「――バッ……カじゃねえの、白井さん!」
本来なら今日は会社の後輩と食事がてら話を聞いてやるつもりだったのに、残業によって約束が潰されてしまった。話はどれだけ長引くか予想がつかないから、ある意味、それもタイミングが良かったのかもしれない。
約束がそのまま決行されていれば、この時間に家にいれたかどうかも怪しかったのだからと口にした智博に対する和真の第一声が、身も蓋もないその言葉だ。
「馬鹿って……あのな」
「婚約者いるって知ってて誘いかけてくるような女、あんたのこと狙ってるに決まってんじゃん。そんなのにほいほい乗ることないよ。話があるっていったってそんなの絶対大した話じゃないんだから」
「もしかしたら仕事の話かもしれないじゃないか」
容赦のない罵倒に気を抜かれながらも、そうと決めるつけるには材料が足りないと、智博は溜め息交じりに反論した。そもそもこれまで接点の薄かった川崎が、自分に好意を持っているとは考え難い。
「じゃあなんで二人っきりになんなきゃだめなの? 会社でできねー話?」
「話の内容なんて俺が知ってるわけないだろ」
「ほらおかしいじゃん!」
思いもがけない苛烈な批判に眉を寄せながら、淹れたコーヒーを手にして戻ってきた智博を、和真はじっと睨んでいる。その前にカップを置いてやっても、口をつけようとする気配はない。さっきまでの機嫌のよさが嘘のように、彼のテンションは急降下してしまったらしい。
「どっちにしたって、仕事中ならゆっくり話はできないんだ。なら仕事が終わった後っていう話になっても当たり前じゃないか」
「全然当たり前じゃないよ。昼休みじゃなんでだめなの? っていうかなんで二人っきり? そこからしておかしいじゃん」
「だから……」
「ふつうなら彼女に悪いって思って誘えないだろ、飯なんか! っていうか白井さんが断るべき。あんた貞操観念おかしい。自分の彼氏が他の女と二人っきりでメシ食って、気分がいい女なんかいないよ。あんたなんかねえ、酒呑まされてぐでんぐでんになってお持ち帰りされんのがオチだよ」
智博がコンビニ弁当の包みを開ける間にも、和真の追及は止まない。食事のときくらいは穏やかにしてほしいと思うのに、どこか激昂した感さえある彼に、今それを望むのは無理な話だ。
「……お前がそれを言うのか?」
それにしても貞操観念とは、またおかしな言葉が持ち出されたものだ。和真の印象からはもっとも遠く、違和感を感じるさえする言葉に首を傾いだ智博は、呆れ半分、驚き半分で尋ねた。
和真はぐっと言葉に詰まったような顔をして、短い沈黙のあと、「そうだよ」と小さく呟き、頷いて見せる。何ともいえない、複雑に歪んだ切ない唇に、たった今口にしたそれを撤回したくなった。意地の悪い質問だったことは、自分でもよく判っている。
「俺のことだって、ほんとはそうでしょ。そりゃ俺が勝手にあんたにくっ付いて回ってるだけで、あんたは俺のことなんか全然どうでもいいんだろうけど! それでも俺と二人っきりで会って、キスして、セックスして……俺が勝手にやってることでも、勝手に好きなだけでも!」
「和真……」
自分のことをどうでもいい存在だなんて、今までずっとそう思っていたのだろうかと、智博は愕然とした。そうしてその思いは、針で突き刺されたような、鋭く小さな痛みを心臓に生む。彼という人間が、それだけの存在であるはずがない。ここまでこの胸を掻き乱して、振り回して、そのくせじんわりと暖かく染み込んで馴染んでゆく、そんな存在など、今まで彼以外にありえなかったというのに。
(――違う。俺が、悪かった……)
己の感情のひとつを口にすることもせず、伝えることを放棄していた自分が、彼にそう思わせていた。彼にその卑屈な思いを抱かせるよう仕向けたのは、間違いなく、自分だったのだ。
「あんたほんとは、自分以外の人間なんて、どうでもいいんだ。いてもいなくてもいっしょで、だから俺とも寝てくれるんだよね? ……それで今度は、その女のこと受け入れてあげるの?」
昂ぶった感情に赤く染まった目元は、そのまま悲しげに歪んで、智博を真っ直ぐに見詰めていた。彼の陽気な唇から零れる痛烈な本音に言葉を失いかけ、それでもと首を振る。喉に絡まった声を押し出すようにして、智博は否定を口にした。
「……そんなこと、しない。するはず、ないだろう」
「うそばっかり、――結局あんたは来る者拒まずって、そういうことじゃねーか!」
「和真、そうじゃない」
――お前は、そうじゃない。
懸命に言い募っても彼は頑なに首を振り、智博の声は上滑りしていくだけだ。激昂にも似た声の端々には、きっと今までは笑顔と掌の下に隠されていた、彼の本心が曝け出されているのだろう。だからこそ、生半可な自分の言葉は、空しく上滑りしていく。何を告げても、慰めても、それには本心を伴なわない。彼はそう、受け止める。――それなら。
愛していると告げても、許されるだろうか。
捨てられないものを抱き続けている自分でも、その言葉を口にすることは、許されるのだろうか。
(――俺は、何を)
胸に過ぎった思いに自分でも驚愕していると、「ねえ、」とふいに唇を歪めた和真が、微笑んで首を傾げた。
「俺とこんなに会っといて、本当に彼女がなんにも気付いてないって、思ってるの?」
「……どういう意味だ?」
「もしもそうなら、白井さんってほんとに能天気だねって話だよ」
笑みの形に歪んだ唇には、いつもの快活さは見つけられない。代わりに、信じられないくらいの陰鬱さが、そこには滲んでいた。
「いつどこで何してて誰と会ってるかなんて、いちいち訊いてくる女も鬱陶しいと思うけどさ。自分の男の話だよ? 自分以外の誰かと頻繁に会ってたら、ふつうは勘付くだろ。あんたみたいに不器用な男なら、なおさら」
確かに藍子は、僅かに変化した自分の雰囲気を敏感に感じ取っていた。けれどそれを追及したり、責め立てるようなことはしなかった。楽しい生活を送れているのなら自分も嬉しいと、ただ微笑むばかりだったあの女は。
「それを、なんにも言わないってことはさー―」
俯き加減に呟いた和真の右手が、ゆっくりと持ち上がる。前髪をかきあげるように――表情を隠すために、その右手が智博の視線を、ゆっくりと和真から遠ざけていく。
掌に覆い隠された唇で、彼は嘲るように吐き捨てた。
「――あんたが俺を抱いてる間、あんたの彼女は、他の男に腰振ってんじゃねえの」
その瞬間、胸の奥底から沸き上がって来た熱い何かが、自分の身体を動かす。憤りという名のそれに抗いもせず、正直に従った智博の身体は、握り締めた拳を和真の右頬に打ち付けていた。
左手を床につき、ぐらついた身体を支えている和真は、打たれた頬を押さえもせずに沈黙している。もう彼の掌は、彼自身の表情を覆い隠さない。けれど代わりに、伏せられた顔を、長めの前髪が覆ってしまう。――僅かに覗いた唇にさえ、どんな感情も見えない。
「……っ、すまない」
口の端に僅か見える血の色に、智博ははっと我に返った。白い頬にぼんやりと浮かぶ不自然な赤味と、血の滲む唇。あまりにも痛々しいそれに反射的に謝罪すると、和真は痛みなど微塵も感じていないように、顔を上げた。
「どうして謝るの」
そうしてただ冷ややかな声を投げつけて、智博の胸を抉る。
自分を制することには、長けていたはずだった。一瞬の憤りも、飲み込んでしまえばすぐに冷めることを、知っている。だから生まれてこの方、胸に沸いた憤りをそのまま暴力として表したことは、一度たりともなかったのに。
「……手を上げるほどのことじゃ、なかった。すまない」
なのにどうしてだろう、許せないと、強く思ったのは。
彼の唇から、他人を嘲る汚い言葉が零れることが、自制を忘れるほどに悲しく、手を挙げてしまうほどに腹立たしかったのは――。
「――馬鹿じゃないの?」
何があっても許されるはずのない暴力を、よりにもよって和真に向けてしまった。その自分を最も罵り、存在すら消し去りってしまいたいと思っているのは、自分自身だ。今や後悔と自己嫌悪で震える右手を握り締めながら、痛みを堪えて声を押し出す。それをせせら笑うように、和真は真っ直ぐに智博を見据えた。
「俺は、あんたの一番大事な女を侮辱したんだよ? あんたには俺を殴る権利と、義務がある。……それを、謝ったりなんかするな」
暴力を奮われたことへの憤りも、それによった痛みさえも見せず、和真はただ静かに告げた。
詫びることを拒絶され、かといって痛みを問うこともできない唇は、ただ噤む他なかった。――権利と、義務。和真の言葉は最もだ。和真が吐き捨てたことは、自分を憤らせるのに充分値する言葉だった。それくらい、和真にも判っていたに違いない。ならば何故、わざわざ悪意の篭った言葉を投げつけてきたのか。それを問い質すよりも先に、和真が脱ぎ散らかしていたジャケットを手に取り、立ち上がる。
「ごめん、帰る。俺もちょっと……おかしい。やなこと言って、ごめんね」
「え、……和真、待ってくれ」
矢継ぎ早に告げるなり、ジャケットを着込みながら玄関に向かった和真を慌てて追いかけた智博は、その右腕を引き掴んだ。
「帰るなら、傷の手当てをしてから……」
「いらない」
せめてと願い、差し出した掌は、容赦なく振り払われてしまう。和真が振り落とした腕は空しく空を切り、叩かれた指先から、ジンと疼くように心臓へと痛みが移った。
「ごめん。……今、あんたに触られると、痛いんだ」
――けれど彼のほうが、何倍痛かっただろう。差し伸べた手を拒絶しただけの痛みなど、きっと、痛みのうちには入らない。
俯いた和真の表情は見えず、けれど彼がおよそ想像もできないほどに傷付いていることだけは、判った。それでも尚、謝罪を口にして見せる彼に、言葉をかける資格が、自分にはない。
そのまま逃げるように出て行った背中を呆然と見送るうちにも、どうしようもないやるせなさが胸に迫って、嘔吐すらしそうになる。その正体は激しい自己嫌悪と、今もなおこみ上げる、どうしようもない、いとおしさだ。それを何故傷付けたのか、何故傷付けることしかできないのか。
何故、追いかけられないのか。
自分で傷つけた傷なら――きっと彼のものなら、それ以外でもすべて慰めてやりたいのに。
自分には、痛みを生んでしまう掌しか持てない。
和真が顔を見せなくなってから、一週間が経っていた。彼との関係を考えれば、これくらいのブランクは別段珍しくもない。それでも、どうしようもない寂寥感を覚えていた智博は、その正体を考えて、毎日電話なりメールなりの連絡を彼が寄越してくれていたことに、やっと気が付いた。あまりにもさり気なく、あまりにも下らない、あまりにも平凡なメールや電話の遣り取りに、自分がどれほど依存していたかを、――そのとき漸く、気が付いたのだ。
智博にその寂寥感を抱かせたまま、刻一刻と生活は流れる。置いてけぼりにされたかのような錯覚を覚えながらも、川崎に改めてと誘われたのも、その日だった。
「白井さん、とりあえずなんでもいいですか?」
「ああ、お任せで」
襖に遮られ、雑音の一切を遠ざけたこじんまりとした座敷の一間で、川崎はメニューも見ず、手馴れた様子で店員に注文を終えた。歓楽街の片隅に位置するこの焼き鳥屋は彼女の行きつけの店らしい。
就業後、彼女に遠慮がちに誘われたときも、智博は少しだけ躊躇っていた。和真の言葉が気がかりだったからだ。けれど、どう自分を贔屓目に見つめていても、彼女から特別好意を抱かれているとは考えられなかったし、何よりも彼女の言葉からは切羽詰ったような真摯さが感じられる。そして彼女が以前言った「話しておかなければならないこと」という、まるで自分を気遣っているようなそれが気にもなっていた。
「それで、話っていうのが……ちょっと、最初は私の話になるんですけど。いいですか?」
「構わないよ。気にしないで、どうぞ」
迷った末、結局は頷いた智博が川崎に連れてこられたのが、この店だった。よく保坂に連れて行かれる騒々しい飲み屋とは違い、落ち着いた、品のいい店だ。幾つかある座敷がゆったりとした会話に向いているのが好ましい。
「――私、結婚詐欺に遭ったんです」
その静かな空気の中、穏やかな表情で川崎が告げた言葉は、運ばれてきた梅笹身に舌鼓を打っていた智博を、完全に硬直させた。
「結婚――詐欺?」
「ええ。でも、結婚詐欺っていっても……あのころは私も勝手に舞い上がっちゃってて。だから私も、悪いんです。馬鹿みたいですよね」
目の前で穏やかに微笑む女性が、そんな物騒な目に遭っていたなんて、俄かには信じ難い話だ。しかし、彼女自身がそういうのなら、自分の戸惑いはともかく、それが事実なのだろう。内心の驚愕を閉じ込めて、智博は首を傾げた。
「それでも、詐欺は詐欺なんだろう? それなら君は、悪くないんじゃないのか」
「私はそう……思ってるんですけど」
元々詐欺事件は立証も難しく、その上証拠も何も手元に残っていない状況では尚のこと糾弾は難しい。川崎は少し悲しい瞳で微笑み、そう告げた。
聞き慣れた単語ではあるものの、まさか身近でその言葉を聞くことになるとは思いも寄らなかった。考えられるのは彼女自身が所有している金銭目的の詐欺か、或いは商法の手段としての詐欺か。そのどれかだろうかと問いかけようとして、結局智博は口を閉ざす。彼女から持ち出した話題とはいえ、どこまで探ってもいいものだろうか。そうやって智博が迷っているうちに、串を口元に運びながら川崎が続ける。
「――それまでは私、不倫してて」
「――ふ、りん?」
「はい。不倫。してたんです。……営業の部長と」
また思いもがけない言葉が飛び出し、目を剥いた智博に、川崎は悲しいばかりだった瞳の光を少しだけ和らげた。
「本当に、保坂さんは何も話してなかったんですね」
「それは……尚更、無用心に他人に話すようなことじゃないだろうから」
保坂が口を噤むのも当然だ。箸を一旦箸置きに戻し、智博はそのまま掌を額に宛てて嘆息する。
勤務歴が二十年を越えるやり手の営業部部長は人望も厚く、故に部下からも上からも信頼されている、社の大黒柱と呼ぶに相応しい人物だ。愛妻家、そして娘の幼稚園選びに部下の意見を求めるような親馬鹿としても知られている。川崎の言葉は、彼の地位を一気に覆す発言だ。どうやら自分は、一生知らなくてもよかった秘密を知ってしまったらしい。
「だから営業部に……ああ、そういうことか」
保坂の言葉を噛み締めて、今更その意味を知る。人様の色恋沙汰、それも不毛なそれなど、別段知りたいとは思えなかった。
「その……詐欺の相手と付き合うようになったから、部長とは別れたのか」
「そうです。私もやっぱり、心のどこかでこんな関係続けてちゃいけないって思ってたし……部長のことは、本当に、好きでした。だけどそれで、奥さんやお子さんが苦しんでいるのかもしれないって思うと、辛くて」
悲しい、辛いばかりだった感情からは少しだけ冷静な距離を置き、川崎は淡々と語った。智博には最早適当な相槌を返してやることしかできない。
「だから私、早く安定したかったんです。部長と会っているときは、いつでも気持ちが中途半端で。好きだってだけじゃ何も上手くいかないことを思い知らされるだけで、やっぱり辛くて。ずっと一緒にはいられないことが判ってるのに……それでも好きで」
彼女の切ない言葉のひとつひとつに、何かを言える資格はなかったからだ。
ずっと傍にはいられない、それでも、好きで。
その感情に、ひどく覚えがあるような気がして、――智博は胸のうちで、緩くかぶりを振った。今は自分のことを考えている場合ではない。
「そういうときに彼に会ったんです。最初のうちは、私が部長と付き合ってることを知っても、ずっと待ってるって言ってくれてたんです。そうやって、私の弱かった部分をやさしく埋めてくれて。……本当に、やさしかった。だからまんまと詐欺なんかに引っかかっちゃったんでしょうね。あの状況から、私、逃げたくて」
不毛な恋愛を続けるうちに、愛し続けることを諦めてしまった。だから自分も悪かったのだと、川崎は静かに呟いた。
「そんなときに理想の王子様が出て来たって、舞い上がってたんです。きっと」
川崎よりも年下だったその男は、医大生で、直ぐにでも一緒になりたいと御伽噺を語るように口にする、無邪気で少しだけ世間知らずの、けれど芯のしっかりした青年だったらしい。それほど熱烈なアプローチを受けていた上、医者の卵で将来を有望視されているとなると、不安定だった川崎の恋心に揺らぎがかかるのも仕方ないかもしれない。
「それじゃあ、彼と結婚するつもりで、退職を?」
「はい。このまま会社に残っても部長とも気まずいですし、それに彼も、結婚したら奥さんには家にいてほしいって言うような人でしたから。でもそれは、保坂さんが止めてくれたんです。相手もまだ若いから、もう少しゆっくり考えたほうがいいって。私が先走ってるの、保坂さんには判っちゃったんですね、きっと」
保坂の判断はさすがだ。彼女の考えは早急で、そのまま会社を辞めていたなら、彼女は恋と職を同時に失い、大きな痛手を食らっていただろう。親友の聡明な行動に感心したものの、詐欺の内容が気がかりで、智博は重たい口を開く。
「それで、その男に金銭的なものを要求されたとか……詐欺っていうのは、そういう意味の?」
その男との間に起こったものが婚約破棄だけなら、詐欺とは呼べない。自分が口にしたのは一番に最悪なパターンだろうと思いながらも尋ねると、川崎はゆっくり首を振った。
「いえ、彼の目的はお金じゃないんです。――お金じゃなかったんだと思います」
詐欺だと断定したわりには、どこかぼんやりとした川崎の口調に首を傾げながら、智博は次の言葉を待った。川崎に求愛した男の行為を詐欺と呼ぶのなら、金銭目的以外に普通は何を疑うべきなのだろう。
「部長と別れた直後に、彼は姿を消しました。私は、何ひとつ要求されなかったんです。お金も、身体も。――彼に恋をすること以外、何も」
そこで、川崎の声に初めて揺らぎが見える。震える声に痛ましいものを感じながらも、川崎が呟くように告げたそれに、一つの答えがぼんやりと導き出された。
金銭でもない、身体でもない、それでも明確な目的を持ってその男が彼女に近付いたのだとしたら――。
「君と部長を別れさせるために?」
「多分……そういうことなんだと、思います」
「そうか……」
探偵業の延長で、別れさせ屋というものが世間に存在していることを、知識として知ってはいた。道外れた恋愛をしていた川崎がそれに狙われることも、なくはないだろう。成功するかどうかも判らない、或いはそれこそが詐欺かもしれないという、怪しげな業界だ。部長の妻がわざわざそこに足を踏み込んでまで、夫とその不倫相手を別れさせようとした可能性はある。
(もしもそうなら……そうとうに思いつめられていたっていうことか)
「……奥さんの仕業か」
「他に考えられませんよね。彼が奥さんの知り合いだったのかどうかも、今はもうわかりません。……だけど多分、彼は、それを仕事にしている人間です」
川崎が言ったように、その道のプロではないにしても、妻が自分の知り合いに夫の不倫を相談した結果、共謀してそれを実行したという可能性もある。そうであるならば、男の身元を突き詰めることも可能かもしれない。
しかしそれを丸ごと否定し、川崎は断定の強さで告げた。
「どうしてそう思うんだ?」
あまりにも強い口調に思わず問い返した智博をじっと見つめ、川崎は何かを堪えるように唇を引き結んだ。
「……白井さん、この間、男の子が会社の前まで来られてましたよね」
しかし解かれたその唇から零れた言葉は、智博の意表を突くものだった。
「ああ……あれ、見てたのか」
きっと和真のことを指しているのだろう。年甲斐もなく動揺した姿を見られていたのかと思いながらも、智博は頷いた。
「弟さんかなとも思ったんですけど、あまり似てらっしゃいませんよね。それに、お友達っていうには歳もちょっと離れてるし……。もしお身内なら、失礼なこと言ってごめんなさい」
「いや、身内じゃないんだ。確かに友達というのはちょっと違う気がするけど……ちょっとした知り合いで」
どうして今、彼女がそのときの話を持ち出すのか。それを訝しく思いながらも、智博は問われるままに答えた。
「あんな感じの子と白井さんが一緒にいるの、不思議だなって思ったんです。あの子、すごく若いですよね。幾つくらいですか?」
「高校生だよ。今は三年生って言ってたかな」
「高校生……それにしては随分大人びてますよね。やっぱり弟さんのお友達とか?」
「いや、飲み屋で偶然……俺に弟はいないから」
「最近、お知り合いになったんですか?」
「そうだけど」
突然持ち出した話にしてはしつこすぎる追求に、さすがの智博も眉を潜めた。ここまでとなると、単に話を反らせるために選んだ話題だとは思い難い。
「――彼、白井さんに婚約者がいること、知ってますか?」
「ああ」
「それでも白井さんのことが好きだって、言っていませんか?」
矢継ぎ早に続けられた質問の最後の最後に、川崎は、智博を再び凍りつかせた。
「……意味が、よく、判らない」
乾いた唇を湿らせるように、答える。掠れた呟きは、きちんと彼女の耳に届いただろうか。
あまりにも唐突だった川崎の言葉に、思考がついていかない。――理解ができない、してはいけない。そのとき、わんわんと鳴り響く警報を遠くどこかで聞いていた。
凝視した川崎の顔は、少しだけ、切なく歪んでいる。
しかし真っ直ぐに顔を上げ、川崎は明瞭な声で言い切った。
「彼が、詐欺師なんです」
|