【5】


 さり気ない動きで、腕時計を見下ろし時間を確認する――智博が、もう何度目かになるその仕草を繰り返したときには、とっくに就業時間は過ぎていた。
 智博を含めた数名の社員が突然の残業を告げられたのは、二時間ほど前の話だった。他部の社員のミスが、巡り巡ってここにまでツケとして回ってきたらしい。よくある話だと内心肩を落としたのは智博だけではないが、かと言って目に見える場所にいる誰をも責めるわけにも行かず、同僚たちにもそろそろ疲労の色が見え始めている。
 残業を命じられた社員の中には、川崎の姿もあった。つい数時間前、食事がてらに彼女の話を聞いてやる約束をしたばかりなのに、この残業はあまりにもタイミングが悪すぎる。何かフォローの言葉をと思いはしたけれど、とりあえずは目の前に積み上げられた書類を処理するのが先決だ。
 智博に科せられた仕事が片付き、他のメンバーはどうなっているだろうと室内を見渡しかけたそのとき、ふいに携帯が微かな震動音を伝えた。
 暫く迷ってから席を立った智博は、そのまま廊下へと出て通話ボタンを押した。ただでさえ同僚たちの気が立っている中、自分以外の人間にとっては雑音でしかない会話を聞かせるのは、忍びない。
『ねー白井さん、今どこ?』
 予想通りの真っ直ぐな声が鼓膜を震わせる。ささくれた気持ちにじんわりと滲むような明るい声に、思わず口元を緩めそうになった。
「ああ、今日はちょっと残業でまだ会社に……。どうかしたか?」
『あ、やっぱり? いつもならとっくに帰ってきてる時間だもんね……、仕事、どんくらいかかりそう?』
 心細そうに潜められた声に、ふいに思いつく。まさか、と思いはしたものの、一旦思いついたそれは智博の眉を寄せさせた。
「今、どこにいるんだ?」
『――……白井さんちの前?』
 暫くの逡巡を見せたあと、寒さで震えるように応えた声に、智博は自分の予想が的中したことを知る。
「……いつから?」
『そんなには待ってないよ。さっき』
「君は本当に待ち伏せが好きだな……」
『あんたを驚かすのが好きだからね。気にしないで。時間かかりそうなら、どっかコンビニとか入っとくし……何なら今日は、帰るけど』
 どうしようか、と声を潜めて尋ねた声に、僅かな不安が覗いていたのは、智博の思い上がりばかりではない。最後に顔を合わせたのは、彼があのとんでもない中華まんを持って来た日以来で、あの日のフォローも満足にしていないまま、今彼を追い返してしまっていいものかと、逡巡する。
 ――今すぐ飛んで帰るから待っておけと、その瞬間は、何の思惑もなく口にしたがった自分に気付いて、智博は苦く笑みを殺した。
(……馬鹿みたいだな)
 何の義務があって――或いは何の権利があって、彼をこの寒空の下、引き止めておけるだろう。
『……白井さん?』
 一呼吸だけ間を置いた沈黙を訝しがる和真に、智博は努めて穏やかな声を返す。それが彼に対しての強制であってはならない。
「和真、もう少しだけ待てるか?」
『え……』
「俺の仕事はもう終わってるんだ。だから……もう少しだけ、時間を潰しておいてくれ」
『……うん、判った』
 逡巡しながらも尋ねた声に、和真は予想通り、素直に頷いて見せた。それも面倒がる様子もなく、安堵したように弾んだ声で応えられてしまえば、口元にはもう、柔らかな笑みしか浮かんでこない。
「じゃあ、またあとで」
 和真との通話を切ったあと、ひんやりとした壁に背中を押し付けて、智博は知らず嘆息していた。
 不思議というよりは、いっそ奇妙で、歪んだ関係を持ち続けている彼に、どうしてここまで心が暖かくなるのか。それを突き詰めて考えると、答えは最早、ひとつしか浮かんで来ない。
 だから、自分はそれに、知らない顔をするしかないのだ。
 この腕には、捨てられないものがる。
 長い間抱き続けていた、そこにあって当然のもので、今まで自分を自分として機能させてきた、大事なもの。
 それをすべて投げ打ってまで、彼に溺れようとは――きっと、思えない。
「白井さん」
 携帯を握り直し、踵を返しかけた声に振り返る。身支度を既に終え、少し心配そうな顔をした川崎が、そこに佇んでいた。思いがけず、疲労した顔を晒してしまっていたのかもしれない。
 壁から背を離し、智博は穏やかに問い掛ける。
「ああ、もう片付いた?」
「はい。白井さんは……」
「俺ももう帰れる状態だけど……今日は、」
 自分を待ち続けている和真を思えば、すぐにでも帰宅してやりたい気分の今、川崎とのんびり食事をするわけにはいかない。申し訳ないが、今日の約束はキャンセルさせてもらうしかないと重たい口を開きかけたとき、遮るように川崎が首を傾げてみせる。
「あの、さっきの電話、もしかしたら彼女からですか?」
「ああ……」
 彼女どころか、その彼女との生活を脅かす存在からの電話だとはとても口には出せない。不本意な嘘の後味の悪さはともかく、そういうことにしておこう、と智博は黙って頷いた。
「残業、突然でしたもんね。あまり遅くまでお付き合いしてもらうのも悪いし、よかったらまた別の日に話を聞いてもらえますか?」
「……いいの?」
「いいも悪いも、仕方ないです。今日はタイミングが悪かったですよね。早く帰ってあげてください。彼女、待ってるんですよね」
 やさしく告げられた声に返事を返すより早く、川崎は失礼します、と頭を下げ、一足早く帰っていった。
 自分から断らなければならないだろうと思っていたのに、先を越されてしまった。どこか拍子抜けしたような気持ちを味わいながらも、やはり智博は、安堵した。相手の気を害さないように約束をキャンセルできる饒舌な口など、自分にはない。
「彼女……か」
 その単語を鸚鵡返しに呟いただけで、胸が苦くなる。
 恋人という存在は、他のどの存在よりも、当たり前に上位に位置する。世間ではそれが常識で、その単語を口にした瞬間、誰もが「それなら仕方ない」と笑う。
 けれど今日自分を待つその人は、その存在には、カテゴライズされないのに。
 馬鹿みたいだと胸のうちでもう一度だけ吐き捨てて、智博は踵を返した。



 足音が着いてきていると感じ始めたのは、自宅から最寄の駅の改札を潜り、恐らく和真が時間を潰しているだろうと思われるコンビニへ向かっていた道中だった。
 着かず離れず、恐らく一定の距離を保って、それは自分を追跡している。智博がそのことに気付いたのも、騒がしかった人通りが薄れ、人気のない道に入って足音が顕著になってからのことだ。
(……コンビニ――か?)
 ただ、それだけのことで足音が自分を追っていると確信することは難しく、この角を曲がれば、直ぐに見えるコンビニに、自分同様寄るつもりなのかもしれない。しかし、和真を待たせている、という意識から、普段よりは足早になっているはずの自分に、聞こえる足音が決して遠ざからないというのも、気がかりといえば気がかりだった。
 ともかく明るい場所にとコンビニに入り、店内で和真の姿を探すと同時にさりげなく後ろを振り向いた智博は、十代後半くらいの少年が、真っ直ぐ雑誌コーナーに向かっていく背中を視界の隅に見つける。どうやら足音の正体はこの少年で、何者かに追跡されているように感じたのは、やはり自分の勘違いだったらしい。
 ほっと安堵しながらも、改めて店内を見渡す。すぐに見つけた和真は、窓際の一番奥の席に腰を下ろして、買ったばかりの週刊誌に目を通していた。その前には空になったカップ麺が置いてある。夕飯すらコンビニで終えさせてしまったのだろうかと思うと、申し訳ないような気分になった。
 智博の姿を見つけた和真は、すぐに席を立ち、「迎えに来てくれたの、」と顔をほころばせながら駆け寄ってくる。
「ついでにな。――足りないだろ、それだけじゃあ。何か買って帰ろうか」
 ダストボックスに捨てられたカップ麺の器をつい見つめていると、意外なことに和真は首を振った。
「あれ、三つ目だから」
「三つ? ……どうしてまた、そんなに」
「いや、新商品のシリーズを食い比べてみようかなって思ったんだけど。なんかね、ぜんぶイマイチだった。オススメはできないなあ。白井さん、なんか買って帰るんなら弁当にしたほうがいいよ」
 三種類ものカップ麺を一度に食べ上げるなんて行動はどう考えてもおかしいのに、真面目な顔で批評を告げる和真は、自分が妙なことをしている自覚がないらしい。
「そんなもんばっかり食って、腹壊しても知らないからな」
「俺お腹は丈夫なんだよねー。……あ、弁当、ちょっとでいいから分けてね」
 智博が弁当を選んでいる傍らで、和真がねだる。彼も白飯が恋しいらしい。あんなに味の濃いものばかり食べていれば当たり前だと溜め息を零しながら、無造作に選んだ弁当を手に、智博はレジに向かった。
 袋に詰められた弁当を受け取る際、後ろ髪を引かれるように、雑誌コーナーに目を向けてしまった。つけられている、とばかり思っていた少年の消えた場所だ。彼はやはり雑誌を手にしていたが、何か気がかりなことでもあったのか、彼のほうも出入り口付近にいる智博を見つめていたらしい。視線が合うなり、慌てて雑誌で顔を隠してしまった。
 今までの智博の警戒をそれとなく感じていて、向こうもそれなりに気まずいのかもしれない。
「どうしたの?」
「ん……いや、ちょっと」
「何、なんか気になることでもあんの」
 智博の流した視線に、和真は目敏く気付いたらしい。その問い掛けにも言葉を濁していると、和真は珍しく問いを重ね、追及してくる。
「駅からずっと誰かにつけられてる気がしてて……結局、勘違いだったんだけどな。たまたま来る方角が同じだっただけみたいだ」
「ふうん……?」
 頷きながら、智博の視線の先と自分のそれも流した和真は、ふいに「あ」の形に、口を大きく開いた。
「あっれ、慶じゃん!」
「――ケイ……?」
 殆ど叫ぶような声で――恐らくは店内に響き渡る、明るく快活な声で、和真はその人の名前を呼んだ。名前を呼ばれた少年は、その声の大きさに驚いたのか僅かに身を引くような仕草を見せ、「げっ……」と小さく呟きを落とす。明らかに戸惑っている相手を余所に、和真は至って親しげに、その元へ駆け寄った。
「なっ、なっ、なんで……っ」
「なんで、はこっちのセリフでしょ。なんで慶こんなとこにいんの。慶の家ってこっから全然遠いじゃん。なんか用事?」
「け、慶っておまえ……えええ!?」
「えー、なによ、まだ俺から名前で呼ばれんの嫌がってんの? もーいいじゃん、俺のが年下とはいえ幼馴染みなんだからさあ、うやむやにしとこうよそういうのは」
 ねえ、と親しげに首を傾いだ和真の勢いに気圧されるように、少年はコクリと頷いて見せた。慶、というその名が、どうやらやたらと慌てふためいている少年の名前らしい。
「和真、知り合い?」
 そう口にした瞬間、なぜだか少年がひどく嫌そうな顔をした気がしたけれど、取り合えずは構わないことにして、智博は二人の少年に交互に視線を遣った。
「知り合いっていうか、幼馴染み? 慶のが四つ年上なんだけどね。壱――っていう、俺の兄ちゃんと慶が同い年でさあ。まだ付き合いあるから、俺もときどき混ざって遊んだりするんだよ」
「年上? 四つも?」
 驚いて、智博は幼さの抜けきらない少年の顔を思わず凝視した。和真が高校三年生の十八歳ということは、その四つ上の彼は二十二歳ということになる。あどけない、と呼ぶほどではないが、全体的に幼く、頼りのない雰囲気のする少年は、下手をすれば、和真よりも年下に見えてしまう。物凄い二十ニ歳もいるものだと妙なところで感心していると、どこかふて腐れたような声で、彼は「どうも」と小さく頭を下げた。
「……森川慶です。和真がお世話になってるみたいで……」
「ああ、いえ……。こちらこそ」
 こういうところが年上としてきちんとしているのかもしれないと、どこか微笑ましい気持ちになりながら、智博もその仕草に習い、会釈を返した。
「じゃあね、慶。俺ちょっと忙しいからもう行くわ」
「あ……」
 何か言いたげな様子の少年を残し、行こう、と智博を促した和真は、ふいに思いついたように身を翻し、慶の耳元で何事かを囁いた。
「――……。じゃあね、慶」
「……ッ」
 和真が何かを囁き、別れの挨拶を口にして踵を返した瞬間、慶は見送ると呼ぶには強すぎる視線で、ギリギリと和真の背中を睨んだ。激昂に近い、その苛烈な視線に気付いていないはずはないのに、和真はただ愉快そうに笑い、あっさりと幼馴染みに手を振った。
「……何を言ったんだ?」
「ん? んー……別に。大したことは」
 和真の手に引かれるようにコンビニを出た後、智博が尋ねても、彼はどこか、不可解な微笑みを見せるばかりだった。
「彼、怒ってたんじゃないのか?」
「怒らせるようなことをいったつもりはないよ。ただ――平常心は大事だよって話をね」
「平常心?」
「そう。やっぱ大事だよね」
 何がどうなるとそうなるのか。全く意味が判らないと眉を寄せた智博を余所に、漂う雲のように、掴みきれない何かのように、和真はゆらゆらと笑っている。
「……ま、いいじゃん。そういう話は」
 あんまり、白井さんには関係ない話だから。
 そうやって、和真は恐らく出会ってから初めて、自分と彼との間に見えない何かを引き下ろし、会話を断絶した。
 彼から会話をシャットダウンすることは殆ど皆無に等しく、だからこその戸惑いは、いつもの比ではなかった。
「……そうか、悪かった」
 そこに、自分に立ち入ることはできないのかと考えて、当たり前の話だと気付く。例え和真でなくとも、第三者に友人との会話をいちいち深く突っ込まれて、気分のいい人間はいない。だからといって、初めて見せ付けられた拒絶の壁を受け入れるには、胸が苦しすぎた。
 それ以上の言葉を選べずに黙りこくってしまった智博の顔を、和真は横から伺うように見上げ、明るい声で笑う。
「あ、誤解してるね白井さん」
「……何を」
「何をじゃねえっつの。あんたはもう、ほんとに判り易いんだから」
 和真はそう言うけれど、判り易い、などと言われた覚えは、智博自身には余りない。どちらかといえば表情は動き難いほうなのに、心中を言い当てられるほど、不愉快な感情が顔に出ていたのかと思えば、なおさら眉間に皺が寄ってしまう。
「ああほら、また」
 歩速をゆっくりと緩めた和真は、右手を伸ばし、智博の眉間にそっと人差し指を当てた。
「あんたのここに皺が寄ってるのは大抵だけど。深くなってる。しょうがないなあ」
 仕方のない人だと優しく笑われながら、よしよしと宥める動きで眉間の皺を撫でられる。しかし、恐らく和真の意図していない発言部分が引っかかって、智博は気分を和ませるどころではなかった。
「……俺はいつもそんなに、眉間に皺が寄ってるのか?」
「ん? まあね。考え事してるときとかはよく寄ってるよ。通常時の皺はもっとちっちゃいけどね」
 だからちっちゃくなれ、と和真が続けて眉間を撫でるものだから、智博はもはや、意識して眉間から力を抜くしかない。
「……これでいいか?」
「あ、ちっちゃくなかった。……じゃなくてね、白井さん。俺、別に、慶とか自分の話をあんたにするのが嫌とか、そういうんじゃないからね?」
 満足したのか、すっかり綻んだ眉間から指を外した和真の右手は、そのまま智博の何も持たない左手へと落ちてくる。
「聞きたいってんなら話すけど。ただあのとき俺が慶に言ったことは、やっぱ俺と慶にしかわかんないことだから。目の前で自分の判らない話をずっとされるのって嫌じゃない? だから逆に話さないほうがいいかなって思っただけです。俺と慶以外には、あんまり面白い話でもないしね」
 快活に告げた声には、話して聞かせた理由以外に、何の含みも見つけられない。
 慶という少年と和真が過ごしてきた時間は、自分が共にしてきたそれよりも、ずっとずっと長いのだ。例え短いものだとしても、その言葉の端々に理解できないことがあっても当然なのだろう。智博だって、和真相手に仕事絡みの話を延々と聞かせたいとは思わない。そう考えれば、和真の言葉も納得のいく話だった。
 だがその気遣いを他人行儀だと感じてしまうのも、確かだ。
「そこまで気を遣う必要ないのに」
「気ィ遣うっていうか。えーっとねえ……」
 ただ微かに触れ合うだけだった冷たい掌が、暗闇に紛れるように、そっと智博の指に絡まってくる。和真のひんやりとした指先の冷たさに驚いた智博は、だからこそ、その指を振り払うことをしなかった。
「ぐだぐだ言ってんのも、単に言い訳なんだけど。あんたといるときくらい、他の人の話したくないっていうか――」
「他の人って……友達なんだろ?」
 無関係の人間であればいざ知らず、友人相手にその言い草はあんまりではないかと首を傾げた智博に、和真は口篭もり、答えあぐねるように微かに首を捻った。
「うーん、そうなんだけど。……そうなんだけど」
 暗い、人気のない道とは言え、もしも通り過ぎる通行人がいたならば、男同士で手を繋ぐ奇異な自分たちに目を凝らすだろう。暗闇でも、目を凝らせば、きっと見つけてしまう。互いの熱を分け合うように、そっと絡めた指先を。
「なんにも煩わされないで、あんたのことだけ考えてたいってことだよ」
 ――そして、その体温に、もう暖かな微笑みしか浮かんでこない、自分のだらしのない顔を。
 真っ直ぐに向けられる表情に、言葉の、声に、吐息に、てのひらに。それらに込めて、数え切れないくらいの感情をくれた彼に、問い掛けたくて、けれど、答えをもらえないことも知っている、たった一つの問いかけがある。
 ――どうして、それが、自分だったのか。
 口に出すことを止めた問いかけを、やはりそっと胸に仕舞いこみながら、ただ握り締めた。
 確かに熱を共有しているはずのその指は、まだ冷たいままだった。




  

20051216