肩を抱き、ひどく穏やかに微笑んでいる顔は、智博の知らないものだった。
「カズマ……。私のときは、別の名前でした」
「……藤倉和真、じゃなくて?」
同じ顔なのに、別人のように見えるのは、表情の作り方が決定的に違うせいだ。和真はこんなふうに、静かに笑ったりはしない。彼の激しさや奔放さをそのまま表すように、いつでもからりと、朗らかに笑う。ひどく小さく笑うことは、確かにある。けれどそれは大抵切なげな色を持っているときだ。彼は、穏やかに微笑みが常なのだと思わせるような、控えめな笑みなど見せたことはない。
そこにあるのは、手馴れた穏やかな微笑だった。
少なくとも、「藤倉和真」を知る自分には、異様に感じられるほどには「作られた」微笑みだ。
「私には、「笹山雄一」と。……おかしいですね、名前の印象だけで、もう、……ぜんぜん別の人みたい」
そして恐らく、自分が感じた違和感を、彼女は「藤倉和真」に感じていたことだろう。
川崎の前に現れた「笹山雄一」は、大学四年生だったという。確かに写真から伝わる彼の大人びた落ち着きようなら、年齢を聞いても違和感はない。何しろ写真の中に彼には、あの少年らしい無邪気さは欠片もないのだ。聞き覚えのない名前に、教えられたものとは違う年齢。
どちらが本当で、どちらが嘘なのか。
――きっとどちらも、嘘なのだろう。
「……そうか。彼が――」
ふいに過ぎった幾つもの光景が、眩暈に似た感覚を呼び起こす。
――あんたの隣なんかで寝てたら、泣いちゃいそうだったからね。
前髪を掻きあげるふりをして、切ない表情を隠しながら笑った顔も。
寒空の下、凍える唇で白い息を吐きながら、あなたを待っていたと告げた声も。
全てが、作り物だった。
彼が学生証を落としていったのも、計算された行動だったのかもしれない。不安そうな顔をして、自分に揺さぶりをかけるのも、きっと全ては彼の思惑通り。自分はまんまと罠に引っかかってしまったのだ。
彼が見せる表情や声や言葉に、あまりにも容易に、惹き付けられた。
「白井さん……? 大丈夫、ですか……」
きっと、ひどくおかしな顔をしていたのだろう。川崎が訝しげな声で、恐々と智博の名前を呼ぶ。
「いや……今まで、不思議だったんだ。どうして彼が俺なんかを好きでいてくれるのかが」
けれど智博は、川崎が心配しているように、ショックに唖然としているわけでも、告げられたことを信じられずに動転しているわけでもない。
そのとき智博を微笑ませた感情に名前を付けるなら、安堵という名前が、一番に近かった。
あれが作り物だというのなら。
――傷付けてなどいなかった。
自分は彼を、一度も傷付けなかった。
そのことが、智博の胸に安堵を生む。
「俺には婚約者がいて、応えられないことが判っているのに、それでも傍にいてくれることが、不思議で――こんな優柔不断な男でも、つまらない男でも、好きでいてくれることが、俺には判らなくて」
――ずっと。
どうして彼が自分を選んだのか、判らずにいた。こんなどうしようもない男の傍にいて、それでいいと笑う彼の顔を、畏怖にも近い感情で見つめていた。
そうだ、自分はずっと、恐れていた。手放せないものを手にし続けている自分に、いつか彼が疲れて諦めて、自分から離れていくことが、怖かったのだ。
今でも、それが、怖い。もう二度とあの少年に会えなくなることが、声を聞けなくなることが、触れられないことが。今もなお、智博には恐ろしい。
いっそ笑ってしまいたくなるくらいに、あの少年を、恐れている。愛にも近い感情で、恐れている。
「……白井さん。それ、彼のことが好きだって言ってるみたいに、聞こえます」
「そうかもしれない。きっと、そうなんだろう」
川崎が震える唇で呟いた言葉にも、智博は躊躇わず、頷いた。
自分の生活を振り回して掻き乱した、そのくせ柔らかな温もりを教えたトリックスターを、もうずっと前から恐れて、なのに抗えないほどに惹かれている。
「だから、よかったのかもしれない。彼が俺なんかのことを本気で好きにならなくて。俺は、彼を傷付けてばかりいたから」
――なんて皮肉な巡り合わせだろう。
微笑んだ智博に、川崎が唇を震わせた。
「そんなこと……いわないで、くださ……白井さん、つまらない人なんかじゃ、ない。だからあたし、白井さんに傷付いてほしくなくて、こうやって……」
あの傷付いた顔が嘘だというのなら、もう二度と、見せないでほしいと思う。あの歪んだ微笑みに、この胸は凝りもなく疼いてしまうから。彼を悲しませたことに傷付くよりは、馬鹿な男だと嘲笑われたほうが、まだましだ。
だから、もうこの心を、これ以上その指先でやさしく穿って持っていかないでほしい。
「ずっと傍にいられなくても、好きで仕方がないって、さっき君が言っただろう」
自分と同じように人が傷付くところなど見たくはないと、川崎が首を振る。けれど自分は、傷付くとすれば、もう充分に傷付いた。
抱き締めたいときに抱き締めない、呼び止めたいときに呼び止めない、癒したいときに癒せない、勝手な自分の罪悪感に、もう充分、傷付いた。
「そういう感情が俺にもあるのなら、これが、そうなんだろうって……今、思ったよ」
今更痛みがひとつ増えたって、それが何になるだろう。
この瞬間、智博は、ひとつのことを確信した。
彼は、離れない。
少なくとも、今はまだ、離れていかない。
自分が藍子に別れを切り出さない限り、彼が自分に与えた役割を果たさない限り。和真は自分の傍に寄り添う他ないのだ。
リミットを自分で決めることができるなら、痛みなど生まれるはずがない。
「これじゃあ、あたし、なんのために……っ」
川崎はそのとき初めて上擦った声をあげ、こみ上げてくる感情の命じるまま、その場に泣き崩れた。
――なんて皮肉な、巡り合わせだろう。
傷付いて、打ちひしがれるべき瞬間にこそ、気付いたことがある。
これでもう恐れることなく、彼を愛していけるのだと。
智博は、ひどく安堵していた。
泣き崩れた川崎が泣き止むのを待ってから、智博は彼女を駅のホームまで見送った。もう恥じる余裕もないように、赤い目を隠さずに笑う川崎は、扉が閉まる瞬間、小さく呟いた。
――私、結局、何の役にも立たないんですね。どうにかしたいって、思ってたのに。
彼女は、自分の傷と、いつかは智博が負うであろう傷を重ね、悲しんでいるのだろう。けれど自分と彼女は、決定的に違っている。川崎の涙を見ても尚、自分はまだ望むのだろうと、ぼんやり思った。
それから帰路についた智博は、殊更ゆっくりと夜道を歩いた。
いつも和真が待っていたコンビニも、敢えて視線を遠ざけるように、目を伏せて通り過ぎる。昨日と一昨日の夜、僅かばかりの期待を持ちながらガラス越しに覗いた店内は、変わらず明るい光を夜道に零していた。
コンビニの角を曲がれば、マンションはすぐそこにある。
エントランスを抜け、階段で三階まで上ると、蛍光灯が照らし出す薄暗い廊下に、扉に背中を押し当てるように佇ずむ人影が見えた。
「……外で待ってたら、寒いだろう」
その予感は、確かにあった。
きっと今夜――或いは、近いうちに、彼はまたここを訪れてくれるだろう。
川崎の話を聞いた直後に得た安堵感は、卑屈な確信に変わる。
「風が凌げるだけましだよ、ここ」
赤い鼻を擦りながら笑う彼は、ここに来る他ないのだから。
「いつもみたいにコンビニで待っていればよかったのに」
「だって、約束もしてないんだから、いつ白井さんが帰ってくるかわかんないじゃん。ずっと道路見てられたらいいけど、それでも見逃しちゃうかもしれないし。ここで待ってたほうが確実だよ」
なら、せめて事前に連絡をと言いかけて、止めた。
そんな気遣いをしてみせたって、結局は自分を驚かすことが好きだからと、彼は笑うに決まっている。
コートから取り出した鍵で扉を開けている間、饒舌な唇はそれ以上何も言わず、ただじっと扉が開かれるのを待っていた。飼い主の帰りを待ち続ける忠犬のようだ。沈黙に耐え切れず、先に口を開いたのは智博だった。
「コーヒーでも淹れようか。何ならシャワーも浴びるといい」
「……入れてくれるの?」
ガチリと錠の外れた音と同時に、ふいに心元ない声が落ちてくる。その声に、ドアノブを握った掌から、シンとした冷たさが心臓に伝わった。
「上がっていかないのか?」
だからその冷たさに知らないふりをして、さも当然のように尋ねてやると、和真は困惑したように目の奥を小さく揺らした。
扉を開けて促すと、彼は躊躇いがちに入ってくる。
ひどい言葉を投げつけたのは彼で、ひどい仕打ちをしたのは自分。全てなかったことにしたいと思うのは、虫がよすぎるだろうか。
「――お前がここに来ることは、もうないって思っていたよ」
暖房をつけるふりをして、彼に背を向ける。天井から降り注ぐ生温い空気に、智博はそっと目を伏せた。――本当は。彼はあの日、とうとう自分に愛想を尽かしてしまったのだろうと思っていた。ここ数日間連絡がないのがその証拠なのだと。
「俺はそうされても、仕方のないことをしたから」
小さく呟いた言葉に、和真が背後で息を飲む音がする。短い沈黙の後、「違うだろ、」吐き捨てるような、なのに震える声で、彼は応えた。
「追い返されたって仕方のないことしたのは、俺のほうだよ。……俺だって、もう、二度と会ってもらえないって思って……」
「まだ、傍にいてくれるのか?」
震える声を遮るように尋ねてから、視線を向ける。
たった今放たれた言葉が信じられないもののように、和真は瞠目していた。
「……和真、お前はまだ、俺の傍にいてくれるのか」
思いがけず零れ落ちたそれは、本心に一番近い言葉だった。何ひとつ覆うこともできないまま、不意に零れてしまった自分の言葉に、智博自身、内心で首を傾げる。こんな問い掛けは、意味がない。答えなど、判りきっている。彼はきっと、頷いて見せる。頷く他ないのだ。恋愛以外の理由によって、自分の目の前に現れた彼なら。
「な……何言ってんの、白井さん」
恋しくて恋しくて堪らない、今すぐにでも抱き締めたくて仕方のない身体が、唇にその言葉を選ばせた。意味のない問い掛けほど空しいものはないと、知っているのに。
「傍にいたがってるのは、いつも……いつも、俺なのに。なんであんたが、そんな顔してるんだよ……?」
言葉が、口約束が、どれだけの意味を持つだろう。最初から嘘ばかりで構成された、作り物ばかりの舞台で出会った彼と自分に、どれほどの意味がある行為だろう。
もう自分がどんな顔をしているのかも判らずに、頬へと伸ばされた冷たい指の感触に目を閉じた。冷え切った指先を伸ばしてきた和真は、擽るように頬を撫で、掌で包み込むように触れたあと、唇に暖かいキスを落とした。
「キスを欲しがるのも、セックスを欲しがるのも、いつも俺なんだよ。あんたがそれでいいって言うんなら、俺はいつだってここにいる」
もうすっかり馴染んでしまった唇に応えると、甘い吐息が惜しみなく零される。
口付けて、暖かい口腔に舌を滑らせた瞬間、和真は痛みを堪えるように僅かに眉を寄せていた。自分が彼の頬を打ちつけたときの傷が、口内炎になって残っているのかもしれない。
「口……まだ、痛いのか?」
「……痛くない」
子どものように首を振って笑った和真は、もっと、と首に腕を絡ませてくる。その滑らかな頬の皮膚はもう赤らんではおらず、彼に痛みの痕を残すのは、治りの遅い咥内だけだ。彼が暫く顔を見せなかったのは、もしかしたら、顔に残った痕を自分に見せないためだったのかもしれない。都合よくそんな考えが浮かんでは、切なく消える。
どれが嘘でも、どれが本当でも。
目の前に彼がいるのなら、もうそれだけで、いいんじゃないのか――
急速な勢いで胸を占めた想いに、智博は内心目を瞠った。自分が抱くことはないと思っていた、暖かくて、信じられないくらいに熱い想いが、この胸にある。そのことだけが、和真の身体を強く強く抱き締めた。次々と溢れ出そうとするそれを、止める術などもう持たない。
とっくの昔に、堰は壊れていた。
「白井さん……?」
思いのまま抱き締めた体が、二人分の重力に耐え切れなくなったように床に膝をつく。ずるずると座り込んだ智博は、全てを抱き込むように和真に抱擁された。
川崎の言葉は、きっと彼女の意志とは逆方向に作用した。本来ここで距離を置くべき彼を、どうしても手放したいとは思えない。彼女が思う以上に、そして智博が思っていた以上に、手遅れだった。
「ね、白井さん、どうしたの……。重たいんだけど」
それでもいつか、終わらせてあげようと思う。
彼の目的がきちんと遂行されるために、終わらせてやろう。
「……もう少しだけ、こうしていてくれないか」
「いいけど……ほんとにどうしたの。なんかの冗談ならそろそろ止めといてね」
重たいと、むずがるように笑っていた和真が、その瞬間声から笑みの気配を消した。
そして呟かれた一言に、信じられないくらい、胸が痛くなる。
「あんたにこんなふうに抱き締められたら……嬉しくなっちゃうだろ」
信じられないくらいに、いとおしさが増す。
だからそのときまで、もう少しだけ。
「和真」
「……何」
まだ柔らかい腕から抜け出せなくとも、和真はそれを咎めたりはしない。智博の気紛れのような甘えに付き合ってやっているとでもいうように、困ったような笑みで唇を歪めるばかりだ。
「――ごめん」
「……なんで謝んの?」
不思議そうに尋ねてくる声に答えを返せないまま、智博は細い腕の抱擁に溺れた。この言葉だけでは、伝わらない。けれどこれ以上を伝えられるはずがない。
まだ。
お前を手放せなくて、ごめん。
「あんたは謝らなくたっていいんだよ。俺が好きで、白井さんの傍にいるだけなんだから。……ね」
宥めるような甘い声に、智博は漸く、小さな笑みを落とした。
伝わらない、噛み合わない想いだけで、どこまで行けるだろう。いつまで傍に、いれるだろう。
――そのときは、愛していると、さようならをしよう。
吐息が交じり合う部屋の中で、智博は、時限装置にスイッチが入る音を聞いていた。
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